Arts Towada十周年記念 「インター + プレイ」展 第2期 展示風景(十和田市現代美術館、青森、2021) 撮影:小山田邦哉
十和田市現代美術館では、2021年10月1日から2022年1月10日まで、Arts Towada 十周年記念「インター+プレイ」展 第2期でトマス・サラセーノの作品群が展示されている。入ってすぐのスペースにはいくつかの風船が浮遊している。風船の重石であるかのようにしてペンが吊り下げられて、絶妙な浮遊状態のまま空中に静かに滞留しているのだが、このペンは、風や鑑賞者の移動に合わせて揺動する風船の動きをそのまま紙に描き出していく。
そして、それと共鳴関係に置かれているかのように展示されたいくつもの額縁には、「クモの糸マッピングシリーズ」と題された図像が描き出されている。それは、本物のクモの巣がインクをつけられた状態で実際に紙の上に乗せられることででき上がった図像である。
風船と蜘蛛。いずれもが、空中に浮遊しながら動くものだが、ここに着目するサラセーノの作品の主題はおそらく、空中における浮遊という運動性そのものなのではないか。私が最初に浮遊する風船を見たときに感じたのは、「軽さ」の感覚であり、大地の重さから解放されたところにおいて経験される開放感だった。この軽さ、浮遊感、開放感は、もしかしたら、軍事独裁政権下にあったアルゼンチンから亡命した両親に連れられイタリアに渡ったサラセーノの幼少期の経験と関係があるのかもしれない。さらに言うと、この感覚は、哲学者のフェリックス・ガタリやティモシー・モートンを嚆矢とする21世紀型のエコロジー思想と共鳴し合うものでもある。
日本では、サラセーノのことはまだあまり知られていないと思われるが、欧米では、エアロセン(Aerocene、*1)という標語を打ち出したアーティストとして知られている。しかも、その作品集『The Aerocene Project』(Skira、2017)には、キュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストとの対談や、ティモシー・モートンのエッセーが収録されている。そのエッセーで、モートンは、サラセーノの作品の主題である「浮遊(floating)」をエコロジカルな行為ととらえる。モートンの考えでは、そこで問われるのは、いかにして浮遊し、空気の流れや気圧のパターン、寒暖、太陽の明暗のサイクルに調子を合わせていくかといったことである。そしてそれは、際限なく開かれていくことに関わる開放的な作品で、つまり「未来を開いていくこと」を主題としている。そこで未来は、現世から完全に切断された大いなる出来事の到来として展望されるのではなく、「揺れ動き、浮遊するところにおける静謐」において実現されるとモートンは言う(*2)。モートンの独特の未来感覚は、サラセーノと共鳴し合うものと言える。モートンは、2017年の著作『Humankind』で、次のように述べている。
事物の本質、その存在は、未来である。実体は、アルゴリズムのごとく、過去の引力に完全に把捉されていない。実体には、軽やかさがある。すなわち、未来の軽さがある。未来は深淵でもある(*3)。
未来を軽さに見出すというモートンの思考は、サラセーノの感覚と重なり合う。これを踏まえてさらにこういうことができる。たしかに、大地の重さから離れたところでの飛翔、浮遊は、空中という広がりの領域の中での自由な動きを可能にするとも言えるだろう。そういう意味で、サラセーノの作品は、未来志向的なものであり、自由がこの空中という状況そのもののあり方に規定されるということを、見る人に意識させるものでもある。
すなわち私は、サラセーノの作品を、浮遊という行為が起こるところを意識化させる作品だと考えた。それは、端的に言うと空気なのだが、おそらく人は自分が空気に取り巻かれ、呼吸を通じてそれに浸透されていくなかで生きていることに気づいていない。サラセーノの蜘蛛の巣は、空気のなかで織り成されていく網目状のネットワークが、空中に、さらなる動きの条件を作り出していく様子を可視化し、感覚可能なものにしていく。
それは、展示されている「混成の蜘蛛の巣(Hybrid Web)」シリーズの一作品においても明らかである。異種の蜘蛛が、同一の空間内に張り巡らせた網状の巣が複数的に混成していく様子をそのままかたちにしたこの作品は、作家のウェブサイトでも明記されているように(*4)、「ウェブ上になった複数のエコシステム」や「新しい類のバイブレーションを湛えた環境」の形象と言えるが、これを見ながら私は、人間の新しい共存の仕方の予示的な作品ではないかと考えた。
すなわち、コロナウイルスのパンデミックのなか、外出ができなくなり、リアルに対面する機会がなくなり、孤立を強いられるなか、それでも仲間を探しつつセンサーのようなものを巡らせ、ウェブで接続できる状況を確保し、助け合うことのできる環境を作って生き延びようとしてきたこの1年の自分の姿をそこに見ていたのかもしれない。私が作った網の目は、誰とも違う独自の網の目であったと思うが、それでも、他人が作った網の目とどこかでつながり、重なり合っていくことがある。サラセーノが言うように、網の目が重なる瞬間、そこに一種の振動が生じるように感じるときがあるのだが、これは多分、自分が作る網の目が他人の網の目と共鳴したからだろう。そのようなときには、この重なり合いは長く続くと思うことができる。
それでも、じつは私はサラセーノの作品群を前にした途端、浮遊とは別のことを感じた。部屋の中に浮かぶ風船はともすれば割れてしまう。脆くて儚いものと言えるが、これは蜘蛛の巣についても同様で、つまり、空気中に張り巡らされた蜘蛛の巣は、それを作り出した蜘蛛が不在であるかぎりにおいて、いずれは消えてしまうものでもある。そこで私はティモシー・モートンのセンテンス「事物が存在するためには、それらは脆くなくてはならない」を想起した。十和田市現代美術館とゲーテ・インスティトゥート東京の共催で行われたオンライントークイベントで私はサラセーノと対談したのだが、そこでこの感覚を本人に直接伝えたところ、「この脆さは、過度なまでの強さ(絶対に壊れることのない堅牢さ)に至ることのない状態で事物を保っておくためにも必要な性質で、このことゆえに逆説的にも蜘蛛の巣は存続する」と答えてくれた。
あとひとつ、サラセーノが話してくれたところによると、脆さは動きを可能にするのであって、つまり、それはバイブレーションを湛えた状態で形成された環境の条件、音楽的な精妙さにおいて形成された環境の条件である、ということらしい。
ただ、それでも私には、蜘蛛の巣の脆さは、たとえばフェリックス・ガタリが「三つのエコロジー」で問題化した、人間の存在条件の危機という深淵を感じさせるものであるようにも思われた。実際、ガタリはその著作の冒頭で、エコロジカルな危機は惑星上での人間の集合的な存在様式を脅かしていくと述べている(*5)。21世紀において、地震や津波、大気汚染、干ばつ、山火事、さらにはウイルスというように、エコロジカルな危機的事態がノーマルになるなか、人間はいっそう孤立していくことをあたかも予見したかのような議論だが、サラセーノの作品は、ガタリと共鳴するように思われる。すなわち、それは人間もまた蜘蛛のように巣を張り巡らせることでしか生きていけないことを示しつつ、その巣のような何ものかがいかに儚く脆いかを感じさせるものになっているとも言えるだろう。
*1──トマス・サラセーノは、化石燃料を使用せず、空気を汚染しない未来を描くサラセーノが協力者と展開するプロジェクト「エアロシーン」を展開している。https://aerocene.org
*2──Timothy Morton, “Floating as Ecological Action,” Aerocene, Milano: Skira, 2017, p.146.
*3──Timothy Morton, Humankind: Solidarity with Non-Human People, London: Verso, 2017, p.78.
*4──https://studiotomassaraceno.org/hybrid-webs
*5──フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』杉村昌昭訳、平凡社ライブラリー、2008年。
篠原雅武
篠原雅武