公開日:2022年9月22日

青い光と幽霊を巡る旅。国際芸術祭「あいち2022」レビュー(評:高橋綾子)

10月10日まで愛知県の4会場(愛知芸術文化センター、一宮市、常滑市、有松地区))で開催中の国際芸術祭「あいち2022」。前身の「あいちトリエンナーレ」(2010~2019年の3年ごとに開催)のときから、地元で展開される国際芸術祭を見つめてきた美術評論家の高橋綾子がレビュー。(撮影:筆者 表記があるものを除く)

会場風景より、アンネ・イムホフ《道化師》(2022) 撮影:編集部

死と生が交錯 崇高なる恍惚へ

まるで水槽の中にいるような特別な時間だった。ブルーライトに満たされた大空間には、猥雑と荘厳が行きかう濃密な時間と音楽が充満していた。一宮市会場のアンネ ・イムホフ《道化師》の作品空間に佇み、2019年まで開催された「あいちトリエンナーレ」の歴史に想いをはせた。様々な困難と危機を乗り超えて、いま、もつれた糸が切れずにつながっているのだという感慨があった。筆者は地元の国際芸術祭を享受してきた立場で、不遜にもその存続や作品性の動向を案じていたからだった。先鋭的な現代作家のサイトスペシフィックな新作インスタレーション。その創出の実現と醍醐味が、たしかにここにある。

イムホフは1978年ドイツのギーセン生まれ、ベルリンとニューヨークを拠点に活動するアーティストだ。グローバルなアートシーンでの注目と実績を得て、2017年のヴェネチア・ビエンナーレではドイツ館の代表作家に。発表した《ファウスト》では、鋼鉄で区切られた分厚いガラス板に覆われた空間を舞台に、床下や壁面などでパフォーマーたちがたむろした。筆者は当時パビリオン前の長蛇の列に怯んで、リアルタイムでは立ち会えなかったが、パフォーマーがいない空間も十分に興味深いものだった。入口の両脇に設らえた檻の中のドーベルマンの吠声に、鑑賞者はどこか侵入者のような心地となって、そこに残された痕跡から過去の行為を想像させるインスタレーションだった。本作が金獅子賞を受賞し、イムホフの名はより多くの人々に知られることとなった。

そして2021年5~10月にはパリのパレ・ド・トーキョーで大規模な個展「ナチュール・モルト」が開催され、会期の終盤には会場の様々な場所で、挑発的なパフォーマンスが繰り広げられたという。「あいち2022」では、そこで記録された複数回のパフォーマンスの様子が約1時間に編集され、水平方向に広がる音響を配した2チャンネル映像インスタレーションとして、作品空間が創出された。

会場風景より、アンネ・イムホフ《道化師》(2022)

映像ではパーカーのフードを目深に被った黒人パフォーマーが、ロッカーを叩いたり、床を獣のように四肢で激しく駆け抜けたり、ドラムの音に合わせて痙攣するように踊り跳ねる。ふたつの大画面に映し出される行為は同期したり、ずれたりしながら複層的な時間が錯綜する。会場のあちこちで進行する行為に立ち会う観客の視線、そして身のおきどころに惑うような心地は、映像からも伝わってくる。

なかでも圧倒的な存在感と魅力を放つパフォーマーは、エリザ・ダグラスだ。アーティストでありミュージシャン、ファッションブランドのバレンシアガのモデルも務めるダグラスは、クールな雰囲気をまとい、2016年以降のイムホフ作品の象徴的な存在となっている。映像やサウンドトラックのクレジットをみると、ダグラスは作曲も手がけており、唸るように特徴的な低音を響かせ歌い叫ぶ、唯一無二のボイス・パフォーマーでもある。

スレンダーな肢体に長い髪、ジーンズに上半身裸のダグラスは、ゆっくりとキャンドルの蝋を他のパフォーマーの頭に垂らし、アンダーグラウンドな退廃美学の儀式のごとく、自らの口元にもそれを注ぐ。さらにダグラスは這って舌で床を舐め、もう一方の画面では柱の照明を舐め上げて身を反らす。光に照らされた恍惚の表情は、このうえなく神々しい。

気怠さと気高さ、攻撃と倦怠、その混沌のすべてを引き受けるかのような振る舞いは、映像のクライマックスで、タイトルの「Jester(道化師)」へ昇華されていく。ダグラスは白人の若い男性パフォーマーをひっぱり出し、その前にひざまずき、おもむろにそのTシャツを被って、それを脱ぎとる。Tシャツに描かれたイラストは赤く丸い付け鼻、裂けるように赤い口から歯を剥き出した狂気の顔。ダグラスはまるで仮面のように道化師のTシャツを頭に被って立ち上がり、そして肢体をくねらす。権力に雇われ、おどけた調子で客人を楽しませる道化師とは、狂気と悲しみを背負った存在なのだ。

見出された場所性

この映像に見入りつつ、はたと会場の場所性について思いを巡らせた。そこは古いスケートリンクで、2022年3月末で閉鎖されたのだが、長いあいだ廃墟であったかのような「死」の気配が漂っていた。横42m縦20mのリンクの床面に剥き出しになったチューブの列。氷床のないリンクとは、まるで血肉を剥ぎ取られ、骨だけになった死骸のようではないか。製氷を止めてしまえば、たちどころにそこはだれも立ち入れない虚無の空間になってしまう。生命装置が外された場所性を見出し、それを際立たせたのは、本プロジェクトの秀逸さといって良いだろう。

ちなみに会場の旧一宮市スケート場は、一宮の繊維産業が盛んであった1965年に工場で働く若い女性たちの娯楽施設として一宮市中小企業福祉協同組合が建設し、1986年に市に無償譲渡されたものだ。開設から57年、地元の人々に愛された施設だったが、老朽化や利用者の減少、氷の冷却に使うフロンガスの国内生産中止など、存続は困難との判断で幕を下ろすことになった。

一宮とアンネ・イムホフの取り合わせは、国際芸術祭という枠組みでこその鋭意といえよう。その場に宿る記憶や人々の幻影を想起し、鎮め、濯(すす)ぐこと。《道化師》の世界観とは、現代社会の不穏や不条理への諍いであり、パフォーマンスはその欠落や歪みへの弔い、あるいは贖罪の意識だとも言えよう。青は鎮静の色であり、パソコンやテレビ、スマートフォンなどの液晶画面から私たちが浴び続けている光の色でもある。

会場風景より、アンネ・イムホフ《untitled》(2022)

この会場の通路の角に床置きされたモニターがひとつあった。そこに映されているのは、ダグラスが赤い汁を身体じゅうに垂らしながら、何かを貪っている様子だ。一瞬、血のように見えてぎょっとしたが、よく見るとそれはザクロの実で、ダグラスは素手で握り潰して果汁をすすっている。ザクロは多産と豊穣、そして復活の象徴とも言われるが、この映像も《道化師》と同じパレ・ド・トーキョーでのパフォーマンスの一場面だと思われ、生々しくエロティックな身体性が際立つものだった。

「あいち2022」の観客が、イムホフの美学に惹き込まれるのか、あるいは一瞥するだけであっても、この音と光の空間に足を踏み入れる意味は大きい。もちろん、いつか作家が来日して、パフォーマンスを実見できたならという願望はつのるが、しかし、生と死が交錯する、その際(きわ)でこそ表出する崇高さに触れることのできる、稀有なる作品空間だった。

地域のための拠点を作る

青い光の空間といえば、常滑市会場の旧丸利陶管の敷地内にある家屋の、シアスター・ゲイツ(1973年米国生まれ)による《ザ・リスニング・ハウス》の2階にある瞑想空間も印象的だった。1999年と2004年に常滑に滞在して陶芸を学んだ経験をもつゲイツは、自らを「potter(陶芸師)」と称しながら、地域や都市の開発と保存、コミュニティ再生への関心に根ざした活動を展開している。国際的なアーティストとして「あいち2022」に招聘されたゲイツの常滑での制作は、いわば凱旋とも言えるのだが、その気取らないセンスの良さに好感がもてた。第二の故郷・常滑への恩返しの意味もこめたというアプローチは、音楽とウェルネス、そして陶芸研究のための拠点づくりだったのだ。

会場風景より、シアスター・ゲイツ《ザ・リスニング・ハウス》(2022)

広い土間に手を入れた空間には、古い引き出し箪笥を組み合わせたDJブースがあった。ひととおりの見学を終えて外に出ようとしたら、ゲイツ本人に引き留められた。ダンサー(ゲイツと同じシカゴを拠点に活動するエイプリル・ファルコン)によるパフォーマンスが、これから始まるという。ゲイツのヨガから着想した動きとのことで、その雰囲気はすでに開かれた場の魅力を発揮しており、カジュアルな設定が稼働しつつあった。亡き友人(陶芸家のマルヴァ・ジョリー)から譲りうけたレコードのコレクションは、予定より遅れて到着したようだったが、この展示空間の核となる要素として棚に陳列されていた。1階で様々な人が集い、愉(たのし)みと精神の高揚を共有し、そして2階では鎮静と瞑想のための青い光が出迎える。芸術祭が終わったあとでも、ゲイツの提案が息づくことを期待したい。

DJをするシアスター・ゲイツ

「喪の作業」を映像化する

「あいち2022」のロゴは、三河湾の形状が二重のハート型を連想させるとし、猩々(しょうじょう)や常滑焼の緋色が意識されたものだ。その赤は、戦火や流血、心臓、慈愛と幸福の象徴などが意識され、様々な作品の主題につながり得る。輪郭がぼかされた斬新なデザインも浸透してきているが、この赤が決して単純な明るさや楽しさを示していないことも、良い意味で観客に理解されていると思う。そして「あいち2022」の赤と表裏に見出される「青い光」には、死への想像と鎮静、つまり「メメント・モリ」の思考が通底していると感じられた。

コンセプトテーマである「STILL ALIVE」は、河原温(1932~2014)が電報で自身の存在を発信し続けた作品「I AM STILL ALIVE」シリーズに着想を得たものであることは、折に触れて紹介されてきている。注目すべきは「STILL」であることの前提には、河原による死への対峙があることである。愛知芸術文化センターの展示室では、「I AM NOT GOING TO COMMIT SUICIDE DONT WORRY」「I AM NOT GOING TO COMMIT SUICIDE WORRY 」「I AM GOING TO SLEEP FORGET IT」という、1969年12月に河原がパリの展覧会に送った自殺をほのめかす3通の電報も展示されていた。その1か月後に最初の《I Am Still Alive》が発信されて、このシリーズは2000年まで続いた。

会場風景より、河原温の展示室 撮影:編集部
国際芸術祭「あいち2022」のロゴ

いまだパンデミックに翻弄される日々だからこそ、生きていることに死の気配や欠落感を感じとり、その自覚から回復を試みる姿勢こそが、芸術を通して深く共有されるべきなのだ。その意味で、深い感慨を抱いたのは、カデール・アティア(1970年フランス生まれ)による映像作品《記憶を映して》(2016)だった。カデールは幻肢痛をテーマに、外科医や精神科医、義肢装具士、分析心理学者に美術史家、ユダヤ文化の研究者、さらにミュージシャンやダンサーなどにインタビューを行っている。インタビュー映像の合間に、様々な人物が静かに佇む姿が映る。たとえば精悍な表情の青年が、道路橋から線路を見渡す姿。そこには「集団的トラウマを抱えるのは 深く傷つき 心が不安定になった人間です」という解説が流れる。では、この映像はドキュメンタリー作品かと思えば、さにあらず。

ある場面では、先ほどの青年が丸いパンが載った大きなテーブルの前に、じっと座っている。ランニング姿のたくましい腕。しかしよく見ると、テーブルの上に衝立のような板が立っている。それは透明な間仕切りではなく、鏡なのだと了解されるとき、観客の心は大きく揺さぶられる。

会場風景より、カデール・アティア《記憶を映して》(2016) 撮影:編集部

事故や病気で失った、無いはずの手足に痛みを感じる幻肢痛は、「肢体の幽霊」とも呼ばれる。その治療に鏡像を用いることや、共同体が抱える歴史的トラウマの克服への示唆に、はっとさせられる。それは「失われた体の一部を弔うための喪の作業のひとつ」なのだと。「喪の作業」とは、フロイトが提唱した概念ではあるが、喪失を受け入れるプロセスの提唱と解釈できるだろう。

英語タイトル《Reflecting Memory》とあるように、失われた体の一部についての記憶に、鏡像によって形を与えて映し出すことは、対象喪失を悲しむことから逃げることなく、向き合い、受け入れ、修復するための作法である。そのことは、共同体が抱える歴史的トラウマの克服をも示唆するのだ。つまりこの作品の秀逸さは、個人であれ集団の歴史であれ、欠損や痛みに向き合う作法として、視覚的な経験を援用することに芸術の希望が見出せることだった。フロイトは、「喪とメランコリー」を区別して、うつ病を精神分析の観点から考察している。それを踏まえると、「喪の作業」はいたって正常な反応として理解される。ひいては、亡き者(幽霊)との対峙や対話に関心が向かうのは、しごく自然な誘いではないだろうか。

亡き者たちと対話する

常滑の廻船問屋、瀧田家の蔵で上映されていたのは、トゥアン・アンドリュー・グエン(1976年ベトナム生まれ)による《先祖らしさの亡霊》(2019)だ。ベトナム戦争時にセネガル人兵士とベトナム人妻との間に生まれた3人の子供による両国の歴史が、両親や祖父母との想像上の対話によって構成されている。観客は4面スクリーンに囲まれて、登場人物の語りや情景の混在に翻弄されつつも、そこに家族の物語の蘇生を見出す。

会場風景より、トゥアン・アンドリュー・グエン《先祖らしさの亡霊》(2019) 撮影:島貫泰介
会場風景より、トゥアン・アンドリュー・グエン《火の海に浮かぶ蓮》(2019) 

グエンのもう一つの映像作品《ザ・ボートピープル》(2020)は、瀧田家の座敷において映像に登場した仏頭のオブジェなどと共に展示された。人類滅亡後のフィリピン・バターン州を船で旅する5人の少年少女の物語は、過去の遺構、いわば幽霊との出あいと対話が描かれる。遺物を複製して燃やすという弔いの儀式、仏頭と少女との問答はどこかユーモラスでありつつも、海と死生観、難民の歴史と未来の問題を問いかける。

会場風景より、トゥアン・アンドリュー・グエン《ザ・ボートピープル》(2020)

常滑には、ほかにも幽霊はいた。田村友一郎(1977年生まれ)は、盆栽鉢製陶所の倉庫を改装したスペースの2階を舞台の奈落に見立て、3面映像による《見えざる手》(2022)を創作。ノベルティ人形の輸出とプラザ合意に関わる史実と虚構を多層に交錯させ、そこに経済学者のアダム・スミス、カール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズという3人の黒子(幽霊)を配したのだ。田村は「あいち2022」の場所性やコンセプトに対する応答として、企みに満ちた手法で幽霊たちを召喚したのだった。

会場風景より、田村友一郎《見えざる手》(2022)

黒田大スケ(1982年生まれ)は、1958年から稼働していた窯が現存する旧青木製陶所において、ノンフィクションとしてのユーモラスな語りを自演した。明治期の日本における「彫刻」概念の移入と教育について、常滑美術研究所でかつて教鞭をとっていた3人の彫刻家(内藤陽三、寺内信一、菊池鋳太郎)をリサーチし、黒田がイタコのようにそれぞれの独白を即興で演じた。埋もれた歴史の掘り起こしは、じつは現在にもつながる地域の暗部であったり、長い歴史のなかで解決し得ない本質的な問題であったりするのだが、黒田の手にかかると、幽霊たちへの慈しみや飄々とした可笑(おか)しみが作品に漂うのであった。

会場風景より、黒田大スケ《寺内信一の為のプラクティス》(2022) ©︎ 国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:ToLoLo studio

編み綯い織ることに宿る霊性

片岡真実芸術監督は、今年2月の記者会見で「あいち2022」における作家選定と展示構成の指針にふれて、「近年の現代アートの世界では先住民の表現、手仕事への再評価も高まっている。その国際的な動向も反映した」と語っていた。

有松地区のイー・イラン(1971年マレーシア生まれ)やミット・ジャイイン(1960年タイ生まれ)は、東南アジアの少数民族の歴史と植民地時代の手仕事のあり方に向き合っている。なかでも出色であったのは、愛知芸術文化センターに展示されたマンダルプイ族の女性であるメアリー・ダパラニー(1950年豪州生まれ)の植物繊維で編んだマットや包みであった。アボリジナルの人々が祖先の精霊とつながるための手わざの成果は、素朴な造形を生み出しつつ、細部に霊性をたたえている。

興味深いことに、同じ展示空間の壁面に配された荒川修作(1936~2010)の大作絵画《Blank Stations》(1981-82)が生き生きと、まるでダパラニーの編み地のマットと交信しているかのごとく、絵画の図形が踊り出しそうに見えたのだ。作品が共振して互いの魅力が際立つ、そんな展示の妙が創出されていた。

会場風景より、手前はメアリー・ダパラニーの作品。後方は荒川修作《Blank Stations》(1981-82)

霊的なアプローチではないが、日本人作家が手仕事を通じて地域社会との協働を試みた例では、有松での宮田明日鹿(1985年生まれ)による「有松手芸部」の実践や、一宮での眞田岳彦(1962年生まれ)による「あいちNAUプロジェクト《白維》」が特記される。愛知県内の美術館や博物館が繊維文化を通して参画したことや、「綯(な)う」という行為に込められた痕跡と祈り、それが市民との共同制作として造形に結実し、市役所に展示された意義は大きい。

会場風景より、眞田岳彦「あいちNAU(綯う)プロジェクト」の展示 撮影:編集部

国際芸術祭はどうあるべきか

本稿の冒頭で、一宮地区のアンネ・イムホフ《道化師》の作品空間に感慨深く佇んだと記したが、それはグローバルなアートシーンのトレンドへの追随を意味しているわけではない。「あいちトリエンナーレ」を継承、あるいは刷新した「あいち2022」の国際芸術祭としてのあり方は、どうあるべきか。それは、鑑賞者も考えていかなければならないことなのだ。

アートの祝祭性を謳歌した初回から12年。震災への対峙、人間の旅や情といった多彩なテーマが展開されてきた。世界各国の創作者たちのリアルな存在を知り、アートを通して同時代の多様な「問い」を受けとめるためには、鑑賞者は受け身ではいられない。だが、創作者たちからの投げかけ(問い)から「気づき」を得るには、企図と文脈に則した誠実な導きや配慮が必要とされる。足元(ローカル)を照らすべく、世界潮流(グローバル)につながる「問い」が丁寧に設定されているかに私たちも留意したい。

国際的な活躍を展開するアーティストの先鋭を招聘すると共に、じっくり開催地に滞在して調査と制作、そして交流による関係を醸成する作品やアーティストの存在も重要である。長引くコロナ禍はその実践に大きな困難を及ぼしたが、それでも現地に入って地道に制作を展開した作家もいた。

その一人が遠藤薫(1989年生まれ)だ。染色を学んだ遠藤は、工芸における社会と歴史への視座をひろげる意識をもって、場に向き合った制作を展開している。羊毛は古くから衣類やテント式住居の素材に用いられ、丈夫な毛織物は軍服に仕立てられた。文明と宗教、日本の近代化のなかでの人と羊の関わりを考察し、自ら羊を解体、皮をなめす経験もした。そうして多層的な意味の構築と造形までの時間を費やし、羊皮と羊毛で編まれた落下傘が誕生した。落下傘は軍需品で救命道具でもあり、宙空に浮かびつつ落下する両義性を持つ。会場となった一宮市博物館豊島記念資料館は、1966年に図書館として建設された建物で、現在は毛織物の歴史をたどる織機や民具が置かれている。その2階スペースの中空の光のなかに大きく張られた落下傘は、美しく優雅でもあった。また1階には制作の過程で考察された資料や、取材や体験の写真や動画が配された。事故で亡くなった子羊を弔うためか、その空間を鎮静するかのように部屋じゅうが青い光で満たされた。それが偶然か必然か、イムホフの旧一宮市スケート場の青い光と呼応した。

会場風景より、遠藤薫《羊と眠る》(2021-2022) 
会場風景より、遠藤薫《羊と眠る》(2021-2022)

月を彷徨い、太陽と出あう

芸術祭は旅である。ここでは青い光と幽霊たちに誘われて立ち止まった作品を挙げて記したが、他にも書ききれない魅力的な作品や、パフォーマンス作品も多くある。特にVRパフォーマンスへの期待は大きい。ローリー・アンダーソン(1947年米国生まれ)& 黄心健(ホアン・シンチェン、1966年台湾生まれ)による《トゥー・ザ・ムーン》(2019)では、観客は人類最後の一人になって、ロバにまたがって月を彷徨(さまよ)うという、恐ろしくも壮大でシニカルな旅の経験を享受した。

いよいよ芸術祭の旅は終焉に向かう。旅はどこに向かうのだろうか。

アピチャッポン・ウィーラセタクン(1970年タイ生まれ)の《太陽との対話(VR)》(2022)は、「あいち2022」のフィナーレにふさわしく、ARとVR技術を駆使した国際共同制作による委嘱作品だという。青い光、月の光と宇宙の粒子を感受した私たちは、はたして太陽でどんな光に出あうのだろうか。

会場風景より、ローリー・アンダーソン&黄心健(ホアン・シンチェン)《トゥー・ザ・ムーン》(2019)

最後に、ラーニングの活動はこれまでの蓄積も含めて「あいち2022」の重要で特徴的な活動であることも強調しておきたい。これからの時間を経て、その記録を分かち合い、語り合える日も楽しみだ。きっとその対話もまた、青い光や幽霊のように、鑑賞と体験の欠落や新しいアートの歴史を照らしてくれるはずだ。

高橋綾子

美術評論家、名古屋造形大学教授

高橋綾子

美術評論家、名古屋造形大学教授

たかはし・あやこ 美術評論家、名古屋造形大学教授。岐阜市生まれ。北海道大学文学部行動科学科卒業。愛知芸術文化センター(文化情報センター)学芸員を経て2001年より大学教員となる。2003年に創刊した芸術批評誌『REAR(リア)』の編集制作を中心に、美術評論と編集活動も継続している。