公開日:2024年5月1日

ガラス箱の中の小宇宙と性。アンゼルム・キーファー「Opus Magnum」展(ファーガス・マカフリー 東京)レビュー(評:香川檀)

会期は4月2日〜7月13日。アンゼルム・キーファーの1998年以来、日本での初めての展覧会で、ガラスケースの作品と水彩画計20点を展示。

アンゼルム・キーファー個展「OPUS MAGNUM」会場風景 © Anselm Kiefer. Courtesy of Fergus McCaffrey.

キーファーの意外な一面

大作よりも小品のなかに作家のエッセンスがよく現れるという作品観がある。それに倣(なら)えば、いま東京で開催中のアンゼルム・キーファー個展「Opus Magnum」は、彼の近年の創作世界についてコアな部分に触れられるまたとない機会だろう(ファーガス・マカフリー 東京7月13日まで)。

アンゼルム・キーファー個展「OPUS MAGNUM」会場風景 © Anselm Kiefer. Courtesy of Fergus McCaffrey.

キーファーといえば鉛でできた重たい彫刻や巨大な絵画といった「重厚長大」なイメージがあるが、本展は15個のショウケースと水彩画5点で構成され、ガラスと水彩の透明感、そしてケースに収められたオブジェたちの宙を舞う軽やかな浮遊感が際立っている。キーファーの意外な一面を見た思いだ。とはいえ、ガラスケースは幅や高さが1m以上にもなる大きさで、作者がキーファーでなければふつう小品とは呼ばない代物である。連作タイトルの「Opus Magnum」とはラテン語で「人生の最高傑作」を意味し、額面どおり受けとるならば、これぞ最高傑作とキーファー自身が太鼓判を捺しているようなもの。だが、そこにはキーファー一流のアイロニーや錬金術への参照も込めてある。

個々の作品はそれぞれ、ドイツやフランスの歴史・文学、ユダヤ神秘思想や北欧神話などに取材したテーマをもつ引用文や人物名がそのままタイトルや作中の文字テクストとして使われている。ガラスケースの中には、レンガ、鉛の本、ドライフラワー、電球、それにシュミーズのような女性の薄衣などが見える。一見唐突な組み合わせで配置されているが、じつはモチーフ一つひとつが寓意的な意味をもつことによって、人間の文明とその暴力、それを超えた神々の物語などを表している。歴史的な想像力がつくりだした小宇宙(ミクロコスモス)が封じ込められているのだ。

アンゼルム・キーファー Thor–Mjölnir/トール―ミョルニル 2016 Photos: Georges Poncet

このガラスケースという方法を、キーファーは1986年、師と仰いだヨーゼフ・ボイスが没してまもなく試み始めた。ボイスは生前にガラスケースを使った彫刻を手がけ、まるでミュージアム展示のようなケース群を含む《ブロック・ボイス》を残していた。ある意味、キーファーのガラスケースはボイスへのオマージュであったかもしれない。ただしキーファーのケースほうが、内部がより劇的・物語的に演出され、メランコリックでありながら軽やかで美的ですらある。

ヨーゼフ・ボイス《ブロック・ボイス》の展示風景(ダルムシュタット・ヘッセン州立博物館) 提供:筆者

女性の性的身体

従来のキーファー・イメージをひっくり返すような意外な発見が、もうひとつ。それは、歴史や神話のなかの女たちについて、直截に彼女らの性的身体をテーマとしていることだ。キーファーはこれまでもフランス革命などの歴史や神話上の女性を象徴的に作品化しているが、近年の彼の関心はよりストレートに、世界を構造化している男女の性的秩序、女性への抑圧と女性のもつ抵抗的な力に向かっているように見える。たとえば、中世以来キリスト教社会でつづく魔女裁判を主題にした《魔女の秤》、ギリシア神話のゼウス神による性的侵犯の逸話《ダナエ》などである。

キリスト教における聖母マリアの処女懐胎を扱った《汚れなき聖母》では、ケース内に四肢を拡げた女性ヌードの絵が掲げられ、その前には鉛でできた貞操帯が置かれている。夫が長く留守をするときに妻に装着させたという暴力的な器具だ。懐妊の秘蹟を告げるものの象徴だろうか、ケースの上から鉛の薄片が吊り下げられている。わずかこれだけの要素から作品の意味を探りあてるのは容易ではなく、見る人の解釈に委ねられている部分が大きい。それでもここで問題になっているのが、キリスト教の処女懐胎のドグマと、女性の「産む性」や性的身体を男性が所有し管理してきたことへの注意喚起であるのは間違いない。キーファーの創作には、そんなふうに歴史を裏側から見るようなところがある。

アンゼルム・キーファー Mater Inviolata/汚れなき聖母 2015 Photos: Georges Poncet
アンゼルム・キーファー Mater Inviolata/汚れなき聖母 2015 Photos: Georges Poncet

それにしても、「聖母」に重ねられた描画の女性は、なんとあられもないポーズをしているのだろう。うちひしがれているのか、忘我の恍惚に身をまかせているのか。デボラ・ルアーはこのポルノ的なヌードを「滑稽なほど無作法」と呼んで、そこにマルセル・デュシャンの《大ガラス》すなわちあの「裸にされた花嫁」に通じるダダ的ジョークを見ている(*)。たしかに、キーファーの作品にはしばしば深遠さを裏切る笑いが潜んでいる。私はしかし、この女性像から、むしろデュシャンの《遺作》を連想した。そこに可笑しみを感じるかどうかは、観る人によって意見の分かれるところだろう。

というわけで、ガラスケースそれぞれの一義的な意味やメッセージを探すことは徒労に終わる。それより、いくつもの星々から星座がつくられるように、ケースどうしの意味の網の目からたちあがるマクロな歴史への想像力を羽ばたかせることが大切だろう。それは、キーファーが一昨年にヴェネチアのドゥカーレ宮殿で行なった都市史の解釈や、来春に予定されている京都・二条城での展覧会のような、特権的な場に出現させる大きな歴史像にもつながるものにちがいない。

──デボラ・ルアー「アンゼルム・キーファー:神学の廃墟における逆説と戯れ」、『ANSELM KIEFER : OPUS MAGNUM』Fergus McCaffrey、2024年、17頁。

香川檀

かがわ・まゆみ 1954年東京都生まれ。表象文化論、ジェンダー論、20世紀美術史。武蔵大学名誉教授、同大学総合研究機構研究員。2007〜2023年武蔵大学人文学部教授を経て現職。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。著書に『想起のかたち: 記憶アートの歴史意識』『ダダの性と身体: エルンスト・グロス・ヘーヒ』、共著に『記憶の網目をたぐる―アートとジェンダーをめぐる対話』『人形の文化史:ヨーロッパの諸相から』など。