最終更新:2022年5月17日

新しいエコロジー思想とアート:人間ならざるものの領域を感じること【シリーズ】〇〇とアート(8)

シリーズ「〇〇とアート」は、現代社会や日常生活とアートとの双方向的な関わり合いを考えるリレー連載。
第8回は「新しいエコロジー思想」をテーマに、ティモシー・モートンの翻訳などを手がけてきた環境哲学者の篠原雅武が寄稿。エレナ・トゥタッチコワと中園孔二の作品を通して、ノンヒューマンなものの領域とアートについて論じる。

エレナ・トゥタッチコワ I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう) 2021

定まらなさの感覚と現代のエコロジー思想

私は芸術家ではないし、美術史や美学の専門家ではないのだが、それでも、ティモシー・モートンの著作に親しむなかで、哲学的にものを考えたり、想像したりするうえで、芸術がとても重要であることが少しだけわかってきた。そして、エコロジカルなものとして(「すべてが相互的に連関し、網の目状になっていく」)現実世界を考えることを自分でも試みるなか、現代の芸術作品のうちのいくつかが自分の思考と共鳴するのを経験してきた。その経験から、「新しいエコロジー思想とアート」について、文章を書くことにする。ちなみに、これは、東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科で2022年5月28日から6月26日まで開催される展覧会「新しいエコロジーとアート」との関連で書かれている。

2002年に発表された論考「人類の地質学」の冒頭で、パウル・クルッツェンは次のように書いている。

「この三世紀で、人間がグローバルな環境に及ぼす影響力が増大した。人間を原因とする二酸化炭素の排出ゆえに、グローバルな気候は、来るべき数千年で自然な運行から著しく外れていくことになるだろう」(Paul J. Crutzen, Geology of mankind, Nature, 415, 23 (2002))。

人間が環境に及ぼす影響は、二酸化炭素排出に限定されない。人口増加、家畜増加にともなうメタンガスの排出、人為的な土地の改変、森林伐採、ダム建設と河川の流れの変更といったことも含まれるのだが、その積み重ねゆえに、気候は不安定化し、それと連動するかのようにして、台風の激甚化、山火事、旱魃、食糧生産量の減少といったことが発生していく。

思うに重要なのは、これを言葉でなんと呼ぶかではないし、既存の理論で説明することでもない。むしろ、この状況をどう感じるのか、どうとらえるのか、どのようなこととしてイメージするのか、この状況において人間の生活の在り方はどうなるのかと問い、想像してみることである。これからの私たちは、誰であれこの問いとともに生きざるをえない。というのも、これは生存の基盤そのものの不安定化に関わる事態であるからで、そのために人は不安で、これからどうなるかわからない、定まらなさの感覚を抱えざるをえないからだ。

だが、この不安、定まらなさの感覚を直視するのは難しく、だから人は、それを感じないようにする。それでも感覚の鋭い人たちは、この定まらなさの状態、脆さの状態に反応してしまうし、感じてしまっていることを自分以外の人にも伝えようとする。そこに出てくる表現こそ、現代的なエコロジー思想と共鳴し得るものと言えるのだろう。それが現在どのようなものになっているのか、さらには今後いかなる表現が現れうるかを一緒に考えることの可能な場所が、いま求められている。

それはとても小さな場所であっていい。新型コロナウイルス感染症のことも考えなくてはならないのだろうが、それでも、小規模な集まりの場所を身近なところにあちこち作って、そこに出入りして、言葉にされることに先立つ微細なニュアンスや雰囲気をともなうやりとりのなかで、惑星規模で起こりつつある巨大な変動と、とても身近なところで起きているのにあまり気づかれていない、目に見えない精緻な網の目を想像しながら、いま何が起きているのかを一緒に考えていくことが大切だと思われる。

『惑星時代における歴史の気候』の著者であるディペッシュ・チャクラバルティは述べている。惑星の気候システム全体に及ぶ変化のような広大な地質学的スケールで起きている出来事と、個々人、人の集まり、制度、国家のような日常生活で私たちが行っていることを関連させていくことが求められている、と(Chakrabarty, Dipesh. “Anthropocene Time”, History and Theory, 57. No. 1 (March 2018), 6. )。

とはいえ、ここに関連性を見出し言葉にしていこうとしたところで、そこで言葉が定まることになるとは思えない。ここにありうる関連性は、人間の側に引き寄せそこで説明し尽くせるものではなく、むしろ、人間とその外側の接点にできるものだ。しかもその接点は、人間の外へと開かれてしまっていて定まらず、ゆえに人間の世界に揺さぶりをかけてくる。この接点を、人は言葉以前のところで感じている。だから言葉は定まらない。

エレナ・トゥタッチコワと中園孔二:「ミステリアスな領域」

真夜中に、近所のお寺の周りに広がる広大な森のなかでひとり彷徨うとき、私は何を感じているか。ときに私は「広大さのなかの一部であるが、そこに統合されずフラフラしている」感覚の心地よさと怖さを同時に感じる。私は、ここにこそ、エコロジカルな感覚、定まらなさの感覚があるのではないかと考えている。

人は世界を、広大な森として感じている。それは第一に、人間を一部分として含みつつ、その限界を超えたところへ広がっていく、奥深いものとして感じていく、ということである。といっても、森もまた、広大な空の下において広がる世界で、そのかぎりでは、奥深いものでありながら閉ざされていない。

エレナ・トゥタッチコワの映像作品《I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう)》は、空の青さと草地の緑、そこに咲く色とりどりの花々、晴れた夏の日の空気感を感じさせる場面で始まる。そこを小気味よく動き回る少年に導かれるようにして、カメラが森の奥深くへと入っていく。樹木が生い茂るところには、もちろん道などない。少年は、木に登り、木と木のあいだに分け入るなどして、さらに奥へ奥へと入っていく。

エレナ・トゥタッチコワ I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう) 2021
エレナ・トゥタッチコワ I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう) 2021

そのなかから振り返るときに映し出されるのは、人間世界の日常のロジックを外れたところから見えてくる光景で、畑などはとても整然としている。そこに、ふたつの世界の接点がある。森のなかから見たとき、私たちの慣れ親しんだ日常世界は、とてもクリアに見えてくるのだが、外から森を見るとき、その奥は暗く、不明瞭で、よくわからない。奥に入っていけば行くほど、影と光のコントラストが強くなり、草木が漂わせる空気感も濃厚に感じられてきて、それ自体が、水のような元素的物質として、生きとし生けるものを活気あるものにしていることが、映像においてとらえられる。人間が作った文明世界のロジックを頼みとせずとも動いていける少年の存在は、あたかも森の側にこそ自らの生の根拠があるとでもいうかのように、身軽で、自然である。

エレナ・トゥタッチコワ I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう) 2021

エレナ・トゥタッチコワ I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう) 2021
エレナ・トゥタッチコワ I Hear, Says the Wind(聞こえる、と風はいう) 2021

少年はもしかしたら、ティモシー・モートンがいうところの「ミステリアスな領域」に触れているのかもしれない。それは、「語ることができず、閉ざされていて、遠のいていて、謎めいた」もののことなのだが(Timothy Morton, Realist Magic: Objects, Ontology, Causality. Ann Arbor, MI: Open Humanities Press, 2013, 22. )、このミステリアスなものが現れてくるのをそっと見守るところにおいて新しい希望の空間ができてくるはずだとモートンはビョークとの往復メールで述べている。この領域に関わっていくのは、どことなく危ういことのようにも思われてくる。

中園孔二の絵画集『見てみたかった風景』(求龍堂 、2018)に収録されたスケッチに高い木にぶら下がる少年がその下の池に落ちてしまう様子を描いたものがあるのだが、それは、人間世界のロジックを外れたところは、ただ元素的物質で満たされていくのとは別に、冷ややかで純度の高い狂気そのものが広がりやすいところでもあることを示しているようでもある。自分の外側に、「絵に置き換えるべき大きな流れのようなもの」があるということに意識的だった中園がはたしてその絵に漂う一種の狂気に気づいていたかはわからない。

中園孔二のスケッチ(『見てみたかった風景』より)


ただ、私には、それがモートンのいう「悪魔のような力としての芸術」の定義と呼応しているように思われてしまう。すなわち、それは「(人間世界を)超えたところからの、つまりはグローバルな温暖化や風邪や水や陽光や放射線のような人間ならざる実体からの情報をもたらす芸術」(Ibid., 22. )のことなのだが、生身の人間に実践できるとしたら、それはおそらく、生身の日常の身体性を外れたところ、つまりは人間が身体において生きている状態を外れたところにある人間ならざるものの領域を感じることが基本条件になるのではないか。

中園孔二 タイトル不明 制作年不明 キャンバスに油彩  60.5×45.5cm 個人蔵
中園孔二 無題 制作年不明 板紙にオイルパステル 36.5×51.5cm 個人蔵

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篠原雅武

篠原雅武

しのはら・まさたけ 哲学者。1975年神奈川県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。京都大学大学院総合生存学館(思修館)特定准教授。専門は哲学・環境人文学。主な著書に『公共空間の政治理論』(人文書院、2007)、『空間のために』(以文社、2011)、『全−生活論』(以文社、2012)、『生きられたニュータウン』(青土社、2015)、『複数性のエコロジー』(以文社、2016)、『人新世の哲学』(人文書院、2018)、『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2020)。主な翻訳書として『社会の新たな哲学』(マヌエル・デランダ著、人文書院、2015)、『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン著、以文社、2018)。

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