最終更新:2021年12月25日

医療とアート:医芸一魂、いのちの全体性を取り戻す営み 【シリーズ】〇〇とアート(4)

シリーズ「〇〇とアート」は、現代社会や日常生活とアートとの双方向的な関わり合いを考えるリレー連載。
第4回は「医療」をテーマに、医師であり「山形ビエンナーレ2020」芸術監督を務めた稲葉俊郎が、芸術と医術を一体のものとして考える思想について論じる。

横尾忠則 追憶あれこれ 2019 作家蔵(横尾忠則現代美術館寄託) *「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」が12月4日~2022年1月23日、大分県立美術館にて開催

「失われた全体性を取り戻す営み」としての医療と芸術

あなたにとって、アーティストや芸術であり同時に医師や医療である存在はいないだろうか。一見するとアートのカテゴリーに収まっているように見えるが、実際は体験することでなぜか元気になったり、気持ちが切り替わったり、自分のなかにある「力」が呼びさまされ、奥深い場所にある「いのち」が活性化し始めるような体験はないだろうか。

そうした謎めいた体験は、わたしにとっては医療的なものに思える。子供の頃から、わたしは医術と芸術とを一体ものとして受け止めてきた(医芸一魂)。それは、体と心が一体のものとして受け止めてきた(身心一如)ことと同じようなものだ。わたしたちの心の働きには、自と他を分離し切断していく働きもあるが、同時に自と他をつなげて融合させる働きもある。わたしは心が融合する働きを大切にしながらずっと生きてきたし、医療職に就いてからも同じ感性で仕事に取り組んできた。医療も芸術も、「失われた全体性を取り戻す営み」なのだから。

そもそも、わたしたちが生きる行為自体が、いのちの全体的な営みでもある。心と体、いのちと人生、人間と自然。そうしたものは分かれているようだが根底ではつながりあっていて、お互いが関係性を持ちながら部分と全体とは相互に影響しあっている。わたしたちを包み込む自然界自体がつねに変化のプロセスにいるからこそ、わたしたちの内なる自然である心身も変化し続けており、時にバランスが崩れることもある。そうした一断面を「病」と呼んでいるに過ぎない。

人工社会が歪みを抱えたままひとつのピークを迎えようとした2020年、ミクロな生物による地球規模の流行が起きた。同時に、気候変動も地球規模で臨界点を超え、自然界のバランスが崩れていた。極小のウイルスと極大の地球は、人間から計るとちょうど等しいサイズの関係性にあり(10の7乗倍)、自然界はミクロとマクロとが相互に影響し呼応し合いながら、わたしたち人間はその結節点に立っている。こうした地球規模の困難は、医学や科学の発想だけでは乗り越えることができない。分野をまたいだ芸術的で美的な感性、そして創造の力でしか困難を乗り越えることはできない。芸術は個人だけではなく社会を修復する使命もあるのだ。

個人も社会も、心身やいのちのバランスを失っているときには、いのちの全体性を取り戻す場が必要だ。それは病院ではなく、もっと総合的な場だ。たとえば、それが芸術祭でもいいのではないだろうか。

「山形ビエンナーレ2020」のプログラム「ケアの循環〜学生と共に似顔絵セラピーで医療従事者の方に感謝の気持ちを伝える〜」では、「似顔絵セラピー」というアート活動を行う村岡ケンイチのワークショップが開催された。「【似顔絵を描く】というシンプルな行為のなかに、対話や、観察することや、イメージの力や、あらゆる要素が含まれていて、絵を描くという行為の原初を思い出させてくれた」(稲葉) 出典:https://biennale.tuad.ac.jp/program/168
ワークショップ(似顔絵セラピー)で描いてもらった稲葉の似顔絵。右が村岡ケンイチ、左と中央が東北芸工大学の学生によるもの 出典:https://www.toshiroinaba.com/single-post/%E4%BC%BC%E9%A1%94%E7%B5%B5%E3%81%AE%E5%8A%9B

このコロナ禍で、ドイツ政府が「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要だ」と唱えたが、「アートがわたしたちの生活を支える大切な社会基盤である」との考えは、まだ日本では定着していない。わたしは2020年9月の「山形ビエンナーレ 2020」という芸術祭で芸術監督を務め、わたしたちが固有の全体性を回復する未来の養生所の場としても構想した。芸術は医術であり、医術は芸術であるという確信があるからだ。

「いのち」というフィロソフィーを共有し、「いのち」の可能性を追究する場としての芸術祭。当時は先が見えないコロナ禍のなか、多くの芸術祭が中止を決めていた。ただ、社会的な分断により損なわれた魂のケアは急務で切実な課題であると判断し、実施できる可能性を共に探し、完全オンライン開催での実施に踏み切った。そうした野心的な試みを実現するためには「山形ビエンナーレ2020」を支えたすべての人の協力が必要だったことも感謝とともに補足したい。

わたしたちひとりひとりは、一対一で宇宙に対峙しながら生きている。過酷な自然環境においても、絶望のなかに一筋の希望を持って生きていくことを、多くの先人たちが繰り返し、死者は生者へと手渡してきた。よき祖先こそが文化や芸術を生み出し、わたしたちの社会を無言で根底から支えている。生きとし生きる者たちが、「アーティスト(アート)は必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」という問いへの返答として、ともに悩み、ともに考え、ともに心を動かし、ともに表現することこそが、新しい時代の芽生えとなる。「山形ビエンナーレ2020」は、社会にぽっかりと空いた穴を修復するような行為として、わたしたちのなかにある芸術と医術の心が交わったエネルギーから生み出されたものだった。

「山形ビエンナーレ2020」のプログラム「漆黒とは、光を映す色 〜詩人・岩崎航が、生きることと芸術を語る〜」より。「岩崎航さんは、筋ジストロフィーで動けない状態でも、ベッド上から芸術祭に参加してもらった。彼の詩の力を、多くの人に知ってもらいたかった」(稲葉) 出典:https://biennale.tuad.ac.jp/program/183

「異界」への橋渡し

個人の全体性の回復のために、医学や科学だけではなく、芸術の力が必要だとすると、それはなぜなのだろうか。

この世の理屈を超えた、まったく異なった理(ことわり)を持つ世界を「異界」と呼ぶ。
人は、苦しいときにこそ、超越的な世界である「異界」へのまなざしが開かれやすい。

「病」や「死」に瀕したとき、この世の常識がガラガラと壊れ、「異界」がぽっかりと顔を出す。人は死の影を感じることで、その反作用のようにして生の力が生まれ、強烈な生命の力が呼びさまされる。それはまさに「異界」からやってくる生命の力だ。病や死を生む母体に体があり、病や死を感じる母胎に心がある。体や心の母体にいのちがあり、いのちの母体に森羅万象がある。感情の深みを生きる人は、違和感を含めた自分の心身を入り口として万物の深みへと開かれていく。そうして異界へと開かれた通路からやってくる「力」は、圧倒的なものだ。魂を救う力につながることもあるのだが、同時に現実を破壊する力にもなりえるものだ。

芸術はこうした「異界」への門を開け閉めして橋渡しをする役割がある。それは身心を治癒する医療とは次元が違ものであり、アートは身心の母胎にある魂の次元を扱うものだ。異界でこの世を超えた体験をして「力」を受け取り、この世界へと帰還するプロセスは、失われた「力」を取り戻す魂の体験とでも呼べるものだ。神話や昔話など、物語にはこうしたモチーフが多いことにも注目する必要がある。

異界が持つ混沌(カオス)を受け入れる苦しみに耐えることができたとき、この世界と異界とを結び付ける門(ゲート)が作られる。門を閉じることで「力」から人々を守ることもあれば、門を開くことで超越的な「力」を与える通路ともなる。異界の圧倒的な力により、わたしたちの深い無意識は活性化され、身心もいのちも魂も更新されるようにして生まれ変わる。アーティストは、こちら側の世界に踏ん張りながら、生身の肉体のままで異界とこの世界とを命がけでつなげようとする困難な仕事を行う存在だ。自分自身とこの世界の精妙な均衡を取り戻すために。よりよく生きるために。

たとえば、誰もが通る渋谷駅にポッカリ空いている「異界の門」として岡本太郎の《明日の神話》(1968〜69)がある。岡本太郎は芸術を高尚な位置に置かないよう、誰もが見ることができるパブリックアートに力を入れた。わたしたちが常識に縛られてしまう日常の中で、「異界」の次元からこの世界を見直すようにアーティストは声をかけている。あなたが暮らす日常をいま一度見直してみてはいかがだろうか。

死と適切につながる

わたしたちは誰もが子供から大人になる。その移行期である思春期に、「自分もいつか死ぬのだ」という「死の概念」と最初に出会う。つまり、死の視点から生を見る不安定な時期でもある。「死」という謎(であり真実)を一身に引き受けるこの時期には、色々な形で死のイメージがつきまとう。そもそも、子供から大人になるという変遷自体が、子ども時代の何かが死んで、新しく生まれ変わる体験でもある。死のイメージ体験も、この世の常識を超えた異界体験とも言えるものだ。死に飲み込まれず、死と切れてしまうのではなく、死としっかりとつながる。死と適切につながることで、わたしたちはリアルな生を生きることができるのだから。そのことで、日常の中にも死を感じ続けることができる強さを育んでいく。

日常と異界とは対立するものではない。生と死が対立概念ではないように。いのちは、生と死(創造と破壊)という相反するベクトルのエネルギーで互いに引っ張られていて、両極で強く引っ張られる緊張により命はエネルギーを生み出しているのだから。 誰もが子供や思春期の時に、一対一でこの世界やこの宇宙と対峙した。死を生のなかに組み込んだ。その時の感性を奮い立たせるように。

横尾忠則 想い出と現実の一致 1998 富山県美術館蔵

たとえば、横尾忠則の「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」展で展示されている《想い出と現実の一致》(1998)、《追憶あれこれ》(2019)では、死者と生者が等価な存在として、光のように多層に重なったイメージとして提示される。「TADANORI YOKOO」(1965)という初期のポスターでは、自分の死さえもイメージに溶け合わせることで、イメージに対峙するものの「死」を介して「いのち」の力を呼びさます。

横尾忠則 TADANORI YOKOO 1965 国立国際美術館蔵

無意識からのメッセージをいかに創造的な生き方へと発展させていくかに、治療の根本はある。体はまさに無意識の海そのものだ。そのためには、無意識のなかに闇だけではなく光も見る。無意識の破壊的な側面だけではなく、創造的な側面も見る。無意識内に貯留されているエネルギーを意識の中へ適切に伝えるために、イメージの力が必要であり、芸術の力が必要なのだ。多くのアート作品のなかに、そうした医療的な力を感じる。無意識の力が、創造的な生き方へと発展していくために。
 
 芸術と医術とを異なるものと考えることもできるだろう。ただ、一体のものとして考えることもできるはずだ。そうした思考実験のためには、自分自身の体験を思い出す必要がある。自分自身の原郷の森という「異界」に分け入る行為こそが、自己創造し自己治療していた「あなた自身」を取り戻す。それは、生きること、そのものなのだ。

【もっと知りたい人へ: おすすめの本・映像】
・「GENKYO横尾忠則Ⅱ Works:原郷から幻境へ、そして現況は?」、国書刊行会、2021
・「GENKYO横尾忠則Ⅰ A Visual Story:原郷から幻境へ、そして現況は?」、国書刊行会、2021
・岡本太郎「美の呪力」、新潮文庫、2004(初版:新潮社、1971)

参考Web:
みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2020
https://biennale.tuad.ac.jp

AD

稲葉俊郎

稲葉俊郎

いなば・としろう 医師、医学博士。1979年熊本県生まれ。2014年東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。2014〜20年3月東京大学医学部付属病院循環器内科助教。2020年4月から軽井沢へと拠点を移し、軽井沢病院(総合診療科医長)に勤務、21年1月より同病院副院長。信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員を兼任。東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)を併任。医療の多様性と調和への土壌作りのため、西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。著書に『いのちはのちのいのちへ―新しい医療のかたち―』(アノニマ・スタジオ、2020)、『学びのきほん からだとこころの健康学』(NHK出版、2019)、『ころころするからだ: この世界で生きていくために考える「いのち」のコト』(春秋社、2018)など。

AD

AD