公開日:2022年7月20日

百瀬文インタビュー「本当に見たいのは、グラスから溢れ出てこぼれてきてしまう予測不可能なしずくの部分」

Tokyo Art Beatのインタビュー企画「Why Art?」は、映像インタビューを通して百人百様のアートへの考えを明らかにする企画。同企画の一環として、注目のアーティストに話を聞いた。今回登場するのは、アーティストの百瀬文。

百瀬文 撮影:金川晋吾

生まれつき耳が聞こえない研究者との「声」をめぐる対談を記録した《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013)、自身の父、駐屯地の友人らが、質問項目に対する回答を次々に読み上げることで、言葉が意味と無意味をたゆたう「定点観測」シリーズ(2012-15)、そして、日本とポーランドにそれぞれ暮らす女性2人が往復書簡で女性の身体や人工中絶について語り合う近作《Flos Pavonis》(2021)。百瀬文はこれまで映像やパフォーマンスを通して身体とコミュニケーション、セクシュアリティなどに向かい合ってきた。
今年は国際芸術祭「あいち2022」(7月30日~10月10日)への参加のほか、十和田市現代美術館での個展(12月10日〜2023年6月4日)も控えている百瀬に、批評家のgnckが話を聞いた。【Tokyo Art Beat】


可視化されない声自体にフォーカスすること

編集部:今回、百瀬さんのインタビューの聞き手としてgnckさんにお声がけしたのは、以前、gnckさんがSNSで百瀬さんの作品について「自分にとって百瀬作品は、なんか自身の年齢を考えさせるものだったりもする。それは作家が身体を曝け出してくれているからだけれど」と言及されていたことがきっかけです。

百瀬さんはこれまで主に身体とコミュニケーション、セクシュアリティについて考え作品化してきたアーティストです。そしてgnckさんは、キャラクターやデジタル表現について論じてきた批評家であると同時に、大学時代の同級生でもある百瀬さんの作品を当時からいままでずっと見てきたご友人でもあることを知りました。生身の身体に向き合ってきた百瀬さん、そしてデジタル表現に向き合ってきたgnckさんが言葉を交わすことで、百瀬さんの新たなアーティスト像が浮かび上がってくるのではないかと考えました。

百瀬:私からすると、gnckは友達として卒業制作の頃から作品を見てもらっているいっぽうで、馴れ合っているわけでもないという、いい意味で緊張感のある関係です。なので今日はいつもとは違った側面の話ができるといいなと思います。

gnck:そもそも百瀬さんとの最初の出会いは、大学の学部3年生のとき、教職過程の学生の作品を中学生に見せようという「学校美術館」みたいなプロジェクトだったかな。クーラーもないド真夏の中学校でやったプロジェクトなんですけど。そのときの百瀬さんの作品が、中学生がノートを取っているときの筆触がブラックライトで机の上に浮かび上がるというインスタレーションで、とても印象に残ってます。

学校空間というのはホワイトキューブと違って空間として強い。その空間で普段の制作物を展示するのではなくどうやってアートをインストールできるのかということを百瀬さんはやっていて、その鮮やかな手付きが非常に印象的だったんですよね。

百瀬:めちゃくちゃ懐かしい(笑)。付き合いが長いから、私にとってはgnckじゃなくてずっと本名なんですよね。表記ではKくんにしときますけど、あのときってKくんは何で関わってたんだっけ。

gnck:芸術文化学科の学生だったので、運営側だね。それで、そんなころからずっと作品を見てきた自分としては、百瀬作品のなかでは学部の卒業制作がいちばん好きといつも言ってるんですけど。

編集部:卒業制作はどんな作品だったんですか?

百瀬:《Breathing》(2011)というビデオインスタレーションでした。部屋の中央の床に水の入ったグラスが置かれており、その背後にいわゆるメロドラマみたいな映像が流れている。映像では旦那さんを亡くした女性らしき人が泣いているんです。その映像の女性がおもむろに亡くなった旦那さんに口づけをすると、部屋の中央のグラスの水からボコボコと泡が出てくるというものです。パフォーマーとして、当時同じ大学に在籍していたイラストレーターの寺本愛さんに出演していただいているんですけど。

百瀬文 Breathing 2011 武蔵野美術大学卒業・修了制作展(武蔵野美術大学、2011)での展示風景 Photo by Ken Kato

gnck:最初は、映像に連動した機械式のポンプでグラスの水を動かしてると思ったんです。映像が映像空間の中だけで完結しているのではなくて、現実の側に干渉してくるということなのかなと。しかし部屋を出て裏手に回るとじつは続きがあって、そこはでいままさに映し出されていた映像のセットが組まれていて、映像は単純にリアルタイムの芝居が映し出されていたものだったんですね。女性がマネキンに息を吹き込んで、それがチューブにつながって直接グラスの泡が吹き出していたんです。それを見たときは結構衝撃で、映像というのはある種のフィクションの世界としてあるものだという信念で見てしまっていたことを突かれるような経験でしたね。

メディアを批判的に扱うということが、卒制や、その後の修了制作である《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013)にある根本的な魅力だと思います。

百瀬文 Breathing 2011 武蔵野美術大学卒業・修了制作展(武蔵野美術大学、2011)での展示風景 Photo by Ken Kato


百瀬:この話をKくんはいつもしてくれるけど、4年生のときの私を未だに超えられないのかと複雑な気持ちにもなります(笑)。

でもgnckとしては、メディアがその本質をメディア内で批評する、正体を暴くっていうことに関心があるわけだよね。評論文の「画像の問題系 演算性の美学」のなかでもそういうことが語られていたと思うんだけれども、初期の私の作品というのは、まさにそのような関心から作られていたところがあるんですよね。

gnck:《Take2》(2012)や「定点観測」シリーズ(2012-15)なんかも、そういう構造を持った作品だよね。

百瀬:「定点観測」シリーズはもともとパフォーマンス作品で、アンケートに書いてもらった回答を複数人が輪っかになって輪読してもらうと、ひとつにつながっているように聞こえるというものでした。このときには「自分の声だと思っていたことが、じつは誰かの声に過ぎないものだったかもしれない」ということに関心があって。

私のパフォーマンスっていうのは、自身が出演していないんだけれども、自分の何かを代弁させている要素があって、それは自分が学生時代に、通訳者の問題を《ジュン・ヤン 忘却と記憶についての短いレクチャー》(2011)で扱っていた奥村雄樹さんに強く影響を受けた部分があるかもしれない。

gnck:「定点観測」シリーズは、構造の面白さと作為性の強さのバランスが多分すごく難しいですよね。かなり作為的に言葉を言わせているように感じられる瞬間もあるし、いっぽうでたまたまこういう言葉が連なるのか、みたいな瞬間もあって、設問によってチューニングをしなければならないですよね。だからこそあの仕組み自体は、タイミングを変えていまやることにも意味が発生しそうだけど。

《定点観測[父の場合]》(2014) は、出演者(百瀬の父)の声がいいなと思った覚えがあります。その次の自衛隊の人の作品に比べると感触が随分違うなと。

百瀬文  定点観測[父の場合] 2013-14  シングルチャンネルビデオ、テキスト 10分26秒

百瀬:《定点観測[父の場合]》はそのバランスが結構うまくできたと思っていて。というか、すごく作為的に言わせている部分があるんだけど、あまり面と向かって言えなかったことをこういうかたちでしか伝えられない、私のなかでの切実さみたいなものがあの作品にはあったんだよね。これくらいしなきゃいけないほどだったんだよ、っていう、父と娘だから許されるのかもしれないような相手に圧を与える行為が、作品のなにがしかの強度になっている気がするんですよね。

gnck:以前何かのインタビューで「初期は構造的な作品を作っていたけれど、それはある種批評家の言葉を内面化していたところがあって、そのあと路線を変えている」みたいなことを言っていたと思うけど、百瀬さんには構造を使ってハッとさせる手腕があると思うから、まだまだそんな作品も見たいんですけどね。

百瀬:制作って単線的なものではないと思っているから、別にやめたわけじゃないんだよね。ただ1回、回り道をしないといけないと感じていて。

gnck:作品が変化していくことそのものは批判されることではないね。自己模倣というのは、模倣される前の作品の可能性をむしろを目減りさせる行為だと思うから。

良い結晶としての1個の作品って、そこに多くの可能性が潜んでいる1個のモデルだと思うんだよね。そこから豊かに展開していける可能性があるはずなのに、いま見えている結晶の表面だけを良しとして自己模倣することは、作家が自分で自分の作品の可能性を毀損することなんですよね。

作品の展開の前後で、前より良く見えるとか、見劣りしてるとかっていうことじゃなくて、展開することそのものが活路であると思うんです。方向性の良し悪しっていうのは結果としてあるので、それはそれとして批評家は指摘しますけど。

百瀬:線路がカチッと切り替わるみたいに作り方を変えたとかではないんだけど、「自己言及的である」ということだけをアリバイにして作品を作りたくはないなと思ってしまって。自分には閉じて見えてしまったということかな。

そのきっかけは、2016年にニューヨークに行って、たとえば自分の言ってることを誰かが聞いてくれるみたいな自明だと思っていたことがそもそも起こりえない社会に行ったときに、なんて言うんだろうな──可視化されない声自体にもうちょっとフォーカスしたいと思ったということがあって。

gnck:ニューヨークにいたのは半年ぐらいだっけ。どういう感じでした?

百瀬:トランプ政権になったばっかりで、 毎日デモをやっていて。ニューヨークで聞く英語が最初全然聞き取れなくて、頭のなかで必死で考えながら黙っていると「Are you sick?」みたいに言われて、その場で不可視なものとして扱われてしまうのが辛かったですね。何かを発言できること、言葉を持っていることの特権──言葉っていうのは広義の意味ですけれど──みたいなことをモヤモヤと考え続けてました。帰国して1年間くらいは、何も作品を作れず毎日ぼんやり過ごしてましたね。

それで、2019年の年末に、日本に帰ってきて最初にやったのが 「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」 という展覧会で。自分がいままでやってきたことは、《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》みたいに「声」そのものを扱う内容だったんですが、「声にすらならないもの」みたいなことで展覧会を作りたくて、一度総決算としてやってみたという感じでした。

そもそも自分には、最初は絵を描いていたけれども描けなくなったというコンプレックスがあって。木枠の上に布を張って、その上に絵具を塗ったら絵画っていう制度のなかに収まることが、当時の自分のリアリティとすごく乖離したものに思えて、何も描けなくなってしまった。そのとき、じゃあ自分の好きな作品の傾向を一度丁寧に考えてみようってことをしたことがあったんですよね。

「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG EastFactoryArtGallery、東京、2019)展示風景

「矛盾」について丁寧に考えてみる

百瀬:このあいだ、美大を目指す高校生向けに「アイデアの研ぎ澄ませ方」っていう話をスライドを見せながらしたんです。今日そのスライド持ってきたんだけど。

gnck:準備が良い。

百瀬:高校生にはこんな話をしたんです。自分の興味が複数あったりバラバラだったりというのは、普通にあることですよね。むしろそれぞれの興味の理由を自分なりに言語化して、それらの「矛盾」について丁寧に考えてみることが大切だよと。で、自分を例にして振り返って、私の好きな作品の傾向は大きく分けると2種類あって。

gnck:はい。

百瀬:まずは、コンセプチュアルで、かつメディアに対する自己言及性があるもの。あとシュッとした見た目(笑)。誰でも再現可能なもの。作者が特権的でないというもの。ここはかなりgnckの趣味性と近いんですね。これが1つ目。

絵画で言うとフランク・ステラは受動的自己という見方もできるし、ジョセフ・コスースも、作品そのものがその作品を支える条件を語りだしてしまう。高松次郎の《この7つの文字》という作品なんかは、「この7つの文字」という言葉が7つの文字で表されているという自己言及性もあるんだけれど、こういうトートロジーの美学というか、言葉に対するフェティッシュがいまでも多分あって。

いっぽうで好きな傾向の作品の2つ目としては、なんか真反対なんですね。直接的な身体が写っていたり、触覚的な生々しさがあるものであったり。非言語的なもの。そしてナルシスティックで、ノイジーで予期できないもの。これはgnckの関心で言ったらグリッチみたいなことなのかなと思うんだけど、どう? いや、せっかく一緒に話してるからね。

gnck:どうだろう。

百瀬:たとえば私はヴィト・アコンチが好きで、無理やり相手の目をこじ開けようとするパフォーマンスはすごく触覚的でもあるし、人と人との関係性の構造のなかにハッとさせられるものがあったり。あとは、観客にハサミで服を切らせるオノ・ヨーコの《カット・ピース》だとか。 つまりこの2種類を整理すると、自分で統率できるものを作りたいっていう能動的な欲望と、 自分でコントロールしきれない予測不能なものを見たいという受動的な欲望という、引き裂かれた2つの欲望がある。

これを水の入ったグラスに例えると、グラスという構造に水という内容が満たされている。それで完結しているんだけど、それだと全部言葉で説明できてしまって、わざわざ作品にする必要がない。私が本当に見たいのは、このグラスから溢れ出てこぼれてきてしまう予測不可能なしずくの部分なんだろうなと思う。でも逆に言えば、そのしずくを観測するためにはグラスという強い構造が必要になってくるわけです。

最近の興味としてはそれに加えて、自分の個人的な欲望が同時代の社会問題と無意識に接続されていることもあるから、そのことについて考えてみようという話もしていて、シンディ・シャーマンやジャマイマ・ステリの作品とかと自分の作品を比較しながら話をすることもあるんですけど。

ジャマイマ・ステリ Performing for the Camera 2016 出典:Research Online(https://research.gold.ac.uk/id/eprint/24561/)より

gnck:ごくプライベートな欲望だったり、プライベートな問題だったりっていうのが作品化することでパブリックに開かれるというのは、理想的な作品化のかたちだと思う。

百瀬:「私小説的」という言葉が批判的な意味合いで使われていたことがちょっと前まではあったと思うんだけど、「私」という言葉のなかには同時に「それを語らずにはいられない欲望」という普遍性があるのだと思う。自分が拾った石と同じ形の石を、地球の裏側で他の誰かが拾っているかもしれないとか、そういうことを想像してみる。そのことの価値を考えるためには、私は自分の個別の欲望に1回立ち返る必要があったんですね。

でもまあ、なんかこう言うと理路整然としゃべっているように聞こえるかもしれないけれど、実際にはグラデーションだったりぐっちゃぐちゃなモザイク状態だったり、そんな綺麗には分かれていないです。

自分の身体を晒すこと、老いについて

百瀬:gnckは、私の最近の作品には興味なさそうだと思ってました。私は最近はベタに作品そのものに没入させることをやっていたかもしれないから。Kくん、「映像作品見るの疲れる」っていつも言ってるよね。

gnck:うーん。でも近作の《Flos Pavonis》(2021)は、劇映画的な映像で30分ほどの内容でしたけど、面白く見ましたけどね。

百瀬文 Flos Pavonis 2021 シングルチャンネルビデオ 30分

編集部:《Flos Pavonis》は日本とポーランドにそれぞれ暮らす女性2人が身体や人工中絶について語り合う作品ですね。私も見て、とても衝撃を受けました。

百瀬:gnckのその判断ってなんなんだろう。《Flos Pavonis》はメディア内批判をしているわけじゃなく、しかもわりとメッセージ性の強いフィクションなわけじゃん、完全に。 gnckは造形的な部分での批評を主にする人だし、作品に対する評価基準として自己言及性だったり最小の手数で成立することの結晶性とかがあるなかで、あれを評価するってどういうことなんだろう?って素朴に思ったんだけど。

gnck:もちろん《Flos Pavonis》は自分がコアに持っている評価基準に触れる要素はないけれども、そもそもそれを追求していない作品だよね。

百瀬:gnckは批評家として世に価値を知らしめたい作品と、そこから外れている作品っていうのをどういうふうに位置づけながら作品を見るの?

gnck:自分が期待するような作品っていうのは、そもそも「正解」を出してしまうとある意味で後が続かない性質の作品でもあると思うんですよね。新作を作っても自己模倣になってしまうとか、一見バリエーションがあるように見えても、そのバリエーションを作り出す方法論というのが透けて見えてしまったりとか。

もちろん作品を見てびっくりしたいとか、「この手があったか」と思いたいという欲望はあるんだけれど、見る側の経験値が上がっていってしまうと、だんだん予測可能なものになってしまって。出会える可能性というのはどんどん下がっていくというか、期待値が変わっていくというか。それに対して「これは当てはまらない、これも当てはまらない」と同じ定規をあて続けるというのはとても不毛な状況だよね。

とはいえ、「こういう定規があるよ」ということを世に出していくという責任が批評家にはあるので、そろそろ本を書きなさいとかってことですけど。

百瀬:そうだよねぇ、昔泣いてたもんね居酒屋で。「単著を出せ」みたいなこと言われて。

gnck:そうですね、ひどい飲み会があって……。『美術手帖』の芸術評論に応募する直前ぐらいのタイミングで。 まぁ泣いたのは飲み会のひどいノリに対してですけどね。読んでもないのに褒めてくる人がいたりとか。一言も読んでないのに何の良し悪しが分かるんだてめえみたいな(苦笑)。

百瀬:なので今日に向けて私、一応gnckの文章読み返してきたんだよね。最低限の礼儀として(笑)。

編集部:最初のお話に戻りますが、gnckさんが百瀬さんの作品を見るたびにご自身の「身体性を省みる」というのはどういうことなのでしょうか?

gnck:単純に、作家が同い年だから、それを見て自分の年齢を省みるみたいなことなんですよね。それこそ《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》(2019)とか。

編集部:他者を通して自分の身体の変化や老いを感じるということですね。

「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG EastFactoryArtGallery、東京、2019)展示風景

gnck:そうですね、まあ、自分がたんにそんなに頻繁に鏡を見ないからっていうことなのかもしれません。適当でもいいやと思ってどこまでも放置してても、まあまあ許されてしまう性別というか。

百瀬:自分が体を晒している作家の身体の問題でいうと、ブルース・ナウマンの大規模な回顧展を2018年にバーゼルのシャウラガー美術館で見たんですよね。その展覧会は作品も構成もめちゃくちゃ良かったんです。最近の映像作品になるとさすがにおじいちゃんという感じでお腹が出てて、ブルース・ナウマンも老いるんだなあとしみじみ味わい深さを感じたんですけど、自分は普段、エイジズムやルッキズムの問題と、出演者・制作者としての映像の「造形責任」みたいなことをどう折り合いをつけてるんだろうと考えたりしました。

たとえば自分が普段作品に出るときには、あまりそこに意味が発生しないよう、ごく平均的な匿名的身体として見えるように、太り過ぎたらちょっと平均体重になるよう調整するみたいなことをしていて。でもそこには標準とか平均ってなんなんだ、という問いが生まれますよね。

それは、いろんな人が見ているときに自身を投影しやすいかなと思ってのことなんですが、言ってみれば無印良品みたいな身体というか。あるいは Googleドキュメントみたいな「誰もがアクセス可能な身体」であってほしいみたいなことを思っていて。作品は私の問題から出発はしているけれど、私の身体が何か特別なものであるというふうに、そんなに特権性を持たせたくないというか。でも老いはいずれやってくるので、そのときにどう扱うか考えると思います。

gnck:身体性というと、百瀬文と遠藤麻衣が粘土をこねる作品《Love Condition》(2020)だと、穴を無雑作にほじっているシーンを「うっ」と感じました。反面、《Flos Pavonis》の多摩川のシーンは、作家が男性に襲われている場面ではこちらの背筋もぞわっとするぐらい怖かったのに対して、逆襲で男性の口に唾液を突っ込むというところに関してはわりともっと乱暴でもいいのかなという感じで見たりとか。

百瀬:それは、自分の身体と何かを結びつけながら見るから「うっ」てなるっていう事なの?

遠藤麻衣×百瀬文 Love Condition 2020 シングルチャンネルビデオ 1時間15分40秒

gnck:……いや、やっぱりこういう作品について語ると自分のセクシュアリティについても開陳されてしまうので恥ずかしいのですけど、でも《Flos Pavonis》で人が襲われているシーンでは、やっぱり襲われている側に投影して見ていますよね。それは素朴に劇映画的に。
セクシュアリティの問題が作品のなかに入ってきて以降は、結構言葉にするのが難しいんですよね。友達(百瀬さん)のセクシュアリティの話なので単純に恥ずかしいっていう、そういう意味での難しさですけど。

百瀬:作者と作品の切り離せなさの話になるね(笑)。

gnck:うーん、絵画だったら別に切り離して見られるだろうけれど、映像で本人が出てきてセクシュアリティの話してってことになってくると……。 もちろん作者を知ってても、それはそれとして作品は作品で見るという態度が、さしあたっては批評家の態度。作品を見ながら考えることは色々ある。けど、それをSNSとかにおおっぴらに書くとなってくると「何をやっているんだろう」みたいな気持ちにはなりますね。

百瀬:それって映像特有の話なんですかね。ドキュメント性があるってことでいえば写真とかでは?

gnck:写真のほうがまだ距離をもって対峙できるかもしれないかな。動いているとか、声が聞こえるっていうのは自分のなかではかなり生っぽい感じがしますね。

編集部:百瀬さんはなぜ表現手段として主に映像を選んでいるのでしょうか?

百瀬:映像って、だらっと撮ってそこからあえてだらしない時間を切り取るみたいなことができますよね。油断してるときに映り込む予期がされなかったことみたいなものが結構大事で、そういう複層性を取り込めるからカメラは好きです。

gnck:個人的にはバシバシ選ぶことにこそ、天才性が宿ると思っているのでそうしてほしいですね。「結晶化してくれ」と思うし、「この一手」というのを見せてほしい。

百瀬:でも、ストーリーのある劇映画的に作るときと、オブジェクトを扱ったループ映像とかでは結構意識が違っていて、後者は彫刻を作るみたいな意識で作っていますね。360度回って彫刻が立体的に見えるということと、映像がずっとモニターの中で回り続けていることって私の中では結構一緒で。それが空間か時間かの違いであって。

gnck:延々と撮り直しが続く《Take2》(2012)とかは完全にそういう意識ですよね。

百瀬文 Take2 2012

百瀬:あれは彫刻ですね。逆に最近の作品はわりと「この時間から見てほしい」ということでスクリーニング形式にしています。美術館の中に札を立てて、開始時間を示している。まあかなり制度的に倒錯してると思うんですけどね。映像というか、映画的なものをインスタレーションにするということ自体にそもそも無理があるのかもしれない。 ピピロッティ・リストとかは、それこそ空間的なものとなっているんですけど。

gnck:水戸芸のピピロッティ・リスト展は、寝っ転がってても許されるから最高でしたね。さっきから映像に飽きてつらい話しかしない人になっているけど(笑)。

百瀬:内容を読まなきゃっていう強迫観念があるのかな。

gnck:いや飽きちゃうんですよね。

百瀬:絵画は飽きないの?

gnck:絵画は飽きたらもう次に行けるから。ただ、絵画は能動性がすごく発揮できるメディアでもあって、自分が注視したいところを注視できるし、引いたり寄ったり、かなり主導権をこちらが握っているメディアでもあるので、飽きないですね。 映像は注視するべきものが完全にコントロールされているので、それが生理的なリズムで飽きないように設計されていればそれは見られるんだけれど、そうじゃないものはわりとつらめですね。

百瀬:なるほど、わかりやすい。

gnck:このあいだ、山内祥太の《舞姫》(2021)という作品で、トラッキングされている服を着るとそれがVR上の毛無しゴリラの服として表現されているというものがあって。毛無しゴリラっていうのがどこにも行かない感じがしてすごくいいなと思ったんだけど、百瀬さんが「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」で展示していた《Jokanaan》(2019)では、男性の動きをトラッキングしてCGの女性の動きにするという映像作品で、「トラッキング用の服を脱ぐ」という同一のアイデアが使われていたよね。《Jokanaan》では、男性が服を脱いで、CGの身体が床に落ちる動きが手付けのモーションになっていたけれど、実際脱いだ服をトラッキングするとああいう綺麗なモーションにはならないですよね。「脱ぐときにめっちゃ変な動きになっちゃう」っていうのが「画像の演算性の美学」であり、山内作品はそういう動きになっていたけれど。

百瀬:そうそう。だから演算原理主義者のgnck的にはそのほうが評価に値するということなんだと思うけれど、私は多分、演算の結果ではない虚構のほうに興味があって、そちらに振り切ろうと思ったんですよね。同じ技術を使うにしろ、すごくその趣味性がはっきり出る判断だと思う。私はそれを情動装置としてとらえたかった。今度まさに「あいち2022」に《Jokanaan》を久しぶりに出展するので、ぜひそのあたりに着目して見てみてください。

百瀬文 Jokanaan 2019 「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG EastFactoryArtGallery、東京、2019)展示風景

作品における善悪について

百瀬:私ばっかり喋ってもあれだから、こっちも馬鹿みたいな質問をしてみるんだけど、gnckは批評をやっていて楽しいですか?

gnck:うーんと、楽しいも何も、批評行為はみんな必ず行っていて、「あの作品はこうだった」みたいな話をしてるんですよね。だから批評家が特権的に批評行為をしているわけじゃなくて。作家は批評行為をしなかったら作家をやってられないし、批評家の役割はたんに文章でまとめることみたいなその程度のことだと思うんですよね。作家と話してて言葉を貰うってことはたくさんあって、あんまり自分のなかだけで批評文を作り出している感覚はないですよね。

編集部:百瀬さんご自身は、アーティストとして批評とどのように向き合っていますか?

百瀬:批評を通して作品との新たな対話が紡がれていくのを見るのはどんな状況であれ楽しいですね。みんな自分が見たいように見るわけですが、書き手の欲望が逆にあらわになるという事態が面白いのかもしれません。ただいっぽうで辛辣な批判にムカッとなってしまう大人気なさもあって、それについて自分のなかでどういうことが起こっているんだろうと反省的に考えたりもするんですけど。モダニズムでは「作品の自立性」ということがあって、作品と作者は切り離されているという前提がざっくりとありますよね。私はそれをインストールしてるつもりで未だにうまくできていないのかもと思ったりします。そういう意味で使う言葉じゃないと思うけど(笑)。

gnck:「作品の自立性」というのは、本来は作品をちゃんと褒めるために用意されたものだと思うんですよね。作家と個人的に仲がいいから作品は批判しないでおこうとか、その逆とか、そういう関係性から作品を切り離して、作品自体の達成をちゃんと見てとるために要求されている前提。

百瀬文

百瀬:たとえばフィクションである作品に「一般的には善と言えない」ものが含まれることは当然あるわけだけど、そこで作品内の美学の問題や露悪的表現の議論がなされるというより、「そのような欲望を持っている作者」なのだと、作者の倫理性の問題として現在は語られてしまいやすい。学生たちと話すと、そういったことで作品化する以前の段階で悩んでいる印象を受けます。「感情」によって駆動している鑑賞者の個別の傷つきとの距離を考えるときに、どうしても「人」としてその声を聞こうとしてしまったりして、そうすると自分と作品の境目が曖昧になってしまうと感じることは私もあります。露悪的な作品を作っておきながら、そこで毎回立ち止まって考えたい人間でもあるので、制作ペースが遅いというのもあるんだけど……。誰も傷つけない表現というのはないわけで。もちろん作者の制作プロセスに現実の暴力があったり、展示されたものがヘイト表現であったりする場合は、当然それは正義の観点から批判されるべきなわけですが。

gnck:善悪の話ばかりが増幅しやすい状況は感じます。真善美で言えば、美の部分を追求することが芸術に資するというのが批評のひとつの態度だったわけですが、それは突き崩されている。作品として良くないけど「これはこういうリサーチをもとにしているからいい」とか「こういう社会正義をうたっているんだから、作品としてはつまんないけど批判してはいけない」とか、そういう「言い訳としての社会正義」や「言い訳としてのリサーチ」が防御手段、あるいは批判の手段として機能してしまう状況っていうのは、ものすごく不健全だなっていうのは前々から思っているところですね。

たとえば百瀬作品のなかでも、耳の聞こえない研究者の方が登場する《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(2013)への批判として、聴覚障害者に対する搾取ではないかという非難のされ方があったかと思う。非当事者性と同時に、クリシェとして「そこに権力構造がある」とか「搾取的である」とかっていうことは問題化されやすいですよね。

百瀬:そうだね。ただ、いくらプロセス的には木下さんから事前に綿密に合意をとって作られた作品だとしても、フィクションとしての暴力性がなくなるわけではないし、そこは自覚している。それでも、私たちの先入観の中で非対称と思われている構造が反転する瞬間、ありとあらゆる身体のふてぶてしさみたいものが垣間見える瞬間があったりするということとか、そういう一瞬の奇跡みたいなことを信じてやっていくことしかできないと思っています。木下さんが「自ら身体を捧げようと思った」と言ってくれた事実を、なかったことにはできないので。

gnck:こういう話をするときに、「私は不正義ではありません」というのをみんなが頑張って、地雷を踏まないように話し始める空間の磁場のようなものはありますよね。作品論の前に守るべき権利や尊厳があると、作品論は二番手の議論になってしまう。だからこそ作品論を十全にするためには、権利や尊厳が十分に保障されている必要があるんだけど、この話の怖いところは、そういう状況が実際にあるという話になってしまうと、「マイノリティや危機的な状況にある人がいる時には自由な話ができないね」という風に容易に転んでしまう。その話ってすごくひどい話ですよね。

百瀬:そう思います。あといっぽうで、こっちが勝手に先回りしてマイノリティの許容性を低く見積もることが、逆に差別的になることもあると思います。以前ゲイの友達に、「ヘテロで申し訳ないんですけど」みたいなことを前置きしながら発言するヘテロの違和感について話されたことがあって、そういうエクスキューズによって何が担保されてるんだろうね。

gnck:あと、造形芸術だけというより、諸芸術、文学や学問など全体的なトレンドのなかでいまホットなテーマは何かというのはあると思います。たとえば、フェミニズムをテーマにした作品や展覧会。それらがたんにトレンドとみなされて、「次のトレンド」が来たときに、そのなかにあったはずの価値までも押し流されてしまってはいけないとは思います。

オノ・ヨーコ Cut Piece 1964 Performed on March 21, 1965 at Carnegie Recital Hall, New York. Photo: Minoru Niizuma, © Yoko Ono; Courtesy of Lenono Photo Archive 出典:IMAGINE PIECE(https://www.imaginepeace.com/archives/2680)

百瀬:それこそ私がさっき言ったオノ・ヨーコの《カット・ピース》の可能性って、彼女がアジア人で女性で、みたいなすごく被虐的な現れをしているということだけではないと思っていて。実際のパフォーマンスの映像を見ると、観客が彼女の服をハサミで水玉模様に切り抜いたりとか、ボートネック状に切って、なんとか彼女の尊厳を保ったまま美的に切ってあげようという、いろいろな試行錯誤をしながらハサミを入れているシーンがあるんですね。だからここでは、行為を暴力にしないための観客の能動性みたいなものが喚起されていて、私にはそこがすごく魅力的なパフォーマンスに思える。

でもそれは彼女がアジア人であり女性であるっていうことを無視もしないし、ちゃんと両立している。物事はつねに複層的に現れる、というのが芸術のいいところだと思っています。作品が何か表層的なプラカードとしての機能をアリバイにしているだけだと面白くないと思ってしまうんです。

それとつながるかはわからないけれど、アイデンティティに関わる問題を非当事者が扱うということそれ自体に慎重になりすぎてしまうと、その問題が世の中に開かれていく機会自体も失われてしまう気がして。単純には言えないことかもしれないですが、そこに他者、ひとりの個人としての自分が関わっていくことを肯定できるような状況を作っていくことができないかと最近は思っています。

百瀬文(ももせ・あや)
1988年東京都生まれ。2013年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了。主な個展に「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(2020年、EFAG East Factory Art Gallery/東京)、「サンプルボイス」(2014年、横浜美術館アートギャラリー1)など。主なグループ展に「彼女たちは歌う」(2020年、東京藝術大学 美術館陳列館)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(2016年、森美術館/東京)、「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋——日本と韓国の作家たち」(2015-2016年、国立新美術館/東京、韓国国立現代美術館)など。2016年度アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を受けニューヨークに滞在。

gnck

じーえぬしーけい 評論家。1988年生まれ。武蔵野美術大学芸術文化学科卒業。「画像の演算性の美学」を軸に、ウェブイラストから現代美術まで研究する。美術手帖第15回芸術評論募集第一席。