最終更新:2022年10月21日

ドクメンタ15におけるルアンルパの挑戦:《ルル学校》の実践で生まれたフォーマット

9月25日、ドイツのカッセルで閉幕したドクメンタ15。その芸術監督を務めたアート・コレクティヴ〈ルアンルパ(ruangrupa)〉の芸術実践を辿りながら、今回のドクメンタ15で目指されたものについて考える。

ルアンルパ 2022 Photo:© Nicolas Wefers

去る9月25日、ドイツのカッセルで100日間開催されたドクメンタ15が閉幕した。第15回の芸術監督はジャカルタを拠点に活動するアート・コレクティヴ〈ルアンルパ(ruangrupa)〉である。第15回は、14のコレクティヴが準備段階から加わり、招待作家の多くがグローバル・サウスから選考されているということでも、かつてない展覧会だと評されている(*1)。彼らがドクメンタ15で実現させたかったものはなんだったのか過去の展覧会から振り返る。

ドクメンタ15 フリデリチアヌム美術館 2022 Photo:Nicolas Wefers

ルアンルパの歩み:コレクティヴ活動を展覧会に落とし込む

ドクメンタ15については、開催前からすでに多くの記事が様々なメディアで紹介されている。参加作家や展示作品が政治や宗教と結び付けられ注目されたことも記憶に新しい。そこで本稿では、〈ルアンルパ〉自体がそもそも、アート・コレクティヴとして2000年から活動していることに焦点を当て、ドクメンタ15は彼らの壮大なプロジェクトだという視点に立ち、彼らが何に挑戦したのかを考えてみたい。

はじめに少し時間を戻そう。2013年、日・ASEAN友好協力40周年を記念した国際交流基金のプロジェクト「メディア・アートキッチン(Media/ Art Kitchen: Reality Distortion Field)」(*2)が実施された。インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、シンガポール、ベトナムと日本の7カ国から若手キュレーター13名が集まり、メディア・アートをテーマとした展覧会を協働で企画実施し、各国を巡回した(*3)。インドネシアからは〈ルアンルパ〉代表アデ・ダルマワン(Ade Darmawan)、現在は〈ルアンルパ〉〈グラフィス・フル・ハラ(Grafis Huru Hara)〉と協働して〈グッスクル:コレクティヴ研究&現代美術エコシステム(GUDSKUL)〉を運営する教育大学出身者のコレクティヴ〈セルム(Serrum)〉のMシギッ・ブディS(M.Sigit Budi.S)がキュレーターとしてこのプログラムに参加している(*4)。

日本から参加したキュレーターの服部浩之はアデの企画について「展覧会に落としこむことが難しいコレクティブの有機的な運動をあえて展覧会という形式において模索するのは、キュラトリアルな実践としても実験的で挑戦的だ」と語っていた(*5)。この語りから、ドクメンタ15開催の約10年前に〈ルアンルパ〉はすでにコレクティヴの活動を展覧会のフォーマットに落とし込むという困難な作業に挑戦していたことがわかる。

《ルル学校》で芽吹いたドクメンタ15の3つのアイデア

それから3年経った2016年、〈ルアンルパ〉はあいちトリエンナーレの参加作家に選考された。彼らは事前の会場リサーチで長者町会場の繊維問屋1階事務所を選び、この空間を《ルル学校》と名付け、会期中は誰でもが自由に集って学び教えるという、新たな教育の可能性を探る観客参加型の作品を提示した(*6)。

《ルル学校》で掲げた「アートより友人」のモットーの前で。左からイスワント・ハルトノ、「公開クラス」講師の濱田琢司、レオナル・バルトロメウス、筆者 撮影:廣田緑

彼らが《ルル学校》のコンセプトを説明する際に何度も口にしたのは、「先生と生徒という関係は入れ替わりが可能、人がそれぞれに持っている経験や知識をシェアすることが学び」ということだった。彼らはまた、「アートより友達」というスローガンを掲げ、日本語のパッチワークを《ルル学校》の壁に掲示した。

開催期間中、毎日のように展示空間が変化し、人が集まり、子供が壁に落書きをした《ルル学校》は、その後の、〈ルアンルパ〉が関わる美術展の、とくにドクメンタ15で新たな国際点展のフォーマットをつくるための重要な礎となった。以下でドクメンタ15へとつながった3つの点についてひとつずつ見ていこう。

第1点はホリゾンタルな学びの実践である。《ルル学校》では来場者が多いと予想される週末に、誰でも参加のできる「公開クラス」を開講し、講師には《ルル学校》の趣旨を説明してボランティアとしてその知識をシェアしてもらった。プロジェクト・コーディネーターだった私は〈ルアンルパ〉メンバーのリクエストを聞き、適任者をリサーチして交渉した。こうして開講した計12回の「公開クラス」の講師は、写真家、名古屋市役所環境関係局の署長、大学教授、歴史人類学者などバラエティ豊かな顔ぶれとなった(*7)。彼らは講師であるが、たまたまその領域に詳しいためにその日は講師となる。しかし別の日になれば、公開クラスを聴講していた人が自身の経験や知識を語る側になるかもしれない。これが彼らのいうホリゾンタルな関係である。

このように、知識や経験をシェアして学ぶ彼らの実践は、2018年末に設立され運営が開始する〈グッスクル〉のなかでも行われている。〈グッスクル〉とは前出の3コレクティヴ〈ルアンルパ〉〈セルム〉〈グラフィス・フル・ハラ〉の複合コレクティヴのことだ。

グッスクル外観 2020 Photo: Gudskul

第2点は、あいちトリエンナーレの会期中に彼らが目指した「友達のネットワーク」形成、「文化仲介人」の育成だ。《ルル学校》は展示そのものを見せるのではなく、そこで日々行われる活動、その場で出会い生まれるネットワークが“作品”だった。週末に計12回開講された「公開クラス」とは別に〈ルアンルパ〉は会期前からネット上で《ルル学校》の「友達(先生と生徒というバーティカルな関係を避けるため、彼らは生徒という言葉を使いたがらなかった)」を募集した。この友達との協働作業が《ルル学校》というプロジェクトのコアとなるパートだった。

応募で集まったのは美大生、建築関係者、大学教員など8名の「友達」だった。彼らは会期中定期的に《ルル学校》に集まり、ここを学びの空間として都市に対する疑問点や問題点について考えたことを何かのかたちとして表現することが期待されていた。ほぼ毎週夕方に彼らは集まり、常駐する〈ルアンルパ〉メンバーやほかの「友達」と意見交換をし、あいちトリエンナーレの最終週には《ルル学校》の展示空間で「友達」のプロジェクト展示やワークショップ、詩の朗読会などを行った。

当時の状況を振り返ると、《ルル学校》の展示を見た多くの来場者は、いったい何がここで起こっているのか、何を美術作品として鑑賞すればよいのか理解に苦しんでいるようだった。会場ボランティアも、彼らの作品について来場者から解説を求められると一様に困った顔をしていた。〈ルアンルパ〉は服部が指摘したように、ここでも「展覧会に落としこむことが難しいコレクティブの有機的な運動をあえて展覧会という形式において模索」したのである。異なっていたのは、《ルル学校》に参加したのはコレクティヴではなく、美術や街の制度などに興味のある一般の「友達」だったことだ。おそらくこのほうが、コレクティヴの活動を展覧会に落とし込むよりも難しかったのではないだろうか。

《ルル学校》にて、合議して展覧会の準備をする文化仲介人の「友達」たち 撮影:レオナル・バルトロメウス

《ルル学校》の卒業式で、〈ルアンルパ〉は「友達」たちにこう伝えた。

「私たちはこの会期中に文化仲介人とのネットワークを育ててきました。名古屋の問題を考えるのは名古屋に住む皆さんです。ここからが本当に結果を出すときです。ここで共に学んだ友達が今後もアイデアを膨らませ、社会に働きかけ発信する、あるいはそういった意識を持ち続けるかどうかで、《ルル学校》というプロジェクトが評価されることになるでしょう」(*8)

当時の8名の「友達」のなかには、6年経ったいまもグループメールに近況を伝えてくる者、会場となった長者町エリアで街や人と関わるイベントやプロジェクトに積極的に関わりSNSで発信する者がいる。これこそが〈ルアンルパ〉のプロジェクトの成果、その地域に根づいた「友達のネットワーク」なのだろう。

ドクメンタ15へとつながるアイデアの第3点は、あいちトリエンナーレにおける「友達」たちの制作費だ。〈ルアンルパ〉は出展作品のために主催者から渡された制作費を、「友達」たちの各アイデアを実現させる費用に充てた。「友達」はそれぞれに企画書を作り、定期ミーティングでプレゼンテーションし、〈ルアンルパ〉メンバーが企画を聞き、内容についてコメントし、制作費を託した。制作費は8名それぞれのアイデアに併せて異なる額で分配された。

ドクメンタ15―新たな国際展のフォーマット 

上述の《ルル学校》プロジェクトについて概要を知ったうえでドクメンタ15の実践について考えてみたい。

〈ルアンルパ〉はこれまでにシンガポール・ビエンナーレ、アジア・パシフィック・トリエンナーレ、上海ビエンナーレ、ドクメンタなどにアーティストとして参加している。個人で活動するメンバーのなかにも、国際美術展への参加経験をもつ者が少なくない。そうした経験を踏まえてアデは、「非人道的な国際展はシステマティックで観客にきっちりした展示を提供することが優先されていてアーティストには搾取的だ」と語る。加えて「現代美術自体が権威主義的でヒエラルキーを持った産業でしかなくなってしまった」(*9)とも言う。

そうした考えをもつ彼らに、2018年暮れ、ドクメンタ15の芸術監督となる打診があった。私の聞き取りによれば、彼らははじめ、芸術監督候補として審査に参加するか迷ったという(*10)。しかし最終的にはアイデアを審査に提出することを決め、そのプロポーザルは評価された。そのアイデアとは、彼らが実践してきた〈グッスクル〉のエコシステムのなかにドクメンタ15を取り込み、そこで得た知識や経験をネットワーク上の皆でシェアするというものだった。

芸術監督に任命された〈ルアンルパ〉は自分たちをキュレーターとしてヒエラルキーのトップに置くことを避けるため、展覧会の2年前に《ルルハウス(ruruhaus)》という集いの場を準備した。《ルル学校》のカッセル版だといってもいいだろう。彼らは準備段階でここに14のコレクティヴと集い、彼らと協働作業しながらドクメンタ15に関わることのできるコレクティヴや美術家を選考していった。その段階では各コレクティヴが予算を手にし、その分配について合議がなされた。これも《ルル学校》ですでに試され、〈グッスクル〉の複合コレクティヴで運営しているシステムである。

《ルル学校》で芽吹いた第3のアイデアについて、ドクメンタ15に重ねて見てみよう。

ドクメンタ15にて、ルルハウス 撮影:廣田緑

ドクメンタ15のキーワードとなった「ルンブン(米倉)」のコンセプトは、〈ルアンルパ〉が2015年、ジャカルタで複数のコレクティヴと協働で活動を始めた際に、コレクティヴ・ポット(collective pot)の名で運用を始めたものが基となっている。収入が不安定な複数のコレクティヴが共同サイフであるコレクティヴ・ポットに収益を貯める。使う際には合議して用途を決める、日本で言えば無尽である。

彼らは《ルル学校》で自分たちに渡された制作費を「友達」のアイデア実現のために配分した。そしてドクメンタ15では「ルンブン」に貯められた制作費がカッセルの「友達(ルンブン・メンバーと名づけられた)」に配分された。

ドクメンタ15にて、ルンブンのネットワークに関する図説 撮影:廣田緑

ところで、開催中実際にカッセルに足を運んだ人は、至る所で「Not Art, Make Friends」の文字を見たのではないだろうか。これは《ルル学校》で掲示した「アートより友達」が起源である。コレクティヴに重要なのは第1にネットワークだという〈ルアンルパ〉の想いが明確に示されている。

「会期中に行った私たちの実践の結果はいまこの場で出るものではなく、ここで育った文化のエージェンシーが、今後どれだけネットワークを広げ、ローカルとローカルをつなげてより広いつながりを生むのかということにかかっている」。

《ルル学校》の閉校時(あいちトリエンナーレ閉幕時)にメンバーが「友達」に向けた言葉だ。ドクメンタ15もまた、その成果が実るのは閉幕直後ではなく、これからネットワークがつながり、カッセルの住民達の意識が変わり、ゆっくりと変化をもたらしてからになるのだろう。彼らのいう「収穫」の時期は、これから先、まいた種が芽を出したその先にやってくる。

もうひとつの課題

9月中旬、展覧会の後半を狙って私はカッセルへ向かった。プロジェクト型作品も終盤を迎えどのような実践を行ってきたかが見えやすいと思ったからだ。各展覧会場を巡り作品を見ながら、私はアデが、コレクティヴによる有機的な活動を展覧会のフォーマットに当てはめる限界について語っていたことを思い出していた。

「彼らは多様なコミュニティと関わりながらプロジェクトを展開しており、すでに非常に複雑な実践形態をつくりだしています。それは展覧会をつくることと比べても、ずっと複雑です。それを展覧会に翻訳すると、プロセスにあった経験、雰囲気、感覚・官能性や匂い、聴覚的なもの、コンテクストや複雑さ、そういったものがすべて消えてしまうのです」(*11)

それならばドクメンタ15において、この限界を〈ルアンルパ〉はどのように打開したのだろうか。

たとえばアデが「展覧会にするとプロジェクトのプロセスにあった経験、雰囲気、感覚、匂いなどがすべて消える」と語った際に例として挙げた西ジャワのジャティワンギ・アート・ファクトリー(Jatiwangi Art Factory)の、ヒュブナー社工場跡地(Hubner-Areal)での展示を見てみよう。ひとつの村を巻き込んで行われる瓦の祭典は、動画とマケット、瓦のもととなる粘土をインドネシアの伝統的な腰巻布バティックに塗り込んだタペストリーなどを要素としたインスタレーション作品となっていた。少し離れた別の展示では、ジャティワンギ村の瓦祭で使われる陶製打楽器も置かれており、来場者が現地の動画に合わせて音を出すことができるようになっていた。

ドクメンタ15にて、インドネシア、西ジャワから参加したジャティワンギ・アート・ファクトリーの展示 撮影:廣田緑

また、反ユダヤ問題で批判されたインドネシアのコレクティヴ、タリン・パディ(Taring Padi)は屋屋内市民プール跡(Hallenbad Ost)会場において、22年間労働者階級の人々の代弁者として美術作品を通して活動してきた軌跡をまとめて展示していた。

ドクメンタ15にて。段ボールのプラカード、巨大横断幕の作品がぎっしりと並んだタリンパディの展示会場 撮影:廣田緑

ここに挙げた2つのコレクティヴの実践を知っている私にとって、ドクメンタでの展示は現場で行われているときの「雰囲気、感覚、感覚、官能性や匂い」に近づけようとする〈ルアンルパ〉と、参加コレクティヴの同じような想いと、試行錯誤が感じられた。インドネシアに長く暮らした私の贔屓目と指摘されるかもしれないが、与えられた空間の使い方もさすがと思わせるセンスがある。

このような展示作品があるいっぽうで、正直なところ、私は展覧会場にあるすべての作品を理解し楽しめたわけではなかった。なかには自身がまったく蚊帳の外であるような気持ちを抱くもの、テキストのアーカイヴ展示がメインで、それを会期の限られた美術館という空間に設置することに疑問を感じるものなどもあった。

ドクメンタ15にて。サンダーハウス屋外エリア 撮影:廣田緑

たとえば、いくつかのテントが設置されたある屋外展示会場では、70年代のヒッピー文化を彷彿させるような出で立ちの男性が子供と木を切っていたり、その横では別のグループが10人ほどで集まり談笑していた。この談笑は、おそらく《ルル学校》で行ったヒエラルキーのない知識や経験のシェアの実践だとは思う。しかし、そこを訪れた来場者にとって、自己の経験としてそれを共有するには、まだハードルが高いのではないだろうか。有機的なコレクティヴの活動本来の魅力を最大限観客に伝え、体験を共有できる展覧会のフォーマットについては、今後も彼らの挑戦が続くのかもしれない。

いや、しかし。あるいは、ウィットに富んだ彼らのことだ。もしかするとこれは〈ルアンルパ〉から我々観客への挑戦状であったとも考えられる。キュレーターとアーティストの水平な関係を目指したのであれば、その水平線上に観客も含まれて当然だ。であるならば、観る者も「収穫」の喜びを味わうためには、この変わりゆくコレクティヴの有機的活動をどのように共有し、理解し、楽しむかという、美術の見方、美術との関わり方が試されていたのかもしれない。

*1──https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/25706
*2──https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/archive/information/1307/07-07_4.html
*3──https://www.jpf.go.jp/j/publish/asia_exhibition_history/41_13_mediaart.html
*4──ジャカルタ会場での展覧会は2013年9月5日~15日にインドネシア国立ギャラリーで開催された。プログラムは展覧会、クレエイティヴ・ラボ、ワークショップ、映像上映から構成された。
*5──『Cosmo-Eggs|宇宙の卵-コレクティブ以降のアート』で服部浩之が行ったアデ・ダルマワンへのインタビューより[服部ほか2020:p.137]。
*6──廣田緑2022『協働と共生のネットワーク インドネシア現代美術の民族誌』p.382.
*7──すべてのクラス内容が以下のサイトから視聴可能。ルル学校(愛知)HP https://ruruaichi.wordpress.com 
*8──廣田2022:p.384
*9──服部ほか 2020:p.140
*10──廣田2022:pp.445-446
*10──服部ほか 2020:p.138

〈参照文献〉
服部浩之(聞き手)2020 「コレクティブでつくるアート、それを支える固有の倫理 
アデ・ダルマワン インタビュー」『Cosmo-Eggs|宇宙の卵-コレクティブ以降のアート』torch press. 137-145.
The Art Newspaper HP https://www.theartnewspaper.com/
国際交流基金HP「Media/ Art Kitchen: Reality Distortion Field」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/artplatform/index.html

廣田緑

ひろた・みどり 造形作家、文化人類学者。国際ファッション専門職大学准教授。1994年からバリ島ウブドで木彫り修業をしながら生活を始め、2000年インドネシア文化教育省の国費留学制度でジョグジャカルタの国立芸術院へ留学、以降2010年までジョグジャカルタを拠点に芸術活動を行なった。著書に『バリ島遊学記』『協働と共生のネットワーク インドネシア現代美術の民族誌』がある。