公開日:2022年9月9日

遠藤薫《重力と虹霓・沖縄》を読む。パラシュートとコーラ瓶がつなぐ、工芸、沖縄戦、ポップアート、宇宙主義(評:沢山遼)

現在「あいち2022」に参加している気鋭のアーティスト遠藤薫(えんどう・かおり)。美術評論家の沢山遼が、沖縄県立博物館・美術館で開催されたグループ展「琉球の横顔 ― 描かれた「私」からの出発」での発表作品を中心に論じる。

遠藤薫《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

「あいち2022」への参加や「shiseido art egg」大賞受賞など、近年注目を集めている気鋭のアーティスト、遠藤薫(えんどう・かおり)。沖縄や東北をはじめとする国内外の各地に根ざした工芸と歴史の政治性に着目し、染織技法や映像等を用いてインスタレーション作品を制作している。今回、美術評論家の沢山遼が作家論を寄稿。2021年に沖縄で発表した作品《重力と虹霓・沖縄》を中心に、工芸や民藝、ポップアート、ロシア宇宙主義等との関連から、その創作について論じる。【Tokyo Art Beat】


図1 遠藤薫 重力と虹霓・沖縄 2021 インスタレーション サイズ可変

1. 重力と虹霓(こうげい)

2021年11月27日、その翌日に行われる遠藤薫との対談のため、那覇に入った。この対談は、沖縄県立博物館・美術館で開催されたグループ展「琉球の横顔 ― 描かれた「私」からの出発」に併せて企画されたものである。

美術館では、遠藤の新作インスタレーション《重力と虹霓・沖縄》が展示されていた(図1)。その日は遠藤の新作を見たあと、翌日の対談のための簡単な打ち合わせを行う予定でいたが、どこからか電話を受けた遠藤は、今日中に寄らなければならない場所がある、と言った。車で向かったのは、那覇市内にある米軍の放出品を主に扱う店である。遠藤が受けたのは、米軍払い下げのパラシュートが入荷したという店からの連絡だった。

店で見せてもらったパラシュートは、数十メートルはある巨大なものである。店主の男性は、人体をパラシュートと結節するベルトの部分から下はすでに切断してある、と説明した。完品を期待し悔しがる遠藤に店主は言った。「そうでもしなければあんたは海でこれを試そうとするだろう。これだけ大きなパラシュートを浜辺で実際に装着したら最期、風に煽られて軽く海上に舞い上がってしまうから。そうすれば、あんたは二度と陸地に戻ってこれないよ」。

図2

そう述べた彼の判断は正しかったのかもしれない。実際、遠藤は、今回の《重力と虹霓・沖縄》で、小さなパラシュートを広げ、浜辺をひたすら前進する自身のすがたを撮影したヴィデオを上映していた(図2)。遠藤がパラシュートを手に入れようとしたのは、その布地を解体し素材として用いたり、あるいは展示室で広げて展示したりする、という動機に限定されていたわけではない。彼女の関心は、パラシュートを実際に使用するということに確かに向けられていた。彼女は、何よりもパラシュートという物が現実にもつ、具体的な力学そのものに強く魅了されていたのだ。

沖縄で設営された《重力と虹霓・沖縄》は、天井から壁にかけて広げられた米軍の白いパラシュートと作家がパラシュートを引くヴィデオのほか、沖縄県立博物館、那覇市歴史博物館、諸見民芸館などから提供を受けた資料や写真、作家蔵の物品、稲嶺盛吉・盛一郎の琉球ガラスの工房である「宙吹ガラス工房 虹」と共作した琉球ガラスの瓶などの数多くの物品・資料で構成される。

多くの物品は、古木材を組み立てて作られた基壇に置かれており、それらを囲むように壁に備え付けられた棚の上には、廃コーラ瓶を溶かしてつくられた琉球ガラスの瓶がならぶ(図3)。

図3 《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

大きくわけて本作は、①パラシュートとヴィデオ、②古物や写真などの数々の物品、③琉球ガラスの瓶の3つの主要部分で構成されている。しかし、そもそもなぜ本作にはパラシュートが広げられているのか。あるいはパラシュートを引く作家自身の姿を撮影した映像が流されているのか。それらは床や壁に配置された多数の事物、とりわけ、この作品の様々な箇所に遍在するコーラ瓶といかに関係するのか。

本稿では、いくつかの歴史的事象、思想的問題を参照し、この謎を解明するための補助線を引くことを試みる。

2. 戦争遺品と琉球ガラス

すべての物について仔細に検討する余裕はないが、置かれた多くの物品は、明確にひとつの共通した輪郭をもつ。米軍のメリケン粉袋を再利用した船の帆、豚の血が塗られた船の帆、米軍のパラシュートを再利用したおくるみ(図4)、米軍の生地を再利用したスカート、薬莢の花瓶、戦時下における鉄原料の不足のために陶器で代用された陶製の手榴弾(図5)、戦後の琉球紅型の復興で再利用された米軍の薬莢、米軍のパラシュートで作られたウェディングドレス、米軍のパラシュートを屋根に再利用した那覇の「パラシュートアーケード」の写真──。

図4 《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より。写真は、おしめを替える米軍(提供:那覇市歴史博物館 )
図5 《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

ようするに、これらはいずれも太平洋戦争や沖縄戦に関わるものであると同時に、なんらかの手工芸的な性格をもち、そして、戦時下においては軍事品として扱われながら、戦後、多くの土地が焦土と化し、物資が失われた沖縄においては、日用品に「転用」された事例を示す(陶器手榴弾は、さかさまに、陶器という日用品が、戦時において武器に「転用」された事例である)。これらは、人々のそれぞれの工夫、創意、技術によって甦り―再生され、「用」の道具へと復帰した戦争遺品である。

そこに見出されるのは、その事物が生きた過去の歴史が、異物として逃れ難く残存する様態だ。これらのオブジェクトにおいて、歴史は物質化された状態で封じ込められている。そこには、時間の物質性/物質化された時間がある。

これらの事物がもつ歴史的な物質性は、遠藤が以前から「工芸の両義性」と呼んできたものに関わっている。遠藤にとって工芸とは、日常的な用途をもった道具を定義するものとしてあるのではない。むしろそれは、爆薬が花火にもなり、爆弾にもなるような、事物の多義的性格を指し示している。命を奪う武器であると同時に、人々の生を賦活(ふかつ)するこれらの事物・道具は、物がもつ両義的なありかたを示すと同時に、すべての物は本来そのような二重性、多義性をはらんでいる。あらゆる物の機能は、そこに複数のコンテクストをもつ人間の雑多な生活文化が介入する限り、一義的な機能に収斂させることができず、かならず複数に分裂する。ゆえに、遠藤にとって工芸とは、物が存在することの多重性に関わる。言い換えれば、ある事物が、別の事物に転用される──すなわち、再生され、転生する、その存在論的な様態(=事物の運動、変転)のなかにこそ、工芸が現れる。

《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

さかのぼれば、遠藤が初めてこの「工芸の両義性」を意識したのは、名工として知られる稲嶺盛吉(1940~)の琉球ガラスの存在を通じてであったという。稲嶺のガラスは、コーラ瓶などを溶かして再利用した、文字通りの「再生」ガラスであり、そこには再利用であるがゆえに気泡などが入ってしまうという欠点を強みへと変える発想の転換があった。今回、遠藤が共同でガラス瓶の制作を行った稲嶺の工房は、黒糖や籾殻(もみがら)、魚の骨などを混ぜ、あえて泡を発生させる「泡ガラス」を創始したことで知られる。遠藤は、10歳頃のときに稲嶺盛吉の工房を紹介するTV番組を偶然見かけ、不純物や異物を取り入れ、積極的な美質に変える琉球ガラスのあり方に強い衝撃を受け、それをきっかけとして将来沖縄に渡り工芸を学ぶことを決意したという。

遠藤が盛吉の子息・盛一郎(1971~)と協働し制作した琉球ガラスの瓶(図6)には、沖縄のガマや海から掘り起こされた45年のコーラ瓶、辺野古や嘉手納基地周辺の赤土、焼失した首里城の灰のほか、珊瑚や黒糖などが混ぜられている。モチーフとしたコーラ瓶の形状の痕跡をかすかに残しながら、荒々しく猛り狂うようなそれらの瓶は、奇形じみた異形性に貫かれている。

図6 「琉球泡ガラスのコーラ瓶」制作時の写真

戦後の沖縄工芸は、事物の転用、再生とともにあった。遠藤が展示した沖縄戦に関連する数々の物品は、戦後の資材不足のなかで別のものへと転用・再生された履歴において、戦中と戦後をつないでいる。沖縄戦のあと、薬莢を糊袋の筒先に転用し、拾った軍用地図を型紙に転用した城間栄喜らによる復興紅型がそうであったように、壊滅的な被害を受けた琉球ガラスの戦後復興もまた、米軍の施設から大量に廃棄されていたビールやコーラ瓶などの廃瓶の再利用からはじまった。レヴィ=ストロースが「ブリコラージュ」と呼んだものがここにはある。それは、事物が従来とは異なる文脈で遭遇することによって事物それ自体が再発明され、その過程で事物の履歴が積み重ねてきた地層が書き換えられることである。

だから遠藤の仕事において工芸とは、事物として閉じられるものではなく、戦争の記憶、あるいはそれが体現する生/死の分割、事物がほかのものへと転生する運動に関わっている。工芸とは名詞ではなく動詞概念であり、あるものが別のものへと移行する、閾(いき)のなかにある。

3. コーラ火炎瓶

本展に先立って、遠藤は再生ガラスによる「コーラ瓶」を制作し、そこに《火炎瓶/ コーラ/ 沖縄/ 1945(Molotov cocktail / Coke /Okinawa /1945)》(2021)(図7)というタイトルを付けた。タイトルにある「モロトフ・カクテル(Molotov cocktail)」とは、火炎瓶の別称である。私たちにとって、ロシア軍の軍事侵攻が開始された直後、ウクライナの市民たちが侵攻に備えて火炎瓶を手作業でつくる映像は記憶に新しい。火炎瓶は、身近な素材からつくることのできるブリコラージュ的な武器だった。

図7 遠藤薫 火炎瓶/ コーラ/ 沖縄/ 1945 Molotov cocktail / Coke /Okinawa /1945)(2021)

モロトフ・カクテル(火炎瓶)は、沖縄の現代史とも無関係ではない。1970年、米兵の運転する車が主婦を轢き殺すという事件が起きた。軍事裁判で米兵が無罪となったあと、今度はアメリカ人が運転する車が住民男性に怪我を負わせるという事件が起こる。これを発端として、コザ市(現・沖縄市)では市民による抗議活動(暴動)が発生する。この抗議活動は、「コザ騒動」と呼ばれた。このコザ騒動で自動車を焼き討ちにする武器として用いられたのが、コカ・コーラを使った火炎瓶だった。当時、沖縄には米軍が持ち込んだ大量のコーラ瓶があった。市民たちはそれを利用し、武器を作ったのである。ここには、たんなる転用以上の事物の位相の転倒(反転)がある。コザで起きた反米騒動は、米軍が持ち込んだコーラ瓶によってなされた。アメリカを代表する文物であるコーラ瓶は、自らの姿を180度転回し、今度はアメリカを攻撃する武器となった。コーラ瓶が負った歴史は、事物がもつきわめつけの両義性を示す。

《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

コーラ瓶は、沖縄現代史のみならず、現代美術の歴史においても「転用」の対象であった。マルセル・デュシャンによる、既製品の美術作品への転用=レディメイドが、コーラ瓶においてもなされたからである。言うまでもなく、それを行ったのは、ロバート・ラウシェンバーグアンディ・ウォーホルら、アメリカのポップアートの作家たちだった。ウォーホルは、コカ・コーラ瓶を画面内で反復する絵画を制作し、ラウシェンバーグは、両脇に金属の羽を付けた木製の構造物の中央に3本のコカコーラの空き瓶を置いた《コカ・コーラ・プラン》(1958)を制作した。アメリカの大衆文化を象徴するコカ・コーラが、ポップアートのアイコンとなったのは必然である。

ラウシェンバーグのアーティストとしての出自には、彼の海軍経験が関わっていた。彼は、復員兵援護法(GIビル)という軍隊経験者に国家から支給される一種の奨学金を利用し、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ。また、アカデミー・ジュリアンで知り合い、のちに結婚する美術家スーザン・ウェイルによって、アメリカのノース・カロライナにある芸術の学校ブラック・マウンテン・カレッジの存在を知る。パリの美術教育に退屈していたふたりは、アメリカに帰国し、ブラック・マウンテン・カレッジに入学することを決めた。偶然にもそこは、世界でもっとも開放的で先進的な芸術の学校であった。

バウハウスをモデルのひとつとして設立されたブラック・マウンテン・カレッジは、芸術諸ジャンルの実践の共有や工芸分野を重視していた。実際、この学校から、多くの陶芸家が生まれた。ラウシェンバーグの作品にテキスタイルなどの日用品や工芸品が見られるのは、そのような教育を反映するものであったと言える(たとえば、ブラック・マウンテン・カレッジにはアニ・アルバースが指導するテキスタイル工房があった)。その意味で、民衆的、日常的なオブジェクトを「コンバイン・ペインティグ」として活用するラウシェンバーグのポップアートの出発点には、美術と工芸の横断というバウハウスからブラック・マウンテン・カレッジに流れる理念があったと言える。言い換えれば、ポップアートの遠い起源には、応用芸術や実用的なデザインを通して、芸術を民衆や生活の側に取り戻すことを企図していた──その意味で民衆の芸術=ポピュラーアートを目指した──バウハウスの思想が流れ込んでいたのである。

1952年に柳宗悦と浜田庄司がブラック・マウンテン・カレッジに招かれ講座をもったという歴史は、この問題と交錯するだろう。柳らの民藝運動は、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を共通のルーツにもつバウハウスなど西洋の潮流と時期を同じくして生まれた。彼らが新たに生み出した「民藝」の概念は、「民衆的工藝」の略語である。柳らが設立した日本民藝館は、The Japan Folk Crafts Museumと英訳されている。が、民藝が「民衆的」工藝を意味するものであったのであれば、民藝の英訳は、Folk Crafts(民族の工藝)ではなく、Popular Art(民衆・大衆の芸術)という訳のほうが適切だったかもしれない。たとえば人民戦線をPopular Front、大衆音楽をPopular Musicと言うように。ここから、民藝がPop Artであった可能性が導かれる。その意味で遠藤の作品は、アメリカンポップと柳宗悦らの民藝という、ふたつの「ポップアート」、あるいは同じことだが、ふたつの工芸運動の狭間に置かれている。

4. 重力と恩寵

遠藤の作品に関して、ラウシェンバーグの実践が参照可能になるのは、コカ・コーラ瓶の使用においてだけではない。それは《重力と虹霓》という作品の主題そのものに関わっている。パラシュートを浜辺で一心に引く遠藤のヴィデオが想起させるのは、ラウシェンバーグが実施した数少ない舞台作品《ペリカン》(1963)(図8)である。ラウシェンバーグは、このパフォーマンス作品でパラシュートを広げ、ローラースケートを履き、舞台上を移動する。岡﨑乾二郎が指摘するように、ここでラウシェンバーグの身体は、前に進もうとすればパラシュートを広げなければならず、パラシュートが広がると動きが抑制される、という自己制御的なシステムのなかで均衡する(*1)。つまり彼は、前に進もうとする力と、その力を打ち消そうとするパラシュートの力のあいだに挟まれている。

図8 ピーター・ムーア ロバート・ラウシェンバーグによる《ペリカン》上演風景(1963) 1965

この《ペリカン》の力学は、ラウシェンバーグの絵画に行きわたる力学とも通底する。彼の絵画は、いずれも、複数の力が交差し、干渉する、交差点のようなものとして考えることができるからだ。実際に、しばしばラウシェンバーグが都市の交差点をモデルとしたのは、このように、複数の異質な力が交差する、彼の絵画に内在する力学そのものと関係している。ラウシェンバーグは《ペリカン》のみならず、平面作品においても、パラシュートのイメージを繰り返し画面に転写し、ときに実物のパラシュートを貼り付けた。彼のパラシュートに対するオブセッションは、飛翔とその抵抗という、この事物がもつ二重性に関わっていたと言える。その意味では、ラウシェンバーグが繰り返しコンバインした「飛ばない」鳥たちの形象(羽のイメージは《コカ・コーラ・プラン》にも見られる)もまた、飛翔と下降というふたつの異なる力を体現するものであったと言えるかもしれない。

そもそも「パラシュート」とは、イタリア語の「守る・封じる」 (parare) とフランス語の「落ちる」 (chute)の組み合わせからなる造語である。ゆえに、その語には初めから、「抵抗」と「落下」という二重の力学が封じ込まれていた。つまり、パラシュートは、上昇と下降、飛翔と落下という異なる力が「ひとつ」に束ねられたものなのである。ラウシェンバーグがパラシュートを繰り返し使用したことも同様の理由によるだろう。彼は、異質な諸力が「ひとつ」にコンバインされるという性質に強く魅了されていた。その意味で、ラウシェンバーグのコンバインは、通常そう言われるように事物に対してなされるものであったのではなく、見えない力の性質そのものに向かっていたことになる。

ゆえに、《重力と虹霓》におけるパラシュートの展示は、「重力(gravity)」と「虹霓(rainbow)」というこの作品の主題そのものと強く関係している。遠藤の《重力と虹霓》は、2019年に東京・銀座の資生堂ギャラリーで展示された過去作と同じタイトルをもつ(*2)。複数の大きな古布を中心に構成されたこの展覧会に、私は展示室内にほかの作品とともに展示される短文を寄せたことがある。私たちは互いにこの展示の主題に深く関わるテクストとして、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を参照していた(当時、遠藤のインスタレーションには織物の道具に交じって『重力と恩寵』の文庫版がひそかに置かれていた)。《重力と虹霓》というタイトルも、ヴェイユの著作を暗示する。遠藤は工芸と同音の、虹を意味する「虹霓」の語に読み替え、そこに恩寵のイメージを託した(「虹霓」は、漢語表現で「虹とその影」を指す)。

『重力と恩寵』は、アフォリズムを書きためたヴェイユのノートが元になり編纂された書物である。そこには、たとえば以下のような文章が書き付けられている。

「ふたつの力が宇宙に君臨している、──光と重力と。」(*3)

「重力がいっさい関与せぬ運動によって降りていく。重力は下降させ、翼は上昇させる。二乗の力をそなえた翼であれば、いっさい重力によらずに下降させうるのか。」(*4)

「重力の下降運動、恩寵の上昇運動、二乗の力をそなえた恩寵の下降運動、この三様の運動が創造を構成する。」(*5)

ヴェイユは、光と重力を宇宙に君臨するふたつの力と定義し、重力の下降運動と恩寵の上昇運動のふたつの異質な力が反転する道を神学的な思索のなかで探った。この力は、ふたつでひとつであり、決して対立しあうものではない。重力のないところに恩寵、すなわち神の救いはない。ヴェイユにとってキリスト教とは、この二極的な力が互いの位置関係を反転、逆転させ、結晶することを意味していた。限りない深みへと墜落することは、そのまま、高みへと昇ることだ。すなわち墜落とは飛翔だった。恩寵(上昇)とは、高みへの落下のなかに、下降運動のなかに存在する。たとえばヴェイユは、その実践として、工場労働者やスペイン内戦の義勇兵として活動した。ヴェイユにとって、際限のない肉体的な労苦、重みのなかに自らを投じることは、神を思索することにほかならなかった。

パラシュートには、上昇と下降、飛翔と落下という異なる力が「ひとつ」に束ねられている。そこでは、この二極性が衝突する。だからそこにはあるのは、「重力と恩寵」にほかならない。ヴェイユを引くことで遠藤は、パラシュートを、神学的、宗教的なオブジェクトへと変貌させたのだとも言えよう。肉体的労働から美をつくりだす工芸には、上昇と下降、重力と恩寵の二重性とその反転がある。

力学的な点においてだけではなく、パラシュートは、それ自体両義的な存在である。それは、戦争時に敵を襲撃するのに用いられる一種の「兵器」であると同時に、パイロットの命を救う救命具ともなりうる。ゆえにパラシュートは、上昇と下降、重力とそれへの抵抗という力学的「両義性」のみならず、武器であると同時に救命具であるという「両義性」をもつ。パラシュートは、こうした異種の背反する要素を、「ひとつ」へと結合(コンバイン)する(図9)。

図9 《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

そのように考えれば、沖縄でのパラシュートの展示に、基地問題の介在を見ないことは難しい。遠藤が沖縄でパラシュートを購入することができたのも、もとより沖縄に米軍払い下げの店があったからだった。同様に、沖縄出身のポップアーティスト、真喜志勉(TOM MAX)が、沖縄で生まれ育ったことによるアメリカ文化との接点から、ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズの作品に接近し、その画面に繰り返し戦闘機やパラシュートを転写したことは、ポップアートと基地問題の双方に直結する(*6)。

5. 切断コーラ瓶 

遠藤の《重力と虹霓》のなかで、コカ・コーラ瓶は、琉球ガラス、コーラ火炎瓶、ポップアートといった様々な指標を連鎖させるように、作品のなかを回遊している。だが、コーラ瓶の回遊はこれで終わらない。そこには、琉球ガラスのコーラ瓶に混じって、上部が切断され、底部だけが残されたコーラ瓶が置かれていた(図10)。これもまた、戦後、焦土となった沖縄に焼き出され、コップすら持たない生活をはじめた人々が作りあげた事物の再生の事例だった。人々は、コーラ瓶を半分に切断し、それをコップとして使った。このようなコーラ瓶の転用事例が見られるのは、ほとんど沖縄に限られるという。これもまた、事物に歴史が刻印されるひとつの事例、すなわち物質化した歴史のすがただろう。

図10 《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

しかし私は、このコーラ瓶に、もうひとつの「歴史」を見ていた。それは、柳宗悦による朝鮮工芸の発見である。柳の朝鮮工芸への開眼は、大正3(1914)年、柳が自宅に保管していたロダンの彫刻を見るため、彫刻家志望であった小学校教師が柳の自宅を訪れたことを発端とする。その人物の名は、浅川伯教といった。浅川は、柳への手土産として、李氏朝鮮でつくられた小壺(李朝染付秋草文面取壺)(図11)を持参していた。柳は、この小壺を見てその美しさに感激し、朝鮮の器物に関心を寄せていくことになる。

図11 李朝染付秋草文面取壺 朝鮮半島 18世紀前半 12.8×11.8cm 日本民藝館蔵

浅川がこの小壺を柳に送る、という歴史の偶然がなければ、その後の柳の思想形成は別のものになっていたかもしれない。が、そこにはもうひとつの偶然が重なっていたように思われる。それは、浅川が持参した小壺が、そもそも半分に切断された器であった事実に関わる。というのも、この小壺は、もとは壺であったのではなく、上部が切断された、瓢箪型の徳利であったからだ。これが、もとの複雑な形状を留めていれば、複雑さを貴族的なものとして退け、朝鮮工芸の単純さ、素朴さを称揚する柳がその美に強く打たれることはなかっただろう。この小壺は、図らずも柳が民藝に認めていくことになる「不完全の美」を、偶然にも体現していたことになる。

そのとき、コーラ瓶が、李朝の染付徳利と同じ瓢箪型の形状をしていたことに気づく。それが示すのは、異なる場所、時代に作られた道具がもつ人類史的な共鳴関係ではないだろうか。瓶をまっすぐに成型するのではなく、あえて中央部を凹ませることで手で握りやすくするというデザイン的合理性が、瓢箪型徳利とコーラ瓶の造形原理をつないでいる。同時にそれは、上部と下部の階層差をつくりだし、下部のみを壺に「転用」するという発想を生み出す。すると、柳と浅川が見出した朝鮮の小壺は、おそらく徳利の口が欠損したあと、今度はそれを塩入れなどにするため、半分に切断することで、小壺へと「転用」したものであったことが推測される。したがって浅川の小壺は、切断コーラ瓶と同じ、切断され再生された瓶(徳利)であった。その意味で、切断コーラ瓶は、民藝運動の原初的な光景へとつながっている。民藝は、転用から、すなわち事物の再生から開始されたのである。そしてそれは、民衆が日々の生活のなかで用い、制作してきた器物という、従来の美学的な範疇からは疎外され打ち捨てられてきたものを、歴史の場に回復させ、再生させることにつながっていた。

柳がこの小壺を通して朝鮮工芸を「発見」したのは1914年。1914年は、マルセル・デュシャンが、いっさい手を加えていない純粋なレディメイドである《ボトルラック》を初めて世界に提示した年である。民藝運動は、このような世界性をもつ。柳とデュシャンに通底するのは、日常の道具を取り上げ、それによって道具に芸術性ポテンシャルを見出すと同時に、かつ、道具を通して芸術それ自体を批判するという両面戦略性にあった。デュシャンは、ボトルラックを芸術作品としてみなされるものへと「転用」した。それは、事物に与えられた位相=観点を変えることである。同様に、柳にとって朝鮮の小壺もまた、柳の従来の芸術観の観点の変更をせまる、一種のレディメイドとして見いだされたことになる。しかし、そのように考えれば、そもそも朝鮮の小壺は、それを切断した人物にとって、徳利を壺に「転用」するというレディメイド的な観点を伴うものだったはずである。

すでに見たように、朝鮮の小壺は、もとは徳利つまり英語でいうところのボトルであった。デュシャンの《ボトルラック》にボトルそれ自体が見えないのと同様に、民藝とレディメイドは、ともに「不在のボトル」によって生み出されたと言える。沖縄に残された切断されたコーラ瓶という「不在のボトル」は、民藝とレディメイドの共通の祖型として、両者をつないでいる。

6. 不二

朝鮮の小壺は、不在のボトルという、見えないゲシュタルトをその背後に抱えている。したがって、それは柳が言うところの「不完全の美」を密かに体現する。柳にとって、そもそも民藝とは、抑圧されてきた、名もなきものたちの抵抗運動の様相を示していた。たとえば「不完全」のほかにも、柳が挙げるのは「下手物」「無名」「凡庸」「廉価」「稚拙」「無学」などの概念である。柳が繰り返し述べるのは、それらが、にもかかわらず、工藝においては美と結ばれるという逆説である。柳の工藝理解は、これを逆説ではなく、積極的な美の条件として認めることにあった。

たとえば柳は『工藝の道』のなかで「結合」という概念=レトリックを幾度となく駆使している。そこでは、従来、美の範疇から疎外され、抑圧されてきた諸概念の「美」との「結合」が説かれている。柳の民藝は、これらが美と「結合」されることによって回復し、復活する、その過程を描くものであった。柳はそのテクストで、美しさを目指してつくられていないものこそが美しいのはなぜか、と問い続けた。

それらは、もっとも「美」とかけ離れているがゆえに、強く美と結合する。言い換えれば、柳にとって美はそれ自体で成立するものではなく、逆説的に、美的範疇にないものと美との結合によって初めて実現される。美は、そのような相反するものの結合、同時的な対立の解消、和解によって初めて見出される。柳の理論は一貫して、このような両極性の和解、結合に向けられていた。

このような柳の「結合」のレトリックの祖型となるとともに、そこに宗教的な理解を与えたのは、おそらく、民藝運動を創始する以前に柳が研究対象としていたウィリアム・ブレイクの存在である。柳は、朝鮮工藝を見出したのと同年の1914年に、日本で初めて書かれたウィリアム・ブレイクの研究書『ヰリアム・ ブレーク』を刊行している。柳にとって、朝鮮とブレイクはある概念でつながっていた。というのは、柳は朝鮮工藝について記述する際に、ブレイク研究を通して得た(同時に仏教用語でもある)「不二(ふに/ふじ)」という概念を使用することになるからである。「不二」とは文字通り、二の否定、すなわち一であることだ。それは、二元論的な対立を偽のものとみなし、その二項の対立を否定することである。

図12 ウィリアム・ブレイク 天国と地獄の結婚 1790-93

ブレイクの詩篇『天国と地獄の結婚』(図12)はその主題を直接的に明示する。ブレイクは、肉体と霊魂が別々のものであるという霊肉二元論を否定した。ブレイクに見られるのは、肉体・物質と精神・心は一体でありそこはいかなる区別もないという、色心不二の思想である。ブレイクは、霊と肉、善と悪、天国と地獄、神と人間といった、聖書においては対立するとされた、これらの対立の解消を目指したがゆえに異端視された。それは、徹底的な「不二」の思想、結合の思想だったと言える。ゆえに、天国と地獄の「結婚」とは、柳が『工藝の道』で繰り返すことになる「結合」概念の別名である(*7)

「不二」の側に立つ民藝運動とは、このような「一」を目指すものであった。柳はそれが実現する美を「不二美」と呼んだ。

「如」は又「一」である。「一」は又「不二」とも云う。それ故美にも醜にも属しないものであるし、又醜を棄てることで選ばれる美でもないのである。謂わば醜に向い合わぬ不二の美、美それ自らとでも云うべきものである。かかる美が美醜の範疇に属していないことは自明である。醜でない美というが如きものは高が知れている。そんなものが真に美しいものである筈はない。美しさも亦(また)迷いに過ぎない、それが醜さに対する限りは。」(括弧内は引用者)(*8)

醜なき美はあり得ないと説くこの一文が『美の法門』に書き付けられていることからも推測されるように、柳にとって「不二美」は宗教的な意義をもつ。仏の世界では美や醜という二元論は消滅している。それは、「不二」=「一」として結合されているからだ。その意味で、柳の晩年の宗教美学には、彼が初期に見いだしたブレイクの詩篇『天国と地獄の結婚』で得た認識が持続して現れていると言えるだろう。柳はそのようなすべての対立、分別が溶解する世界、あらゆる階層秩序が解体・脱構成される世界を阿弥陀の国に見いだした。ゆえに、それがすでに物の次元で体現されている民藝の器物に、彼は(遡行的に)思想的な意義を発見し、それを「美の浄土」と呼んだのである。

柳は『法と美』のなかで、その一例を、親鸞聖人の教えを記した『歎異抄(たんにしょう)』に見ている。そのなかには「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という有名な一節がある。この句の内容は、常人の常識、道徳主義化された仏教理解では理解しがたい。この句が述べるのは、「悪人ですら救われるのであれば、まして善人はよりたやすく救われる」という常識ではない。その逆である。つまりそれが示すのは「悪人は善人よりも簡単に救われる」という過激な思想である。ようするに親鸞は、仏の国においては、世俗の序列が無効化される、と述べているのだ。

親鸞のこの考えは、イエスの言葉とも対応しているように思われる。たとえばイエスは、神の国の前では、「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイの福音書20章16節)と言う。神の国においては、既存の階層秩序はことごとく覆される。このとき、親鸞とイエスは、同様の見地に到達していたと言える。そこに認められるのは、この世を支配する悪と善、先と後などの位階、秩序、序列が転覆すること、すなわち文字通りの「革命」である。だから、彼らを「革命家」と呼ぶとして、それはたんなる比喩ではあり得ない。

同様に、柳の「不二」概念は、世俗の序列が覆され、あらゆる二元論が破壊され、背反する(と現世では思われている)異なる力が強く凝縮し、「一」となる境地を目指す。このとき、柳の仏教理解は、ヴェイユの『重力と恩寵』の思想と重なり合わないだろうか。ヴェイユは「恩寵とは、下降運動から成る法則である」と書いていた(*9)。そこでは、翼を得ること、高みへ昇ることは下降運動のただなかにおいて実現される。貧や醜がすなわち美であるように、低いところにあるものは高いところにあるものにいずれ類似する。恩寵は、重力の介在なしには存在しない。そこは、低みと高みが遭遇すること、すなわち阿弥陀の国の前でいっさいが「不二」(柳)となり、神の国において「天国と地獄が結婚」(ブレイク)することだ。それもまた、異なる力が強く結合する「一」の世界であった。(*10)

ゆえに、遠藤の《重力と虹霓》という作品それ自体、あるいは彼女が言う「工芸の両義性」を体現するパラシュートとコーラ瓶は、その物質的なレヴェルにおいて、ブレイク、柳、ヴェイユの思想に通じている。そこに「工芸的なもの」がある。

《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

7. 不死

「後の者が先になり、先の者が後になる」というイエスの言葉が含意するところは様々である。たとえばそれは、権力や富をもたない者、子供や女性、病人などが神の国の前では先行する、とも読める。が、キリスト教が、最後の審判における死者の復活を説く宗教であったことを考えれば、このイエスの言葉は、死者の復活を示すものであるようにもとらえられる。死者の復活とは、キリスト教における、きわめつけの転回(コンヴェルシオン)=革命である。

遠藤の《重力と虹霓》に置かれたおびただしい数の物品もまた、一度死を潜り抜け、戦後復活し、新たに生き直すことを選択した事物たちであった。それは、死の底から再び立ち上がってきたという意味においては、低さから高さへの移行、すなわち「重力」と「虹」が並ぶこの作品のタイトルとも響き合っている。であれば、転用され再生を経た事物たちが置かれたこの作品の総体がつくりだすのは、一種の冥界、黄泉の国であったはずである。この作品の祭壇めいたつくりは、それを暗示しているのではないか──そう遠藤に訊くと、彼女は作品の基壇となる板の下を指し示した。そこには、血痕のあとがついた損傷の激しい米軍服などのほかに、十字架を想起させるものが置かれていた。実際に、そこには墓のイメージが重ねられていたのだった。

じつは遠藤の活動において、死者の再生が作品に託されたのは、これが初めてではない。たとえば彼女は、過去にロシア宇宙主義に関心をもち、世界で初めて宇宙に進出するためのロケットの科学的原理を定式化した科学者コンスタンチン・ツィオルコフスキーの残したドローイング《打ち上げ後のロケット内の様子(無重力状態)》(1933)(図13)をもとにした作品を制作している(図14、*11)。これが死者の再生と関係するのは、ツィオルコフスキーが、ロシア宇宙主義の始祖である思想家ニコライ・フョードロフの思想を明らかに受け取り、ロケット工学を開始した歴史があったからである。

図13 コンスタンチン・ツィオルコフスキー 打ち上げ後のロケット内の様子(無重力状態) 1933
図14 遠藤薫 大掃除と”打ち上げ後のロケット内の様子(無重力状態)” 2017 小麦粉、石、ルンバ、隕石 「クロニクル、クロニクル!」(CCOクリエイティブセンター大阪〔名村造船旧大阪工場跡〕)での展示

フョードロフは、その「共同事業の哲学」のなかで、キリスト教(ロシア正教)に由来する死者の復活を、人類の科学的な力によって実現するというアイデアを語っていた。フョードロフの「共同事業の哲学」では、あらゆる階層、すなわち、人種、ジェンダー、階級などを超えて、いずれ、人間の力によってあらゆる死者たちの復活が可能になることが予告される。柳が民藝のなかで夢見た阿弥陀の世界と同様に、フョードロフ的な復活以後の世界では、あらゆる者たちが平等化され、既存の階層秩序は徹底的に破壊され、脱構成されるのだ。そこでは、死と生の区別も無効化されるがゆえに、かつて生きたすべての人々の死もまた克服される。フョードロフは、現実的に、かつて地上に存在したあらゆる祖先が生き返れば地上はかならず手狭になり、人類が住む場所がなくなってしまう、と考えた。そのためには人類が自然を統御し、宇宙空間へ、地球外の空間へと移住しなければならない。

独学で科学を学んだツィオルコフスキーは、10代の頃に勉強のため図書館に通うなかで、図書館司書として勤務する在野の思想家であったフョードロフと出会っている。おそらく、ツィオルコフスキーはそこでフョードロフから人類の宇宙空間への進出というアイデアを得た。近代のロケット工学は、両者の遭遇から導き出された論理的な解だった。自然の統御のためには、人類が宇宙空間を開拓するための移動手段としての乗り物、すなわちロケットが必要になるからである。

ツィオルコフスキーがロケットの内部を描いたドローイングでは、宇宙の無重力空間のなかで、あらゆる人間が重力から解放され、中空を漂っている。このドローイングは、同様に、無重力の宇宙空間を想定し、画面のなかを様々な幾何学的図形が漂う、マレーヴィチのシュプレマティスムの絵画と明らかな共鳴関係にある(柳の民藝運動やヴェイユの活動もまた彼らと同時代の事象である)。それは、無重力空間という特殊な場のなかで、既存のあらゆる社会秩序・体制が解体されるフョードロフの世界観とも通じている。

死後の世界とは、ゆえに「重力」と「虹霓」とが遭遇する場所、重力の下降運動が天上の虹との衝突をもたらすような、世界の錯乱だった。その意味で《重力と虹霓》は、現実の重み、重力に支配されたこの世界の解体を志向している。それは、死が生へと転回される、革命的な契機とともにあった。事物のなかにみられるこのような転生可能性は、物質それ自体のなかに、創造的な潜在性、能力が潜んでいることの証でもあっただろう。それは、物質に潜在する唯物論的な力の蜂起を通して、階層秩序の脱構成へと向かうことだ。

《重力と虹霓・沖縄》(2021)展示風景より 

それがあらためて工芸の問題に帰着するとすれば、ウィリアム・モリスが工芸を、メジャーな芸術に対する「レッサーアート(小芸術)」と呼んだことにも関わるだろう。それは、マイナーなもの、名もなき者たちの謂だった。事実、ほとんどの工芸の作り手たちの名前は残されていない。その意味で工芸とは、歴史に忘却された無数の死者・敗者たち、名をもつことを禁じられた者たちの隠喩たりうる。残された無数の器物は、歴史の表象から抑圧・排除された、名もなき者たちが従事してきた労働の痕跡と手の影を私たちに伝えている。工芸の名において行われるのは、そうした者たちの存在をふたたび想起することである。

沖縄県立美術館での展示を終えたあと、遠藤の《重力と虹霓・沖縄》は解体され、再利用不可能な木材はすべて沖縄の浜で燃やされ灰になった。遠藤はその灰を、今度は新しく布を染めるための媒染剤として使用したい、と語っていた。だから私が沖縄で見た《重力と虹霓・沖縄》は、いまは存在しない。だが、それはいまも終わりなき運動のなかにあり、死を通過した新たな時間、不死と復活のなかの時間を生き直している。

*1──岡﨑乾二郎「Let’s try to act in the gap between the two. 仕事場=ここがロードス島だ!」『美術手帖』2008年8月号、84頁。
*2──「第13回shiseido art egg・遠藤薫展」(資生堂ギャラリー、2019年)。この展覧会で遠藤は、人の手によって繕われたり、蚕に布の上を這わせることで修復された布を展示した。そこで展示されたのは、布それ自体ではなく、生/死の分割を超え、修復され続けながら存在する布の様態・運動である。そこに「工芸的なもの」の実態があるからだ。
*3──シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995年、9頁。
*4──シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年、16頁。
*5──同上。
*6──真喜志の活動を考える限り、沖縄には、ポップアートが発生する必然があった。そこに基地があったからである。コザ騒動の発端となった自動車事故や少女暴行事件で、米兵の犯罪を日本の法律で裁くことができなかったことからも明らかなように、基地とは、日本の内部にある外部、外国である。あるいは、真喜志が多摩美術大学に進学するため、東京に出る際にパスポートが必要であったように、彼自身が、本土に対しては「外国人」であることを余儀なくされたのである。この状況を、写真家の東松照明は、かつて「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」と形容したのではなかったか。沖縄には、このようなねじれ、矛盾がある。生前の真喜志は、繰り返し「沖縄は矛盾に満ちている」と語っていたという(真喜志好一「Art as Propagandaを描いた兄トム・マックス」『EKE』vol.47、EKEの会、42頁)。真喜志のポップアートの根底には、沖縄のこの矛盾へのまなざしがあった。このことは、真喜志勉が同時に「TOM MAX」という二重名をもっていたことを直接結びついている。ちなみに、本稿の冒頭でふれた遠藤がパラシュートを購入したミリタリー用品店には、真喜志もよく訪れていたという。
*7──柳宗悦の「結合」概念については、ジャパン・ハウス・サンパウロ(ブラジル)における毛利悠子の個展『PARADE (A DRIP, A DROP, THE END OF THE TALE)』展関連企画として2021年11月4日に行われた筆者のオンライン講演会「諸概念のギルド」で論じた。
*8──柳宗悦「美の法門」『柳宗悦コレクション3 こころ』ちくま学芸文庫、2011年、108頁。
*9──ヴェイユ『重力と恩寵』冨原眞弓訳、16頁。ちなみに、ヴェイユと柳は、鈴木大拙、マイスター・エックハルトなどを共通して参照していた。
*10──ヴェイユは下降と上昇を重ね合わせ、イエスは後と先を重ね合わせた。両者の言葉をつなぐように「上への途は下への途、前への途は後ろへの途」と書いたのは、『四つの四重奏』のT・S・エリオットである。エリオットは『四つの四重奏』のエピグラフにも、ヘラクレイトスの「上への途も下への途も同じ一つのもの」(断片60)を掲げている。エリオットがヘラクレイトスの引用で暗示しようとするのは、魂の不死性を獲得するためには、一度下に降りていくこと、すなわち死を経験しなければならないという、キリスト教のパラドクスである。上と下、前と後ろが「一つ」になることは、すなわち死と復活が逆説的に「一つ」になることだ。(T・S・エリオット『四つの四重奏』岩崎宗治訳、国文社、2009年、66頁。)ヴェイユもまた、「死を通過せねばならない」と書いていた。(『重力と恩寵』冨原眞弓訳、307頁。)
*11──遠藤薫《大掃除と“打ち上げ後のロケット内の様子(無重力状態)” 》(2017)。「クロニクル、クロニクル!」(CCOクリエイティブセンター大阪〔名村造船旧大阪工場跡〕)での展示。

遠藤 薫 
えんどう・かおり 1989年大阪府生まれ。2013年沖縄県立芸術大学工芸専攻染織科卒業。2016年志村ふくみ(紬織, 重要無形文化財保持者)主宰アルスシムラ卒業。沖縄や東北をはじめ国内外で、その地に根ざした工芸と歴史、生活と密接な関係にある政治の関係性を紐解き、主に染織技法を用いて、制作発表を続けている。主に雑巾や落下傘、船の帆などを制作し、「使う」ことで布の生と人々の生を自身の身体を用いてパフォーマティブにトレースし、工芸の本質を拡張することを制作の核とする。
最近の主な展示に「第13回 shiseido art egg」(資生堂ギャラリー/東京、2019)、「Welcome, Stranger, to this Place」(東京藝術大学大学美術館、2021)、「琉球の横顔 ― 描かれた「私」からの出発」(沖縄県立博物館・美術館、2021)、「あいち2022」(愛知県、2022)など。 「第13回 shiseido art egg」ではart egg大賞を受賞した。
https://www.kaori-endo.com

沢山遼

さわやま・りょう

沢山遼

さわやま・りょう

美術批評家。著書に『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)。共著に『現代アート10講』(田中正之編著、武蔵野美術大学出版局、2017)などがある。