公開日:2022年2月12日

食とアート:アートとしての現代料理を楽しむために【シリーズ】〇〇とアート(6)

シリーズ「〇〇とアート」は、現代社会や日常生活とアートとの双方向的な関わり合いを考えるリレー連載。
第6回は「食」をテーマに、文化人類学者として現代料理を研究し、ペルーのレストランでのフィールドワーク経験を持つ藤田周が寄稿。「現代料理」と「現代美術」のあいだにある、思考の類似とは。

セントラールの「赤い岩」 提供:セントラール

現代美術“と”食

現代美術において、食は重要な表現手段のひとつとなっている。その動向の背景にあるのは、食において自然や文化、社会が表現されているという考え、また食において自然や文化、社会が組み替えられるという考えである。

現代美術における食という言葉からおそらく誰もが連想するのは、リクリット・ティラヴァーニャ の《パッタイ》(1990)であろう。この作品は観客にタイの料理のパッタイを振る舞うものであり、ティラバーニャをより一層有名にしたニコラ・ブリオー『関係性の美学』(1998)によれば、コミュニケーションが管理された現代において人々のあいだに適切な関係をもたらそうとするものである。

日本の文脈でいえば、リサーチをもとにその土地を表現する料理を作り出す船越雅代、食にまつわるワークショップなどを通して食べるという行為について問うてきた岩間朝子、料理における身体や文化の変容を表現する永田康祐が代表的なアーティストであろう。世界的にも、クッキング・セクションズスボード・グプタシーン・ラスペットなど、食を表現手段としたアーティストには枚挙にいとまがない。

だが本論は、現代美術における食について詳しく扱うものではない。ここで私が論じたいのは、自然や文化、社会へと思考を向けるような、レストランの世界におけるひとつの潮流である。それは、後段で紹介するレストラン「セントラル」の人々の言葉を借りれば、「現代料理」と呼ばれるジャンルである。

この記事を通して、Tokyo Art Beatを読む美術愛好家の人々が現代料理の意味や可能性、そしてその楽しみ方について理解してくれれば幸いである。

ガストロノミーの現代史 

現代料理という動向の意味や可能性を理解するためには、まずその前史がどのようなものであったか概観しなければならない。ここからは少し、ガストロノミーの現代史をたどってみよう。

料理と美術の結びつきにおいて、ひとつの重要な契機としてまず取り上げるべきは、1960年代頃に現れた「ヌーヴェル・キュイジーヌ」というフランス料理のスタイルである。ヌーヴェル・キュイジーヌ以前のフランス料理、一般に「古典料理」と 呼ばれる料理において、料理人は確立している料理を再現するような、いわば職人的な役割を与えられていた。

古典料理の例 出典:Wikimedia Commons(Charles Haynes)

対して、ヌーヴェル・キィジューヌにおいては、シェフが料理を創造する芸術家としてとらえられるようになる。たとえば、ヌーヴェル・キュイジーヌのひとつの理想的な料理のあり方は、早朝に市場に行って最高に新鮮な食材を手に入れ、その後レストランに戻ってその日のメニューを作るというものだ。この料理の基本は季節ごとの食材や地元の食材の尊重であり、それまで重視されていたような重厚なソースなどを廃して、コンセプチュアリズムやミニマリズムにも通じるシンプルな調理とプレゼンテーションを志向した。ヌーヴェル・キュイジーヌは世界各地に広まり、各地でその当地の食材や調理法を生かしたフランス料理が作られることになった。

ヌーヴェル・キィジューヌの例 出典:Wikimedia Commons(Jacques Lameloise)

こうした料理の美術化の動きにおいて、ヌーヴェル・キュイジーヌ以降もっとも決定的な影響を及ぼしたのは、スペインのレストランエル・ブリである。エル・ブリのシェフ、フェラン・アドリアは「創造性とは模倣しないこと」という言葉を指針に、斬新な料理を1990年代頃から提供し始める。

エル・ブジの脱構築された「生ハムメロン」 Maribel Ruiz de Erenchun / Courtesy of Phaidon Press 出典:https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=96044667&ft=1&f=1053?storyId=96044667&ft=1&f=1053

エル・ブリが提供する料理でもっとも有名なもののひとつは、「脱構築」された「生ハムメロン」である。これはメロンの果汁を、人工イクラなどに用いられるアルギン酸と炭酸カルシウムによって球状に凝固させたものを、ハムのコンソメに浮かべた飲み物で、それを初めて食べる人はキャビアのようなものが浮かんだ美しいカクテルのような見た目と、その味のギャップに驚かされることになる。この料理に現れているように、科学の実験室で使われているような技術や自由な発想によって、エル・ブリはおいしさ以上に体験を提供することを目的とするような料理を作り出した。

「モダニスト料理」とも「分子料理」とも呼ばれるこのような料理として、エル・ブリのほかに有名なレストランとして挙げられるのは、たとえば、魚介のマリネに、タピオカとシラスからなる食べられる「白い砂」、貝の出汁から作られた「泡」を添えたものを、iPodで波の音とカモメの鳴き声を聞きながら食べるという料理を提供したヘストン・ブルメンタール である。これらのレストランは、同時期になされた調理科学的な立場からの創造的な料理の探求とともに、新しい調理技術と、従来の料理の枠に囚われない発想の可能性を料理の世界にもたらした。

こうしたモダニスト料理の発展を背景としつつ生まれたのが、テロワール・レストラン、あるいは、「現代料理」だ。現代料理を代表するレストラン「ノーマ」の姿勢を象徴するような料理が、「ハーブのブーケ、アリを散りばめたクリームフレッシュ」である。これは文字通り、アリを乗せたクリームとともにハーブを食べる料理である。

ノーマの「ハーブのブーケ、アリを散りばめたクリームフレッシュ」 出典:https://www.fastcompany.com/3023231/4-tips-on-staying-creative-from-noma-star-chef-rene-redzepi#5

なぜアリを使うのか。それは、ノーマが北欧の自然と文化──フランスのワイン生産について用いられてきた用語で言えば「テロワール」──に徹底的にこだわり、それを料理において表現しようとするためである。ノーマは食材の生産者、採集者の協力を仰いだり、伝統的な食文化を調査することによって、一般には食材でなくても食材となりうるものを料理に取り入れようとする。同時に、たとえばオリーブオイルのような北欧の外から持ってこられた食材を使うことを自らに禁じる。それによって北欧という土地に根ざした新しい風味の体験をたらそうとしているのである。(なお、前述の料理で使われたアリはレモングラスや柑橘、生姜、ラベンダーのような香りがあって、とてもおいしいものらしい)。

現在、ガストロノミーの世界で高い評価を受けているのは、多少なりともこうした現代料理に共鳴するような志向を持つレストランである。たとえば、私が長期の文化人類学的フィールドワークを実施したペルーのレストラン「セントラル」では、海から砂漠、アンデス、アマゾンまでを含むペルーの多様な生態系に応じて、コース料理において同時に提供される数皿の料理がそれぞれある特定の生態系で育つ食材のみから作られている。「赤い岩」と名付けられた料理にはメニューの横に「-10m」と標高が添えられ、それは海岸の岩礁に育つ亀の手、ホヤの仲間で赤い身が特徴的なピウレ、海藻などを用いて海岸の生態系を表現している。

セントラールの「赤い岩」 提供:セントラール

標高によって料理をわけるというこうしたセントラルの発想自体が、水平方向ではなく垂直方向に世界が異なると考えるアンデスの人々の世界の理解に由来するとされる。またセントラルは、カカオの生産者と協働し、カカオからチョコレートを生産する過程で従来捨てられていた部分を料理に用いることで、料理の可能性を広めると同時に生産者に経済的な利益をもたらそうとするなど、ペルーの社会にも料理を通して関わろうとしている。セントラルは現代料理の可能性を文化・社会的な方向において深化させたレストランであると言えるだろう。

現代料理の動向を踏まえたレストランは日本にもある。代表なものが南青山にあるレストラン「フロリレージュ」である。そのスペシャリテのひとつ、「サスティナビリティ牛」は味が劣るとされる、子供を生んだ後の牛「経産牛」を用いたカルパッチョだ。これは価値が低いとされていた食材の価値を見直し、またそうした価値付けをもたらす食品の生産システムについて考えるきっかけとして提供されている料理である。

フロリレージュの「サスティナビリティ牛」 © Pieter D'Hoop

料理を芸術のように読むこと

ここまで、現代料理の成立とその動向について現代料理自体の視点から紹介してきた。もしかすると、読者の方々には、自分たちと縁遠く、とっつきにくいものだと思われたかもしれない。しかし、現代料理を味わうことは本質的には芸術を理解しようとする過程と同じではないかと思われる。

例として、西麻布のレストラン「レフェルヴェソンス」で提供されていた、刺身にした鰆の上に、刻んだ蛤とスティックセニョール、柑橘、生姜が載せられ、オリーブオイルで作った泡がかぶせてある料理について考察する場合を想定してみる。この料理を理解する手がかりとなるのは、魚について言えば、なぜ鯛や鰹はなく鰆なのか、なぜ焼いたり蒸したりするのではなく刺し身なのか、なぜ刺し身はその大きさなのかといった問いを立てることだろう。あるいは、なぜその近縁種であるブロッコリーではなくスティックセニョールなのか、なぜそれをその大きさに刻んでいるのか、といったことについても検討することに意味があるのではないか。なぜなら、このようなありえた可能性との差異によってこそ、味という感覚的なもの、あるいは、日本の季節感といった文化的な意味のような、現代料理において焦点となっているものが表現されていると考えられるからだ。

レフェルヴェソンスの料理 撮影:筆者

こうした思考は、おそらく、芸術を前にした私たちの思考と類似している。私たちは芸術を深く理解しようとするとき、絵画ならば、あるかたちがほかでもなくそのかたちを取ったり、別のかたちとほかでもないある関係を持っていたりすることの効果について、意識的ではないにせよ、感じ取っているだろう。もしこうした類比が正しいとするならば、美術を楽しむことができれば、たんに好ましいかどうかを判断するのとは別のかたちで、現代料理も理解することができると考えられる。

現代料理は美術と同じように面白い。そしてこの記事を読み終えたいま、あなたは現代料理を楽しむための必要最低限の知識を身に着けたといってよい。ぜひ美術館を訪れるようなつもりで、現代料理レストランを訪れてみてほしい。

【もっと知りたい人へ: おすすめの本・映像】
・石川伸一 、石川繭子、桑原明『分子調理の日本食』、オライリージャパン、2021年[レシピ集]
・レネ・レゼピ『進化するレストランNOMA:日記、レシピ、スナップ写真』 清宮真理ほか訳、ファイドン、2015年[シェフの日記、レシピ、料理写真]
・川手寛康 『フランス料理を描く フロリレージュ [料理・盛りつけ]』、柴田書店、2013年[レシピ集]
・フェラン・アドリア、オリオール・カストロ、エドゥアルド・チャトルック、ジュリ・ソレール『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』、角川書店、2012年[映画]

藤田周

ふじた・しゅう 文化人類学者。1991年静岡県生まれ。東京外国語大学特任研究員・東京大学総合文化研究科博士課程。2000年代から各国の高級レストランの一部で見られるようになった「現代料理」を研究する。日本のレストラン、およびペルーのレストラン「セントラル」へのフィールドワークによって、現代料理レストランで人々がどのように料理に取り組んでいるのか調査。その結果と食の文化人類学、芸術人類学、科学技術人類学などの研究を交錯させることで、料理とはどのような行為か、創造とは何かといった問いについて考える。また、映像作品を通した人類学的な思考法の深化にも取り組む。