公開日:2022年1月13日

ジェンダー不平等に権力批判。50年以上戦い続ける破格の作家、田部光子とは? 個展「希望を捨てるわけにはいかない」レポート

〈九州派〉の主要メンバーや、最初期のフェミニズム・アートの作家として知られる田部光子。1950年代から現在まで、その歩みの全容を明らかにする個展が福岡市美術館で開催中。

「第3回九州・現代美術の動向展」パレードでの田部光子、福岡市内、1969年2月25日

田部光子展「希望を捨てるわけにはいかない」福岡市美術館で1月5日〜3月21日に開催されている。

田部光子は1933年に日本統治下の台湾で生まれ、46年に福岡に引き揚げて以降は同地を拠点に活動。前衛美術集団〈九州派〉の主要メンバーとして、また《人工胎盤》(1961)をはじめ非常に早い時期からフェミニズム的な問題意識を作品で表現してきたアーティストとして知られる。

本展は田部の初期から現在までの活動を、作品と資料によって明らかにするもの。企画担当は福岡市美術館学芸員の正路佐知子。

長期的なキャリアを築いた女性アーティストに光を当てた展示としては、「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」(森美術館)、「Viva Video! 久保田成子展」(新潟県立近代美術館、国立国際美術館、東京都現代美術館)といった展覧会が去年から大きな注目を集めているが、本展もまた戦後に活躍した女性アーティストの活動を綿密なリサーチをもとに明らかにした歴史的に重要な展覧会として、今後も語り継がれ、参照されるものになるだろう。

会場風景より

注目すべきは、〈九州派〉という伝説化された時期の作品のみならず、これまでほとんど紹介されてこなかった1970〜80年代の活動や作品もあわせて紹介されたこと。それによって、探究心に富んだ制作手法の変化とともに、半世紀以上にわたって一貫した姿勢と強靭な批評精神を持ち続けてきた作家像が明らかになった。そして、表現することを全力で楽しみながら、社会の不平等や障壁に立ち向かい、変革しようとしてきた田部の挑戦は、2022年のいま、驚くべき鮮やかさとリアリティを伴ってこちらを揺さぶってくる。

戦後前衛の時代:権利を求める人々への共感

戦後という時代にあって、田部は正規の美術教育を受けていない。1951年頃からほぼ独学で絵画を始め、販売員として勤めた岩田屋百貨店の絵画部でデッサンを学びながら、「福岡県美術展」で入選を重ねた。

田部光子 魚族の怒り 1959 福岡市美術館蔵

1957年、〈九州派〉に創立メンバーとして参加。本展序盤に展示される《繁殖する(1)》《繁殖する(2)》(1958/88)、《魚族の怒り》(1959)はこの頃の作品だ。黒い部分は、当時〈九州派〉のなかで度々作品に用いられていたアスファルト・ピッチ。道路整備に使われていた材料で、油絵具より安価であり、切断した竹箒などの物を支持体にくっつけることもできた。この時期は「自由美術展」入選や「第3回西部女性美術展」で朝日銀賞一席、「第3回西日本洋画新人秀作展」で金賞を受賞するほか、批評家の針生一郎らにも高く評価されている。

卵や月経を想起させる《繁殖する》シリーズには、この後も度々扱われる生殖する身体のイメージがすでに見られる。また学芸員の正路によれば、《魚族の怒り》をはじめとする「魚族」シリーズには、水俣の汚染や第五福竜丸の被曝といった当時の社会問題との関連性が指摘できるという。

田部光子 プラカード 1961 東京都現代美術館蔵

続く5点組の《プラカード》(1961)は特注の襖を支持体にした作品で、描かれた星条旗やアフリカ大陸、大量のキスマークや印刷物のコラージュなどが目を引く。田部は後年インタビューで好きな作家のひとりにジャスパー・ジョーンズを挙げているが、本作ではポップ・アートの要素がいち早く取り入れられている。なぜプラカードなのかというと、そこには闘争の時代に若者として生きた田部の実感が大きく刻まれている。

田部は働いていた岩田屋百貨店で、1957年に労働争議によるロックアウトを経験。また同時期には福岡の炭鉱で労働者が権利を希求した三池闘争の敗北、そして安保闘争の敗北があり、国外では公民権運動やコンゴ共和国の独立と動乱などがあった。そして旧態依然とした古くさいプラカードではなく、「大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作ってみようか」(「プラカードの為に」『九州派5』、1961)との思いが本作を生んだ。そこにあるのは、権利を求めて戦う人々への共感だ。

戦後の前衛美術の動向のなかでも、〈九州派〉は“生活者”の視点から前衛を標榜した点で際立ったグループだった。田部の作品も、家庭や家事に関わる身近なものを使うという手法と、労働者や被支配者の立場から声を上げるというテーマ、それぞれの面が “生活”という前提に根ざしたものだと言えるだろう。

生殖・育児・家事をめぐるジェンダーと身体

しかし田部がほかの〈九州派〉メンバーと異なったのは、やはり生活の様々な局面で意識せざるを得ない女性としての経験に表現を通して向き合い、ジェンダーの問題に鋭く切り込んだことだろう。

《プラカード》とともに1961年の「九州派展」に出品された《人工胎盤》は、田部が悪阻(つわり)で苦しんだ妊娠初期に発想したもの。3体のマネキンの腰部が逆さまにされ、全体に釘が打ち込まれており、内部には男性器を表す真空管が貫通している。出品作は2004年に熊本市現代美術館から依頼を受けて再制作されたものだが、展示されているオリジナルの記録写真を見ると、より生々しくグロテスクな様相だったことがわかる。「そんなグロテスクなものを作っていたら、変な子が生まれるよ」とほかのメンバーから脅されたというエピソードは、「産む身体」が発する苦痛の叫びと、それを理解しようとしない人々の反応の差をこれ以上ないほど感じさせるものだろう。

田部光子 人工胎盤 1961(2004再制作) 熊本市現代美術館蔵

メンバーが妊娠していてもお構いなしに九州派の活動は行われ、会計係だった田部は妊娠5ヶ月の腹帯の上にお金を巻いて東京まで行ったともインタビューで語っている。「人工胎盤ができたら、始めて女性は、本質的に解放されるんだけれど」(「新しいプラカードのために」『九州派5』、1961)という田部の言葉の切実さが胸に沁みる。

本作は再制作や、栃木県立美術館学芸員だった小勝禮子をはじめとする研究者たちによる紹介を経て、非常に早い時期に発表されたフェミニズム・アートとして近年注目を集めている。日本でウーマン・リブ運動が本格的に広まったのは1960年代後半だということを考えると、それより早い本作の先見性には目を見張るものがある。フェミニズム・アートの記念碑的な作品とされるジュディ・シカゴ《ディナー・パーティー》(1979)よりも10年ほど前に作られている。

ただ、2004年の再制作時には「怖いものではなく、どこか可愛らしい、懐かしいものを表現しよう」との思いがあり、実際にオリジナルに比べると丸みや温かみが感じられることにも注目したい。そこには2人の子供を産み育てるなかで子供のかわいさを知り、妊娠・出産する身体や“母性”を肯定的にとらえ直す経験があったのかもしれないし、「女性作家」への周囲からの期待や、フェミニズムやウーマン・リブへの複雑な心境などもあったのかもしれない。この変化自体もまたジェンダー・イシューとして興味深く、生活者であり芸術家である田部の複層的な感情やリアリティを想像させる。

田部光子 たった一つの実在を求めて 1963 福岡市美術館蔵

ここではジェンダーの視点から再生産労働について扱われた、興味深い展示をもう少し紹介したい。まず1968年に〈九州派〉が「セックス博物館」というテーマを掲げた展示で、田部が出品した複数の作品。担当学芸員の正路は、「〈九州派〉メンバーらが大らかな性(器)表現を試みたのとは対照的に、田部は同展内でひとり、性(差)を巡る意識のギャップに向き合っていた」(本展図録P8〜9)と解説する。桜井孝身をはじめ男性メンバーがこぞって巨大なペニスを作り展示したなか、田部の《セックス博物館》(1968)は大きな鏡2枚を支持体に、いっぽうには抱き合う着衣の男と裸の女、もういっぽうには赤い液体を乳房から絞る無頭の人物が描かれている。さらに小さくて可愛らしい男性器型のこけしを展示したり、会場内のミシンでペニスを思わせる長い紐を縫い続けるパフォーマンスを行ったという。

会場風景より、田部光子《セックス博物館》(1968)
会場風景より、「グループ連合による芸術の可能性」(1968、福岡県文化会館)で、「セックス博物館」というテーマを掲げて展示を行った〈九州派〉メンバーの写真。右から2番目、ミシン前に座っているのが田部

また、本展のキー・ヴィジュアルにも使われた1枚の写真(記事上部に掲載)。「第3回九州・現代美術の動向展」(1969)のパレードに参加した田部の姿を写したものだが、出品作家たちが揃いの法被を着て福岡市内を練り歩くなか、田部は子供サイズのマネキンを背負い、育児労働の大変さをアピールしている。しかし黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』によれば、当時このパフォーマンスが注目された様子はないという。

エロティシズムと表現規制への挑戦

女性が担うものとされていた再生産労働をテーマにするのと同時に、田部はエロティシズムへの関心を隠さず、猥雑と芸術の政治性についても様々な方法で肉薄しようとしていた。

〈九州派〉が実質的な活動を終えた後、桜井孝身らを中心に大阪万博反対運動などが行われ、「万博破壊九州大会」などのイベントを開催。そこで〈集団蜘蛛〉らのメンバーが全裸になって踊るなどの過激なパフォーマンスを繰り広げたが、田部は自ら「記録映画家」を名乗り出て8ミリビデオカメラでその様子を撮影している。本展ではこの映像をはじめ、ベトナム戦争を主題に、全裸の男性が大股開きで横たわる姿を描いた絵画《迷彩をほどこされた風景》(1970)、〈集団蜘蛛〉の森山安英が公然わいせつ罪で逮捕されたことに抗議する作品、また1971年に展覧会の来場者に向けて「わいせつて何んでしょう」(原文ママ)と問いかけたメッセージの記録写真なども展示されている。

これらを見て私は、近年SNSを中心に「フェミニズムは性表現の規制を望んでいる、表現の自由を妨げるものだ」と考える立場からフェミニストとみなされる人々に対し執拗な攻撃が繰り返されていることを思い出した。こういったフェミニズム観が偏ったものであり、フェミニズム運動のなかで法規制を求める声は大きくないこと、またフェミニズムが様々な方法で性や身体を巡る表現の可能性を押し広げてきたことは多くの識者によって語られているが、田部もまた数十年前に、表現の自由を求め権力からの規制に挑んでいたひとりだ。

“現代美術”から取りこぼされた1970〜80年代

本展はこれまで現代美術の文脈でほとんど紹介されてこなかった、田部の1970〜80年代の活動にも焦点を当てる。

重要な動きのひとつは、田部が友人の画家仲間とともに1974年に立ち上げた、女性画家のグループ〈九州女性画家展〉だ。その発足理由は、ひとつに既存の美術団体が家父長的で「男尊女卑が根強く残っている」ことを問題視し、女性たちに自身による批評や創造が活発に行われる場を育みたいということ。そして「女性の条件克服」、つまり結婚育児などから制作に復帰するチャンスが乏しく、日常の家事に追われる女性たちが相互で理解・激励し合い、制作に挑めるようにしたいという理由がもうひとつ。のちに若手育成のために公募企画を行い、「審査課程を公開するなど運営面でも公平なあり方を模索した」(本展図録P11)という。

会場風景より、〈九州女性画家展〉に関する資料

さらに田部は1978年、〈九州女性画家展〉の事務所兼ギャラリーとしてアート・ステージというスペースを構えた。79年に福岡市美術館が開館し「アジア現代美術展」を開催する運びとなった際、田部はその出品作家に女性が「あまりに少なすぎる」ことに着目。163人中、女性は5人であったという。そんな“マッチョ”な「アジア現代美術展」に笑いと楽しみを持って対抗しようと、同会期中に「エンジョイ展」をアート・ステージで開催。〈九州女性画家展〉のメンバーに男性作家も加わり、油彩の小品から彩色人形、刺繍画、布テープで作ったゴキブリ、ペンダントなどを展示販売したという。

それにしても展示を見進めるほど、田部の驚異的な探究心と行動力に圧倒される。主婦・母として家庭を切り盛りしつつ、自分の作品を制作し、自宅で絵画教室を営み、〈九州女性画家展〉などを通して周囲の女性たちを鼓舞・協働しながら、様々な活動を企画。さらに若い時にサルトルに傾倒するなど文学を愛好してきた田部は新聞・雑誌に度々寄稿し、のちに著書も出版している。地元のテレビにもご意見番として出演。この燃えるようなエネルギーと情熱は、1970年代以降の作品が並ぶ展覧会後半でもまったく衰えを見せない。

展示風景より、左が《父母の金婚式》(1982)、右が《へんじょうこんごう》(1985)

たとえば1970年代の代表作「人形」シリーズや「穂の女」シリーズなど、絵画技法の実験を試みた作品。また母の看護と死を経験し、母を年老いた女性の裸体像として描いた《父母の金婚式》(1982)では、美の規範に縛られた従来の女性表象とはまったく異なる老いた身体が表現されており、とても興味深い。

そして55歳になった1988年には「主婦定年退職宣言」をし、美術活動に専念。ますます旺盛に活動を展開する。1994年のニューヨークでの展示を機に、以降10年ほどは毎年のようにアメリカで個展を開催し、長期滞在制作も行っている。

田部光子 Hana 1990 作家蔵

女性の身体表現への探求はさらに進められ、たとえばジョージア・オキーフの花の絵に後押しされたという《Hana》(1990)でひとつの到達を見ることができる。本展では左に展示された《へんじょうこんごう》(1985)と比較することで、その手法や形態の連続性が感じられるとともに、《Hana》ではより抽象的・開放的な表現が開花していることがわかる。

田部光子 Sign Language 1996/2010 福岡市美術館蔵

〈九州派〉時代にモチーフとしてよく登場した「林檎」が、この時期再び画面に現れるのも面白い。幼少期に台湾で食べた思い出深い故国の果物、イブが手にした知恵の実、「1日1個で医者いらず」と言われる健康の源、”ビッグアップル”=ニューヨーク……多重的なメタファーとして、田部は林檎を描いてきた。

また言葉が通じないアメリカで鑑賞者が自作に共感するという経験は、視覚言語である手話を作品に取り込んだ「Sign Language」シリーズを生み出した。国籍や人種、障害といった様々壁を乗り越え、あらゆる人々とのコミュニケーションの可能性を示唆するものだ。

会場風景より、2001年以降の作品の展示。左が最近作《進化はとても創造的です》(2017)

さらにコラージュ作品に立体作品、2015年に新たに設立した場である「3丁目芸術学校」に関する資料、最近作の2017年の絵画まで並び、現役作家の60年にわたる軌跡を追う展覧会は幕を閉じる。

最近の日本でもジェンダー格差を可視化する調査が行われたり、育児中のアーティストが制作を続けられる方法を切実に模索していることが頭をよぎり、田部の作品や活動に思わず「早すぎる」と言いたくなる。それとも、法や制度がなかなか進展せず、いまなお差別や格差が蔓延する社会の側が遅すぎるのか……。そう思うと暗くなりそうだが、「希望を捨てるわけにはいかない」。田部の座右の銘を掲げた本展と、この破格のアーティストの存在は、見る者を力強く鼓舞する。

なお、同館の近現代美術室Cでは「コレクションハイライト② コレクションと展示のジェンダーバランスを問い直す」というコレクション展が3月31日まで開催中。女性作家の作品を中心に、女性のエンパワーメントをテーマとするインカ・ショニバレCBEの《桜を放つ女性》などが展示されているので、ぜひ合わせて鑑賞してほしい。

*参考文献
・『田部光子展「希望を捨てるわけにはいかない」』図録、編集・執筆:正路佐知子、福岡市美術館、2022年
・黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』、グラムブックス、2012年
・田部光子『二千年の林檎 わたしの脱芸術術論』西日本新聞社、2001年
・田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月28日 http://www.oralarthistory.org/archives/tabe_mitsuko/interview_01.php
・田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月29日 http://www.oralarthistory.org/archives/tabe_mitsuko/interview_02.php

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集。音楽誌や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より現職。