公開日:2023年9月30日

高田冬彦「Cut Pieces」レビュー。あるいは、高田冬彦へのファンレター(評:半田颯哉)

WAITINGROOM(東京)にて9月9日から10月8日まで開催されている高田冬彦の個展「Cut Pieces」をレビュー

高田冬彦 Cut Suits 2023 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

高田冬彦作品のユーモアとインディーさ

私は、アーティスト・高田冬彦のファンだ。

高田の作品はつねにユーモラスで、ギャグとパロディを駆使しながら、男性中心的で異性愛主義的な社会に皮肉と揺らぎを与えてくる。

初めて高田と話をしたときのことをいまでも覚えている。4年ほど前にグループ展のオープニングにお邪魔し、作品が好きだと話しかけた。とくに気に入っていた個別の作品について「この作品が好き」と伝えると、自然体で「その作品もいいですよね」と返ってきた。自身の作品に向けられた好意的な反応に対し、謙遜ではなく自身の作品を肯定し返すところに、「自身がいいと思える作品を世に出している」というアーティストとしての矜持を感じ、その姿勢を見習いたいと強く思った。

元々、自宅で撮影を行っていた高田の作品には、四畳半的美学とも言うべき、手作りでインディーな雰囲気が漂っていた。ブリトニー・スピアーズ《Circus》(2008)のミュージックビデオをパロディした《LEAVE BRITNEY ALONE!》(2009)(*1)は、部屋から小道具に至るまで生活感全開で、元ネタのミュージックビデオとのギャップが強調されることで作品の強度が増していた。ディズニーの『リトル・マーメイド』を下敷きに、包丁で尾びれを真っ二つに切るスプラッタを見せた《Cambrian Explosion》(2016)(*2)は、海中の世界や血飛沫を表現するための創意と技巧が見事である。

しかし、こうしたインディーさは諸刃の剣でもある。特定の層に強く刺さる中毒性を持ついっぽうで、メジャーなポジションは獲得しづらい。尖った表現とメジャーさは大抵の場合、トレードオフなのである。

前回、2年前にWAITINGROOMで開催された高田の個展「LOVE PHANTOM 2」では、大きな方向転換が見て取れた。そのときのメインピースとなる《The Princess and the Magic Birds》(2020〜2021)(*3)は、画面から生活感が排され、それまでのインディーさとは一線を画す「メジャー志向」の完成度となっていた。しかし同時に、少年の耳元に降り立ち嘴を開閉する小鳥のギミックには手作り感が健在で、ナレーションのワードチョイスには高田らしいユーモアが溢れている。様々なタイプの男性に向けられる高田の欲望も、御伽噺に登場する「お姫様」の人格を借りて曝け出されており、メジャー的な完成度とインディー的な高田らしさが共存する絶妙なバランスの作品だった。

2年ぶりの個展「Cut Pieces」

9月9日から、WAITINGROOMで高田の2年ぶりの個展「Cut Pieces」が開催されることが発表された。前回、方向転換を見せていた高田の作風は次にどこへ向かうのか。楽しみで仕方がなかったが、残念ながら9月上旬はアートウィークに合わせてソウルに滞在しており、高田の展示のオープニングは訪れることができなかった。

面白いことに、高田の展示を見た人たちの反応は二分していた。これまでの高田作品からさらに脱却した客観的な視点から男性性の解体を試みていることへの称賛の声と、高田の主観的な視点が足りず物足りないという声だ。こうしたまったく異なる反応が出てくる状況への健全さを感じつつ、真逆の感想を引き出す展示がどのようなものだったのか、むずむずと気になる数日間を過ごし、帰国3日目に満を持してギャラリーのある江戸川橋へと向かった。

高田冬彦 The Butterfly Dream 2022 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

遮光された扉を開いてすぐ、高田作品が目に飛び込んできた。《The Butterfly Dream》(2022)では、シャツを着た男性がハサミでその衣服を切り取られていく様子が、アーティストの視線を反映したような一人称視点でとらえられている。ハサミの先端には蝶が付いており、ハサミを開閉するのに連動して羽ばたく。布を啄んでいく蝶のメルヘンさと、衣服を剥ぎ取られて徐々に露わになっていく男性の肌にねっとりと向けられるまなざしが、高田らしさを見せている。

高田冬彦 The Butterfly Dream 2022 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

まなざしという共通項が、参照元となっているオノ・ヨーコの《Cut Piece》(1964)ともよく共鳴しつつも、本作はたんなるオマージュに留まらない。まなざしを向けられる立場からまなざしの存在を暴き出したオノに対し、高田はまなざしを向ける立場としてまなざしの存在をオープンにすることに成功している。

左:高田冬彦 Dangling Training 2021 右:高田冬彦 The Butterfly Dream 2022 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

蝶によって肌を露わにされていく男性の映像から左下に目を落とすと、3台のブラウン管モニターと床に転がったテニスボールによってインスタレーション的に展示されているビデオ作品《Dangling Training》(2021)が配置されている。モニターの中の映像は、テニスをする男性の腰回りがクローズアップされており、ハーフパンツの内側から発された光によって、パンツの中心あたりに棒状の影が落とされている。モニターの周囲に散らばるテニスボールが緩いハーフパンツから溢れるボール(睾丸)を想起させつつ、チープに股間が強調されるこの作品もまた、やはり欲望の視線と子供の考えたような「お下劣さ」が重なり合う、まさに高田節全開の作品だと言えるだろう。

高田冬彦 Dangling Training 2021 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

スーツ姿の男性をめぐるエロティシズムと「男らしさ」

そして、ギャラリーに入ってすぐの展示壁で仕切られた奥のスペースに向かうと、切り取られたスーツの山と大きなスクリーンが鎮座した、今回のメインピースである《Cut Suits》(2023)が姿を現す。ピンク色の背景と優美なクラシック曲をBGMに、スーツ姿の男性たちがにこやかにお互いの服を切り刻み合っている。

高田冬彦 Cut Suits 2023 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

展示ステートメントを見ると、「スーツ姿の男性をエロティックにまなざすと同時に、日本的な『男らしさ』という社会的規範からの解放を示唆しているかのようです」とある。確かに、記号的にはその読解は可能である。日本社会におけるスーツは、同質性の高い男性サラリーマンの象徴であり、社会人男性の持つホモソーシャル性のシンボルと見ることができるからだ。

しかし、作品それ自体と対峙したときにそうした脱構築性を見出すのは少し難しかった。作家自身の作品スケッチにも「あくまで楽しいこと」「ポジティブなイメージ」とあるように、初めからあまりにもにこやかにハサミが入れられていくがゆえに、スーツは男性性に人を縛り付ける枷には見えず、この作品において批判的な目を向けられる対象とは感じられないのである。むしろ、時折挿入される露出した肌へのクローズアップは、高田から「スーツ男子」に向けられるフェティシズムを反映しており、スーツの持つ男性的な魅力を肯定していると見ることすらできるだろう。

だが、この批評はここで閉じるのでなく、寧ろこのスーツに対して向けられるポジティブな目線を鍵にして作品をとらえ返すことで、本作を別の解釈へと開いていくことを試みたい。

すると、画面に映る6人「スーツ男子」はフェティシズムを向けられる欲望の対象たちの姿となり、にこやかに互いの服を切り刻み合っている6人と外からまなざしを向けている高田という構図が見えてくる。加えて、オノの《Cut Piece》の解釈に倣い、このハサミを向ける行為を欲望を向ける行為として読み替えると、この画面は 6人が互いに欲望を向け合っている図ということになる。6人が視線を交わし、身体を絡めながら、ハサミに載せられた欲望をお互いに向け合っている。衣服を剥ぎ取り互いを裸にしようとする行為も直喩的に機能し、このシーンは乱交のメタファーであると読み解くことができるのではないだろうか。すると途端にピンクのライトはセクシュアルで妖しいニュアンスを帯び、スタジオで撮影された(ある種のチープさが売りの)ポルノのようにも見えてくる。

すなわち《Cut Suits》は、スーツの男性6人が交わる場面を「監督・高田」がとらえた映像作品であり、それがアートギャラリーで公に展示されているという事実は、なかなかのラディカルさを孕んでいると言えるはずだ。

ただし、このように解釈したうえで、やはり本作は物足りなさが拭えない。露わになった肌のクローズアップに高田の欲望を見て取ることはできるが、そうしたカットが現れるのは限定的で、全体としては引きの画面による客観的な画角のほうが支配的となっている。過去の高田作品にあった生活感や手作り感のもたらす魅力的なノイズもなく、スタジオ撮影のニュートラルで奥行きを感じさせない背景は本作をスッキリしすぎたものにしてしまっている。

スーツを枷として見せるような演出を導入とすることで脱構築性を強調するような、徹底した客観的な視点で記号的に描き切るか。あるいは、高田の主観的なまなざしをふんだんに盛り込んだものとするか。さもなくては、どうしても中途半端なものに見えてしまう。

会場風景 © Fuyuhiko Takata Courtesy of the artist and WAITINGROOM Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

テニスボールや切り刻まれたスーツといった、映像にまつわる要素を組み合わせたインスタレーション。現代美術史上のマスターピースへの参照。本展におけるこうした要素からは高田の新しい展開も見えた。だからこそ、次回作への期待も込めて高田ファンとして言いたい。私は、高田冬彦のまなざしが全力で開陳された作品が見たい。この社会は異性愛主義に満ち溢れており、クィア的・同性愛的な欲望を曝け出すことは抑圧されている。高田の作品はそうした抑圧をものともせず、メタファーを巧みに駆使しつつ、コミカルに、そしてあけっぴろげにその欲望を開示してくるから痛快で、魅力的なのだ。

*1──https://fuyuhikotakata.com/works/LEAVE%20BRITNEY%20ALONE!
*2──https://fuyuhikotakata.com/works/Cambrian%20Explosion
*3──https://fuyuhikotakata.com/works/The%20Princess%20and%20the%20Magic%20Birds


半田颯哉

半田颯哉

アーティスト・インディペンデントキュレーター。1994年、静岡県生まれ、広島県出身。科学技術と社会的倫理の間に生じる摩擦や、アジア人/日本人としてのアイデンティティ、ジェンダーの問題を巡るプロジェクトなどを展開している。また、1980年代日本のビデオアートを研究対象とする研究者としての顔も持つ。東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程および東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。