公開日:2021年11月27日

「自分の実存をひっくり返すような、根源的で恐怖と紙一重の“笑い”があると思う」。アーティスト 高田冬彦インタビュー

Tokyo Art Beatのリニューアル企画「Why Art?」は、映像インタビューを通して百人百様のアートにへの考えを明らかにする映像インタビュー。同企画の一環として、注目のアーティストにインタビューを行った。第3回は、神話、おとぎ話、性、ジェンダー、ナルシシズム、トラウマなど、多様なテーマやイメージを扱ったポップでユーモアあふれる映像作品を手がけるアーティストの高田冬彦。

高田冬彦 Cambrian Explosion 映像からのスチール画像 2016

高田冬彦が生み出す映像作品の面白さを伝えるに、当然なのだが、まずは作品を見てもらうのがいちばん良いと思う。その際は、ひとりで自室に籠って電気を少し暗くして、パソコンの画面でこっそりとどうぞ、とおすすめしたい。なぜなら、そこで目にするのは、きっと、あなたがいつの間にか他人から気づかれぬよう、自分の内に押し込めるほかなかったフェティシズムや(性)衝動、孤独、虚しさ、羞恥心、怒り……そういった類の感覚が呼び覚まされてしまうだろうから。

高田の多くの作品では、自撮りで撮影した自身の姿が主役になっていて、時にコントのようで、時に暴力的で、喜劇と悲劇の境をひょいと飛び越えたかと思えばまた戻って、一見、脈絡のない動作の反復によって自己陶酔の世界へと誘われるものもある。気づけば、高田冬彦という作家の計算された罠にいつしかハマってしまうことになるだろう。

たとえば、《WE ARE THE WOMAN》(2013)では、高田が天使役となる。“天使”の周囲に転がる、西太后やフリーダ・カーロ、マドンナなどの歴史的人物やポップアイコンとなる女性の張りぼての頭部を、足で引き寄せトーテムポールのように積んでいき、グラつく積み木のような柱を、天使がアゴと手足を使って支えていく。高くなるにつれ、支えるのは困難となり、最終的にトーテムポールはガラガラと崩れ落ち、失敗に終わる(果たして成功がどんなかたちであったのかはわからないのだが)。思わず笑ってしまっている高田の姿は、以前よく流れていたテレビ番組のNG集を思わせるし、時折、映像を合成するために用いるグリーンバックがちらりと映り込むのも、あえて、である。

また、《LOVE EXERCISE》(2013)では、全身のあちらこちらに小さな人形の顔が貼り付けられた、裸姿の男女が登場する。高田がキューピッド役となり(本作品では高田の姿は映っていない)、サディスティックな物言いで、人形と人形にキスをさせる指示を出すのだが、それが実現できそうにない体勢を取らせることになり、男女は苦しむ。その姿を見て、また、自身が指図すること自体に興奮していくキューピッドは、この世を創ったとされる神の使いか、人間社会のひずみを食って生きる化け物か、または化け物=人間そのものでもあるのかもしれない。
 
高田はどのような事柄から着想を得て制作をしてきたのか。どのように生きてきたのか。作品を見ると、作家自身について知りたくなる。そんな不思議な魅力を持つ作家だと思う。というわけで、質問をぶつけさせてもらう機会を得たのが幸いと、様々なことにお答えいただいた(でも、いま一度、作品を見てもらうことが一番だと強調しておきたい)。

高田冬彦 LOVE EXERCISE 映像からのスチール画像 2013

ディズニー映画が好きな時代

——高田さんはどんな子供時代を過ごしていたのでしょうか。

友達が少なくて、ひとりで遊ぶことが多かったですね。小学校時代の学校生活はとにかくトラウマで、いまでも時々悪夢を見ます。興味があるのは植物や動物で、生物学者のデイヴィッド・アッテンボローのドキュメンタリーをよく見ていました。子供の頃は生物学者になりたいと思っていました。

——生き物に興味があるということですね。

植物や生物の図鑑や事典をいつも読んでいました。とくに食虫植物が好きでいまも育てていたりするのですが、子供の頃からかなりこだわって集めていました。Windows95が出てからはネット上で趣味家の人たちと交流して珍しい苗を分けてもらったりするような、そんなマニアックな子供でしたね。

——食虫植物は《VENUS ANAL TRAP》でもモチーフになっていますね。食虫植物の魅力とは?

まずはやはり植物が動物を食べるという下克上の魅力です。それから、食虫植物は沼地なんかの栄養のないところに生えているんですが、貧しくて不利な環境だからこそ、独自の戦略で生き残っているところに魅かれますね。もちろん見た目も。僕の作品にある、珍奇趣味やグロテスク趣味とでも呼べそうな感覚には、多かれ少なかれ食虫植物が影響を与えている気もします。

高田冬彦 VENUS ANAL TRAP 映像からのスチール画像 2012

——なるほど。アートの制作に興味を持ったきっかけとしてどんなことがあったのでしょうか?

両親が比較的美術を好きで、直島に連れて行ってくれたりしました。フランク・ステラのレリーフ彫刻なんかが子供心に印象に残っていて、なんとなく現代アートというジャンルに興味は持っていたんでしょう。その後自然と思春期に入るくらいに植物熱も冷め、カルチャー少年に……という感じです。

——具体的にどんなカルチャーシーンに影響を受けたのですか?

まず幼少期に影響を受けたものについて話すと、やっぱりディズニー映画です。

——ディズニー映画ですか! とくに好きな作品はありますか?

もう絶対、『眠れる森の美女』ですね。100回くらい見てると思う。

—少し意外というか……。純粋に「素敵!」という意味で好きなんですか? 古典的な言い方かもしれませんが、“普通の男の子”からは挙がってこないタイトルではないでしょうか。

そうかもしれませんね。『ドラゴンボール』や『スラムダンク』のようないわゆる男の子向けの番組はほとんど見ずに育ちました。禁止されていたわけでもないのですが、母親から「『ドラゴンボール』みたいな乱暴な番組は好きじゃないわよね?」とやんわりと導かれていたんです。そのせいかどうか、いわゆる「男らしさ」とか「父性」と呼ばれるもののインストールに失敗してしまっている気もします。

——『眠れる森の美女』はどんなところに惹かれたのでしょうか。

まず、『眠れる森の美女』と言うよりお伽話全般に言えることだと思うのですが、人間をプラスとマイナスのイメージで極端に分裂させて描くところですかね。たとえば「女性」を2つに分割して、華やかなお姫様と、不気味な悪い魔女という2つのキャラクターを作る。中間的なキャラクターはあまり出てきませんよね。そしてそのアップダウンでお話を動かしていく。美醜の対比や、そこに潜むルッキズム的な差別の感覚にも、どこかで惹かれてしまっているんだと思います。

ディズニーの『眠れる森の美女』でとくに好きなのは、なんと言ってもマレフィセントと3人の妖精です。とてもキャラが立っていて、基本的に彼女たちの行動がすべてのストーリーを動かしており、なんと言うか自分を投影してしまうんですよ。対して肝心の王子様とお姫様は凡庸っちゃ凡庸で、まあその凡庸な感じが愛らしいのですが、どこか背後に退いてしまっている気がしますね。

映像への入口

——中高生のあたりになってくるとどんなことに興味が移っていったんですか?

中学生の頃は何か普通でない表現を見たくて近所のミニシアターに通っていました。出身が岡山なので、いわゆる現代アートや小劇場みたいなものが日々見られる環境ではありませんでした。でも映画はレンタルショップで借りられるし、手近に見られる一番尖ったものでした。デヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』を見たときのこともよく覚えています。

それから、自分の作品とつながっているものというと、ポップスですね。僕が思春期を過ごした1990年代末は浜崎あゆみさんや宇多田ヒカルさんや鬼束ちひろさんといったカリスマの女性歌手が出てきた時代です。洋楽だとビョークとか。みんなちょっと病んでいる雰囲気を纏っていて、でもその病んでいることがかっこいいというか、思春期のナルシズムを投影することができるというか。そんな時代の空気があったと思うんです。

——私もほぼ同世代なのですごくわかります。誰もわかってくれない、居場所がない、みたいなことが歌詞にも率直に書かれていますよね。

そうです。誰もわかってくれない、だからこそ自分は特別なのだ、というような自己陶酔の気分です。中二病と言ってしまえばそれまでですが、そういった気分を自分も共有していた気がするし、それはいくつかの自分の作品にも表れているのではないかと思っています。思春期のときに触れる文化って、決定的なものがありますよね。

——当時の空気というのを否定的に見ていたというより、自分もその一部だったという感じでしょうか。

どっぷりと時代の気分にはまりつつ、もういっぽうでは少し俯瞰して愚かな自分を観察してもいる、という状態なのかなと思います。美大に入ると、周りに浜崎あゆみを聞いている人はいなくて、みんなエイフェックス・ツインとかを聞いてるんですね。だからこそ自分の思春期に影響を与えた浜崎あゆみ的な文化を扱うのも面白いかもと思うようになりました。

——アートに興味を持ってからは、最初はどんなことを始めたのでしょうか? 東京造形大学では写真科を専攻しているのですね。

高校生の頃に親にビデオカメラを買ってもらって、それで勝手に色々撮ってましたね。いまとあんまり変わらないかも知れません。造形大の写真科は、森山大道みたいな作風が主流のところで僕には合わなかったかも。座学と図書館のために大学に通い、それ以外は大学に行かずに自分の制作に集中していました。

制作のアイデアはどこからやってくる?

——高田さんは制作をする際、どのように着想を得ているんですか?

面白みのない方法でなんだか悪いんですが、ほぼ毎日喫茶店に行って、1日2時間くらいアイデアノートを書きます。スケッチも言葉もあります。これは10年以上続けていて、僕の制作のベースになっています。そして以前書いたノートも何度も読み込み、繰り返しの作業のなかであえて自分を自家中毒に陥らせると言いますか……。

アイデアノートに無意識に何度も描く鳥などのモチーフをきっかけに「いま、自分は多分鳥の作品を何か作りたいんだろうな」と発見することもあります。訓練なんでしょう。

これまで書き溜めたアイデアノートの一部

——鳥というと、割とオーソドックスなモチーフでもありますよね。それがまた面白いと思うのですが。

そうですね、最近は読んでいる小説から着想を得ていることも多いです。たとえば、去年はオスカー・ワイルドの小説を読んでいて、そのなかにいろいろロマンチックなかたちで鳥が出てくるんですね。『ナイチンゲールとバラの花』とか泣けるのですが、そこから鳥が、眠る少年の耳元で耽美的でエロチックな昔話を囁き続ける《The Princess and the Magic Birds》という作品を着想しました。いろいろとアイデアソースはありますが、画集を見たり、ネットで変な画像を集めたりして、そういうイメージを日がな一日眺めています。

——とくに好きな画集はありますか?

ちょっと古い絵が好きで、モダニズム以降のペインティングにはそこまで惹かれないです。やはり物語や神話に興味があるからでしょう。ヒエロニムス・ボスは突出して好きで、ほかにもゴヤとかルドンとか、幻想絵画全般が守備範囲ですね。ウィリアム・ブレイクもすごく好きですね。

——どれも夢と現実の狭間のような作品ですよね。夢みたいなものを描くなかには「恐怖」があると思うんですが、きっとそれも高田さんの作品の大事な要素なのではないか、と。どう思われますか?

うーん……。「恐怖」と聞くと僕はホラー映画のような絵面が頭に浮かんでしまい、とりあえず自分の興味はそちらではないと思います。

むしろ自分の創作の実感に合っている言葉は「笑い」です。ただそれは日常的な笑いではありません。そうではなくもっと根源的な、自分の実存をひっくり返すような笑いがある気がするのです。そうした笑いはある意味で恐怖と紙一重であり、口から笑い声と叫び声が同時に出ているような状況なんじゃないかと思うのです。

ところで「恐怖」も「笑い」もある種の心理的なテンションと関係していますよね。緊張状態のものが破けて、中にあるものがブワッと飛び散るようなイメージ。僕はこのイメージに強く惹かれていて、作品にも頻繁に反映させています。

——高田さんのモチベーションは、高田さん自身を知りたい、人間全般を知りたいという欲求のどちらから来ているのでしょう。

それは車の両輪のようなものでどちらも大切なんですよね。ただ、気をつけていることとしては、あまりにも自分を深掘りしてしまいマニアックになりすぎて、鑑賞者にたんなる奇異なイメージとだけ見られてしまうのは避けたいと思っています。

作品を見る人が、「奇妙で愚かしいイメージではあるけれど、同時に自分自身にもこんな後ろ暗い面がある」と感じるような、ある種のカリカチュアとしても機能するものを目指してはいます。

——着想を得ていることについていくつかお話いただきましたが、高田さんの作品について語るとき、ジェンダーやナルシシズム、神話、寓話などのキーワードが出てきますよね。ご自身ではどのような言葉で説明していますか?

自作の説明、難しいですよね。たとえばジェンダーという言葉を使って説明しすぎると、ジェンダー方面からしか読んでもらえなくなるという危惧があります。芸術は多面体であるべきだと僕は思うので、ひとつの作品のなかでつねに幾つかのテーマが絡まっているものが作りたいです。かつ、忘れられないビビッドなイメージが喚起されるようなものを。

——最初映像を見ていると「なんだこれは!?」と思うのですが、だんだんと面白くなってきて笑ってしまう。でも続けて見ていると今度は怖くなってきて……。喜劇と悲劇は紙一重でもあるのに似ているというか。そのバランスがすごく絶妙ですよね。だからこそ、見ているほうも複雑な感覚になるのかもしれません。

高田冬彦 1001 seconds 映像からのスチール画像 2020

自分で自分を撮影する

——高田さんの多くの作品が“普通の部屋”で撮影されていると思いますが、一見してひとり暮らしの部屋だろうな、というのがわかりますよね。その部屋の設定の意図について教えてください。

単純にスタジオを借りる資金がないという理由もありますが(笑)、ひとりの人間が実感を持ちながら生活できる面積って、6畳くらいなんじゃないかと思っているんです。あんまり広すぎると落ち着かないじゃないですか。人間がひとりでいることを痛感しつつ、そのなかでいろいろ工夫したり想像力を駆使したりできる最適な範囲、というイメージがあります。

——作品を拝見して、1980年代終わり~90年代くらいに起きた、宮﨑勤の事件や、少年Aの事件、彼らの部屋を少し想像してしまったのですが、社会の歪みや、社会に適合できないことで生まれてきた鬱屈とした人格がその部屋にはあるのかなと。

少し社会的な背景をいうと、単身者、引きこもり、孤独死といった現代の日本のマイナスイメージからの連想は働いているかも知れません。

僕が10代後半の頃、YouTubeやニコニコ動画が出てきて、動画サイト黎明期とでも言うべき時期がありました。その頃はまだユーチューバーという言葉もなく、引きこもり風の若者が深夜の危ないテンションで「ニコ生」で配信を行っているのを見ることがありました。そうした状況を見て、たとえば70年代のヴィト・アコンチの映像の居心地の悪さを思い出したりしていたのです。アコンチの作品は人間の孤独や、そこで生まれる性愛への妄想なりをモチーフにしていますよね。僕は大きく影響を受けています。

最近の美術はアート・コレクティブが流行で外向的なテーマが多いと思うのですが、こうした鬱屈としたディスコミュニケーション状態もやはり現代社会の一面ではあると思うのです。

高田冬彦 Dream Catcher 映像からのスチール画像 2018 出演 : 遠藤麻衣

高田冬彦 Dream Catcher 映像からのスチール画像 2018

セットと小道具へのこだわり


——映像のセットや小道具もあえて少しのチープさを匂わせていると思うのですが、このこだわりは?

そうですね、僕は自分にお金が沢山あったらクオリティを高いものを作るかというと、そうではないと思うんですよね。CGも使わないと思う。これは部屋の広さの話と一緒ですが、ひとりの人間が自分の生身の身体を使って作っていることにリアリティを感じるんです。そして、微妙に失敗していたり出来損ないだったりすること、それでも工夫して頑張っていることになんだか惹かれてしまうんですよね。失敗こそ身体だよな、人間だよなという風に思う。

でも、まあそれはそれとして、小道具製作は小道具製作で欲が出てきてしまっているというか、クオリティが上がってきているとは思います。

——確かに初期の作品の小道具と、最新作の《The Princess and the Magic Birds》のものでは、かなり違う印象があります。小道具は高田さんがすべて作っているんですか?

はい、全部作っています。あの、これは自信を持って言えるんですけど、僕はめちゃくちゃ器用なんです(笑)。

——(笑)。

(小鳥の小道具を取り出しながら)これくらいのテーブルサイズのものを作っているのがすごく楽しくて。映像だと小さいサイズのものをすごく大きく見せることもできるじゃないですか。倉庫も借りなくていいし。

映像作品《The Princess and the Magic Birds》に登場する鳥は高田の手作り。ハサミのような器具でくちばしを操作できる

高田冬彦 The Princess and the Magic Birds 映像からのスチール画像 2020-21

——撮影はひとりで行うんですか?

作品によります。完全にひとりで作る場合もあるし。《The Princess and the Magic Birds》は大勢の人が関わってくれました。

——それと、作品の中の高田さんの声がすごくいいですよね。声を録音する時にはどんな工夫をしているのでしょうか。

自分の声の才能には最近気づいたばかりなんです。押し入れの中でひとりで録音したんですよ。

——そうなんですね。見る人には作品をどのような環境で見てもらいたいなど、ありますか?

僕は、作家のメンタリティとしてはマンガ家や小説家に近いのではと思うことがあります。どちらも、アシスタントはいるにせよ基本作者はひとりで、読者も当然ひとりで読みますよね? 読書会みたいな形式はあるにせよ、原理的にはひとりとひとりの閉じたコミュニケーションだと思うんです。

僕も制作するとき、ほかの人から切り離されてひとりで作品を目撃しているお客さんの姿を想定している気がします。もちろんギャラリーや美術館といった公共空間で展示することが多いのですが、それぞれがひそやかなプライベートにいるようなつもりで見てほしいです。

——大きな空間で展示して、その場に居合わせる人との交流や交換を楽しむという意図はないということですね。

いえ、そこまでは言わないのですが。以前知人から、「高田くんの作品をギャラリーで見るときは、気まずそうに作品を見るほかの観客の反応を覗き見るのが楽しい」と言われました。ちょっと気持ち悪い感想ですが、プライベートと公共の混ざる空間ならではの楽しみ方だとは思いますね。

——最後に、今後チャレンジしていきたいことを教えてください。

主に僕が引用する物語って、ディズニーやヨーロッパの話なんですね。それも女の子に人気があるようなお話。それを東洋人の男(僕)が間違って解釈して、東洋人の身体でもって変形させる。それが西欧の人にはどう映るのか、そういう視線を意識しながら作っていると思うんです。

《Cambrian Explosion》という、人魚姫を主題にした作品を作ったことがあるのですが、人魚って元々は船乗りを引きずり込むような海の怪物じゃないですか。それをアンデルセンが美しいお姫様のイメージに変えて、ディズニーが引き継いだと思うんです。そして今度はその美しいイメージを東洋人の男(僕)が演じることでまた化け物に戻すという、一種の先祖返りのような、ちょっと複雑な階層を意識して制作していました。

このように、これまでは西欧のお話をベースにしていたのですが、最近はアジア圏をベースにした作品を作りたいという欲が高まっています。色々とアジアの不思議な民話も集めているので。そうすると自分が日本人の身体で作っていることの面白さが薄れていくかもしれないけど、それもまたいいんじゃないかなと思うんですよね。

高田冬彦 Cambrian Explosion 映像からのスチール画像 2016

高田冬彦(たかた・ふゆひこ)
1987年広島県生まれ。現在は千葉県を拠点に活動中。2017年に東京藝術大学大学院美術研究科博士後期過程を修了。高田は、神話、おとぎ話、性、ジェンダー、ナルシシズム、トラウマなど、多様なテーマやイメージを扱ったポップでユーモアあふれる映像作品を制作している。その多くは作家の自宅アパートで撮影されており、手作り感あふれる演出と時折登場するエロティックな表現が特徴で、一見すると荒唐無稽なストーリーは、人間社会に対する様々な問題提起をはらんでいる。近年の主な個展に「LOVE PHANTOM 2」(WAITINGROOM、東京、2021),「MAMスクリーン011:高田冬彦」(森美術館、東京、2019)。

中村志保

中村志保

なかむら・しほ 1982年生まれ。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ イメージ&コミュニケーション修了。『TRANSIT』編集部、『美術手帖』編集部を経て、フリーのエディター・ライター。