公開日:2023年9月27日

ホックニーとポピュリズム。東京都現代美術館「デイヴィッド・ホックニー展」レビュー(評:梅津庸一)

ホックニーの27年ぶりの日本個展を、美術家の梅津庸一がレビューする。東京都現代美術館にて11月5日まで開催中。

ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作 2007 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)展示風景 テート蔵 © David Hockney 撮影:編集部

2023年でもっとも注目を集める展覧会のひとつ、「デイヴィッド・ホックニー展」東京都現代美術館で11月5日まで開催されている。60年以上にわたり、絵画、ドローイング、版画、写真、舞台芸術といった分野で多彩な作品を発表してきたホックニー。誰もが認める巨匠の作品を目の前に、美術家の梅津庸一は何を考えたか。画家としてのホックニーの手法、そして「美術の魔法」が解けた現代の美術を取り囲む諸種の事情を交

錯的に読み解く。【Tokyo Art Beat】

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前置きとして、「展覧会レビュー」を取り巻く状況を考える

Tokyo Art Beatからデイヴィッド・ホックニー展の展覧会レビュー依頼があり一瞬戸惑った。というのも僕は久しく「展覧会レビュー」を書いていなかったからだ。ちなみに僕がホックニー展の内覧会を見に行った7月14日は宮﨑駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の公開初日でもあり、ともに80歳を過ぎた2人の巨匠の仕事を同日に堪能するという稀有な体験をしたのだった。老境にさしかかってもなお、第一線で活躍する姿に感銘を受けると同時に、今後一個人の作家がこんなにも制作環境に恵まれ世間から注目されるような状況はあり得るのだろうかと気が遠くなった。

本題に入る前に昨今の展覧会レビューをとりまく状況について簡単に整理させてほしい。言うまでもなく日々、驚くべき数の展覧会が開催され続けている。だがそんな供給過多とも言える展覧会やイベントを、アート系ポータルサイトであるTokyo Art Beatやウェブ版「美術手帖」は「いま見るべき展覧会」「もうすぐ終了」などに分類しわかりやすくキュレーションし観客に案内する。かくいう、僕自身も見に行く展覧会を選ぶ際にはよく参考にしている。話題の美術館展の場合は内覧会の翌日には詳細な記事がアップされることも珍しくない。つまり大事なのは即時的な話題性であり、ウェブサイトの閲覧者数なのである。もちろん小規模でマイナーであったとしても編集部に有意義と見なされた企画はフォローされるだろう。けれども現在のウェブのプラットフォームは構造上、つねに大衆、すなわち「数字」を意識せざるを得ない。偏った価値判断や趣向は極力回避することを宿命づけられているのだ。

Tokyo Art Beatは2020年にアートにNFTやブロックチェーンインフラを実装させる企業「スタートバーン株式会社」とパートナーシップを結んでいるし、ウェブ版「美術手帖」は「カルチュア・インフラを、つくっていくカンパニー」をミッションとして掲げる「CCC」の傘下である。社会一般では自由な分野だと思われがちな美術ではあるが、企業である以上、運営方針やメディアのシステムに規定されるのは避けられない。もちろんそれぞれメディアとしての性質や理念、親会社からの介入の度合いに大きな違いはある。しかしそれ以上に美術を下支えするインフラが大きく転換したことが重要なのである。

かつての美術界は定量化できない得体の知れない力学や評価基準によって動いていた。大衆からの支持とはほぼ無関係に一部の関係者や美術評論家が絶大な影響力を有していたためだ。今日、オールドメディアである新聞の美術批評欄や美術雑誌の批評を熱心に読み込む人は稀だろう。僕は美術とメディアの関係がすっかり変容してしまったことを寂しく思ういっぽうで、昔は良かったとは思わない。限られた有識者によって密室で紡がれた美術史に破綻などあるはずはなく、美術は長いあいだ安定的に統治されてきた。しかし思い返せば論者が業界の中で著名だというだけで読むに堪えない妄想のようなテキストも少なくなかった。特に日本における美術評論が文芸のいちジャンルだったことにも起因するのだろう。

現在、美術の民主化が進んだことで「美術の魔法」は解けてしまったが以前より透明性は格段に増したと言える。そしてなによりも美術は多くの新しい観客を得た。コンテンツ化された美術は展覧会に足を運ばなくとも、美術書を買わなくとも誰しもが無料で触れることができる。通勤、通学中のちょっとした空き時間に美術を嗜むことも可能なのだ。また近くに文化施設のない地方在住者にとっても大きな意義を持っている。そんなウェブコンテンツ時代の「展覧会レビュー」は批評というよりは宣伝の一環であり、展覧会を各々のデバイス上で追体験できるものであることが望ましい。また書き手にとっても美術業界の外の人々に自分の存在を知ってもらえる貴重な機会なのだ。ちなみに僕の「主体」は昔ながらの美術と最近のコンテンツ化した美術の両方によって育まれてきた。

日曜画家的、または世俗的な気分に満ちたホックニーの絵画

さて、前置きが長くなったがデイヴィッド・ホックニー展について語っていきたい。
ホックニーは「現代で最も革新的な画家のひとり」という触れ込みの通りたいへん人気のある画家だ。本展でも明快な主題と全長90mに及ぶiPadで描き出力した《ノルマンディーの12か月》(2020〜21)などSNS映えする壮大なスペクタクル性が遺憾なく発揮されており、実際に会場まで足を運ぶべきだと断言できる。まさにオススメの展覧会だ。そしてなによりも素晴らしいのは、ホックニーはあらゆる観客を置き去りにしない点だろう。しかし僕は本展を通して美術史の信憑性、巨匠と大衆との関係について考え、思い悩むことになる。ホックニー展は自明だと思ってきた美術史のパースペクティブを狂わせる巨大なレンズとして僕の前に立ちはだかったのである。

ノルマンディーの12か月 2020-21 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)展示風景 作家蔵 ©︎ David Hockney

多岐にわたるホックニーの仕事の中心は絵画である。どの時代の絵画作品にも共通して「プリマ描き」が多く採用され、どうやって描いたかわからないような特殊な描法やフォトリアリズムや超絶技巧の類いは見当たらない。まるで「お絵かき=絵」のような軽やかさと親しみやすさが特徴だ。「プリマ描き」は絵具が乾ききる前にぐいぐいと即興的に描くというなんの変哲も無い、ごく一般的な描法のことである。大きく見れば、リュック・タイマンスやアレックス・カッツ、ジョシュ・スミス、初期のピーター・ドイグなどもそれに当てはまるが、ホックニーの場合は彼らと比較しても描き方自体には特異性を見出し難いし、主題もまるでどこかの絵画教室の課題のようなものまで存在する。しかし、これは僕の勝手な推察になるがホックニーは現代に描かれる絵画の大半がマニエリスムを拗らせた不健全なものと考えているのではないだろうか。では、「絵画」と「絵」の違いとはなにか。ここでは美術史や諸制度を前提とし、ときとして自己言及性を含む表現形式を「絵画」、そして人間の知覚や身体を通して生成される図やドローイングを「お絵かき=絵」と定義している。

日本で美術を学んだ画家でもある僕の偏見もあるかもしれないが、ホックニーの絵の「上手さ」に関して語弊を恐れずに言えば極めて普通である。ホックニーの絵画全般は日曜画家的または世俗的な気分に満ちているのだ。そんな造形面において手の内を隠さないあけすけさと一種の凡庸さがホックニー作品には通底してある。60年に及ぶキャリアにおいてそれを維持し続けていること自体が驚異的だと言える。そこに絵画における「大衆性」が見て取れるだろう。しかしホックニー作品はたんに親しみやすいだけではない。作品から数々のモダン・マスターズの影が見て取れる。初期作《イリュージョニズム風のティー・ペインティング》(1961)は明らかにフランシス・ベーコン風である。《クラーク夫妻とパーシー》(1970〜71)は肉感を絵具のインパストに託すのではなく張り子の表面をなぞるように丹念に描画したスタンリー・スペンサーの1930年代の肖像画やルシアン・フロイドの初期作など自国の先行世代の画家たちの仕事と画題の共通点が確認できる。ホックニーの目配せがこの辺りにも及んでいてもまったく不思議ではない。そしてセザンヌをはじめとする自然の模倣から独立した秩序を有する近代絵画よりも広告用のイラストレーションと伝統的な絵画の中間にあるような抑制の効いた画風はブリティッシュ・ポップの画家で同門だったピーター・ブレイク《Self-Portrait with Badges 》(1961)により近い。

クラーク夫妻とパーシー 1970-71 テート蔵 © David Hockney

ホックニーの「キャラクター」によって隠蔽されたもの

1980年以降の絵画作品からはアンリ・マティスやラウル・デュフィを研究したと思しき造形言語の断片はそこかしこに確認できる。では、ホックニーが敬愛するピカソについてはどうだろう。版画集「ブルー・ギター」ではピカソ最晩年の版画を手がけた刷師アルド・クロムランクとの交流もあり、版画工房に由来する複数の技法が効果的に使われているものの、内容はピカソのアイコンやモチーフを召喚しそれらと戯れてみせたに過ぎず、「ファンジン」の域を出てはいない。

スプリンクラー 1967 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)展示風景 東京都現代美術館蔵 © David Hockney 撮影:編集部

さらにホックニーのキュビスムをめぐる実践について見ていきたい。キュビスムとは対象を1つの視点からではなく複数の視点から見た情報を統合させる技法である。ホックニーはキュビスムの原理を「ポラロイド・コラージュ」や「フォト・コラージュ」に転用したがそこでは対象の時間経過や運動がカメラによって描写され、キュビスムの絵画に見られる楔のような分節やプリミティヴィズムを経由した意匠は印画紙の矩形にすり替わり、それらが貼り合わされている。それはキュビスムの刷新というよりは人間の生理に根ざした判断や逡巡をすっとばし工学的手法に落とし込んだものだ。それはキュビスムのデチューン、もしくはキュビスムの原理だけを抜き出し積極的な誤読・誤用が展開された結果だとは言えないか。また、旧来の「一点透視図法」の原理に貫かれた具象絵画に対してホックニーが考案した「逆遠近法」は消失点に代わり鑑賞者が起点となり画面の中に空間が広がっていくらしいのだが、果たしてそこに新規性はあるのだろうか。

「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)展示風景 撮影:編集部

第二次世界大戦後「一点透視図法」の力学に支配された絵画は稀だし、そもそも単一の消失点であるからといって鑑賞者の視線をそこに留め置き拘束することは困難である。鑑賞者の泳ぐ視線を固定化させるためには消失点だけでなく絵画作品に没入させるイリュージョンやフックが欠かせない。絵画を窓として見立てた際のガラス面、絵画平面の絶対性は伝統的な規範から逸脱した画家たちによって意図せずとも破壊され続けてきた。さらに言えば「一点透視図法」に則した原理的に「正しい絵画」を描ける画家は今日、絶滅危惧種なのである。とすれば、この二項対立自体がカリカチュア化された、いわばホックニーによってわざわざ作られた問題なのである。

また、ホックニーは『はじめての絵画の歴史―「見る」「描く」「撮る」のひみつ―』(青幻舎、2018)などの著書によって大衆を啓蒙することも怠らない。そこでは平易で子供にもわかりやすい言葉で解説されており、古今東西の有名な絵画をはじめとして祭壇画、サイレント映画、ヴィデオ・ゲームなどあらゆる視覚表現が同じ俎上に載せられている。同書にホックニーは「『絵』の歴史は、洞窟から始まってiPadで終わっている。今のところはね。これから『絵』がどこに行こうとしているのか、それは誰にもわからないんだよ」というメッセージを寄せている。しかし注意深く読み進めていくとヤン・ファンエイク《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(1434)やクロード・モネ《睡蓮》(1905)と自作を等価のものとして紹介していることに気づくだろう。同書の中では「絵」と「絵画」を意図的に混同しているばかりか「どこに行くかわからない」と述べている「絵=絵画」の未来に対して明らかに方向付けをしようという意図が透けて見える。ホックニーはかつての巨匠たちと自作が肩を並べ美術史へ登録されることを自明のものとし過ぎているきらいがある。しかし作家本人のユーモラスなキャラクターがそれを見えづらくしているのだ。

デイヴィッド・ホックニー ノルマンディーにて 2021年4月1日 © David Hockney Photo by Jean-Pierre Gonçalves de Lima

岡﨑乾二郎とホックニー、2人のアーティストの対比

とはいえ、ホックニー作品はいわゆる絵画の内側の原理や美術史に収まらない広がりを持っている。そのことを説明するために岡﨑乾二郎と比較してみたい。岡﨑もまた造形作家でありながら『抽象の力』をはじめとする著書によって独自の美術史を紡ぐことで知られている。ホックニーと比べると岡﨑の理論展開は解像度が高く隙がない。まさに学芸員や研究者たちを凌駕する「知の殿堂」のような存在である。しかし、作品のほうはどうだろう。近作発表された150点に及ぶ絵画群「TOPICA PICTUS」は小ぶりのキャンバスがニコラ・ド・スタールから主題を抜いたような恣意的かつフェティッシュでジェルメディウムがたっぷりと使われたアクリル絵具のタッチによって満たされている。それは制作中のパレット上ではよく見かける絵具の混ざり具合と同程度に豊かなニュアンスを宿している。しかし岡﨑の言説の雄弁さに比べると絵画制作は臆病でリスクをあまり負わない無難さが際立っているように見える。絵画が本来持っていた機能の多くは、おそらくは岡﨑の意図に反して「オミット」されてしまい、ひとつの方法論に無理やり一元化されてしまっている。よって、鑑賞者にとっては単純に出来・不出来が判別しにくいものとなっているのだ。

岡﨑作品は絵画というよりも、絵画のレディメイド、もしくは絵具メーカーのための気の利いたサンプル帖と言ったほうが的確なのかもしれない。そういう意味ではダミアン・ハーストの「桜」シリーズと近い。つまりマテリアルとしての作品よりも言説と文脈が重要なのであり、鑑賞者が実際に岡﨑作品と対峙しても読み解くべき内容があまりにも希薄なのだ。現代において多くの画家はあらかじめ自身の守備範囲を決めその領域内で「アラ」が出ないように小さなゲームを仕掛け、ひたすら反復する道を選ぶ。岡﨑は自作が「絵画」という固定化した形式として見られることを不本意と思うかもしれないが、サブテキストがいかに理論的に表現のジャンルに規定されない広大な領域に開かれていようとも岡﨑の同シリーズが美術におけるインナーサークル内でのみ有効なニッチで小器用な造形言語によって組織されている以上、結果的に美術史の有限性を自らの造形によって体現してしまっていると言わざるを得ないのだ。

そのいっぽうでホックニーの絵画作品は「ここが下手だな」「わたしでも描けそう」「これはあまりにも愚直すぎる」「一発描きで思い切りは良いが、見事とは言えない。でも、そこがチャーミング」「むむ、これは意外と絵心があるな」「たんにデカいだけなのでは」「おしゃれだな」などの、ぱっと見ただけで批評とまではいかない率直な感想やミスリードを次々と誘発させるような、わかりやすさとキャッチーさがあり文字通り観客に開かれている。先ほどホックニーによる大味な理論構築や巨匠であるからこそ有効であるムーブをやや批判的に述べたが、それはけっして悪いことばかりではない。そもそも学術的に論じられ研究対象とされてきた巨匠たちの仕事は絶対ではないのだから。

そして社会的なプレゼンスを鑑みればホックニーは間違いなく「巨匠」に分類されるが、その作品を構成しているモダン・マスターズ由来の諸要素はところどころ「お絵かき」への変奏と論理的な飛躍によって民主化が促されている。つまり、ホックニー作品の中で巨匠由来の造形の成分は分解、溶解しているのだ。まさに内側から崩れていくように。用意周到な戦略と必ずしも高いとは言えない理論的精度、そこに自身の生体に由来する「ズレ」「味わい」を味方につける力技とでも言える手腕。そのような条件を揃えることでホックニーは美術制度内の問題から「絵心とはなにか」「良い絵とはなにか」「固有性とはなにか」といった繊細かつ広く一般的に共有でき得る普遍的な問いまでをわたしたちに届けてくれるのだ。

また、iPadをユーザーとネット空間をつなぐデバイスではなく画材として取り入れることでホックニーは人類の工学の発展の歩みまでも自身の文脈として回収することに成功している。さらに液晶タブレットではなくアップル社の製品名であるiPadやiPhoneという名称を積極的に使っていることにも注目したい。厳密に言えばデバイスにインストールしたアプリケーション「Brushes」で描いているのだが。ホックニー自身がiPadのユーザーでたんに愛着があるというだけではなく、ホックニーがアップル社のブランディングやマーケティングの強さに自然と惹かれていたのではないかとも推察できる。それは洞窟壁画とiPadを並列的に扱っている点からもそのように考えられる。液晶タブレットとお絵かき用のアプリケーションによってしか生み出せない絵画的な効果よりもiPadを使うこと自体の意味のほうが重要なのだ。そして大衆と同じ端末を使って描いた「お絵かき」であってもホックニーという「ブランド」が付与されればたちまち「絵画」として計上されるのである。

さらにホックニー作品における版画やiPad絵と対峙してもこの作品はオリジナルなのか複製なのかといった問いが頭をよぎらないのは、ホックニー作品は昔ながらの美術作品が持っていた「美術の魔法」が先ほど述べた昨今のウェブコンテンツ時代の美術と同様にある程度無効化されているからだろう。つまり、ここではアウラの有無はほとんど問題にならないのだ。

ノルマンディーの12か月(部分) 2020-21 作家蔵 © David Hockney

わたしたちの主体性はどこに?

大衆とは無縁の「美術界=密室」での評価、つまり巨匠の系譜を受け継いでいるホックニーだが、意外なことに本展はまるで公園のような公共性を讃えていた。それは破格のスケールによってもたらされたものだった。キャンバス50枚分をつなぎ合わせた《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007)や90mのiPad絵を展示するための曲がりくねった展示壁など一点の絵画作品がまるで公共物のような大きさなのだ。美術に携わる仕事をしている者には容易に察しがつくだろうが、本展にはかなりの運送費や保険料、施工費など相当なお金と手間がかけられていると見てまず間違いない。公立美術館の予算内には到底収まらないはずだ。それを回収するためにも美術雑誌で特集を組んだり、TVに取り上げてもらったりと様々なメディアでのプロモーション、宣伝は欠かせないだろう。あらかじめ「大衆」の動員、すなわち「数字」が見込まれていたからこそ本展は成立している。その意味でホックニーは真に「ポピュラー」な画家であると言えるだろう。ホックニー展が興行として成功することは間違いないからだ。ホックニーは当初、ブリティッシュ・ポップの流れを汲んでいたが、やがて「絵画の王道」を担うようになった。ホックニーは美術自体を「ポップアート」に変容させてしまったのだろうか。いや、そうではなくホックニーの作品も存在自体も昨今の「ポピュリズム」との親和性が非常に高いのだ。

〈春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年〉より 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)展示風景 © David Hockney 撮影:編集部

まぁ、このように現在の状況を鑑みながらウェブコンテンツ時代の「展覧会レビュー」を紡ごうとしても結局は相も変わらず「大きな固有名」を並べ立てそのあいだを論者はこそこそと動き回るしかないのだ。とはいえ、これまで美術が積み上げてきた「価値」「評価」の内わけのすべてを相対化し美術史を書き換えるのは不可能だろう。そもそも美術とは人々の営為の美点のみによって紡がれてきたわけではないのだから。

ホックニー展に限らず展覧会とは一過性のものであり、わたしたちは「素晴らしかった」と満足して、また次の大型展の動員として駆り出される。そんなことを繰り返していてわたしたちの「美術」の営みはいったいどこに蓄積され得るのだろうか。

ホックニーや宮﨑駿を前にしたわたしたちは彼らの円熟した仕事に感嘆すると同時に自分自身の「主体」が問われている。

梅津庸一

梅津庸一

うめつ・よういち 美術家、パープルーム主宰。1982年山形県生まれ。神奈川相模原市と滋賀県甲賀市信楽町に在住。 「美術とはなにか」「つくるとはなにか」という問いを美学、制度の両面から追求している。 主な個展に、「未遂の花粉」(愛知県美術館、2017)、「梅津庸一展|ポリネーター」(ワタリウム美術館、2021)、主なグループ展に、「森美術館開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・ 社会」(森美術館、2023)、「百年の編み手たち―流動する日本の近現代美術―」(東京都現代美術館、2019)、「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989-2019」(京都市京セラ美術館、2021)など。作品集に『梅津庸一作品集「ポリネーター」』(美術出版社、2023)、『ラムからマトン』(アートダイバー、2015)。