公開日:2010年3月13日

内藤礼 アーティスト・インタビュー

自然が生む自然 —「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」

内藤礼は、ものそのものを表現するのではなく、その奥に潜んでいるものを表現しようとしている。今回の神奈川県立近代美術館 鎌倉での展覧会では、水や空気、光そのものを構成した作品を観ることができる。
作品のマテリアルの細部に迫っていくと、作品の奥深さにどんどん惹かれていくだろう。空気中になびく繊細なリボンは、まるで詩を書くように見えたり、また、緻密に紡ぎ合わせたビーズを吊るしてみたりと、文学的な取り組みがみてとれるだろう。
筆者は、寒い冬のある日、都内で彼女と対話の機会を得た。

■ 神奈川県立近代美術館の個展「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」についてお話を聞かせて下さい。
まずは、今回の展覧会では、現場との場所性についてどのように考えられたのでしょうか。

内藤礼:最近の美術館では、今回の展覧会の会場になっている第一展示室のようにあれほど多くガラスケースに囲まれた空間というのはないんです。普通は、使いづらい空間だと思うけれど、私はその場所が持っているものはよいものだというように考えたい。邪魔なもの、よくないものではなくて、そこにいまこうしてあるものは何か積み重ねの中でそうなっているのだから、よいものだと考えたいと思う。それで、これらのガラスケースを隠すよりは、出すことでもともと場所がもっているものが何かいきいきと動き出すようにしたいと思ったんです。

1階は、美術館の中なのか外なのかわからないような、半分外のような、彫刻室にしても屋外から風が入ってくるし、雨だと水が流れてくるようなところで、全体的に場所ごとにとても個性が違っています。空が見える中庭が中心にあって、その周りを違う性質の部屋が囲んで、美術館全体が回廊のようだと思ったんです。

下見をしたときに第一展示室のガラスケースの中をのぞいて「作品としてここに入っていいですか」と学芸員に聞いたら、「いいですよ」という意外な答えが返ってきたんです。ぼーっと考えていたアイディアがきゅうーっとまとまった、開いた瞬間でしたね。それで、私は普段は人が歩くカーペットの上を「生の外」、ガラスケースの中を「地上の生」ととらえました。ぐるぐると中へ入ったり、また戻ってきたりと自由にできるように、繰り返し生まれてめぐるような空間について考えていきました。

■ 見る側が作品と触れあう体験についてお伺いします。ヴェネツィア・ビエンナーレと直島の家プロジェクトで展示されていた作品は一人しか入れないという基準がありましたが、本展では鑑賞についてはどのように考えられたのでしょうか。

内藤礼《無題》, 2009
内藤礼《無題》, 2009
撮影:畠山直哉
直島の家プロジェクトの《きんざ》は、一人ずつ入っていくので、誰も同じ空間にいないという作品でした。一人きりになる作品を長い間つくっていたのだけど、最近は生きている人が目の前で歩いていたり、しゃがんでいたり、何かを見ていたり、自分以外の人がそこにいる風景を、作品の中で見たいと思うようになりました。

「生の外」にいて「地上の生」にいる人を見たり、「地上の生」から「生の外」にいる人を見たり、自分がものを見ているという意識を感じるだけではなく、自分以外の人が自分と同じようにそこにいて、何を思っているのかまではわからないけれど、そこにいる、まさにいまここにいる自分と同じように生きている人間としてそこにいるという、そういう一つの光景を見たかった。


■ 本展のタイトル「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」はどんなことを示唆しているのでしょうか。

内藤礼《精霊》, 2009(2006-)
内藤礼《精霊》, 2009(2006-)
撮影:畠山直哉
ジョルジュ・バタイユ(フランスの思想家)の著書にある、動物は水の中に水があるように、世界とつながってひとつになっているけれど、人間はたぶんそうじゃない。死を知っているし、意識があるから、という一節に何年も前から興味を持っていました。

私には、その人間の生のなかにもそういう世界との連続性、つながりを取り戻したい、回復したい、それを知りたいという気持ちがあります。それで第一展示室の《地上はどんなところだったか》は生と死を自由に行き来するだとか。例えば、1階の《精霊》という作品は、私がかたち作るのではなく、風によって自由に動くものの姿です。風に任せて、光に任せて、形や動き、輝き、速度などもののあり方が刻々と変化する。ビーズの作品は重力によって作られた姿であって、私がつくったものではない。自然がかたちづくっている。自然と切り離すことのできない純粋で運命的な関係から生まれてくるということで、それは世界とつながっていると、私は感じているんですね。

■ 作品と出会ったとき、作品を見ている自分と考察している自分にはどんな関係性がありますか。

結構難しい問題だけど、人の心の中は複雑で、作品のようなものは見るときのその人の状態によって全然違う。とても繊細なものだから。それを私がこういう理由で作った、というものに近づいてもらいたいとは思わない。それは思ってはいけないような気がしていて。

私の心の中も日々少しずつ違うし、見る人もまた違う。だけども、同じ人間であるという理由で何かが伝わる場合もあると思う。作家が、自分の作品に対して気づいていることは、作品がもっているものの一部分だと思っている。作家自身も全部をわかっていないと思う。それに、自分が全部わかるようなものは作りたくない。わからない部分も多いけれども、でも、これはこれであると言いきれるもの。作品はそのぐらいゆるやかにひらかれているもののほうが私はいいと思う。答えがひとつということはありえないし。わからないものを見ていることができるという不思議は、「地上の生」の実感のひとつで、とても大切なことです。失いたくない。

内藤礼《地上はどんなところだったか》, 2009
内藤礼《地上はどんなところだったか》, 2009
撮影:畠山直哉
■ 二階で展示していたプリント布を用いた《地上はどんなところだったか(母型)》に関して聞かせてください。

第一展示室の作品は、私にとっては小さなままごと、小さいミニチュアの風景をつくるような感覚でした。明かりは、空や遠いところから見た夜の明かり、街や家の明かりや、人間の命の光です。人間らしいものとして、人間の世界特有のものです。布のプリントも人間の営みから生まれてきたとても人間的なものです。私はアーティストになってしまったために、アートから離れて絵を描くことがもうできないけれど、人が描いた絵だったら自由に選ぶことができる。

だから布を探しに出かけるときはとても楽しくて。きっとどこかに自分にとってよいものがあると信じて出掛かけていく、その気持ちも、いい気持ちだった。人類学者や民俗学者のフィールドワークのように、この世にはよいものがあると信じて外へ探しに出かける。植物とか花模様をプリントした生地が多くて、考えてみたらそうしたものを、昔から人間が着たり、カーテンにしたり、不思議でしょう。体にそういう模様をくっつけるって。でもやっぱりそれは無意識のうちに自然と結びつきたい気持ちのあらわれだと思う。そういう植物といった自然のかけらを、模様でもいいからそばに置きたい、身につけたいということでしょう。

この作品では、小さい風景、遠くから見下ろしているような、なるべく小さい模様で、花を中心に、お花畑だったり、雪景色だったり、動物がいたり、地球上のいろんな動物や植物の模様の布を探して、それでちっちゃい子供の遊びの感覚を呼び覚ましながら、風景を作った。第二展示室では、自然光だけの空間で、人間が生まれる前の地上の光景、何かが生まれてきそうな、生命の始まりの風景。

それが海なのか森なのかわからないけれど、ランダムなもののもつゆらぎやふるえや、波のようにだんだんこちらに近づいてくるもの。そういう何か生命が生まれる気配を感じる広がりを見たいと思いました。

■ その上に展示されている白い紙でつくられた《恩寵》は、細やかな作品ですが、この作品との関係が気になります。これらは同じように考えたのでしょうか。

その布によって、ああいう場所になるなと最初に思いました。その後で、紙の作品が生まれました。「おいで」と書いてある紙。それは生まれて「おいで」という呼びかけ。あらゆる生命、私たちも含めて。「こちらにおいで」と自然が呼んでる。

人間が呼ぶのではなくて、人間の内部の自然がその人自身をこちらに生まれておいでと呼びかける。生まれた後も、「おいで、おいで」と生き続けさせてる、というふうに私は感じている。その積み重ねがいっぱいあって、模様もいっぱい同じパターン、インフィニティ。それであの紙をおこうと思った。

■ 丸い紙にオフセット印刷された作品はフェレックス・ゴンザレス・トレス(Felix Gonzales-Torres)と近いところがあると思いました。

ゴンザレス・トレスには会ったことはなかったのだけど、たまたま私の展覧会をやろうといってくれたフランスやニューヨークのギャラリストがトレスと親しかったんです。私の作品を見て、トレスの作品と私の作品は近い感覚があると彼らが言ってました。私はトレスを直接知らなくて会ったこともないけれども、心のどこかで、何か近い感覚、内面を持ってる人だなと思っていました。

内藤礼《恩龍》, 2009
内藤礼《恩龍》, 2009
撮影:畠山直哉

■ 室内のガラス容器の作品は4分の3ほど水が入っていましたが、屋外にある、池に面した容器の水は溢れていました。それはなぜでしょうか。

まず、第一展示室のほうは、人が入れない浅いほうのガラスケースにはガラス瓶が二つ並んで、半分ずつ水が入っていて、人が中へ入れるほうのガラスケースは、場所によって、片方は空っぽで片方には水が入っていたり。「生の外」から」「地上の生」へ、または「地上の生」から「生の外」へ水を渡そうとしています。お供えの感情です。

今回、風船などで飾り付けをしたのは、生きている人は亡くなった人に鎮魂、そういう気持ちをもっているけれど、その逆はないと思ったからです。「生の外」というのは、亡くなった人やまだ生まれてくる前の人や生死をまたがって生きている動物や精霊がいるところで、そこから生きている人を慰めたり守ったり、祝福したり、そういうのはないけれど、私は必要だと思った。それで生の側に飾り付けをしました。

ガラスが開いているところに水が半分ずつだったのは、もうガラスが開いて、生と死がつながっているから半分ずつ分けたのです。それで、1階は本当に外に向けて、水をお供えしました。外であり自然。それでいて、そこはまさに「地上の生」。本当は、自然というのは生と死との両方を流れているものでしょう。人間の生だけ、生の外側にいないと思っているけれど。

■ 最後に、豊島のプロジェクトについて想いを聞かせてください。西沢立衛さんと内藤さんはどのようにスペースの使い方を構想していますか。

今回のプロジェクトでは、一般的な美術館というのとは違い、西沢さんの建築の中に、わたしの作品のみが設置されることになります。西沢さんの建築は、水滴が一滴落ちた形をした、柱もひとつもない、とてつもなく大きいコンクリートの建築です。そこに、私が水の作品を制作します。建築として、アートとして、そしてそれらと自然のつながりとして、そこをどのような場所にしていくのか協議をしています。今年の10月にオープンの予定です。

■ 楽しみにしています。内藤さんありがとうございました。

ジェームズ・ジャック

ジェームズ・ジャック

ニューヨーク市のロッキー・ソイルで育ち、ハワイのハイビスカスに飛び乗って東京に移住した。現在、ジャックは東京芸術大学で明仁皇太子奨学金を受け、現代芸術について研究をしている。ドローイングや写真やインスタレーションを発表しているアーチストの観点から文章を書いている。彼の創作は「Asian Art News」、「NY Arts」、「京都Journal」、および「M:ニューヨーク・アート・ワールド」などの雑誌に掲載されている。<a href="http://www.jamesjack.org">www.jamesjack.org</a>