公開日:2021年11月24日

「やっぱり写真は永遠に近いと思う」。写真家、石内都が語る写真・傷・女であること(前編)

Tokyo Art Beatのリニューアル企画「Why Art?」は、映像インタビューを通して百人百様のアートへの考えを明らかにする企画。同企画の一環として、注目のアーティストにインタビューを行った。第1回は人々の身体に残る傷跡、母の遺品や被爆遺品などを被写体としてきた写真家の石内都にインタビュー。石内はこれまで何を思い、何を撮ろうとしてきたのか。

石内都。群馬県桐生市の自宅前にて

幼少期から青春期までを過ごした横須賀の街を撮った写真シリーズ「絶唱、横須賀ストーリー」で写真家デビューした石内都。以後、赤線跡の建物、人々の身体に残る傷跡、自身の母親の遺品や被爆遺品などを被写体に、40年以上にわたり写真を撮り続けてきた。

1979年に木村伊兵衛賞を受賞、2005年にはヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表作家として選ばれ、14年には写真界のノーベル賞とも言われるハッセルブラッド国際写真賞を受賞するなど国際的な評価も高い石内は、これまで何を思い、何を撮ろうとしてきたのだろうか。群馬県桐生市にある自宅で話を聞いた。

足元をしっかり見ないと生きていけない

——今日は、あらためて石内さんの出発点について聞かせてください。石内さんは1964年の東京オリンピックのポスターをご覧になって、始めはデザインに関心を持たれたんですよね。

おっと(笑)。亀倉雄策のポスターね。そうそう。

——そこで多摩美術大学のデザイン科に進んだものの、肌に合わず、途中で染織専攻に移られた。ところが、染織の方もあまり上手くいかなかった。

挫折です。

——その後、知人から暗室道具を譲り受けたことを機に、無縁だった写真を独学で始める……と、この経緯は何度もいろんなところで話されていると思います。いっぽう、「挫折」とおっしゃいましたが、なぜ二転三転しながらも表現の世界にこだわったのでしょうか。思春期から表現への思いは強かったんですか?

私は思春期より前、横須賀でいろいろ学んだんですよ。6歳で群馬の桐生から横須賀に移ったんだけど、基地の街に対するとんでもないショックがあったわけ。道の向こう側なのに、国境があるショック。それとやっぱり基地の街だから、強姦事件が日常茶飯事にあった。なのに、それが事件にならないの。

——過去のインタビューでは、1995年の「沖縄米兵少女暴行事件」の報道に触れて、涙を流されたと。

昔からずっとあったのに、95年に初めて事件が公になったの。それまでは「Occupied JAPAN」(連合国軍占領下の日本)だから仕方がないと泣き寝入りだったんだよね。そういう基地の街で育った。生まれたときからそこにいたならいいけれど、途中で移ったからいろんなことが見えちゃうんだよ。よそ者だから。

そんななかで思春期を迎えたんだけど、自分が女であることをアメリカ軍が教えてくれたようなものなんですよ。理由もわからず、「女の子は歩いちゃいけない」と言われている場所がある。基地からは精液の匂いがした。アメリカの基地が「お前は女だ」って言っているのと同じなんです。でもいっぽうで、ラジオからはアメリカの楽しい音楽も流れてくる。私も、Gパンとか履いていたからね。

——憧れもあるわけですよね。

そう。憧れながら、傷ついている。そういう矛盾を抱えながら成長して、暗室道具とカメラが手元に来たとき、「私はどうしたらいいんだろう」と。それで、横須賀での思春期の傷の痛みとか、恨みつらみを撮ろうって思ったんです。それが最初の個展で発表した「絶唱、横須賀ストーリー」(個展は1977年。写真集の刊行は1979年)。だから、私の出発点は、自分の足元をじっと見ないと、これから先を生きて行けないぞっていう思いなんですよ。

石内都「絶唱、横須賀ストーリー#98」 1976-77 ©︎ Ishiuchi Miyako

初期三部作は、横須賀への敵討ち

——「写真をやろう」が動機ではないわけですね。

うん。べつに写真をやるつもりじゃなかった。たまたま道具があっただけ。使えば道具だけど、使わなければゴミと一緒じゃない(笑)。まあ、当時の友達がわりと写真をやっていて、その展示を観客として観に行ってはいたんだけどね。道具もあるし、「何かやってみよう」くらいのものだった。

でも、暗室に入ったら、懐かしい匂いがするの。私は染織で糸を染めていたでしょ。そこで使う氷酢酸という薬品を、暗室でも使うんです。それに驚いて、「写真って染め物なんだ」とわかった。暗室作業が面白かったから写真を続けられたの。撮ることはいまでもあんまり好きじゃないんだよ(笑)。

写真って、真っ白い紙に世界が写ってるの。粒子がいっぱい写っていて、「ああ、すごいな。写真って粒子の集まりなんだな」ってことが暗室だとよくわかる。それが面白かったんですよね。

——平面なのに奥行きがあるところも、写真とテキスタイルの共通点ですね。

粒子を縦糸と横糸が交差する点だと考えると、写真も織物も一緒。一見平べったいけど、そこには空間がある。そしてどちらも水仕事。染色をやっていたから写真に出会ったし、続けられたと思うな。

でも、習ったわけじゃないから、やり方は邪道だよ。西宮の展示(西宮市大谷記念美術館で2021年4月3日〜7月25日まで開催された「石内都展 見える見えない、写真のゆくえ」展)、見てくれたんだよね?

——拝見しました。

ロールのオリジナルプリント、見たでしょう? あんなの普通やらないよ。全部自分で考えて、自分で失敗しながらやってきたことだから。ふふふ(笑)。知らないってことはすごく楽しいことだよ。

「石内都展 見える見えない、写真のゆくえ」展(西宮市大谷記念美術館、2021)会場風景より

——初期の写真に斜めの構図が多いのは、その方が「たくさん写る」と考えたから。でも、それが写真の常識ではあまり良しとされていないと、あとで知った、というエピソードもあります。

どう考えても、対角線で撮ったら変よね(笑)。でも、その不安定さが良かったんだよ。

——西宮の展示で、さきほどの『絶唱、横須賀ストーリー』、実家のあった木造アパートを撮った『アパート』(1977-78)、赤線跡(*1)を撮影した『連夜の街』(1978-80)の、横須賀を被写体にした初期三部作には異様な迫力がありました。石内さんは横須賀時代を「おぞましい思春期」と表現しています。

それらの作品は、完全に横須賀への敵討ちだった。自分のなかに、精神的な澱みたいに固まっているものがあるわけですよ。それを吐き出さないと前に進めない。写真っていうのは吐き出す行為。自分の中の苦しさとか痛みとか、おぞましい嫌なこと、全部印画紙に吐き出したの。暗室での作業って、一種の肉体労働だけど、その肉体労働を精神的なものに変える不思議な作業でもあるんです。

石内都「アパート#14」 1977-78 ©︎ Ishiuchi Miyako

石内都「連夜の街#71」 1978-80 ©︎ Ishiuchi Miyako
石内都「連夜の街#2」 1978-80 ©︎ Ishiuchi Miyako

女であること

——「石内都」という作家名は、お母さまの旧姓です。デザインも染織も暗室作業も、どれも一種の技術ですが、石内さんのお母さまは当時の女性としては珍しく運転免許をお持ちで、タクシー運転手もやられていた。そうした生きるための技術に対する意識は、学生時代から強かったですか?

それは子どもの頃からあった。母が働いていたから、女も手に職をつけるのが基本だと思ってたの。母は18歳から車の運転するぐらい働き者。いっぽう、父はあんまり働くのが好きじゃなくて(笑)、頭を使うのが得意だった。いま考えると、うまいことできた夫婦だよね。

——当時、写真界も圧倒的に男性中心主義的だったと思います。そのなかで、女性が活動するとはどのようなことだったのでしょうか。

難しい問題だね。私は先生も先輩もいないし、写真をやっている友達はいたけど、そういう「業界」とは関係なく始めちゃったから。差別も酷いこともたくさんあったけど、「関係ない」と思ってたかな。

昔は編集者がほとんど男だったよね。だから編集者と仕事するだけで、その人と“できてる”ことになっちゃう。それに笑っちゃって(笑)。「もう身体が持たなくて大変」って言ってあげるの。いちいち反論するのが面倒臭い。でもね、悪いけどどうでもいいことなんだよ。噂されようが何されようがあんまり関係ない。それで傷ついたりしてる暇ないの。言いたい奴が言えばいい。世間のそういうのはいまもあると思う。それを利用する女もいるし、男もいる。そういう世界はあんまり変わらないかな。

——学生時代に「集団エス・イー・エックス」という女性のグループを一瞬作ったものの、結局合わなくてすぐに離れたとか。

あはは! よく調べたね! 60年代後半に学生運動が終わりかけ、70年代に「ウーマン・リブ」(*2)が出てきた。それで多摩美の学生、女3人で作ったの。やっぱり男たちの言っていることがよくわかんなくて。

石内都


——石内さんは多摩美で「美共闘」(*3)にも参加されていますが、それは男たちの戦いじゃないかって思われていたんですかね?

そうでもないけど、美共闘そのものが曖昧で、そんなキチッとした理論があったわけじゃないの。私は織科だったから、初期は所属したけど、絵画はちょっと違うなっていうのもあった。

「エス・イー・エックス」では田中美津(ウーマン・リブ運動の代表的な論者)にも会いに行ったけど、馬が合わなかった。この人と話してもダメだって。当時は「男は敵」というところから入るけど、私はその頃男といたから、男を敵にするのは嫌だった。まあ、学生運動には女性の立場を考えるものがあまりなかったから、ウーマン・リブも必然的に現れたんだけど、私はヒヨっちゃったわけですよ。

でも、写真を始めてから、いまだにその頃の気持ちは残っていて、じつは写真界からは全部無視されたけど、男を裸にした展覧会があったの。女10人が男を裸にするっていうのをテーマにした写真展。

——いわゆる「見る男」と「見られる女」の関係を反転して。

「見られる女」から「見る女」へ。私が男の裸を撮ってるの。「横須賀ストーリー」の前だよ。

——そうなんですか! 写真家としてデビューする前にもうすでにそうした撮影をしていたんですね。

だから、やるべきことは少しずつやってきた。写真はつねに時代とともにあるでしょう? 私はただ、あんまり大きな声で言わないだけでさ。

ただね、2007年に広島に行き、『ひろしま』を撮ってから、「女で良かったな」って思ったの。被爆者の遺品の洋服たちを撮りながら、「私が1945年8月に広島にいたら(こんな服を)着ててもおかしくない」って思った。男は絶対そういう風に思わないじゃない。亡くなったのは少女たち。私と同じくらいの歳の子もいた。そういう現実味をすごく感じた。女性しか撮れない広島だと思う。私は基本、女性と言われると、写真を撮るのに男も女も関係ないって反発してたけど、『ひろしま』を撮れて、初めて自分が女で良かったと思った。

あと『連夜の街』のシリーズ。あの被写体の赤線地帯というのは、進駐軍が来たとき、普通の婦人や女の子を守るために国が女性を募集して「性の防波堤」を作ったわけだよね。まず、自分が商品になり得ると気づいたときのショック。そして、防波堤って守るものなのに、私は守りのあっち側なのかこっち側なのか、悩んじゃったの。だから、あのシリーズはいまも完結してない。そういう風にいつも他人事じゃなくて、自分がその立場だったらどうか、現実的に感じることを考えて写真を撮っているかな。

左から、石内都「『ひろしま#9』 donor:Ogawa, R.」、「『ひろしま#88』donor:Okimoto, S.」 ©︎ Ishiuchi Miyako

刻まれた時間のかたちを撮る

——1990年の写真集『1・9・4・7』は、石内さんのまたひとつのターニングポイントだと思います。これはご自身が40歳になったとき、同い年生まれの女性50名の手や足を撮影したシリーズですね。

初期三部作のあと、もう写真を辞めようかと思ったの。木村伊兵衛賞をいただいて、たくさん仕事が来たのに全然楽しくなかった。それで頼まれ仕事はやらなくなって、心の中で「写真家になるために写真を始めたわけじゃないし」とか思ってグズグズしてたら、40歳になった。「え、40!?」って。

——戸惑いがあったんですか。

若いときは、まさか40歳まで生きると思ってなかったから。でも40歳になって、自分はこの時間をどう過ごしたのか、見たかった。それで時間はどこに溜まるのかを考えたとき、いちばん過酷に晒される手と足だと思ったの。だから、あれは手と足を通して、時間を撮ってるの。50人の「もうひとりの自分」の40年間を撮った。被写体の多くは、自分とは遠いと感じていた主婦の人たちだった。

1・9・4・7#49 1988-89 ©︎ Ishiuchi Miyako

——撮影をしていかがでしたか。

感動しました。手はまだしも、足の裏なんて見ないじゃない? 本当にいろんな足も手もあるわけ。それは一般的には美しくないよね。中年の女の人の足や手だから、ひび割れてたり、タコがあったり、傷があったり。でもね、それが時間のかたちだと思ったの。そりゃ傷はつくよねって。赤ちゃんのときに何もなくても、これが40年間の時間のかたちなんだなって思ったら本当に感動した。

中年の手足の写真集なんて誰が見るんだろうって悩んでたんだけど、蓋を開けたら割と評価してくれた人が多かった。私はこの作品から、写真についてちゃんと考えるようになったの。

——同時期に男たちの「爪」の写真も撮ったものの、つまらなくて止めたとか。

全然面白くない!(笑) だから止めて、男の「傷」を撮り始めた。『1・9・4・7』の過程で傷のある男の人に出会ったの。「どうしたの?」と聞いたら「この傷はね……」っていろいろ話してくれた。そのとき、「傷って古い写真に近いな」と思ったの。古い写真を前にしたときも、人はそうやって過去について話すじゃない? それで「撮っていい?」って聞いて撮り始めた。傷跡は辛い記憶や痛い記憶だけど、傷跡があるのは傷が治ったから。つまり傷跡は生命のもとかもしれないって思ってね。

——結果的に、「傷」というのは石内さんの全作品に通じるテーマにもなっていますね。

それは私自身が傷を持っているから。小学校のとき死にかけた腹膜炎の傷跡があって、冬になると傷跡が疼くんですよ。そうすると、その部分だけ何だか時間がその時代に戻る感覚がいつもあって。

——現在のなかに、過去があるというか。まさに写真ですね。

そうそう。でも、その過去はいまに通じている時間の流れだから、すごく大切だよね。私は最初、自分から人に「傷ある?」って聞いてたの。普通、傷なんか見せたくないじゃん。それがね、ある日変わるんですよ。東京国立近代美術館で個展(「石内都展 : モノクロームー時の器」、1999)したとき、傷跡の写真を出したの。そしたら「傷を撮ってください」という人がどんどん現れて、驚いちゃった。そこから広がって、撮り続けるようになったの。

——みなさん、傷を撮ってほしくなる。

写真を見ればわかるんじゃないかな。ロールプリントの大きな写真だし。その人の時間が全部出て、生きている証が全部出て。写真って表面しか撮れないけど、フィルムで光と影を撮って、もう一度光で焼き直すプロセスのなかで、どんどん重複していろんなものが映り込んでくると勝手に思ってるの。一瞬のなかにしか永遠がないことを仏教用語で「刹那」と言うと友人から聞いたんだけど、なるほどな、と。

——ご自身の写真に対する感覚もそれに近いですか?

うん。やっぱり写真は永遠に近いと思う。それは『ひろしま』でも感じた。この間リニューアルした広島平和記念資料館に行ったんだけど、自分が撮影したワンピースも、やっぱり実物はすごく寂しいものなんです。でも、写真でいろんなプロセスを経ると、それはとんでもなく綺麗になる。私はそういう風にソフィスティケートして撮っている。私は『ひろしま』をいちばん美しく撮ろうと思って撮っている。

——記録、ドキュメンタリーじゃないと。

そう。それが写真のひとつのあり方だと思う。美しいのはおかしいと言う人もいるけれど、私の創作だからそれでいいの。現実をどう受け止めて、写すか。自分がどう見たか。それに、モノたちもかわいそうなんだよ。人間は死んじゃうけど、モノも写真もずっと残る。写真が永遠に近いってそういうこと。そういう、「生」じゃないモノや作品はすごい力があるんだって思いながら写真と向き合っている。

*インタビュー後半はこちらから


*1──赤線(あかせん)は、GHQによる公娼廃止指令(1946)から、売春防止法の施行(1958)までのあいだ、半ば公認で売春が行われていた日本の地域。赤線跡とはその地域のこと。
*2──1960年代後半〜70年代前半にかけて、主にヨーロッパやアメリカ、日本などの国々において起こった女性解放運動。
*3──美共闘=美術家共闘会議。東大闘争、全学共闘会議(全共闘)などの学生運動がさかんに起こった1969年、多摩美術大学の学生により結成された闘争組織。



石内都(いしうち・みやこ)
1947年群馬県桐生市生まれ、神奈川県横須賀市育ち。多摩美術大学中退。79年、女性の写真家として初めて「Apartment」で第4回木村伊兵衛写真賞を受賞。自身の母の遺品を撮影した「Mother's 2000-2005 未来の刻印」でヴェネチア・ビエンナーレ日本代表。2007年より継続する、被爆者の遺品を被写体とした「ひろしま」も国際的に評価され、2013年紫綬褒章受章。2014年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞。

杉原環樹

杉原環樹

すぎはら・たまき ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、美術系雑誌や書籍で構成・インタビュー・執筆を行なう。主な媒体に美術手帖、Tokyo Art Beat、アーツカウンシル東京、地域創造など。artscapeで連載「もしもし、キュレーター?」の聞き手を担当中。関わった書籍に、平田オリザ+津田大介『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』(青幻社)、卯城竜太(Chim↑Pom)+松田修『公の時代』(朝日出版社)、森司監修『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』(アーツカウンシル東京)など。