公開日:2022年9月26日

三宅一生が次世代に伝えたこと。廣川玉枝インタビュー

8月5日に84歳の生涯を閉じた世界的デザイナーの三宅一生は、数多くの人材を育成したことでも知られる。革新的な服作りを通じデザインの世界を牽引した三宅が、次世代に伝えたものづくりの核心とは? 学生時代に知遇を得て、現在は服飾デザイナーとして活躍する廣川玉枝に聞いた。

服飾デザイナーの廣川玉枝。東京都渋谷区にて 撮影:編集部

「服は軽くなければいけない」

「三宅一生さんに初めてお会いしたのは、東京の文化服装学院の2年生だった10代の終わりです。当時は2000年代に入る少し手前、一生さんが学生の作品を講評してくださったり、装苑賞(*1)の審査員を務めたりしていた時期でした。マサチューセッツ工科大学(MIT)との合同プロジェクトで作った課題の服を見てくださるということで事務所にうかがいました。世界で活躍する著名なデザイナーに会えるというワクワクした気持ちをよく覚えています。最終学年の3年生の時には、一生さんが装苑賞の審査員をされる最後の回と知り、徹夜して山積みのデザイン画を描いて応募しました。それが審査を通り、自作した服にアドバイスをしていただけるということで、再度事務所を訪問しました。その際に言われたことは『重いね、服は軽くないといけないよ』ということ。学生たちには特に『軽く、動きやすく、着る人がワクワクする服を』とよく教示されていました。何よりも着る人が心地良く、そして元気になれる服を――そんな一生さんの考えが、この学生時代に焼き付いた気がします」
「『素晴らしいからぜひ見なさい』と一生さんから何度か舞台に招待していただきました。文化服装学院のクラスメートだった宮前義之君(*2)とウィリアム・フォーサイスのダンス公演に行ったのを覚えています。身体と衣服の関係がわかりやすく伝わるダンスの世界は、とても刺激がありました。今思えば、若者にまず良いものを沢山見せて美意識を育てようとする意識をつねにお持ちだったと思います」(廣川玉枝)

「1枚の布」を発想の原点に、全体にプリーツを施し「動く彫刻」とも評された《PLEATS PLEASE》(1993)、再生素材を用いて折紙のように畳める《132 5.》(2010)など、機能と美しさを兼ね備えた数々の服を世に送り出した三宅一生。その眼差しは、つねに次世代の育成にも注がれていた。三宅が発掘し、才能を育んだ人材はファッションの世界に留まらず、プロダクトデザイン、アート、産業界まで幅広い。2007年には東京・六本木に安藤忠雄の設計による「21_21 DESIGN SIGHT」を開設。デザインの可能性を伝える様々な展覧会を開催し、若手に発表の機会を提供してきた。

21_21 DESIGN SIGHT外観  撮影:編集部
廣川玉枝。東京都渋谷区にて 撮影:編集部

革新性に魅せられて

服飾ブランド「SOMARTA(ソマルタ)」のデザイナーで、東京2020オリンピック・パラリンピックの“表彰台ジャケット”をアシックスと協業して手掛けるなど活躍する廣川玉枝も、膝下から巣立った一人。服作りを学んだ東京の文化服装学院在学中に三宅と知り合い、卒業後イッセイミヤケに入社した。

廣川の進路の決定打になったのは、三宅が1998年に始めた一体成型でできた無縫製のブランド《A-POC》。1本の糸をチューブ型に編み上げ、購入した人がハサミを入れて服を切り出す革新的な手法だった。

「パリコレクションで初めて《A-POC》を発表したショーの映像を、文化服装学院の視聴覚教室で見たんですね。つながった赤いニットを着た女性たちが連なって歩くフィナーレに、こんなに画期的な服がつくれるんだと大きな衝撃を受け、感動して涙がでました。自分が学生時代に学んでいた、布地を裁断し縫いあげて立体を仕立てる西洋服の製法とは概念が全く違う。服づくりの工程そのものを変えた《A-POC》には衝撃を受けました。元々美術が好きで服飾の世界を目指したのですが、こんなに人を感動させる服を私もつくりたい、ぜひ一生さんの会社に入りたいと思いました」(廣川)

イッセイミヤケ 1999SSのショー風景 © Kazou Ohishi

「入社したイッセイミヤケでは、最初は天然素材を扱う『プランテーション』、次いで『イッセイ ミヤケ メン』、『イッセイ ミヤケ』のデザインチームに配属になり滝沢直己さん(*3)のもとで仕事をしました。入社してすぐに担当したのが、デザイン経験がまったくないニット。糸屋さんに通って糸の種類を覚えることから始め、工場の方に機械やゲージ、編み方について様々なことを教わりました。学生時代には知見がなく本当にゼロベースからのスタートだったので最初は途方に暮れましたし、失敗もしましたが、このときにニットと縁ができて、それがいまでも続いています。横編みのニットをはじめ、カットソーから靴下まで『伸縮する素材』を研究開発し、デザインしていました」(廣川)

工程を熟知したうえでのデザイン

「一生さんと働く機会はほとんどありませんでしたが、全ての工程を把握しないとデザインは成り立たないとする考えは、職場に浸透していました。たとえばニットなら糸選びから始まり、糸の配合、編み方、染色などの加工、そして形と、服づくりの根幹を熟知した上でデザインする必要がありました。そこには、生地から生み出す服づくりを重視される意図があったと思います。職人の手仕事も非常に大事にされていたので、私も工場に通って伝統的な染色方法の板締めや絞り染めなど様々な手仕事の技法に触れることができました。
会社では学ぶことが多く、デザイナーとして鍛えられましたが、不思議なことに職場の先輩からデザインについて教えられたり、指示されたりした記憶はないんですね。企画会議でプレゼンテーションをすると助言はもらえますが、自分で考え積極的に学ばないと周囲についていけなくなるので必死でした。つねに全員が緊張感を持ち、デザインすることと良いものづくりに取り組んでいました」(廣川)。

2006年に廣川は自身のデザイン事務所を設立。「身体における衣服の可能性」をコンセプトにブランド「SOMARTA」を立ち上げて東京コレクションに参加し、翌年の毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞を受賞するなど注目を集めた。

ブランドを始めた当初から廣川が作りつづけるのが、無縫製のニット《Skin》シリーズだ。コンピュータープログラミングを活用し、360度継ぎ目なく緻密に編みあげる製法が特徴で、グラフィカルな模様があたかも「第二の皮膚」のように身体を覆う。歌手のレディー・ガガが愛用し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に作品が収蔵されるなど、海外でも評価が高い代表作だ。

SOMARTA トライバルタトゥーやへナタトゥーの《Skin》シリーズ SOMARTA ENGRAVER(左)、SOMARTA ENGRAVER II - FROST MEHNDI © SOMA DESIGN Photo: Sinya Keita (ROLLUPstudio.)
SOMARTA 《Skin》シリーズ Atlas © SOMA DESIGN Photo: Sinya Keita (ROLLUPstudio.)

「自分のブランドを始めるとき、これまで携わってきたニットを柱にしようと考えました。もう一つ根底にあったのが皮膚のような衣服を作りたいということ。学生時代に訪れたファッションの展覧会で一生さんやジャンポール・ゴルチエさんが皮膚にアプローチした服を作っていたと知り、いつか私も挑戦したいと考えていました。無縫製の製法にも大きな可能性を感じ、研究して生まれたのが《Skin》シリーズです。時代を超えて生き続ける、普遍的なものづくりに取り組みたいと考え、研究開発をつづけようと決めました。
基本的に衣服のデザインは、身体のフォルムと、土地の気候風土や文化に左右されます。しかし、皮膚は性別や年齢、民族、文化を超えて誰でも持っているもの。皮膚はまた、刺青やボディーペイントのように、人間が祈りや願いを込めたり、自己表現をしたりするメディアでもあります。人類誰もが共通して持っているものを、着脱可能な衣服という道具で実現すれば『世界服』、つまり世界の人類共通の普遍性がある衣服ができるのではないかと考えたのです。
《Skin》のような無縫製の服は、継ぎ目がないので着心地が良く、洗濯しても乾きが速い。現代の服としても機能的で優れていると思いますね」(廣川)

「皮膚のような服」に対する廣川のこだわりが生きたのが、東京2020オリンピック・パラリンピックの表彰台で日本の選手が着用した朱赤のジップアップジャケット。アシックスと共同開発したニットのテキスタイルは、汗をかきやすい部位は編目を大きく、紫外線を防ぎたい部分は小さく詰まる特異な編み方を考案した。

「猛暑をしのぎやすく、なおかつ表彰台に上がった選手の存在感が増すように、生地に厚みと張りを持たせる必要がありました。アシックススポーツ工学研究所のボディサーモマッピングに基づいて、発汗する部位を意識しながらテキスタイルを設計し、試作を繰り返しました。人間の身体機能に応じた皮膚そのものをデザインするような感覚でしたね。
ニュースで知った一生さんが『廣川さん、良かったね』と喜んでくださったと元同僚から聞きました。うれしいことでしたが、それに満足してその場に止まるのではなく、さらに良いものをデザインできるように精進しようと思いました」(廣川)

デザインを通じて社会を良くする

半世紀を超す三宅の活動の根底にあったのは「デザインを通じて社会を良くする」という信念だ。1938年、広島市生まれ。戦後、彫刻家イサム・ノグチが設計した爆心地近くの橋の意匠に感銘を受けてデザインを志した。多摩美術大学在学中に服のデザインを始め、着物を含む衣服の歴史や日本の伝統技法を独自に学んだ。在学中の1960年、日本で初めて開催された世界デザイン会議に、なぜ服飾デザインが対象に含まれないのかと尋ねる質問状を送付。当時は日本での認知度が低かった服飾デザインを、他の分野と同等に扱うように求めた。

「一生さんは自分をファッションデザイナーでなくデザイナーと呼んでいました。うつろいゆく『ファッション』とは違う文脈で衣服をとらえ、一過性の流行をつくるのではなく、人々の生活と密接に繋がり、心豊かになるものづくりを行う仕事を、デザイナーという肩書に込めたのではないかと想像しています」(廣川)

21_21 DESIGN SIGHTで2023年2月12日まで開催中の「クリストとジャンヌ=クロード “包まれた凱旋門“」展の会場風景より 撮影:編集部

「一生さんが21_21 DESIGN SIGHTを開設し、2012年に『国立デザイン美術館をつくる会』(*4)を発足させたのを拝見して、改めてデザインの社会的意義や価値に対する強い信念を感じました。『デザイン』は人間が人工的に作るもの全てに関与し、生活に欠かせないものです。日本には、衣食住にまつわるユニークで素晴らしいデザインが伝統工芸から工業製品までたくさんあるので、網羅的に収蔵、保存して誰もが見ることができる国立のデザインミュージアムがないのは非常にもったいないと、お話しされていました。昨今、日本の手仕事の技術は失われてしまうものも多く、一生さんは常にデザインのことを社会的な視点で考えられていました。デザインは産業と結びついて後世へ続きますが、衣料分野では近年、染織や縫製工場がどんどん減っています。良質なものづくりを次世代に繋げるためにも、日本のものづくりのアーカイブが存在することは重要です」(廣川)

国立デザインミュージアム実現を


「一生さんの思いや意志を受け継いで、私たちの時代に国立のデザインミュージアムを実現したいです。そのためには、『デザイン』に対する社会の理解や意識の高まりが欠かせません。
先日、NHKが展開する『デザイン ミュージアム ジャパン プロジェクト』に参加して、福岡県の素晴らしいデザインをリサーチしました。700年以上の歴史を持つ博多祇園山笠の作り手やトイレを製造するTOTO本社工場を取材し、その内容を基にした展覧会が来年ロンドンやサンパウロで開催される予定です。国立デザイン美術館の実現が近づくように、少しでも力になりたいと思っています」(廣川)

昨年12月~今年2月に開催された「廣川玉枝 in BEPPU」で、廣川がデザインした衣裳をまとい踊る人々 © SOMA DESIGN/混浴温泉世界実行委員会 Photo:Takeshi Hirabayashi
「廣川玉枝 in BEPPU」の作品のひとつ《鉄輪むし湯》。暖簾と提灯が《Skin》シリーズをまとっている © SOMA DESIGN/混浴温泉世界実行委員会 Photo: Sinya Keita (ROLLUPstudio.)

昨年、大分県別府市の芸術祭「in BEPPU」の招聘アーティストに選ばれ、国内外の展覧会への参加や企業とのコラボレーションなど、活動領域を広げる廣川。学生時代から教えを受けた三宅はどのような存在だったのだろうか。

「本当に偉大な方ですし、厳しいことをおっしゃる時もユーモアがあり優しい方でした。最後にお目に掛かったのはコロナ禍の前、21_21 DESIGN SIGHTで開催された展覧会のオープニングの時で、『ちょっと座りなさい』と言われ、お叱りと励ましの言葉を頂戴しました。独立後もいつも気にかけて見守ってくださり、愛情深い方でした。大切なことを言ってくださって本当にありがたかったですし、今まで以上にデザインの仕事に励みたいと思いました。
あまりに大きな存在で、うまく表現できないのですが、私にとって一生さんは衣服を通じてデザインの真髄を示してくれた最初のデザイナーです。学生時代の出会いが、私の人生を『デザイン』という広くて豊かな海に導いてくれました。心から感謝しています」(廣川)

*1──1956年に創設された公募ファッションコンテスト。三宅一生、高田賢三、山本耀司ら数多くの著名デザイナーを輩出した。
*2──(株)イッセイミヤケ所属。2011~2019年、イッセイミヤケのクリエイティブディレクターを務めた。
*3──ファッションデザイナー。1999~2006年、イッセイミヤケのデザイナーを務めた。
*4──三宅一生と美術史家の青柳正規が発起人となり、2012年に発足した国立のデザインミュージアム設立を目指す運動。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。