最終更新:2022年9月21日

【新連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #1:ベトナム戦争を軸に「日本戦後美術」を辿り直す

インディペンデントキュレーター、長谷川新による連載がスタート。本連載は、1960〜70年代の「日本戦後美術」を、これまであまり光が当てられてこなかった「ベトナム戦争」を軸に辿り直すもの。ベトナム戦争を背景にした「イザナギ景気」に日本列島が沸いた時代の、新たな戦後美術史を立ち上げる。(不定期連載)

「現代美術野外フェスティバル」カタログ

※本稿では、ベトナム戦争に関する残酷な描写の画像を含みます(Tokyo Art Beat)

ベトナム戦争と「日本戦後美術」

この連載は、「日本戦後美術」──特に1960年代から1970年代初めにかけてを、ベトナム戦争を軸に辿りなおすものである。アメリカが北ベトナムに本格的な空爆を始めたのが1965年。1973年に米軍が撤退してからも戦争は続き、終結したのは1975年のことだ。

この時期の日本の美術はほかの時期と比べてもよく知られており、日本戦後美術の花形だと考える人は多い。60年代の前衛を、現在に至る「日本現代美術」の起点のひとつとして位置づけることもある。だが、この美術史観はベトナム戦争を意図的に見落とすことで成立している。ベトナム戦争を通して当時を眼差すとき、「読売アンデパンダン」「ハイレッドセンター」「もの派」「大阪万博」といったすでによく知られる「日本戦後美術」とは異なる実践が姿を表す。というよりも、そうした著名な美術実践が、実際にはどのような条件のもとで成立していたのかを問い直さざるをえなくなる。

新宿駅東口にできた鉄の壁に書かれた米軍タンク車輸送を告発する落書き「このかべの向こうはベトナムだ!」1968年2月24日『毎日ムックシリーズ20世紀の記憶 1968年』毎日新聞社、1998年、pp.66-67。この「グラフィティ」については、以下の論考にも言及が見られる。 Earlier that year in February, in the East Exit of Shinjuku Station, people wrote various graffiti such as “Opposite to this wall is Vietnam!” on a steel wall that unveiled the US tanks transported to Vietnam. Chapter 5 The Spectacle of Democracy: Violence, Language, and Dissensus in the Case of Anti-war Graffiti in Tokyo, Pan, Lu. Aestheticizing Public Space: Street Visual Politics in East Asian Cities, Intellect Books Ltd. ,p.121

出発点となる翻訳

冒頭から前のめりに書き出してしまったので、まずはこの連載のきっかけについて触れておきたい。ここしばらく翻訳の出版を準備している。昨年末からART WORKERS:Radical Practice in the Vietnam War Eraという本(ジュリア・ブライアン=ウィルソン著)の読書会を行っていたのだが(*1)、それを読書会のメンバーで翻訳することになったのだ。ART WORKERSはタイトルのとおり、アーティスト、批評家、キュレーターといった人々が、「アートワーカー」つまり「(芸術)労働者」として自分たちを再定義しようとした軌跡をたどる本である。

ジュリア・ブライアン=ウィルソン『Art Workers: Radical Practice in the Vietnam War Era』(Univ of California Pr、2009)

1960年代末のニューヨークにいた彼らは芸術労働者連合(Art Workers Coalition)という組織を設立し、美術館にアートワーカーとしての権利を守るよう働きかけたり、美術館の理事会の社会的不正を糾弾したりした。残念ながら、組織内でのジェンダーの不均衡(事務作業が女性に偏重している)や人種差別(アフリカ系やプエルトリコ系移民アーティストの軽視)があったりして、芸術労働者連合自体は短命に終わっているのだけれど、そうした「失敗」も含めて、50年後のいま、日本で、この本が読まれることに意味があるだろうと思っている。

とはいえ「50年前のアメリカ」の「先駆的な試み」にただ学ぼうというのも違う気がする。なんというか、落とし穴がある。少なくとも自分にとっては、翻訳と同時に日本の同時代の実践を再検討することが必要だった。ブライアン=ウィルソンの本の副題には「べトナム戦争時代のラディカル・プラクティス」と書かれている(彼女の父がベトナム出兵経験者だそうだ)。であれば、ベトナム戦争時代を「双方向的に」振り返る作業は、翻訳という営みの半分を占めているようにも思われるのだ。

べトナム特需

日本にも「ベトナム戦争時代」があった。日本とベトナム戦争は密接に結びついていた。そのつながりについて触れるうえで、ヒントとなるマンガがある。1968年に発表された『ゲゲゲの鬼太郎』の「ベトナム戦記」には、目玉の親父のイトコの「毛目玉」が、ベトナムから日本にやってきて助けを求めるシーンがでてくる。

水木しげる(脚本協力:福田善之、佐々木守)「ベトナム戦記 第1話 鬼太郎サイゴンへ行く」『水木しげる漫画大全集046 ゲゲゲの鬼太郎18 ベトナム戦記他』講談社、2020年、p.26(初出:『宝石』1968年7月号、光文社)

鬼太郎のリアクションが当時の「空気」を伝えていて興味深いが、ここで注目したいのは毛目玉の発言である。彼は「米軍の負傷兵の傷口の中に入って五時間ばかり飛んできた」と言う。「当時、ベトナム戦争で負傷した米兵の七五%は、日本で治療を受けていた」(*2)。毛目玉がたどり着いたのは東京の王子野戦病院である。「それらの病院では、多くの日本人の医師・看護婦・検査員・雑役夫などがはたらいており、日本の会社がさまざまな薬品や医療器材を米軍に納入していた」(*3) 。病院で働く人々は、夕刊でベトナムの激戦の報道に触れると、その日の夜には多くの米兵が担ぎこまれて来ることをよく知っていた。5時間とはそういう空間的距離だった。

病院以外でも、日本は実質的にベトナム戦争最大のアメリカ軍後方支援拠点だった。ふたつ引用する。

「ベトナム戦争が本格化すると、多くの物資が日本国内の四〇近い港から搬出された。日本はまさに「トイレットペーパーからミサイルまで」ベトナムに供給したと批判される。ナパーム弾の九〇%は日本製で、部品の状態でベトナムに送られた。他に有刺鉄線、防虫網、兵舎用プレハブ、土嚢、木材、セメント、発電機、ダイナマイト、クレーン、トラック、ジープ、カメラ、軍服、靴、食糧、宣伝ビラ、遺体袋などの需要、駐留米軍の消費やサービス提供など、日本の貢献は多岐にわたった。」(*4)

「アメリカ兵は、キリン・ビールを飲み、ロッテのガムを噛み、千葉のレタスを食べた。アメリカのパイロットは何十億枚というベトナム語の宣伝ビラを撒いたが、それは神奈川県で印刷されたものだった。負傷兵が受けた輸血の一部は日本人の血液だった。」(*5)

こうした「後方支援」は、戦後初の赤字国債発行もあいまって、オリンピック直後の疲弊した日本経済に活力を与えることとなる。「ベトナム特需」である。「日本戦後美術」のなかでもっとも華やかで血湧き肉踊る前衛の時代は、空前の好景気──「イザナギ景気」──に底支えされている。ベトナム特需に後押しされ、1965年11月から1970年7月の57ヶ月間好景気は続き、平均経済成長率は脅威の11.8%を記録している。日本はアメリカに対しての貿易収支が黒字となり、国民総生産がアメリカに次いで世界2位となり、人々の暮らしにはカラーテレビ、クーラー、マイカーが浸透した。昭和元禄、高度経済成長の最終局面である。

イザナギと呼ばれた時代

そのいっぽうで、イザナギと呼ばれた時代、都内では通常の列車と同じ線路を米軍のタンク車がジェット燃料を積んでひた走っていた。1967年8月8日午前1時45分、タンク車は新宿駅で衝突炎上事故を起こす。この事件はかなりの衝撃をもって受けとめられはしたが(「このかべの向こうはベトナムだ!」)、東京の米軍基地は少なくない都市生活者のなかではすでに不可視の存在となっていた。

「九月のある日、淀橋の中学に勤めているある女教師からこんな電話がかかってきた。「夏休みがあけて、生徒達にこの夏休みの間におこった大事件をあげてごらんとたずねてみたら、ほとんどの生徒が新宿駅のタンクローリーの爆発事件をあげました。そこでこの事件の原因をたずねてみると、異口同音に運転手の不注意と国鉄の過密ダイヤだと答えました。一番大事な原因であるはずの立川と横田基地の存在を、みんな忘れてしまっているのです。[...]」」(*6)

イザナギと呼ばれた時代、爆撃機B52が沖縄の嘉手納基地から日々飛び立っていた。板付飛行場(現在の福岡空港)を出た戦闘機は九州大学構内に墜落した。墜落現場から十数メートルのところにはコバルト60(放射性同位体)​​を保管する倉庫があり、放射能汚染の可能性があった。佐世保では原子力空母が入港し、原子力潜水艦周囲の海水から平常値の10倍以上の放射能が検出されたこともあった。戦車、弾薬、枯葉剤を積んだ米軍の物資輸送船には累計1400人もの日本人が乗船していて、なかにはベトナムで殺害された者もいる(*7)。つまるところこれは「兵站」中の「戦死」にほかならない。しかしそれでも、実際には次のように言えてしまう(昭和史について造詣の深い半藤一利をもってしてもこうである)。

「日本はベトナム戦争とは関係していません──もちろんB52が沖縄から飛んでますし、補給などの面で潤ったのはたしかですが、直接には介入しませんでした。」(*8)

こうした前提のもとで、1960年代から70年初めにかけての「イザナギと呼ばれた時代の美術」を考えるとき、もはや「日本・戦後・美術」というカテゴリー自体が軋み始める。なぜなら、その「戦後」なるものは、日本以外の別の地域が「戦時」であることによって成立しているからである(*9)。

現代美術野外フェスティバル

作品を検討するにあたって、例えば真っ先に思い浮かぶのは、河原温の《Title (ONE THING, 1965, VIET-NAM)》(1965)だろう。のちの《TODAY》シリーズに連なるこの作品は、ニューヨークに居を移した河原が「在外日本作家展」(東京国立近代美術館、1965)に出品した作品のひとつであり(つまり鑑賞者の多くは日本に住む者たち)、ベトナム戦争とアメリカのアーティストの関係を検証した「ARTISTS RESPOND American Art and the Vietnam War, 1965-1975」展(スミソニアン・アメリカ美術館、ミネアポリス美術館、2019-20)でも、アーティストからの反応の嚆矢と位置づけられている。

河原温 Title (ONE THING, 1965, VIET-NAM) 1965 キャンバスにコラージュとアクリル絵具 National Gallery of Art, Washington, Patrons’ Permanent Fund.  © One Million Years Foundation, courtesy David Zwirner, Photo by Libby Weiler. 出典:https://americanart.si.edu/blog/american-art-and-vietnam-war  メリッサ・ホーは「ONE THING」がアメリカ人にとっては戦争であると解釈し論を進めている。なお、ONE THINGはもともとRED CHINAと書かれてあったが変更された。 Melissa Ho, ONE THING: VIET-NAM American Art and the Vietnam War, ARTISTS RESPOND American Art and the Vietnam War, 1965-1975, Edited by Melissa Ho, Smithsonian American Art Museum, 2019, p.1

ただ、今回は1970年から始めようと思う。1970年の春、「大阪万博」「第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ) 人間と物質」などの煌びやかな展覧会の影に隠れて、ある大型野外展が企画されていた。「現代美術野外フェスティバル」である。

会場は神奈川県の「こどもの国」であり、戦後、田奈弾薬庫を米軍が接収したのち、1959年の皇太子成婚を期に施設跡地を整備して65年に公園化した経緯をもつ(*10)。実行委員会は全員アーティストで、関西や東海も含め全国から158名が参加したかなり大規模な自主企画展であった。実行委員会のひとりである松本百司は、「芸術家自身が運営し、創造する大規模な展覧会」だと強調し「100万平方メートルの芝生と森のある土地──こどもの国で、70年4月から2か月間、自由で自律的な表現活動が、ぼくら自身の企画で実現可能となった」と自負している(*11)。

「現代美術野外フェスティバル」カタログ

こうしてできる限りの制約を廃してアーティスト主導で目論まれた「現代美術野外フェスティバル」は、実際にはまったく異なる方向に進むこととなった。会期序盤で作品に対して検閲が行われ、最終的に18名ものアーティストが作品を撤去、破損、修正する事態に追い込まれたのである。公園管理者や後援の企業だけではなく、アーティストによって構成された実行委員会も検閲に加担していたからか、「現代美術野外フェスティバル」は「日本戦後美術」のなかでもほとんど無視されていると言ってよい(『あいだ EXTRA』での特集(*12)や加治屋健司による検証(*13)のほか、加藤アキラ(*14)や中山正樹(*15)のオーラルヒストリーアーカイブで言及がなされている程度だ)。いずれにしても、まずはいちばんはじめに検閲の対象となった作品を確認しよう。

「ソンミ村の虐殺」

川村直子(1932〜)はオプティカルなイリュージョン性で知覚を揺らすような抽象絵画を制作している作家であるが、「現代美術野外フェスティバル」ではこれまでとはまったく異なる実践を複数発表していた。そのひとつは、会場入口付近の壁に、ベトナムのソンミ村の虐殺の写真を貼り合わせたB全版原色刷展覧会ポスターを13枚横一列に設置するというものである。

川村直子  69’-A(左)、69’-B(右) 1969 神奈川県立近代美術館蔵 第4回神奈川県美術美術展大賞受賞作 撮影:守屋友樹
「現代美術野外フェスティバル」(1970)での、川村直子の展示の様子を伝える資料。『70150+α 現代美術野外フェスティバル』ブロンズ社、1970年、pp.60-61、撮影:原栄三郎

川村の作品は、展覧会初日の4月1日時点で後援の東急から「フェスティバルのポスター転用は許さぬ」という理由で介入がなされ、翌日には「残酷で政治的だ」という理由で「こどもの国」協会管理事務所が撤去を要求する事態へと発展する(展覧会自体の中止も辞さない強硬姿勢であった(*16))。

海老原暎らが抗議集会で配布した資料から抜粋

川村が用いたのは、ロナルド・L・ヘーバールによって撮影された「ソンミ村の虐殺」の報道写真である。1968年に米軍によって500名以上のソンミ村の住民が虐殺されたこの事件は、1年半ものあいだ隠蔽され続けたが、1969年11月に発覚し、へーバールによる写真は世界中に衝撃を与えていた。

ソンミ村虐殺の報道写真。ベトナム、ホーチミン市の戦争証跡博物館にて 撮影:筆者 詳細写真は下記からも閲覧可能https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%9F%E6%9D%91%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この写真を用いた表現でもっともよく知られるのは、芸術労働者連合がMoMAのゲルニカの前で抗議を行った際に用いたポスター《Q. And Babies? A. And Babies.》(赤ん坊も殺されたのですか?ええ、赤ん坊も)だろう。抗議は写真が公開された1969年12月に時をほぼ経ずして行われており、このポスターは翌1970年7月からMoMAで開催された「INFORMATION」展のカタログにも掲載されている(*17)。川村が同様の写真を用いてコラージュを制作したのは1970年3月である。

芸術労働者連合 Q. And babies? A. And babies.(赤ん坊も殺されたのですか?ええ、赤ん坊も) 1970 Smithsonian American Art Museum  © 1970 Irving Petlin, Jon Hendricks, and Frazer Dougherty 出典:https://americanart.si.edu/artwork/q-and-babies-and-babies-111524
芸術労働者連合が《Q. And Babies? A. And Babies.》ポスターを持ち、MoMAのゲルニカの前で抗議を行う様子 Photo by Jan van Raay 出典:https://www.cram.com/flashcards/final-exam-ha-part1-2482611

日本で同時期にソンミ村の虐殺に反応した表現は、田部光子による《迷彩をほどこされた風景》の三連画(一枚消失)や、手塚治虫の「I.L : 南から来た男」(*18)があげられる(印刷のスケジュール次第では手塚の仕事は芸術労働者連合の抗議の時期と数日ほどの違いしかない可能性がある)。

田部の回顧展を企画した福岡市美術館学芸員の正路佐知子によれば、《迷彩をほどこされた風景》はたんにソンミ村の写真をベースにしているというだけではなく、「「万博破壊九州大会」(1969)などで反芸術パフォーマーたちに併走し、8ミリビデオで記録撮影をしてきた田部の、画家という立場からの応答として」描かれている(*19)。

田部光子 迷彩をほどこされた風景 1970 田部光子展「希望を捨てるわけにはいかない」(福岡市美術館、2022)の展示風景より 撮影:山﨑信一(スタジオパッション)

いっぽう手塚は「I.L : 南から来た男」のなかで、ソンミ村虐殺に加担しベトナムの女性を強姦した罪に問われた白人男性兵士が、自身も上司に強姦されたあと首吊り自殺をするという歪なかたちでの「因果応報」のプロットを提出している。

あるいはまた、写真家の中平卓馬は次のように書くことで「虐殺の共犯者」である撮影者の姿勢を倫理的に糾弾する。

「たしかに彼の写真によってぼくたちはソンミ虐殺の事実を知った。だがこの写真にぼくは一片の「真実」も見出しはしない」(*20)。

こうした同時期の反応と比較してみると、川村は同時代の美術における「表現の自由」がベトナムを忘却することで成立していることを批判的に示すためにイメージを「盗用」していることがわかる。原栄三によって撮影された「こどもの国」の自然──澄んだ空と山の尾根──は、その空の部分を楕円に切り抜かれたソンミ村の虐殺写真が覆うことによって、ベトナムと「こどもの国」が地続きであることを訴えている。

このイメージの流用は、アンディ・ウォーホルのそれと一見似通っていたとしても、彼の「死と惨禍」シリーズ(1962〜)が「本人にとっては一度きりの大事件」が繰り返し反復され「よくあるニュースのひとつ」にまで擦り切れていくのを示していることを踏まえればまったく対照的である(川村は作品の設置場所を会場入口の切符売り場横にすることで「現代美術野外フェスティバル」の鑑賞者だけでなく、レクリエーション目的で公園を訪れた人々も「当事者」となるよう効果の最大化をはかっている)。

会期中には、検閲に抗議すべく「「こどもの国」中央自由広場は「ソンミ村広場」と書きあらためられ、「ソンミ村」という看板もかけられた」ようだが(*21)、こうした検閲とそれをめぐる抗議の声が大きくなるにつれ川村自身は板挟みの状況となり、この件について公ではほとんど語らなくなっていく。いっぽうで、孤立する川村に連帯の姿勢を見せたのは、海老原暎(えい)、矢田章子、板東胡江(ひさえ)ら女性作家たちであった。

(つづく)

*1──https://www.artresearchonline.com/workshop
*2──川名晋史『基地の消長 1968-1972 日本本土の米軍基地「撤退」政策』勁草書房、2020年、p.42
*3── 吉沢南『岩波ブックレット シリーズ昭和史No.12 ベトナム戦争と日本』岩波書店、1988年、pp.32-33
*4──松岡完『ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場』中公新書、2001年、p.219
*5──トーマス・R・H.ヘイブンズ『海の向こうの火事 ベトナム戦争と日本 1965-1975』筑摩書房、1990年、p.130
*6──石島晴夫「テレビプロデューサーの現在」『デザイン批評』1968年2月号、p.34
*7──肥沼直寛によるドキュメンタリー 『ベトナム戦争の記憶-元LST船員の葛藤-』2020年
*8──半藤一利『昭和史 戦後篇 1945-1989』平凡社ライブラリ、2009年、pp.547-548
*9── 「〈戦後〉と日本語が指示するものは、日本という国・地域にしか当てはまらない、一国主義的で特殊な時代区分・概念でしかない。[...]朝鮮半島における〈戦時〉を代償として日本の〈戦後〉も成立していることを考えるならば、なおさらのことである。」坪井秀人編『戦後日本を読みかえる1 敗戦と占領』臨川書店、2018年、p.i
*10──国立近現代建築資料館での「「こどもの国」のデザイン ー 自然・未来・メタボリズム建築」展に詳しい。  https://nama.bunka.go.jp/exhibitions/2206
*11──松本百司「自然空間と観衆と芸術 現代美術野外フェスティバルのもつ先駆的意義」『70150+α 現代美術野外フェスティバル』ブロンズ社、1970年、pp.197-198
*12──『あいだ EXTRA』29-30号、福住治夫編、1998年 
*13── 加治屋健司「日本のアートプロジェクトその歴史と近年の展開」『広島アートプロジェクト2009「吉宝丸」』広島アートプロジェクト、2010年、pp.262-263
*14──https://oralarthistory.org/archives/kato_akira/interview_02.php
*15── https://oralarthistory.org/archives/nakayama_masaki/interview_01.php
*16──『ピエロタ』vol2.no.5、母岩社、1970年、p.10
*17── https://www.moma.org/documents/moma_catalogue_2686_300337616.pdf
*18── 『ビッグコミック』1970年1月10 日号、小学館
*19── 正路佐知子「田部光子をひとりの美術家として語り直すために──田部光子展「希望を捨てるわけにはいかない」」 https://artscape.jp/report/curator/10174601_1634.html
*20──中平卓馬「写真の価値を決めるもの 1970.3 ソンミ虐殺事件報道写真」『なぜ、植物図鑑かー中平卓馬映像論集』ちくま文庫、2007年、pp.145-149
*21── 『ピエロタ』vol2.no.5、母岩社、1970年、p.25

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長谷川新

長谷川新

はせがわ・あらた 1988年生まれ。インディペンデントキュレーター。京都大学総合人間学部卒業。専攻は文化人類学。主な企画に「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」展(2013-14)、「無人島にて―「80年代」の彫刻 / 立体 / インスタレーション」(2014)、「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」(2015)、「クロニクル、クロニクル!」(2016-17)、「不純物と免疫」(2017-18)、「グランリバース」(メキシコシティ、2019-)、「αM Project 2020-2021 約束の凝集」(2020-21)、「熟睡、札幌編 / 東京編」(2021-22)、「Gert Robijns: RESET MOBILE- Crash Landing on Akita」(2022)など。共同モデレーターを務めた大阪中之島美術館の開館記念ラウンドテーブル「美術館学芸員がいま相談したいこと」がYouTubeで公開中。https://www.youtube.com/watch?v=hmYr9t9VVsI&feature=youtu.be

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