公開日:2021年10月20日

「シベリア・シリーズ」全57点を一挙展示。神奈川県立近代美術館 葉山「生誕110年 香月泰男展」レポート

太平洋戦争とシベリア抑留の体験を描いた「シベリア・シリーズ」は香月にとってどのような位置付けだったか(文:杉原環樹[ライター])

太平洋戦争への従軍や、敗戦後のシベリア抑留体験をもとにした「シベリア・シリーズ」で広く知られる画家、香月泰男。その画業を振り返る回顧展が、神奈川県立近代美術館の葉山館で開催されている。

目玉はやはり、「シベリア・シリーズ」全57点の一挙展示。ただ、従来は香月の経験した出来事の時系列に沿って紹介されることが多かったその作品群を、本展は、シリーズ以外の作品も交えたなかに制作順に並べる。この構成は、同シリーズをほかの作品との関係性のなかにひらくと同時に、香月の芸術の幅広い魅力に出会える場を作り出してもいる。会期は11月14日まで(10月24日までは原則休館のもと、事前予約された方に限り入館が可能)。

香月泰男 青の太陽 1969 油彩、方解末、木炭、キャンバス 山口県立美術館蔵 *シベリア・シリーズ

孤独な子供時代と後ろ向きの少年

香月は1911年、山口県で生まれた。幼い頃に両親と離れ、厳格な祖父母や叔父のもとで育てられた少年は、大人しく、友人と遊ぶより孤独に絵を描くことを好んだという。

31年、二浪の末に東京美術学校(美校、現・東京藝術大学美術学部の前身)に入学。洋画家の藤島武二の教室に入るも、師の指導が肌に合わず、独自に作風を模索した。美校の入学年から49年までを扱う第1章の冒頭には、そんな試行錯誤の跡を見ることができる。

入学年の《風景》(1931)はゴッホ風、卒業制作の《二人座像》(1936)はピカソ風。第9回国画会に出品されて初入選した《雪降りの山陰風景》(1934)では、歌川広重の浮世絵から学んだものを油絵のなかに昇華した、独特な風景画を描いている。

そんな学びの季節がありながら、美校を卒業後、美術教師として北海道や下関で過ごすなかで制作された40年前後の作品には、はっきりと独自の表現世界が現れてくる。複数の矩形で区切られた画面にパレットナイフで荒々しく兎たちを描く《兎》(1939)は、香月が初めて自ら絵描きとしての確信を得た作品だという。

個人的に印象的だったのは、北海道時代からたびたび絵に登場するようになる少年の姿。はじめ正面向きの俯いた表情で描かれた少年は、やがて《水鏡》(1942)のような後ろ姿として描かれるようになる。作家自身の孤独な子供時代を思わせるこれらの作品群に共通する暗いトーンや抒情的な雰囲気は、晩年まで香月の絵画に一貫して漂い続けている。

香月泰男 水鏡 1942 油彩、キャンバス 東京国立近代美術館蔵
会場風景

抒情的な初期の「シベリア・シリーズ」

こうして歩み始めた画家のもとに、42年12月、赤紙が届く。翌年1月、山口市の部隊に配属された香月は、その春に満州へ渡る。そして敗戦後、シベリアへ移され、47年5月の帰国まで収容所で過ごした。この間も香月は断続的に制作を行い、作品の構想を練った。

復員の年の秋には、軍事演習で訪れた草原を描く《雨(牛)》(1947)、翌年には、過酷な抑留生活で亡くなった仲間を描く《埋葬》(1948)がさっそく制作された。これらは現在、制作順で「シベリア・シリーズ」の第一作目、第二作目に位置付けられている。

ただ、そもそも「シベリア・シリーズ」は、67年の画集『シベリヤ』の刊行後、過去作も含めて事後的、段階的に連作として形成された経緯を持つ。すなわち、47年の《雨(牛)》制作時にシリーズの構想はなかったのであり、実際、後年の黒を基調とした作品群と、桃色のような鮮やかな色彩も見える《雨(牛)》や《埋葬》には明らかな隔たりがある。

こうした初期の作品は、むしろ同時期の《風》(1948)のような、戦前の抒情的な作品に連なる同シリーズ以外の作品と並べると収まりがいい。本展にはこのように、香月の代名詞として語られきたシリーズを「解体」する面白さがある。

香月泰男 雨〈牛〉 1947 油彩、キャンバス 山口県立美術館蔵 *シベリア・シリーズ
香月泰男 風 1948 油彩、キャンバス 東京藝術大学蔵

「台所の画家」による技法の探究

1950年から58年までを扱う第2章では、香月が戦前の画風に代わり、新しい絵画のかたちを発見していく過程を見ることができる。この頃の作品に特徴的なのは、日常的なモチーフの選択とキュビスム的な面による構成、そして画材の実験を通した技法の探究だ。

1950年頃から香月は、大きな展覧会に出展する大作のかたわらで、台所にあるものを描いた静物画や、犬など身近な動物の絵をよく描くようになる。《ハムとトマト》(1953)のような作品には、日常の事物に造形的な面白さを見出す画家の眼差しが感じられる。こうした作品から、香月は「台所の画家」とも呼ばれていたそうだ。

描き方の面では、《電車の中の手》(1953)が象徴的なように、対象を面で構成する傾向が強まっていく。電車の棒を掴む角ばった手はもはや彫刻的だが、以前から香月は絵画の制作に当たって彫刻を彫り、それを描くことがあった。このプロセスは、彼が静物画を好んで描いたこととも面白い符合を感じさせる。本展では、その彫刻群も展示されている。

この時期、香月は絵具に日本画の画材や木炭を混ぜるなど技法の実験にも取り組んだ。方解石の粉末である方解末を絵具に混ぜ、色数を抑える画風を模索していたが、56年に初めてのヨーロッパ旅行でダ・ヴィンチのモノクロームの作品を見て、この方向性を確信。帰国後に、方解末の混入による黄土色のマットな下地に、木炭粉で描く方法に辿り着いた。この技法が「シベリア・シリーズ」の代名詞的な黒を基調にした画面につながっていく。

第2章にも、強制労働の左官作業を描く《左官》(1956)や、死の予感とともにトラックで運ばれる様を描いた《乗客》(1957)など、「シベリア・シリーズ」の作品群が展示されている。こうした重いテーマの作品と、それらに近い技法で描かれた《うなぎ》(1956年頃)のような日常的な作品が並んで見られるのも、面白い体験だ。

香月泰男 電車の中の手 1953 油彩、キャンバス 香月泰男美術館蔵
会場風景

刻まれた記憶を描く

1959年の《北へ西へ》《ダモイ》《1945》の3点以降、のちに「シベリア・シリーズ」にまとめられる作品群の制作が本格化する。ただ先述のように、このシリーズ化は当初より計画されたものではなく、暮らしのなかで無作為に蘇る記憶を元に制作されていった。一連の作品は、はじめは「抑留生活もの」「敗戦シリーズ」などと呼ばれていたそうだ。

とはいえ、展示を巡っていると、この3点に始まる第3章で、明らかに会場の空気が変わることも感じられるだろう。それは端的に、ここで「暗さ」のレベルが変わるから、と言えるかもしれない。この暗さとは、シンプルに黒が基調の作風が前面化することに加え、私刑を受けた日本人を描く《1945》(1959)のように、モチーフのレベルでも厳しさが一層増していくという意味もある。また、L字に折れた会場のその角の部分で、左右の壁に分かれた上記3点を一種の「門」として、その暗く黒い空間に入っていく構成も印象的だった。

会場風景

その先の空間で強いインパクトを与えるのが、仲間への鎮魂を込める《涅槃》(1960)をはじめ、移動する隊を描いた《列》(1961)や飢えて群がる人々を姿を描く《餓》(1964)など、この時期に特徴的な、彫刻的な顔を暗闇に無数に描いた作品群だ。一切の鮮やかさもなくほとんど黒に埋没した、裏を返せば闇からしぶとく浮上するような顔の群れは、香月に刻まれた記憶の強烈さと、その記憶への彼の誠実さを示しているようにも感じる。

同シリーズには、希望のない者としての眼差しで太陽を描いた《黒い太陽》(1961)や、収容所での薪作りに使用した道具を描く《鋸》(1964)など、人物の登場しない作品も多く存在する。シリーズの一点一点には香月自身が書いた文章が存在しており、会場ではその切実な言葉とともに絵画を体験することができる。

67年には画集『シベリヤ』が刊行。出版記念展が開催された。ここで、それ以前に制作された32点が体系的に整理され、「シベリア・シリーズ」の名が定着し始める。この画集と展覧会は、香月のなかではシベリア関連の制作に踏ん切りをつける意味もあったといい、日本帰国時の様子を描いた《復員〈タラップ〉》(1967)は、まさにその節目とするはずの作品だった。しかし、その後もシリーズは増えていくことになる。

同時期には孫の誕生など、私生活の喜びもあった。《父と子》(1967-69年頃)や《駄々子》(1968)には、そんな暮らしの様子が描かれている。こうした平和の喜びを感じさせる出来事は、辛い記憶を遡る制作との対比のなかで、より深い意味を持ったのだろう。

香月泰男 復員〈タラップ〉 1967 油彩、方解末、木炭、キャンバス 山口県立美術館蔵 *シベリア・シリーズ

生きた時間のなかで体験を綴る

最後の第4章は、『シベリヤ』刊行の翌年から、香月が亡くなる74年までを紹介。この頃の作品には、最期まで作品を変化させ続けた画家の姿勢を感じることができる。

大きな変化のひとつは、シベリアへの移送中に目撃した日本軍施設の火災を画面いっぱいの赤色で表現した《業火》(1970)など、画面に再び色彩が大胆に使われ始めることだ。さらに、闇の中を顔が埋め尽くすような以前の切迫感はやや落ち着き、荒涼とした土地や煙のような出来事を感じさせる対象を俯瞰で描いた、静かな風景画も増えていく。

シリーズの意識が明確になったことで、「シリーズの一点」として互いに響き合うことが意図された作品群も出てくる。シベリアに送られる人の列を描く《奉天(左)/(右)》(1970)と、引揚船の点呼を待つ列を描く《点呼(左)/(右)》(1971)という、シベリア体験の始点と終点を描いた作品群は、構図や特徴的な列の表現などがよく似ている。

画集の発表やこうした画風の変化も受け、香月は晩年に人気画家になる。その結果の経済的な余裕もあり、70年以降は頻繁に海外を訪れた。この章に並ぶ小品からは、その土地土地で得た新鮮な印象や感覚を自分の絵画のなかに取り込もうとする意欲を感じる。

いっぽう、個人的に、晩年の香月に、引揚船に乗り込んだナホトカを舞台とした作品が多いのも興味深かった。日本海を前に帰国前に亡くなった人を描いた《日本海》(1972)。引揚船を待つ間、絵具箱を枕に寝た夜を描いた《絵具箱》(1972)。そして、画家が亡くなったさいにアトリエに遺されていたうちの一点である、《渚〈ナホトカ〉》(1974)。最後の一点は、ナホトカの砂浜で一晩を過ごす兵士たちを描く。画家は、雑魚寝するような黒い顔の群れのなかに、シベリアで亡くなった仲間の姿も見ていたようだ。

香月泰男 日本海 1972 油彩、方解末、木炭、キャンバス 山口県立美術館蔵 *シベリア・シリーズ

この作品と一緒にアトリエに遺されていた《日の出》《月の出》(1974)についての自筆解説で、香月は、遠くの家族を想起させる太陽や月のありがたさをシベリアで初めて知ったと語り、「兵にとって、戦争とは郷愁との戦いでもあるのだ」と書く。香月はナホトカの光景をそんな郷愁の念と結びつけ、帰国後の日本での暮らしのなかでも大切にしていたのかもしれない。

従軍体験を持つ画家による、戦後を代表する絵画シリーズである「シベリア・シリーズ」。本展においても、たしかにそのインパクトは強烈だ。だが、その作品群はあるとき突然生み出された思考の産物ではなかった。それは香月の身体と、それを取り巻く戦前まで含んだ時間のなかで有機的に編まれていったものなのだ。本展では、それを実感できるだろう。

会場風景

杉原環樹

杉原環樹

すぎはら・たまき ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、美術系雑誌や書籍で構成・インタビュー・執筆を行なう。主な媒体に美術手帖、CINRA.NET、アーツカウンシル東京関連。artscapeで連載「もしもし、キュレーター?」の聞き手を担当中。関わった書籍に、平田オリザ+津田大介『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』(青幻社)、卯城竜太(Chim↑Pom)+松田修『公の時代』(朝日出版社)、森司監修『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』(アーツカウンシル東京)など。