「どの仕事も全部私の命です」。イケムラレイコが見つめる光と暗闇とその向こう(聞き手:小勝禮子)

現在はドイツに拠点を置き、様々なメディアで生命の根源を探求する作品を制作してきたイケムラレイコにインタビュー。個展「限りなく透明な」(シュウゴアーツ)開催を機に、パンデミック期間の新たな制作や、アーティストとしての道を切り開いてきたこれまでの歩みを、キュレーターの小勝禮子が聞く。(構成:新原なりか)

イケムラレイコ 個展「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)にて 撮影:編集部

1970年代にスペインに渡り、スイスを経て80年代前半よりドイツを拠点に活動するイケムラレイコ。絵画や彫刻、ドローイング、写真、詩といった様々なメディアで、根源的な生命の諸相とその無限の可能性に向き合い表現してきたイケムラの作品群は、国内外で高い評価を受けている。

今回は個展「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)開催を機に、来日した作家にインタビューを実施。 2016年まで栃木県立美術館学芸員として勤務し、イケムラと長年関わりを持ってきたキュレーター、美術史家、美術批評家の小勝禮子を聞き手に迎え、女性であること、そして異邦人であることの困難を引き受けてきたこれまでの歩みから、コロナ禍における制作の新たな展開までを聞く。【Tokyo Art Beat】


イケムラレイコ「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

世の中の変革にずっと立ち会ってきた

──ベルリンの旧アトリエにお邪魔したのがもう10年以上前になりますね。今日はひさしぶりにお話しできて嬉しいです。まずは、昨今のコロナウイルスの世界的な蔓延のなかで、どのように感じて制作を行っていらっしゃるかお伺いできますか?

初めはやはりショックだったというか、信じられないというか。でも、ある面では、すべてが物質主義的である現代社会への批判はいつも持っていたし、行き過ぎた資本主義社会のあり方はいつか破裂するとなんとなく予期していました。ただ、私が生きているあいだにこんなことが起こるとは想像していなかった。

パンデミックは、ひとつのメタファーとしては非常に大事な経験だと思います。私にとってよかったと思うのは、時計が止まったようにすべての動きが遅くなって、ぽっかり空いた時間ができたこと。そのなかで、ベルリンの街も静かになって、空気もだんだんときれいになっていって。鳥のさえずりが聞こえるようになって、空を見ると真っ青で、そういう変化に喜びを見出せた。危機のなかにあっても、それを大事な経験であると変換して、自分が何を学ぶか、どう自分の仕事につなげていくかを考えるようにしています。

イケムラレイコ「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

──今回の個展で展示されているガラスの彫刻作品は、当初ヴェネチアのムラーノ島で制作するよう依頼されていたそうですね。それがコロナでキャンセルになって、ご自宅の窯で全部作られたと。

はい。自分の家で制作のすべてを行ったというのは、私にとって画期的なことでした。最初から最後まで全工程を自分で見てコントロールできるというのは、素晴らしい経験でしたね。

──イケムラさんのアーティストとしての歩みを振り返りたいと思います。お書きになった自伝的回想録である『どこにも属さないわたし』(平凡社、2019)では、「日本を離れても、私が行く先々で、常に時代が動くような大きな運動が起こり、歴史的な変革の場面に立ち会うことがあった」と書かれていますね。その最初には1960年代の学生運動があって、70年代にスペインに留学されたときにはフランコ政権に対する抵抗運動があった。そういった経験はいまのご自身のアートにとって大きな糧になっていると考えてよろしいでしょうか?

そうですね。不思議なことですが、そういうすべてが偶然だとは思わなくて、自分自身がそこにいたということに運命的なものを感じます。コロナもそうだし、いまウクライナの戦争の間近にいるということにも、なにか私の心を内から揺さぶるようなものが感じられます。

イケムラレイコ「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

女性として、異邦人として──全部自分のふたつの手でやってきた

──その後、1979年にスペインからスイスのチューリッヒに移られたのにはどんな理由があったのですか?

スペインは好きな国だけど、セビリアの大学を卒業後にアーティストとしてこの国で自立できるかと考えたときに、答えはノーだったんです。私はどうしても自立したくて、男には頼らないと決めていました。当時のスペインでは、女性は強いんですが、それは社会的な強さではなかった。その点でスイスのほうがいいと、本能的に考えました。

──本のなかで「できれば恋愛、家庭、仕事を自然に並行させたい」というふうに書かれていますが、やっぱり孤独は嫌だというところがあるんでしょうか。

いや、孤独は大事だと思う。孤独は大事だし、それを受け入れられないんだったらアーティストになるべきじゃないっていうぐらい覚悟しています。ただ、人との関係だとか恋愛だとかによって生まれる人間的感情というのは基礎としてあるもので、芸術の道を行く者として人間とのつながりは大切にしていきたい。

ただ、私の世代は、母親になるか仕事を続けるか、どちらかを選択せざるを得なかった。それは非常につらいことだったと、あとになって思うんですよ。いまの方たちは、どちらかしか選択できないということはなくて、仕事を続ける場合でも母親になることを拒否しなくていい。それはえらいし頼もしいし、大事なことだなと思う。ただ、前の世代の女性たちがつくってきた基礎の上に、いまの時代があるということも言い添えたいと思います。こういう話をするのって、前は嫌だったんですけどね。でも最近はやっぱりしないといけないんじゃないかと思い始めました。

母親になれなかったということに対しては、非常に深い傷があります。でもその代わりに私がよく思うのは、だからこそ私の仕事に生命を吹き込みたいということ。だからどの仕事も全部私の命です。次へと生き延びてくれる命になってほしい。

イケムラレイコ 個展「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)にて 撮影:編集部

──女性であることとともに、長年ヨーロッパで活動されるうえで異邦人であるという困難も引き受けてこられたと思うんですが、そのことに関してはいかがでしょうか。

それは大変だったし、いまでも大変なんだけど、でもそういうチャレンジをしないといけないという思いが昔からずっとありました。私は自分の国を愛しているけれど、やはりどこかで開けてつなげていかないとという思いがある。世界のなかで通用する日本になってほしい、そのためには私だってできることはすると。だから高校卒業後に大阪外国語大学に入ったんです。スペイン語を専攻し、その後スペインに留学したのですが、そのとき私が感じたのは、言葉はすごく大事だけれどあくまでツールであって、自分のしたいことは別にあるんだということ。それが美術だった。

私は自分を「実験」だと思ってるんです。あの時代、日本からヨーロッパにやって来た女性が、いろいろな代償を払ったり叩かれたりしながらも自分の道を行くというのはすごく厳しいことだった。でも、それをすることによって何ができるかと、私はすごく期待を持っていましたし、いまも持っています。あの時代に海外に進出した日本のアーティストは、ほとんどが何かの後ろ盾を持っていて、私のように何もなかった人はあまりいなかったんですよ。私は本当に皿洗いからやってきた。全部自分のふたつの手でやるっていうことと、男は使わないっていうこと。それを信じてやってきたというのは、異邦人であっても通じるんじゃないかなと思います。

イケムラレイコ 個展「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)にて 撮影:編集部

女子学生たちに推薦され大学教授に

──イケムラさんは1991年から2015年まで、ベルリン芸術大学の教授をしていらっしゃいましたが、そのきっかけはイケムラさんの生き方に感銘を受けた女子学生たちからの推薦だったそうですね。

彼女たちは戦ったんです。ベルリンの壁崩壊と同じくらいの時期から、男社会の大学を変えようと女子学生たちが立ち上がった。当時の大学は教授が男性ばかりで、みんな威張っていてハラスメントも横行していました。そんな状況を変えようと彼女たちはデモやストライキをして戦った。そのなかで、どうしてか知らないけれど、彼女たちから教授になってほしいと大学に推薦されたのが私だったんです。びっくりしました。私はまだ30代でしたから、まだ早いと最初は断ろうとしたんです。でも、教授として偉そうなことを言うのではなくて、学生とも年齢の近い、友達みたいな横のつながりで悩みを分かちあいながらやっていくのもひとつのやり方かなと思って、少しずつその立場を受け入れていきました。

──いまは女子美術大学の客員教授もされていますね。女子美は1900年、日本で初めての女性のための美術教育機関として創立されました。東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)には当時は女子学生は入学できなかったんですよね。いまではほとんどの美術大学で共学が普通になっていて、女性の教員も増えてきていますが、それでも男性教授が多いというジェンダーバランスの不均衡やハラスメントの問題は相変わらず残っています。

そうですね。それはひとつには意識の問題であって、ハラスメントを当たり前だと思って受け入れてきた時代は終わるべきだと思います。

私たちのなかに埋もれている「少女」

イケムラレイコ ヤヌス 1989  キャンバスにアクリル絵具 115.7×94.5cm

──ここから少し、私が学芸員を務めていた栃木県立美術館との関わりという観点からお話を伺いたいと思います。イケムラさんには、節目節目で展覧会に出品していただいてきました。最初は1991年の展覧会「ザ・サイレント・パッション 日本の女性アーティストたち」(担当学芸員:山本和弘)ですね。当時としては非常に先駆的な、日本の女性アーティストだけを7名集めた展覧会でした。その展覧会には、いわゆるニューペインティング、新表現主義的な絵画作品を出品していただきました。

女性アーティストへの注目の高まりは、その頃からもう始まっていたんですよね。

──その後は1999年の「メディテーション―真昼の瞑想 90年代の日本の美術」(担当学芸員:小勝禮子)。覚えていらっしゃいますか?

もちろん覚えています。「少女」だね。

──はい。「少女」シリーズをちょうど発表された頃で、そのなかからご出品いただきました。このシリーズはイケムラさんの作品のなかでも象徴的な存在として、いまに至るまでずっと制作を続けていらっしゃいますね。この展覧会のすぐ前に、佐谷画廊で「ブラック・ヌーン」というテーマで黒い背景の少女の作品を中心に発表されていました。本にも書かれていましたが、当時ヨーロッパでは黒という色はあまり受け入れられていなくて、それをあえてお使いになったと。

黒の豊かさっていうのは、やはりほかの色との関係であると思うんです。モノクロームで描くペインターもいますが、私は抽象画としてではない色の使い方で、ひとつの実験として、黒が持っている無限性だとか宇宙性っていうのを出したい。黒は印象派の時代から「色ではない」っていうふうに見られてきたけれど、そうじゃない、黒は大事な色なんだっていうことが私のなかにあります。

イケムラレイコ 黒に浮かぶ 1998/99 キャンバスに油彩 120×120cm

絵画でいろんなことを試してきて、色とは何かっていうことも含めて自分なりに探していって、そこで出てきたいちばん根本的なテーマはやっぱり人物と空間。もっともシンプルな人物と空間を、線と垂直性で表すという。そのときに背景はもうその現実の空間性を失って、違う空間、ペインティングのなかでの空間になります。もうひとつのテーマが、理想化されていない女性像としての少女像。マルレーネ・デュマスのように写真をもとにした少女像を描く画家もいますが、私の場合はそうじゃないもの、もっと内側から発する少女像を描きたい。私たちのなかに埋もれている存在を、普遍的なかたちで見つけたいんです。

イケムラレイコ M-scape 2009 麻布に油彩 170×90cm

──それから2010年の企画展「イノセンス -いのちに向き合うアート」(担当学芸員:小勝禮子)には、《M-scape》という等身大以上の少女が描かれた大きな絵画作品を出品していただきました。このMというのは何を表しているんでしょうか。

Mは例えばmotherとか、ドイツ語で少女を指すmädchenとか、女性にまつわる語によく使われます。子供が最初に発音するのもmの音だったり、無(む)のMでもあるし。Mっていうのは説明のできない、非常に根源的なものです。この少女は鳥を抱えていて、あと絵筆を持っています。それはやはり画家としての決心みたいなもので、それを花束のようにして持っている。

──その後2019年には、国立新美術館で「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」という大きな回顧展がありました。この展覧会の最後にあたる「コズミックスケープ」というセクションには、それまでイケムラさんが大切なものとしてかたち作っていらしたものが、全部混沌としたまま一緒になって詰まっているような印象を抱きました。ここで表現されていたのは、動物でも人でもない、かつ東洋でも西洋でもないというような、そういう世界なのでしょうか。

「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」(国立新美術館、東京、2019)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto
「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」(国立新美術館、東京、2019)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

はい、そうですね。小勝さんは私が言いたいことを全部言ってくれるので嬉しいです(笑)。個別にリサーチしてきたことを、ひとつのなかに一緒に組んで広がりと深さを持つようにするというのは、いつも私が希望していることです。それともうひとつのテーマとしては、身体。大きなキャンバスを使うということは、身体を媒体として、私自身が媒体となって絵を描くということです。絵を描くというよりは絵のなかに入っていくっていう、そういう世界かな。

コロナ禍での新境地──透き通る彫刻と、暗闇と、光

イケムラレイコ Cat 2020 キャストガラス 20×26×14cm 個展「限りなく透明な」より ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

──そして今回のシュウゴアーツでの個展「限りなく透明な」ですが、またまったく新しいことをやってらして、先ほど拝見してびっくりしました。ガラスを使った立体作品は初めてですね。作ろうと思ったのはいつ頃からですか?

始まりはもう40年くらい前からあった。陶器の作品をずっと作ってきて、そこで使っている釉薬っていうのはガラスなんですよね。そういった意味ではガラスはずっと使ってるんです、じつは。その釉薬にボディを与えて透き通る彫刻にしたらどうだろうという発想はずっとありました。

イケムラレイコ Sleeping under trees 2017  彩釉テラコッタ 27×31.5×22cm 

──絵画の作品も、今回出品されているものは、いままでとまた少し違った感じもありますけれども、どういうことを考えて制作されたんですか?

まずやりたかったのが彫刻に透明性を与えるということです。それで一緒に展示する絵には、彫刻のカチッとしたかたちに対して非物質的なものにしたかったというのかな、そこにコントラストが欲しかったんです。ガラスの光の凝縮と、絵の暗い色。そして、その暗いところから掬い上げてくれるのは光であって。色というものがまったく違う使い方をされている。そういった試行錯誤が今回の展示です。

イケムラレイコ「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto
イケムラレイコ Lightscape 2022 ネトルにテンペラと油彩 180×110cm

──それからもうひとつ、近年の新しいこととして、『現代詩手帖』(思潮社)に詩を発表していますね。これも素晴らしい詩で。20歳の頃から異邦人として自己形成をされてきたなかで、これだけ彫琢された日本語をずっと持ち続けて詩を書いていらっしゃるっていうのは、非常に奇跡的なことだと思えたのですが、個人的には詩はずっと書いてらしたんですか?

現代詩手帖2021年6月号より 撮影:編集部

詩を書くというよりは、私のなかにある言葉にできない何かを言葉にするというようなことをずっと続けてきました。「詩を書くぞ」っていうような感じでは絶対書かずに、夜眠れないときとか感情的に昂っているときに、どうしようもないから書くという。書けないから書くっていう変な矛盾があるんです。

書く言葉はその場によって、日本語であったりドイツ語であったりスペイン語であったり。日本語は、ヨーロッパでの生活が長くなるとどんどん下手になって、でも抽出液みたいにある何かがあって、それは絶対に失われない。そういった言葉を拾い出してきて、研ぎ澄ませる。それは習慣としての人工的な言葉ではなく、もっとも素朴でシンプルな言葉です。

『現代詩手帖』に私を推薦してくださった方は、私の詩は詩人が書くものとはまったく違う、だから取り上げたいと言ってくださって、それはすごく嬉しかった。やっぱり大切なのは、私は陶の立体をやって来たからいつも陶で作るとか、詩人だから詩を書くということではなくて、そのときそのときの必要性によって手段を選んでいくということだと思います。

──最近は、同じくベルリンを拠点に活動されている塩田千春さんと『手の中に抱く宇宙 イケムラレイコ+塩田千春 対話集』(美術出版社、2022)を出版され、コラボレーション作品も作られていましたね。

塩田さんとはこれまで挨拶したことがあるくらいだったけれど、この企画でお互いのアトリエを訪ねて、新たな関係が生まれました。この本の中身は、私よりも彼女の発言のほうが面白くて、私の発言はそれほどでもないから最初は恥ずかしかったんですよ。でも、私が媒体になって人がいろいろと話してくれるっていうこともいいのかなと思いはじめました。今日は小勝さんが媒体になってくださって。信頼関係だね。

イケムラレイコ、塩⽥千春『⼿の中に抱く宇宙 イケムラレイコ+塩⽥千春 対話集』(美術出版社)

──今回の展覧会に、「限りなく透明な / 最も暗いところから⾒るヒカリ / 最も暗いところに現れる光 / 限りなく暗いところにヒカリ」という言葉を寄せていらっしゃいます。この最悪な状況にある世界のなかで、芸術家として表現していらっしゃるのは、やはり何らかの未来の希望であるということでしょうか。

はい、そういうふうに思っています。光であり、生命であり。いまはみんなが暗中模索しているような時代ですが、アートにとってはやっぱり危機っていうのはいつもチャンスだと思うんですよ。そのチャンスを私なりに掴んで、次の発展につなげていきたい。だからいままでやってきたことをマンネリ的に続けるのではなくて、方向転換をしたりヴィジョンを示したりして、これからもやっていきたいと思っています。

イケムラレイコ 個展「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)にて 撮影:編集部
イケムラレイコ Ohne Gesicht 2021 キャストグラス 28×29×19cm 個展「限りなく透明な」より ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto
イケムラレイコ Trees out of Head(部分) 2021 キャストガラス 27×32×20cm 個展「限りなく透明な」より ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto
イケムラレイコ Pink Sky 2019 ネトルにテンペラ 80×60cm
イケムラレイコ「限りなく透明な」(シュウゴアーツ、東京)会場風景 ©︎ the artist Courtesy of ShugoArts Photo by Shigeo Muto

イケムラレイコ
三重県生まれ。1970年代にスペインに渡り、スイスを経て1980年代前半よりドイツを拠点に活動。絵画や彫刻、ドローイング、写真、詩といった多岐に渡る表現を駆使し、この世に存在するものの生成と変化の諸相、そこに潜む無限の可能性を表現するという根源的な芸術の課題に対峙した作品群は国内外から高い評価を受けている。1991年〜2015年 ベルリン芸術大学教授。2014年より女子美術大学大学院客員教授。2020年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。近年の主な個展に、2019年「Toward New Seas イケムラレイコ 新しい海へ」(バーゼル美術館、スイス)、「土と星 Our Planet」(国立新美術館、東京)など多数。
https://shugoarts.com/artist/49/

小勝禮子
こかつ・れいこ 1955年埼玉県生まれ。専門は近現代美術史、ジェンダー論。 1984〜2016 年、栃木県立美術館学芸員。同館での主な展覧会に、1997年「揺れる女/揺らぐイメー ジ」展、2001年「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後」展、2005年「前衛の女性 1950-1975」展、2012〜13年「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち 1984-2012」展、2015年「戦後 70 年:もうひとつの 1940 年代美術」展など。2020 年よりアジアの女性アーティストをめぐるウェブサイト「アジアの女性アーティスト:ジェンダー、歴史、境界」を管理・運営。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集。音楽誌や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より現職。