公開日:2022年12月1日

映画『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』レビュー。電気に導かれた"猫の画家"の光と影

ベネディクト・カンバーバッチ主演、ウィル・シャープ監督による映画『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』が12月1日(木)より公開。展覧会「ねこのほそ道」を企画する豊田市美術館学芸員の能勢陽子が本作をレビュー。

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』より

19世紀末〜20世紀、イギリスで人気を博したイラストレーターの生涯

「ああ、それはどうしようもないね」と、ネコは言った。
「ここでは、みーんな頭がおかしいんだよ」
—ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』1865年 (*1)

ルイス・ウェインが描いた猫の絵を、どこかで見たことがあった。それは、対象を抽象化していく過程を図示した美術の教科書か、精神病の進行の段階を図解した精神病理学の本のどちらかであったと思う。極彩色で描かれた左右対称の装飾的で奇怪な猫の絵は、一目見たら忘れられない印象を残した。私は、この尋常ではない猫の絵が好きだった。しかし、それを描いた画家については何も知らなかった。映画「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」は、この猫の画家の半生を描いたものである。

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』より

もっとも、私が知っていた猫の絵はウェインが精神病を発病してからのもので、初期には気まぐれでどこかとぼけたところのある、愛らしい猫の絵を描いていた。ルイス・ウェインは1860年にロンドンで生まれ、1939年に同地で没している。ウェインが制作を始めた1890年代のイギリスは、雑誌の刊行が相次ぐ印刷文化の黄金時代であった(*2)。同時代にイギリスで活躍した『不思議の国のアリス』のジョン・テニエル(1820〜1914)や『妖精の国で』のリチャード・ドイル(1824〜1883)を思い浮かべれば、当時のイギリスの雑誌文化の興隆が想像できるだろう。そして、ウェインの愛嬌溢れる猫の絵は、当時鼠退治に供するだけだった猫の存在を、人間とともに暮らすペットの地位に高めるほどの影響を及ぼしたのだった。

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』より

ウェインが安定した制作を始めたのは、「科学と発明の時代」といわれたヴィクトリア朝期であり、このときイギリス帝国は産業革命による繁栄を極めていた。映画の冒頭には、こんなナレーションが流れる。

ヴィクトリア朝のイギリスは発明と発見の場だった
世界最高峰の天才たちが電気の性質を深く調べ
実用化に取り組んでいた
だが若きルイス・ウェインの捉え方は違った
それはエーテルの中のきらめきに感じる 謎めいた元素の力であり
人生の最も深く 驚くべき秘密への鍵だった

トーマス・エジソン(1847〜1937)やニコラ・テスラ(1856〜1943)がアメリカで電流や送電方法に関わる数々の発明を行っていた前後、映画の主人公ウェインも電気に強い関心を寄せ、特許を取ろうとしていたようだ。見えない力で大きく作用する電気は、当時の人々の理解を超えたものであり、なかには精神に変調をきたしてしまう人も現れたという(*3) 。ウェインが擬人化された猫を描き始めたのは、相反するはずの「科学」と「幻想」がまだ奇妙に融合していた時代であった。この映画の原題は、「The Electrical Life of Luis Wain」である。原題にあるとおり、映画は近代的エネルギーがひとりの画家に及ぼした、創造の「光」と狂気の「影」を描く。

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』より

同じく人々に衝撃を与えた19世紀の写真の発明は、芸術家というより雑誌や新聞の挿絵画家であったウェインの生業を、将来的に奪うものであった。1907年に、ウェインはイギリスを凌ぐ工業力を見せ始めたアメリカに渡り、一定の評価を得る。しかしもともと不安定だった彼の精神はアメリカ生活でさらに混迷をきたし、この頃「虎猫の模様は電気で決まる」などと言い始めたようである。そして母国に戻った後の1924年、彼の素行に困った家族により、ついにロンドンの精神病棟に収容される。映画は、母国の繁栄と翳りに歩を合わせるように、ひとりの画家が産業革命期の「力動的幻想」に突き動かされ、やがて狂気にいたる様を見せる。

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』より

「万華鏡猫」を生み出した孤独と狂気

いっぽうこの映画に与えられた邦題は、「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」である。邦題では、「電気」より「愛する者」との関わりがより重視されているといえる。ウェインは結婚してわずか3年後に、病により妻を失う。ウェインが猫を飼い始めたのは、癌に侵された妻の気持ちを和らげるためであり、飼い猫に眼鏡を掛け読書する姿を妻に見せたことが、擬人化した猫を描く発端になった。当時は身分が違う女性との結婚も、猫をペットとして飼うことも、世間の慣習からは外れたことであった。しかし、この時期のウェインは幸福であった。妻に続き、ウェインは人間よりはるかに寿命が短い愛猫の死も経験することになる。死というものの初めての経験がペットによる人も多いと思うが、ウェインはその後3年間泣き明かしたという。映画では、芸術家の孤独と狂気が極まったとき、いまは亡き愛猫が電気を介して脳内に蘇ってくる。ニュートンのいうエーテル空間とは絶対的静止空間であり、もはや時が止まった亡き者たちはそこにおいて現れる。それが、あの奇怪な抽象形態をした「万華鏡猫」である。

それまでのウェインの絵は、確かに猫の特徴をよくとらえた愉快で愛らしいものだったが、大衆に人気を博しうる、いわば凡庸なものでもあった。しかし「万華鏡猫」は、ほかに類を見ない、創造の激しい火花を感じさせる。磁気が作用したかの左右対称からなる複雑な幾何学形態の猫は、フラクタル構造を示している。雪片や鉱物、海岸線などの自然界、さらに株価の変動などにも見出せるというフラクタル幾何学は、あらゆる生物およびその営みの細部や背後に潜んでいる。しかし、このフラクタル幾何学について語られるようになるのは20世紀に入ってからのことだから、ウェインは、ひとり猫の観察を通して、その形態を導き出したことになる。柔らかな姿形にフラクタル幾何学が融合した猫の絵は、その愛らしさに潜む生命の神秘を開陳したかのような、滑稽ながら畏怖の入り混じる不可思議な感覚を生じさせる。
すでに他界した妻が、ウェインにこう語りかける。

昔から猫は神話の神としてあがめられ 魔術や罪の同類とさげすまれた
あなたが初めて 猫の滑稽さに気づいたのよ
愚かでかわいらしく 寂しげなの
怖がりで 勇敢で 私たちみたい
その頭で何を考えているの?

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』より

この映画自体は、ルイス・ウェインの絵そのもののように、映像もストーリーもことさら芸術的なものではない。しかし、猫という存在を通して、芸術家の孤独と狂気が浮かび上がってくる。私たちの身近で寝食を共にし、愛情を交わす猫は、しかし人間とはまったく異なる空間感覚や倫理観を持っている。彼らは身長の十倍以上ある高さを悠々と飛び越えたり、頭がようやく入る程度の隙間を難なくすり抜けたり、外に出れば雀や虫を無慈悲に仕留めて家に持ち帰ったりする。猫は、ますます人工的になっていく私たちの暮らしのなかで、どこまでも野生のかけらであり、異質な存在であり続ける。『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫がいうように、猫は愉快でおかしな別世界そのものである。映画は、狂気と親和性の高い猫を介して、人間世界では生き難いひとりの芸術家の孤独な姿を描き出す。幻想と優しさとともに。

*1──ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』1865年
*2──南條竹則『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』集英社、2015年
*3──荒俣宏『パラノイア創造史』筑摩書房、1991年

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』
12月1日 TOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー
配給:キノフィルムズ
©2021 STUDIOCANAL SAS - CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、クレア・フォイ、アンドレア・ライズボロー、トビー・ジョーンズ、オリヴィア・コールマン(ナレーション)
監督・脚本:ウィル・シャープ 
原案・脚本:サイモン・スティーブンソン
2021年 │ イギリス │ 英語 │ 111分 │ カラー │ スタンダード │ 5.1ch │ G │ 原題:The Electrical Life of Louis Wain │字幕翻訳:岩辺いずみ
©2021 STUDIOCANAL SAS - CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION
提供:木下グループ
配給:キノフィルムズ
louis-wain.jp

能勢陽子

能勢陽子

のせ・ようこ 豊田市美術館学芸員。岡山県生まれ。同館で企画したおもな展覧会に、「テーマ展 中原浩大」(2001)、「ガーデンズ」(2006)、「Blooming:日本-ブラジル きみのいるところ」(2008)、「石上純也-建築の新しい大きさ」展(2010)、「反重力」展(2013)、「杉戸洋-こっぱとあまつぶ」展(2016)、「ビルディング・ロマンス」(2018)、「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展(2021)など。「あいちトリエンナーレ2019」(豊田市・名古屋市、2019)キュレーター。豊田市美術館学芸員で企画する展覧会「ねこのほそ道」が、2023年2月25日から5月21日まで開催予定。