
「出光真子 おんなのさくひん──ある映像作家の自伝」会場風景より、出光真子《Real? Motherhood》(2000、東京都写真美術館蔵) 撮影:編集部
日本における実験映画およびヴィデオ・アートの先駆的なアーティストである、出光真子(1940〜)。その創作の全貌を振り返る初の大規模回顧展「出光真子 おんなのさくひん──ある映像作家の自伝」が東京都写真美術館で開催されている。本展は、娘、妻、母という社会的役割とアーティストとしての自身のあいだで葛藤しながら制作を続け、女性の生き方や夫婦、母子の関係といったテーマを独自の視点で描き出した作家の作品群が一堂に集う、貴重な機会だ。そんな展覧会を笠原美智子(写真評論家、長野県立美術館館長)がレビュー。「MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い」(東京都現代美術館)などで出光を紹介してきた笠原が、出光の作品、そして人生について綴る。【Tokyo Art Beat】
出光真子の《直前の過去》は彼女の最高傑作であるだけでなく、現代日本のコンテンポラリー・アートの傑作だと思う。出光真子はこの作品で長く主題としてきた父との関係や、彼が寄って立つ家父長制を俯瞰して表現し、父との長い葛藤をこの作品に昇華した。戦争のニュース・フィルムに「理想的な家族の肖像」がオーバーラップする不気味さは、現代になってもいまだなお克服されずにいる、いやむしろ悪化の一途を辿っている家父長制的権力を行使しようとする愚かな人間の姿を表している。

出光真子の《直前の過去》は、二層のスクリーンを使ったインスタレーションである。手前の透明なスクリーンに少し古びた「家族写真」が投影されている。家長然とした父親を囲んで中央に学生服を着た長男が、反対側に長女が立っている。長男の前にはまだ幼い女の子がいて隣には赤子を抱いた母親が座り、その横に次女が写る。誰にも笑みはない。スタジオで入念にセットアップして撮影された家族の集合写真、まさに理想化された近代家族の肖像として設定されている。母に抱かれた赤子が作者の出光真子である。彼女は1940年生まれだから、この写真は第二次世界大戦まっただ中で撮られたわけである。前面のスクリーンにこの家族の肖像がプロジェクションされる。それが少しずつクローズアップや風車を手にした幼い姉妹の写真、七五三の写真に変わっていく。その家族の肖像に後部のスクリーンに投影された戦争時のニュース・フィルムや写真が被る。戦争のおびただしい写真と映像、軍艦や戦車や兵士、逃げまどい物乞いをする中国の民衆、特攻隊の進撃や敵を処刑する場面、そして従軍慰安婦や天皇の肖像、大鳥居の佇まい等々である。
なんという対照的な写真だろう。手前のスクリーンだけ見ていたのでは、それが戦争中とは思いも及ばない。白黒写真だからはっきりとは言えないにしても、子供に薄色の服を着せている。姉妹お揃いで仕立てられたものだろう。戦時でなくても贅を尽くしていることがわかる。穏やかで、けれども幼い姉妹の表情はわずかに悲しげで途方に暮れているように見える。
戦争という極限状態では、有無を言わせずに国が個人の運命を直接左右してしまう。そして出光真子の半生を直接左右してしまったのは父に象徴される家父長制である。個人の記憶と社会の記憶、家族の中の権力者と、人を殺すという極限の暴力をも肯定される戦争の権力関係が交差している。
1940年生まれの出光真子にとって、戦争はまさしく「直前の」「過去」である。父を中心としてまっすぐにカメラに視線を向ける一男三女の兄弟と、生まれたばかりの出光真子を抱く母の写真は、幼い姉妹の不安げな表情のように、少しばかり揺れ、少しばかり歪みが入る。戦争のただなかにあって、父・出光佐三は誇らしそうだ。一代で財を成し(この戦争でかなりの財を失ったとはいえすぐに立て直し)、一男四女に恵まれ家族を成した。彼にとって「女」「こども」は自分のモノだ。出光真子はこの写真に写された幼い姉妹がたどることになる人生を、戦争に重ねる。
しかし、と、《直前の過去》で出光真子は問う。家族を縛る権力関係は、同じ構図が国レベルに拡大して戦争という殺戮を正当化するのではないか。この幼い子供たち=わたしも、背後に映る無残に射殺される「敵」に、犬さえも飢えおびえる状況に責任があるのではないかと。