公開日:2023年3月5日

よみがえった私写真の先駆者・深瀬昌久。国内初の回顧展「深瀬昌久 1961–1991 レトロスペクティブ」(東京都写真美術館)レポート

初期から活動を停止するまでの作品約110点が集結し、6月4日まで。

会場風景より、いずれも深瀬昌久《無題(窓から)》(1973)

事故で活動ストップ、一時は「幻」の存在に

東京・恵比寿の東京都写真美術館で「深瀬昌久 1961–1991 レトロスペクティブ」展が3月3日に開幕した。「私写真」の先駆者で国際的な評価が高まる写真家・深瀬昌久(1934~2012)の国内初の大回顧展だ。企画は同館学芸員の鈴木佳子と深瀬昌久アーカイブス・ディレクターのトモ・コスガ。会期は6月4日まで。

深瀬は、一時期「幻の」とも形容された写真家だ。

北海道美深町の写真館を営む家に生まれ、東京の日本大学芸術学部写真学科を卒業。日本デザインセンターや出版社勤務などを経て1968年に独立した。60年代初頭よりカメラ雑誌を中心に、身近な人々や私生活を撮影した写真作品を多数発表。1974年、米国ニューヨーク近代美術館で開催された企画展「New Japanese Photography」に出品し、海外でも注目されたが、1992年に転落事故で重度の後遺症を負い活動がストップ。2014年にコスガらが深瀬昌久アーカイブスを設立し展示活動や作品集の出版に尽力するまで、作品へのアクセスが困難な状況が続いていた。

東京都写真美術館では、深瀬を重点作家の一人に位置づけ、作品を収集してきた。本展では、1988年の開館準備室時代に収蔵した初期の「遊戯」シリーズ、妻を撮影した「洋子」シリーズ、母校日大芸術学部所蔵が所蔵する作品など、約110点を紹介。作品は深瀬本人によるオリジナルプリントも含まれている。発表の場だった雑誌『カメラ毎日』などの資料もあり、本展で紹介されるモノクロ作品だけでなく、カラー作品も手掛けていたと分かる。

会場風景より

記者内覧会で鈴木学芸員は「本展は、15年ほど前に企画が始まり、長い準備期間を経て開催に漕ぎつけた。作家活動を始めた1961年から活動停止までを時系列に沿ったオーソドックスな構成で紹介している。会場は、各室の密閉性を高めるなど作品に没入できる環境を工夫した」と説明。コスガは「深瀬は、私生活に根差す写真作品が珍しかった70年代に身近な存在にカメラを向けた。シュールレアリスティックな表現も取り入れ、人物写真にもミステリアスな要素がたくさん入り込んでいる。先入観なく、まず作品を見てほしい」と語った。

内覧会で説明する深瀬昌久アーカイブスのディレクター、トモ・コスガ

赤裸々に私生活をさらけ出す

8章仕立ての展示は、1971年に刊行された最初の写真集『遊戯』の作品から始まる。『遊戯』は深瀬が十数年間撮影した写真群をオムニバス形式でまとめたシリーズ。会場には昔の恋人の妊娠中の姿もある《冥》、その後妻になった洋子との結婚生活を見せる《寿》、新宿のアンダーグラウンドシーンでの日々を撮った《戯》などが並ぶ。

《屠》は、家畜をほふる屠場に洋子を伴い、暗黒舞踏のような白塗りメイクと黒いマント姿でポーズを取らせた。《母》では、洋子だけでなくその母も上半身裸の状態で撮影した。赤裸々なまでにプライベートをさらけ出す深瀬の創作姿勢が浮かぶ。

会場風景より、ともに深瀬昌久《屠、芝浦》(1963)

続いて、妻を被写体にした「洋子」シリーズを紹介。1960年代には2人が暮らした団地で、70年代は北海道や金沢など旅先で撮影した本シリーズは、深瀬の代表作の一つになった。

《無題(窓から)》は、毎朝出勤する妻を4階の自宅窓から望遠レンズでとらえた。日々服装が変わり、ある時は笑顔が弾け、ある時は舌を突き出し、時にドラマチックな身振りを見せる洋子がじつに魅力的だ。設定自体、深瀬が監修するパフォーマンスのようでもある。同時代に妻を撮影した荒木経惟の写真集『センチメンタルな旅』と作品を比較するのも興味深いだろう(くしくも荒木の妻は発音が同じ「陽子」だ)。

会場風景より、いずれも深瀬昌久《無題(窓から)》(1973)

「写真機は死の記録装置だ」

深瀬の視線は故郷の親族にも向かった。1971年に始まった「家族」シリーズで、実家が営む写真館の古い写真機を使い、帰省すると両親や弟妹ら一家を撮り続けた。会場に展示された作品は、フォーマットこそスクリーンを背にした尋常な記念写真。だが、撮影年により半裸姿の無表情な洋子や父の遺影が差し込まれている。「日常の中の異物感を意識したのではないか」とコスガは話す。一時は撮影を中断したが、衰えた父を見て「ピントグラスに映った逆さまの一族のだれもが死ぬ。その姿を映し止める写真機は死の記録装置だ」と考え、再開したという。

会場風景より、深瀬昌久「家族」シリーズ(1971)

やがて洋子との関係が壊れ、1976年に離別。旅に出た北海道の根室や網走、襟裳岬などで、その地に多数生息するカラスにレンズを向けた。4章「烏(鴉)」では、写真展「烏」が翌77年に伊奈信男賞を受賞するなど高く評価され、深瀬の代名詞のようになった作品を見ることができる。

ヒョイと片足を挙げたカラスの横向きのシルエット。《襟裳岬》は、黒々とした孤独感に乾いたユーモアが滲む。不吉なカラスのイメージも覆される。

会場風景より、右は深瀬昌久《襟裳岬》(1976)

動物に自身を重ねる視座は、猫が被写体の5章「サスケ」でも見て取れる。深瀬は、生涯に多くの猫と暮らし、サスケはよく連れ回した猫の名前。作品は、まるで人間のように碁盤に手を出したり、飛び上がったりする一瞬をとらえ、背後から鳩の群れを一緒に見つめる写真もある。

会場風景より、ともに深瀬昌久《無題》(1977-1978)

現代のセルフィーに通じる身体性

コスガは「元妻の洋子はエッセイで深瀬を『私をレンズの中にのみ見つめ、彼の写した私は、まごうことない彼自身でしかなかった』と述べ、『救いようのないエゴイスト』と結論付けた。撮られる側がそう感じたのはうなずける。ただ彼自身は、つねに撮る相手に自分を重ねたい思いを持っていたのではないか」と話す。

身近な人々を巻き込み続けた写真家は、晩年は自分をカメラに差し出す。1989年に旅先のヨーロッパやインドで始まった「私景」シリーズは、身体の一部をフレーム・インさせて風景を撮影した。手持ちで撮った作品は、深瀬の顔半分や裸足の爪先が映り込み、スマホによる「セルフィー」のような身体性と奇妙な臨場感にあふれる。

会場風景より、右は深瀬昌久《ロンドン》(1989)

展示を締めくくるのは、活動停止前年の1991年に制作した「ブクブク」シリーズ。約1カ月間、自宅の湯船に潜った姿を写し続けた作品群だ。水中で自分に向けシャッターを切った写真は、光の反射やレンズの角度、像が反転する水鏡に左右され、深瀬自身も仕上がりの想像がつかなかったという。展示室の壁には、異様にシュールな、でもおかしみが漂うイメージがびっしりと並び、体のあらぬ部位まで映っている。つねに「私」を追求した作家がたどり着いたひとつの極点だろうか。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。