公開日:2021年12月28日

『マトリックス レザレクションズ』が描く虹色のスペクトラム(レビュー:近藤銀河)

1999年に公開されSFアクションの金字塔となった映画『マトリックス』。2003年の続編を経て3部作完結となった同シリーズの新たな物語が、2022年12月に公開された。フェミニズムやセクシュアリティの観点から制作、文筆、研究を行うアーティストの近藤銀河が本作について論じる。

『マトリックス レザレクションズ』  12月17日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED

2021年、映画『マトリックス レザレクションズ』が『マトリックス』シリーズの8年ぶりの新作として公開された。だが現代における『マトリックス』の新作は、たんなるハリウッドが好む懐かしい映画の新作やリブートになることはできない。なぜなら1999年に公開された映画『マトリックス』は、2021年においても驚くほど現代的な象徴性を持つ映画だったからだ。2021年の『マトリックス』を取り巻く状況は、この新作に極めて重い問いを投げかけてしまう。

本稿では前半部で『マトリックス』を取り巻く現代の政治状況を概観しつつ、ザ・ウォシャウスキーズ監督のフィルモグラフィを見ていく。後半では速報として新作『マトリックス レザレクションズ』の内容に踏み込み、本作が前半で示した状況にどのように応えているのかを考察していく。前半部では新作の内容に触れないので、まだ観ていない方にも安心して読んでいただきたい。

「陰謀論」と「トランス・ポリティクス」
『マトリックス』の相反する象徴性

2021年の『マトリックス』には2つの象徴的な意味がある。ひとつは2021年が、トランプ政権の交代に際して陰謀論がホワイトハウスを占拠するに至った年であり、このなかで『マトリックス』は陰謀論者にとってのバイブルであったという象徴性だ。この意味ではこの映画は、マッチョさに憧れるマジョリティにとっての象徴として機能する。『マトリックス』でたびたび語られるレッドピルとブルーピルを選択する場面──前者を飲めば世界が仮想現実であるという事実を実感することになり、後者を飲めばそのことを忘れて暮らすことになる──は、彼らを抑圧する陰謀を信じるか、信じないかを選択する場面というふうに解釈される。

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

そしてもうひとつの象徴性は、トランプ政権下でアメリカにおけるトランスジェンダーへの排除が進み、また世界的にトランスジェンダー排除の言説が広まるなかで、『マトリックス』で共同監督を務めたリリー・ウォシャウスキーが、2020年にこの作品のなかのトランスジェンダー的にとらえられるテーマに言及したことの象徴性だ。この意味では『マトリックス』は「トランス・ポリティクス」な物語になる。映画を象徴するレッドピルとブルーピルを選択する場面はここでは、出生時に割り当てられ社会から扱われる望まない性で生きるか、それともホルモン製剤を使い自分が望む性へと身体を合わせていくか、という選択の場面となる。

この意味ではトーマス・アンダーソンという名前を捨てネオという名前を選んで生きる主人公はトランス的な物語を持つ存在であり、ライバルのスミスが執拗に彼を「ミスター・アンダーソン」と呼ぶのはすでに使っていない名前を使用し、ミスジェンダリングしようとするヘイターの象徴とも読める。

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

2021年における『マトリックス』の持つ2つの象徴性は明らかに相互に、深く矛盾する。片一方の極では『マトリックス』はマッチョな保守派にとっての象徴であり、この作品のワードは現代的なオルトライトなミソジニストのミームとなっている。だがもういっぽうでは『マトリックス』はこの保守派に傷付けられる人たちを象徴する作品でもあると宣言されたのである。

むろん、監督であったラナ・ウォシャウスキーとリリー・ウォシャウスキーの姉妹は後者の立場に立っている。2020年5月にテスラ社のCEOイーロン・マスクが前者の文脈を意識して「レッドピルを飲め」と呟き、イヴァンカ・トランプが「飲む!」と引用RTしたのに対し、リリー・ウォシャウスキーは「どっちもくたばれ!」とリプライを返している。

しかし彼女たちのフィルモグラフィを追うと、対立して見える2つの立場が同じ場所に重なる危うさが時折見え隠れする。

『Sense8』(2015-18)や『クラウドアトラス』(2012)はクィアネスを前面に出した物語でありマイノリティの人々が権力によって抑圧される物語でもあるが、同時に特殊な能力を持つ人々が政府などの秘密組織によって排除されるというフィクショナルな陰謀論もそこに重ねられる。マイノリティが抑圧されるのは陰謀ではなくリアルだが、物語がアクション作品として快楽的になるために、これらの作品では陰謀論的な大きな物語が導入されてしまっている。

そしてマイノリティの抑圧のメタファーであったフィクショナルな陰謀論がリアルなものとして信じられた結果として、前者をフィクションとする人々が溢れ出てしまったのが2021年なのだ、と『マトリックス』に関しては言えるだろう。

だから2021年においてなお、『マトリックス』は現代的な映画なのである。いや、2021年に至るここ数年の時代が『マトリックス』という映画を作り直してしまったのだ。もはや我々はこの映画を以前のように見ることはできない。

バイナリーから虹色のスペクトラムへ

(※これより先の記事では『マトリックス レザレクションズ』のストーリーに大きく触れる内容になっています)

そして2021年12月、8年ぶりの新作『マトリックス レザレクションズ』が公開された。今作は『マトリックス』が置かれているまさにレッドピルとブルーピルのようなバイナリーな線が引かれた状況に対して、虹色のスペクトラムを空に描く作品だった。

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

物語はもはや絶対的な敵と味方の関係を語ろうとはしない。前作から60年後の世界では、かつて敵であった機械たちと人間は共生関係を結び、世界を平和に再築しようとしている。そこではもう、世界の危機とそれに対抗する救世主という巨大な物語は完全に失効している。

本作の敵役に対する扱いもそうだ。明らかに女性差別を行う保守的な扇動者として描かれるAIのアナリスト(彼はBotを使い世界をコントロールしている!)は、ラストでトリニティーに完膚なきまでに叩きのめされる。しかし、彼はマトリックス世界から削除されることはなくトリニティーとネオが作り替える世界に片隅に存在し続ける敵が迎える結末は劇的なものではなく、次第に変わりゆく世界に取り残されるという凡庸で持続していく日常なのだ。

さらに1999年の『マトリックス』で提示された虚構のシステムで生きるのをやめ現実の世界を解放するという結末は、ここでは虚構の世界をどう新しくしていくか?という結末として語られる。もはや問題なのは虚構のシステムが存在するという真実ではなく、虚構のシステムのなかで何が行われているかという事実なのだ。

映画のラストで仮想世界を作り替えると語るトリニティーにアナリストが「空に虹でも描くのか?」と皮肉交じりに問い、トリニティーがそのアイデアを最高だと返すシークエンスは、この姿勢を明確に示す。虹は明らかにセクシャルマイノリティのプライドを示すレインボーフラッグのことであり、世界をクィアに読み変えようとするのがこの映画なのだ。

真実か虚構か、勝ちか負けか、あいつらか自分たちか、そうしたバイナリーな選択の中での人生を強制するシステムへの怒りを明確に示し生きていきながら、バイナリーな選択肢に巻き込まれないように生きることが、この虹には込められている。

そしてこのバイナリーな見方をすり抜ける物語は多彩で新鮮な色で満ちている。『マトリックス』3部作では、仮想世界内の映像は色が抜け落ちた単色で描かれていたが、本作では現実であれ仮想世界であれ多彩な色で描かれたのはその象徴でもあるだろう。

老いた姿を正直に描くのも本作の色彩のひとつをなす要素だ。前作から登場する女性のリーダーであるナイオビが老いた姿で登場し平和を語る場面や、彼女を深く抱きしめる同年代の女性の姿は、老齢の女性の連帯と自立を描く極めて重要な場面だった。

主人公であるトリニティーとネオも50代であることを隠さないメイクが行われ、アクションも2人が行うものは地味なものとなっている。しかし老いて様々なしがらみが出来てなお、抑圧された人生を自分が望むように決められるという物語はだからこそ力を持つ。

ファンたちの映画として

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

そして2人に協力するのは、その活躍を伝聞や創作を通して知っているファンたちなのだ。その意味でこの映画はファンダムの多様さについての映画でもある。

メタ構造を取り入れた本作ではネオやトリニティーのファンが多数登場する。本作に登場するファンは、じつに様々な描かれ方をする。なかには伝説の人間とともになれたことに舞い上がり女性に対するハラスメントを蔑視とともに行なってしまうキャラクターがいれば、ネオにセクシャルな視線を向ける男のファンもいたりする。

本作のモーフィアスもそのひとりだ。かつての作品で預言者を信じネオへの盲信に近い信頼を貫いたキャラクターは、本作ではネオのファンという存在がその名前を引き継ぐ。
この新しいモーフィアスは、ネオが作ったAIであり不法なプログラムを削除するシステム側のエージェントでありネオを導く存在として登場する、バイナリーを打ち破る存在である。

だが本作でもっともフィーチャーされるのは、そうしたファンたちのなかでもとくにトリニティーのファンたちだ。彼女たちの活躍は、戦う強い女性であったトリニティーに勇気づけられた女性たちへのエールであり、彼女たちへの感謝にも感じられた。

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

何より映画自体がトリニティーのためのものとなっていることは指摘するまでもない。1999年の『マトリックス』ではトリニティーは眠っているネオにキスするなど主体的な行動を見せていた。だがその後の2作も含め、トリニティーの描写はあくまで人類の危機に際して世界を救うという大きな物語の圧力により、ネオの従属的立ち位置に留まるところがあった。『マトリックス レザレクションズ』では世界の危機とは離れたところで老いたトリニティーの主体性を尊重するための物語が展開される。「No menas No(ノーはノー)」という当たり前の原則がここでは物語の焦点となる。

トランスジェンダーへのデッドネーミングの問題

『マトリックス レザレクションズ』はこれからの老いたシリーズに、リブートのあり方を示すフレッシュな物語だった。従来の作品では足りなかった取りこぼしていた色を付け加え、リブートにありがちな戦争や危機の再発による過去作の否定をやめ、老いとともに新しいテーマを描いていく。
本作のこうした描写は、作品の立場を明確に示し、旧作の描写も再定義するものである。そしてこの作品は、劇中に出てくるアナリストのようなキャラクターに代表されるマイノリティの抑圧を否定し、差別を行い扇動するシステムを作る人々(それに扇動させられおびえる人ではなく)に、怒りを向けるものでもある。しかしこうした言明は、作品の立場を示すものではあるいっぽうで、こうした知識のない人々にはやはり旧作と同じく、届かないことになるのではないかと考え込んでしまう。

私がこのことを深く考えざるを得なかったのは、映画の2種類のパンフレットにおけるウォシャウスキー監督たちの名前の表記を見たときだ。何人かの執筆者による記事ではウォシャウスキー姉妹がすでに使っていない名前をあえて表記したり、また「兄弟」という言葉が使われていたりした。これは明らかにデッドネーミングと呼ばれる、すでに使用されていない名前を使うトランスに対して攻撃的な行為である。2人がトランスジェンダーであることを示すのに、こうした名前や表記を使う必要はない。実際、ラナ・ウォシャウスキーは2012年のヒューマンライツキャンペーンのスピーチで、こうしたことの攻撃性についても触れている。

さらに言えば、この『マトリックス レザレクションズ』という映画自体が、デッドネーミングの攻撃性についても触れている。映画の序盤、マトリックスのなかでアナリストに記憶を消されたトリニティーは、ティファニーという名前を与えられている。明らかに古典的な男女関係を扱った映画『ティファニーで朝食を』から取られたこの名前に対して、映画のラストでトリニティーは極めて激しい怒りを示し、このティファニーという名前を使うアナリストに強い一撃を加える描写がある。

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

これはトリニティーやネオがシスジェンダーであると同時にトランス的な要素を持ち合わせたキャラクターであることを強調する描写でもあるが、デッドネーミングへの怒りを軽やかに示すものでもある。それにもかかわらずパンフレットにおいてデッドネーミングが横行することは、この映画を鑑賞し、そしてまたほかの面においては鋭い考察を見せ、時にはLGBTQの話題にも触れるほどの鑑賞者でさえ、映画の発する明らかなメッセージを受け取れないという事態を明らかにしてしまう。

『マトリックス レザレクションズ』の前半は『マトリックス』という作品の解釈をめぐる物語として展開された。『マトリックス』を利用する保守派や差別者の存在には映画は触れなかったが、マトリックスというものの解釈をめぐる映画としてこの作品があるのは間違いない。

果たしてこのバイナリーな世界を否定し空に虹を描く『マトリックス レザレクションズ』は、そうしたトキシックな解釈に対する解毒剤として機能し得るのだろうか。あるいはこのように思考すること自体が、バイナリーな選択にとらわれてしまっているのだろうか。

おそらく今後の映画のリブート作品のマイルストーンとなるこの映画の真価が明らかになるのは、1999年のオリジナルと同じように、20年後のことなのかもしれない。

『マトリックス レザレクションズ』 © 2021 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

近藤銀河

近藤銀河

こんどう・ぎんが アーティスト、ライター、美術史研究。1992年岐阜県生まれ。中学時代に難病CFS/MEを発症、体力が衰弱し以降車いすで生活。2020年より東京芸術大学先端芸術表現科修士。フェミニズムとセクシュアリティの観点から美術や文学、サブカルチャーを研究しつつ、アーティストとして実践を行っている。特にレズビアンと美術の関わりを中心的な課題として各種メディアを使い展開。個展「ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース」を開催中(https://note.com/gingak/n/n1f3e3a6ff793)。主なグループ展に「プンクトゥム:乱反射のフェミニズム」(東京、2020)、「Comfortable展」(東京、2021)など。映画やゲーム、アートなどに関する文筆活動も行い、『SFマガジン』(早川書房)、『ユリイカ』(青土社)などにも寄稿。共著に『『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く』(河出書房新社、2021)。