最終更新:2021年11月24日

「私にとってのアートは作品のなかにありません」。アーティストの小泉明郎が語る、作品の倫理とその先にある自由

Tokyo Art Beatのリニューアル企画「Why Art?」は、映像インタビューを通して百人百様のアートにへの考えを明らかにする企画。同企画の一環として、注目のアーティストにインタビューを行った。第2回は国家・共同体と個人の関係や身体と感情のメカニズムを探求し、演劇的手法を含む映像作品を制作する現代アーティストの小泉明郎。

小泉明郎。横浜のスタジオにて

国家・共同体と個人の関係や身体と感情のメカニズムを探求し、演劇的手法を含む映像作品を制作する現代アーティストの小泉明郎。見る者を揺さぶる実験的な作風で知られ、今年は英国の国際的美術賞「アルテス・ムンディ」や文化庁メディア芸術祭アート部門大賞と受賞が相次いだ。新型コロナウイルス感染症により世界が様相を変えるなか、国内外で活躍する気鋭は何を思うのか。横浜市内にある、引っ越したばかりの新たなスタジオで話を聞いた。

自分の作品には“毒”の役割がある

——広いスタジオですね。

約140㎡あります。もとは商業施設で、アーティスト支援を行うビルのオーナーに貸していただきました。ちょうど自分たちで古い内装材をはがし終えたところで、リフォームはこれからです。

——コロナ禍も2年目になりますが、小泉さんの近況を教えてください。

移動ができなくなり、生活が一変しました。コロナ以前は制作や展覧会のための移動が多く、海外にも毎月のように行っていました。最近は自宅と仕事場を往復する毎日です。制作は続けていますが、非常に苦しんでいます。

なぜ苦しいかと言えば、生活が変わったこともありますが、僕は人と会い、その人と関係性を作ったうえで協働する手法で制作してきました。様々な場所に出かけて作品を作り、その場所に展開することも活動の大きな部分を占めていました。その両方ができなくなって、自分の制作の限界を見せつけられている感があります。経済的にもアートフェアなどが中止され、厳しくなりました。

そうした状況下でも学んでいることがあります。 コロナ以前の僕は自由に様々な場所に移動し、多くの人と会うことを前提に作品を作ってきました。それは「強い」立場なのですね。その強さを自分は享受し、切磋琢磨してきたのだと気づかされました。

しかしコロナの時代には「弱い」ことが前提の人々、つまり免疫が弱かったり、基礎疾患があったりする人を気遣い、守れる社会や環境を構築していく必要があります。社会に「弱い」時間が流れ、アートも則した活動や空間が求められていると感じます。これまで自分は弱い人を意識して活動してきたつもりでしたが、前提条件として「強い」時間が流れる「強い」作品を目指し、作り続けてきました。しかし、「弱い」時間を熟知し、作品化できるアーティストもいます。

たとえば、自身も経験した「引きこもり」をテーマに制作する渡辺篤さんは、コロナ下で精力的にプロジェクトに取り組んでおられます。社会と長期間切り離された経験があるので、そこに流れる時間や使い方をご存じなのかもしれません。でも僕は全然知らなかった。いま、そんな気づきを与えられています。

小泉明郎

——意外な気がします。小泉さんは身体障害や心に傷を負った人などと向き合う作品を数多く制作してこられたので。

適切な言い方かどうかわかりませんが、自分の作品はある種の“毒”という感じがあります。つまり、強烈な表現を提示して、裏にある差別的構造や社会の矛盾をあぶり出し、目を向けてもらう構造を持っています。ところが新型コロナウイルスは、種々の社会問題や政治の無責任さといった「本質」を、ものの見事に暴いてしまった。となると、自分の作品は必要でなくなるんです。

2012年に国際交流基金のプロジェクトでインドを訪れたときも同じように感じました。凄まじい貧困と格差がすぐにわかり、たとえば高級ブランド店前の路上にホームレスの家族が住み、子供が路上で排泄したり、繁華街の路上で車のワイパーをヤギが齧ったりしている。アート以上に常識を超えた現実を目の当たりにして、自分の作品は必要ないじゃないかと思いました。

2011年の東日本大震災のときは、まったく迷いはありませんでした。2001年にアメリカ同時多発テロが起きたときはロンドンの美大で学び、映像制作を始めた頃でした。テロの衝撃はイギリスでも大きく、アートは無力だと感じるいっぽう、その後にオランダに滞在した時期を含め欧州の政治・社会の変化を目の当たりにしました。なので、「3・11」のような国家的危機に瀕した日本社会がどうなるか、予測できる気がしたんですね。つまり、政治的にナショナリズムが高まり、排外主義が加速し、人々も内向きになっていくだろうと。そうしたなかで社会に向けて何を提示していくのか、表現者として迷いはありませんでした。ただ今回のコロナ禍は20年間の経験が通用せず、悩みの時間を過ごしています。

小泉明郎 Anti-Dream #2(聖火儀礼無編集バージョン) スチール画像 2021 ©︎ Meiro Koizumi

——とはいえ今年5月、新作《Anti-Dream #2(聖火儀礼無編集バージョン)》をYouTube上で初めて公開しました。街角に置かれたパソコン画面に東京五輪の聖火リレーの映像が流れ、「あなたも感染しています」といった様々な人工音声が重なる作品です。感染症が拡大し、五輪開催に異議が高まる最中の発表でした。

迷いのなかで試行錯誤しながら1年かけて作った作品です。パンデミックが始まり最初の緊急事態宣言が発令されて、しばらく閉じこもっていましたが、外出制限が少し緩和された昨年5月、営業を再開した駅前のカフェに出かけました。久しぶりにカフェから外を見ていると、非常に不思議な気がしました。見慣れた街の風景が以前とまったく違って見えたからです。人々が行き来する景色が、「コロナ」というフィルターを通すと、がらりと書き換わるように感じた。その見え方も、例えば新型コロナウイルスが「空気感染する/しない」のどちらを信じるかで、まったく違ってきます。

東日本大震災でも同じことを感じました。当時は目に見えない放射性物質が空気中を漂っているという情報があり、人体への影響について、誰の説明を信じるかによって見える風景は変わりました。

しかし、じつは災害やパンデミックと関係なく、私たちが見る風景はイデオロギーや価値観といったフィルターがすでに入り込んでいます。我々はつねにフィルターを介して街や人間、自然を見て、それをベースに社会はかたち作られています。暴力性をはらむ、その認識のメカニズムは普段は隠れていて私たちが意識することはありませんが、大震災やコロナが部分的に露呈させたと言えます。

そんな無意識的なメカニズムに介入する作品を作ろうと考え、まず完成させたのが人工音声作品《Anti-Dream #2》です。これはダウンロードすれば世界中どこでも聞くことができ、目の前の風景と接続していくものです。当初は皆で音声を聞きながら実際に聖火リレーを見るイベントをしたいと思いましたが、聖火が地元の神奈川に来るのは結構先になる。それでは遅いと感じ、映像に人口音声をランダムに重ねたのが《Anti-Dream #2(聖火儀礼無編集バージョン)》です。問題が起きているいま現在、見ていただきたかったのでYouTubeでの公開を決めました。

——聖火リレーを走る人々の映像に、感染有無や「この男は使える」「使えない」といった有用性による人間の峻別を示唆する台詞などがかぶさり、衝撃的な作品です。反響はいかがですか?

見てくださった国内外の方からは心強い言葉を頂いています。「いまの状況にしっくりくる」といった感想が多いですね。正直、公開前はもっと問題になると思っていました。既成の映像を使っているし、映っている方が揶揄された、傷ついたと感じる恐れもあるので。いまのところ、お叱りは受けず、法律上のクレームもなく、映像自体が消される事態にもなっていません。それは作品が平穏に受け止められているからなのか、願ったほど多くの人に届いていないためなのかはわかりません。

これまで自分は作品を発表する場はどこでも良いと考えていました。今回の件で気づいたのは、「美術館に行く」体験は強いということです。オンライン展覧会や YouTubeでの作品発表は、世界中からアクセスできるのでより大勢が見てくれると思いがちですが、決してそうではない。 日常の延長で鑑賞するより、美術館へ体を運んで作品と向き合うほうが特別な時間が経験できるからでしょうか。美術館というシステムの強さを感じたし、代わる場を作るのは並大抵でないと思いました。

小泉明郎 サクリファイス 2018 VRインスタレーション ©︎ Meiro Koizumi Courtesy of the artist, Annet Gelink Gallery and MUJIN-TO Production

VRのポテンシャルと面白さ

——今春には都内で開催された演劇プロジェクト「シアターコモンズ’21」においてVRパフォーマンス《解放されたプロメテウス》を初演しました。VR(バーチャル・リアリティ)作品としては、イラクで制作し韓国で初演した《サクリファイス》(2018)、本作の前編とも言える《縛られたプロメテウス》(2019)に次いで3作目です。鑑賞者が疑似体験できるVRに関心を持ったのはなぜですか?

最初に興味を持ったのは2015年頃です。初めて体験したときに非常にショックを受けて、いつか作品を作りたいと考えていました。2019年位から専門家でなくても作品が作れるようになり、いろいろと試しているところです。

VR技術の特徴としては、まず身体がなくなるような感覚があげられます。ヘッドセットを装着すると、目の前に広がる仮想空間を主観的な視点でつねに眺めることになり、高い没入感が得られます。虚構だとわかっていても、脳は侵入する視覚情報に抗えず、そのまま認識するからです。映像との本質的な違いは、客観的視点が存在せず、すべて自分に起きているように映ることです。現時点で、VRはまだリアルな体験にかないませんが、ポテンシャルがある。感情を操作したり、トラウマを負わせたりする恐れがあるいっぽう、他人の視点に立てるといった良い面もあります。使い方や倫理の問題など課題はありますが、非常に面白いメディアだと思います。

小泉明郎 サクリファイス 2018 VRインスタレーション ©︎ Meiro Koizumi Courtesy of the artist, Annet Gelink Gallery and MUJIN-TO Production

——VR利用はゲームや映画が先行しています。アート作品とエンターテイメントのあいだに境目はありますか?

自分の作品に関して言えば、鑑賞者は没入体験をしながらも、その体験を外から批評的に眺められる設定を組み込んでいます。たとえばヘッドセットを外した後、没入時の姿を顧みることができたり、仮想空間や疑似体験した視点の正体がわかったりします。

——《解放されたプロメテウス》は鑑賞後に渡されたテキストを読み、考えさせられました。

没入を経験するとき、人は受動的です。それがVRの特性であるわけですが、自分の作品は同時に「何が起きている?」「なぜ?」などと能動的に考えさせ、想像させる仕掛けをあちこちに入れ込んでいます。

小泉明郎 縛られたプロメテウス 2019 ©︎ Meiro Koizumi

——思考や想像を促す設定は、小泉作品の特徴のひとつだと思います。

私にとってのアートは作品のなかにありません。見る人の反応のなかにあります。だから制作は「引き算」を意識します。作家がやりがちな間違いは作品を完成させてしまうことですね。コンセプトや意味など、すべてがピッチリ作られた作品は鑑賞者が入っていく余地がありません。余白や欠落、未完部分があると、「これは何だ?」と前のめりになって思考やイマジネーションが動き出し、その人なりの解釈が進みます。見る人の思考と想像を活性化させる表現は、現代アートの本質部分だと思います。

日本の大学では美術史を勉強しました。まず言説から美術の世界に入ったわけですが、ロンドンで映像を学んでいるときに言葉で説明しきれるものはアートでないとわかりました。つまり、頭で考えたコンセプトにかたちを与えても駄目で、作家の理解が及ばない何かが生まれたとき、初めてアート作品になる。

じゃあ言語的なプロセス抜きで、感覚だけに頼ってに作っているかというと、そうではありません。制作には様々なプロセスがあって、各段階でときに直感的に判断を下しますが、その直感は作家が培ってきた論理や世界観、人間観に裏打ちされています。ですから美術史、哲学といった言語的な思考力も磨き、自分をつねに敏感な状態に置いておく必要があります。

——小泉さんの作品は ある状況を作り、ほかの人が演じる設定が多いです。自分のアイデアで作り出した状態にもかかわらず、驚きが多いということですか。

まさにそうです。知らない人は私にとって未知の塊です。 考えた設定を振って演じてもらい、その人から出てくるものが作品の核になります。撮影時の私は、カメラの向こうから受動的に受け止めているだけです。奇跡のような瞬間をキャッチできるオープンな状態を保つことが大切です。

シアターコモンズ'20で行われた小泉明郎《縛られたプロメテウス》の様子(港区立台場区民センター) ©︎ Meiro Koizumi

つねに「逃れられない何か」に対峙してきた

——転機になった作品はありますか?

2015年に制作し、銀座メゾンエルメスで発表した《忘却の地にて》です。自分にとって大きな意味を持つ作品です。

映像作品を制作するうえで、ずっと倫理の問題を考え続けてきました。映像は、カメラの前に立つ人間の表情や振る舞いを情け容赦なく機械的に取り込むことで成り立ちます。たとえばテレビのお笑い番組は、出演者をイジって盛りあがったりします。その人に嫌なことが起きれば起きるほど、映像的に面白くなる恐れを秘めているのです。そうした映像の暴力性に対し、どうすれば芸術的であり、かつ倫理的に正しい作品にできるかを自問してきました。「忘却の地にて」は、その探求がひとつのかたちになった初めての作品でした。

小泉明郎 忘却の地にて 2015 「『境界』 高山明+小泉明郎展」(銀座メゾンエルメス フォーラム、2015)での展示風景 © Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

この作品は、記憶に障害がある田中伸弘さんという男性が出演しています。田中さんは、若い頃交通事故で脳に損傷を負い、いまでも物事をランダムに忘れてしまう障害を持っています。彼にある証言を暗記していただき、カメラの前で復唱してもらうかたちで3日間撮影したのですが、田中さんが必死に覚えようとするほど、頭にストレスがかかり言葉が記憶から抜け落ちていく。結果的に非常にリアルで強い映像になりました。

田中さんにとっては大変なプロセスでしたが、外見からわからず他人に理解されにくい記憶障害に「かたち」が与えられて、肩の荷を下ろすような思いがあったそうです。出演者の思いをかたちにすると同時に、私が追及する表現も実現する。その2つが重なる部分が大きければ、アート性と倫理性が両立し得ると確信できた作品になりました。

小泉明郎 忘却の地にて スチール画像 2015 ©︎ Meiro Koizumi

—— 作中で語られる証言は、第二次大戦中の元日本軍兵士の非人道的な任務とそれによるトラウマに関するものです。これまで戦争や特攻の記憶を扱った映像作品を数多く発表してきましたが、なぜでしょうか。

現在、イギリスのウェールズで公開している《The Angels of Testimony》(2019)は、旧日本軍の中国戦線での加害行為を扱った映像作品です。記憶を証言してくださったのは今年99歳で亡くなった元兵士で、レイプや民間人殺害など極めてショッキングな内容です。日本では公開するインスティテューションが見つからず、私の所属するコマーシャル・ギャラリーである無人島プロダクションと発表に向けて動いています。

小泉明郎 The Angels of Testimony スチール画像 2019 ©︎ Meiro Koizumi
小泉明郎 The Angels of Testimony スチール画像 2019 ©︎ Meiro Koizumi

そうした作品をなぜ制作するのか。簡潔に言うと、社会を規定する価値観や絶対的枠組みに対する、懐疑と批判的な視点が自分の根底にあるからでしょう。親はクリスチャンで、私はキリスト教の教えに沿って育てられました。教えに違和感を抱いても子供の頃は表現する術がなく、成長してやっと作品のかたちで昇華する方法を知りました。

ようやく親の価値観から抜け出して自由になれると思ったら、次は資本主義や国民国家といった強大な枠組みが前に立ちはだかってくる。国民国家はナショナリスティックな人間感情をベースに成立しているので、それがどう機能するかを探るなかで、戦時の加害や被害、特攻といったいまでは忘却されつつある歴史に目が向きました。扱うのは極めて難しい問題ですが、客観的な事実以上にイメージが大きく影響を与える分野なので、イメージの実験場であるビジュアルアートにできることはいろいろあります。

——非常に強いモチベーションがあるのですね。

作家は皆そうでしょうが、つねに「逃れられない何か」に対し作品を作っているのだと思います。

——小泉さんの「逃れられない何か」とは何でしょうか?

やはり国家や世間や時代が押し付ける価値観や枠組みです。そこから自由になることは本当に難しいことですが、どうすれば個人が苦しい思いをせず、それぞれのルールで生きていけるかを探り続けています。その意味で私は、近代的な「自由」を渇望するアーティストの典型かもしれないですね。

小泉明郎(こいずみ・めいろう)
1976年群馬県生まれ。国際基督教大学を卒業後、ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで映像表現を学ぶ。主な個展に、2019年「バトルランズ」(ペレズ・ミュージアム・マイアミ)、2015年「捕らわれた声は静寂の夢を見る」(アーツ前橋)、2013年「Project Series 99:Meiro Koizumi」(ニューヨーク近代美術館)など。国内外の主要美術館に作品が所蔵されている。

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永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。

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