公開日:2026年2月10日

ロンドンのショッピングモール内にある「移民博物館」を訪ねて。『移民・難民・アート——越境する想像力』刊行に寄せて(文:川上幸之介)

ロンドンの移民が多く住む街を歩き、展覧会を巡るうちに浮かび上がってきたものとは。『移民・難民・アート——越境する想像力』の編著者によるエッセイ

移民博物館 撮影すべて:筆者

「移民・難民」の存在やその歴史は、現代アートにおいても世界的に重要なテーマとなっている。2月16日発売の新刊書籍『移民・難民・アート——越境する想像力』(ヘウレーカ、編著:川上幸之介、髙谷幸)の刊行にあわせて、編著者のひとりである川上幸之介によるエッセイをお届けする。【Tokyo Art Beat】

『移民・難民・アート——越境する想像力』(ヘウレーカ、編著:川上幸之介、髙谷幸)


内と外、そのあいだで

去年の春、1週間あまりロンドンに滞在した。高校を卒業してすぐにイギリスに留学し、そのまま16年間暮らしていたが、帰国後も数年に一度は訪れている。今回の訪問は長年家族のように親しくしてきた友人で、アーティストの瀧澤明子さんが倒れたことをきっかけに、急遽決めたものだ。

明子さんの家は、ロンドン中心部から少し離れたルイシャムという地域にある。ロンドンの中でもとくにひとり親家庭の割合が高く、世帯収入も全国平均を大きく下回る。そのため社会保障に頼る家庭も少なくない。さらに黒人が全体の4分の1以上にのぼり、カリブ系やアフリカ系のコミュニティが息づいている。そこにインド系、パキスタン系、その子供たち、ミックスルーツの家族、アラブ系の人々も加わり、住民の3人にひとりが移民だ。

多様な文化が自然に混ざり合うこの町では、「違いを認め合い、同じ住民としてともに歩もう」という姿勢が大切にされている。かつて大英帝国が残した影を、いままさに乗り越えようとする試みでもあるのだろう。

これまで何度も明子さんを訪れていたが、そんな背景については深く考えたことがなかった。通院の付き添いで訪れていたこともあり、夕飯の支度までの合間、町をぶらぶらと歩いてみることにした。

ルイシャム駅を降りて坂を下っていくと、広々としたショッピングモールが現れる。中にはファストファッションの店や大手薬局、コーヒーチェーンなどが軒を連ね、どこにでもあるようなごく普通のモールだ。ところがちょうど真ん中あたりまで進んだところで、思いがけず足が止まる。いたずら描きが施されたベルリンの壁の一部が唐突に現れたのだ。STIKティエリー・ノワールというアーティストによる作品だ。

移民博物館 会場風景
移民博物館 会場風景

すぐそばには、周囲の店舗からは浮いた存在感を放つ移民博物館がある。壁の一部は、そこの展示の一部なのだそうだ。博物館のディレクター、ソフィー・ヘンダーソン「分断を乗り越え、対話と考察の場を作り、人と人とのあいだに共通点を見出す。そしてすべての人との友情を願う」と語る。作品にも同じ想いが込められており、博物館の理念と共鳴しているのだという。

中に足を踏み入れると、思いのほか洗練された、おしゃれな空間が広がっていた。右手には「移民メーカーズマーケット」と名付けられたグッズ売り場がある。看板には「移民が経営するビジネスや、移民クリエイターによる製品を専門に扱う、受賞歴のあるコンセプトストア」と書かれている。

移民メーカーズマーケット

ユニークさに加え、品数の多さに「こんなにあるのか」と驚かされた。大手チェーンではなかなか手に入らない、個性的で丁寧に作られた品々が並び、背景にある物語を綴った説明書きも添えられている。製品は、作り手の人生や価値観を映し出しているかのようで、一般的な商品とは一味も二味も違っていた。アートやデザインが言葉を超えた共通語であることを思い出されると同時に、個々の暮らしを生き生きと想像させられるのだった。   

この場自体もまた、大量生産や効率重視のショッピングモール文化に対する、ある種のカウンターのようだ。人権、商売、そして洗練されたデザイン。一見ちぐはぐにも思える組み合わせのなかに、独自のアプローチで社会課題に取り組もうとする姿勢が感じられ、新しい可能性の芽のようなものを見た気がした。

開催されていた展覧会のタイトルは、「内と外、そしてその間にあるものすべて」。移民たちが自身のアイデンティティや帰属意識を探る内面的な旅と、現実の定住や社会への適応といった外的な条件とのあいだで揺れ動く、その葛藤がテーマとなっていた。

移民博物館 会場風景

展示はバリエーションに富んでいた。ガザ地区のキャンプ場を再現したシリアスなインスタレーションもあれば、中華料理店のカウンターを模したスペースでは、華僑によるテイクアウト文化の歴史が壁一面に展示されていた。

移民博物館 会場風景(ガザ地区のキャンプ場を再現したインスタレーション)
移民博物館 会場風景(中華料理店のカウンターを模したスペース)

もし移民がいなかったらイングランド代表のサッカーチームはどうなっていただろうか。そんな問いを投げかける作品もあり、移民がイギリス社会にもたらしてきた豊かさや多様性を、視覚的に浮かび上がらせる工夫がなされていた。

移民博物館 会場風景

いくつかの公立美術館も訪れたが、偶然か、1970年代後半から80年代にかけてロンドンで盛り上がったブラック・アーツ・ムーブメントを再評価する展覧会が開かれていた。そのひとつがドナルド・ロドニーの個展(「Donald Rodney: Visceral Canker」、ホワイトチャペル・ギャラリー)だ。

ドナルド・ロドニーの個展 会場風景

ロドニーは差別や病、障碍といった重い現実を背負いながら、自らの身体を作品へと転化した。自分の皮膚で作った小さな家は、家族と身体、個と共同体を脆弱な殻に重ね合わせるかのようであり、その色合いは彼が生きた社会の記憶や偏見を否応なく映し出していた。

ドナルド・ロドニーの個展 会場風景

思い返せば、1997年にはじめて降り立ったのはイギリス北部、ウェスト・ヨークシャー州のブラッドフォードという町だった。駅を出たときに目の前に広がっていたのは、街を行き交うインド系やパキスタン系の人々の姿であった。私が想像していた「白いイギリス」の風景はそこにはほとんどなかった。

ブラッドフォードはアジア系移民の割合が全国で2番目に高く、街角にはスパイスの匂いが漂い、モスクからは祈りの声が響く。まさに移民文化のハブとでも言うべき場所だった。だが同時に、極右政党、国民戦線の支部も存在し、移民との間で大規模な衝突が起きることもしばしばあった。宗教的にも文化的にも多様性に満ちたこの町は、現代イギリスの縮図のような場所だった。

その後、大学進学を機にロンドンへ移り住んだ。ここもまた人口の約3分の1が移民という都市である。そして大学院時代の担当教員は、ブラック・アーツ・ムーブメントを代表するアーティストのひとり、ソニア・ボイスだった。

ソニアはアフロ・カリブ系二世のアーティストで、アートを社会的実践としてとらえ、即興や人との協働を通した表現によって音・記憶・空間を探究している。2022年にヴェネチア・ビエンナーレに黒人女性として初めてイギリス代表として参加し、最高賞である金獅子賞を受賞した。

彼女とは毎月面談を重ねながら、日々のささやかな出来事から制作、美学、哲学にいたるまで、話を交わしてきた。示された文献や思想の多くは、イギリスのカルチュラル・スタディーズやガヤトリー・スピヴァクらに代表されるポストコロニアル理論の先鋭的な議論であり、アートと社会、アートと政治という、複雑でときに痛みを伴う関係を、周縁からとらえる視点を与えてくれた。なかでもジェンダーの枠組みだけではこぼれ落ちてしまう、階級や人種の交差する問題について学ぶことができたのは、彼女の作品と人となりに触れたからである。

今回の旅の目的であった明子さんの看病も、ようやく落ち着きを迎えつつあった。彼女が前のパートナーであるシリルとの関係を取り戻していたことが、何よりの安心につながった。穏やかに並ぶふたりの姿を前にすると、胸の奥に静かな安堵が広がった。

シリルと瀧澤明子

そういえば、と気づく。シリルもまた、イギリスに生まれ育った黒人である。落ち着いた語り口のなかに、ときおり差別の記憶が影のように差し込んでいた。その小さな断片は、かつて私が感じた「外にいる」という感覚を呼び覚ますものだった。文化の違いや言葉の壁以上に、視線や空気の微妙な変化に漂うずれが、経験を通してしか見えてこない景色を浮かび上がらせる。

ルイシャムを歩き、いくつかの展覧会を巡るうちに浮かび上がってきたのは、イギリスで暮らしてきた日常には、移民というテーマが溶け込んでいたということだった。振り返ると、あの頃の留学生活は、学問を学ぶこと以上に、多様な文化のただ中に身を置き、世界を見つめ直すための得がたい時間だったのだ。

時に孤独や疎外に怯えながらも、見知らぬ人びとの笑顔や差し伸べられた手に救われてきた。痛みと温もりが同居する経験が、世界と向き合う姿勢や、周縁から社会を見返すまなざしを育んでくれた。そこにも芸術や表現の可能性があった。

帰国ぎわ、見慣れたはずのロンドンの街並みは、別の表情を見せ始める。何気なく通り過ぎてきた風景が、思いがけず新たな問いを次々と投げかけてくるのだった。


川上幸之介

川上幸之介

倉敷芸術科学大学准教授。KAG アートディレクター(gallerykag.jp)。ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズMAファインアート科卒。東京藝術大学国際芸術創造研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現代アート、ポピュラー音楽、キュレーション。著書に『パンクの系譜学』(書肆侃侃房、2024)、共著に『思想としてのアナキズム』(以文社、2024)『表現文化論講義』(ナカニシヤ出版、2025)、『移民・難民・アートー越境する想像力』(ヘウレーカ、2026、髙谷幸との編著)。キュレーションにPunk! The Revolution of Everyday Life 展、Bedtime for Democracy 展など。