公開日:2021年12月12日

民藝のための婉曲語法。東京国立近代美術館「民藝の100年」展レビュー

民藝をとらえ直す大規模な展覧会「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」展を、批評家の清水穣がレビュー。

会場風景より、写真左から《鉄砂虎鷺文壺》(17世紀後半)、《染付鉄砂葡萄栗鼠文壺》(17世紀末期〜18世紀初期)、《染付辰砂蓮花文壺》(18世紀後半)

宗教哲学者であり、文筆活動を主体として民藝運動を推し進めた柳宗悦。その没後60年を記念展し、東京国立近代美術館にて「民藝の100年」が開催中だ。

「民藝(民衆工芸)」とは、ありふれた「平凡な、当たり前な品」に美を見出す思想のこと。その思想の背景には行き過ぎた近代化を反省し、自分たちの足元(ローカル)を見つめ直すという時代の流れ、そして資本主義の矛盾に苦しむ地方の農村や産業の姿があった。本展はこうした状況への「実践」として民藝をとらえ直すため企画された。

多数の作品と資料で6章にわたって民藝の全貌を読み解く本展だが、じつは省略されたていた箇所もあったと批評家の清水穣は指摘する。【Tokyo Art Beat】

会場風景より

さりげなさの陰で

有名なエピソードにまつわる実物(柳宗悦の《李朝染付面取壺》など。しかしそれなら浅川伯教の《満月壺》、吉田璋也の五郎八茶碗も欲しかった)、そしてこれら民藝運動の主人公たちのファッションや日用品などが目を楽しませる展覧会、だが、100年前の美的・社会的運動を回顧する展覧会の割には、とくに新しい知見が開示されるわけでもない、教科書的な展覧会であった。教科書であるから、触れるべきところに触れていないわけではないが、どの主題も満遍なく扱われる結果、重要なポイントもまた、さりげなく口にされるだけである。

言い換えれば、この「教科書」は検定されている。とりわけ「さりげない」のが民藝と植民地主義(本展の用語では「境界」)の関係である。そしてまた省略の著しいのが、敗戦後から現在にまで至る民藝の影響、受容、批判についてであった(「分け柳」こと青山二郎、白州正子の「こうげい」;坂田和實、坂田’sチルドレン;ギャルリ百草など新たなクラフトへの展開;村田森、内田剛一、等々)。

会場風景より。左から2番目が《染付秋草文面取壺》(18世紀前半)

「民」の「藝術」と呼ぶものは誰か

民藝とは、1920年代に日本に着床したモダニズムの一表現であって、特定のスタイルに縛られるものではない。モダニズムは「差異化された文化的システム」vs「その外部」という大きな二元論を骨格としている。「差異化された」とは対立概念が対になって構造化されていることで、従って「その外部」とは、上下、貴賤、美醜、善悪・・・・・・の彼岸である。柳宗悦はそれを「二相に囚われぬ自由の美」すなわち「奇数の美」と呼んだが、それは民藝の美が、われわれの社会の通常の価値観の彼岸で「あるがまま」に見出されることを意味する。数多の品物のなかから「あるがまま」の本質を「直下(じきげ)に」(柳)見抜くのだ、と。

ただし、この「外部」はあくまでも「内部」から見た外部であり彼岸であって、内部から一方的に投影されるものであることを忘れてはならない。二元論の各項を、「文明(宗主国)」vs「未開(植民地)」、「欧米」vs「非欧米」と言い換えれば、それが対等な二項によるものではなく、前者が一方的に後者を「外部」視するという、基本的にコロニアル(植民地的)な思考様式であるのは明白であろう。民藝運動は、日韓併合(1910年)と日中戦争(盧溝橋事件1937年)に挟まれた時代の産物なのである。

事実、展示されている琉球の紅型、アイヌの刺繍、李朝の上手の骨董などは、すべて王侯貴族や有力者のための美術品であって、決して「民」の「藝術」ではない。もし、これらもまたスリップウェアや馬の目皿のような「民藝」であるというなら、それは琉球、北海道、朝鮮半島の人々が、すでに大日本帝国の「民」であったからと言うほかはない。つまり民藝の美とは、特定の人間集団を「民」とみなす人間にとっての美だ、ということになる。

会場風景より、《白地牡丹尾長鳥菖蒲流水文様紅型衣裳》(19世紀)
会場風景より

民藝運動の急所

モダニズムと植民地主義はメダルの表裏である。洗練されたモダニズムの裏面は血で濡れている。この思考様式に感染した者=モダニストにとって、民藝は「上流階級」の「外部=名もない庶民・工人の世界」であるがゆえに美しい。李朝陶磁は「日本」の「外部=植民地」であるがゆえに美しい。モダニズムが追い求める「外部」としての美は、一方的な(階級的、経済的、軍事的・・・・・・)差別を前提としているのだ。これは構造的な話であって、民藝の同人が差別的であったということではない。だが柳宗悦も吉田璋也も、上流階級の人間として、民藝運動のプロデュースが本業ではなかった。民藝には、階級のオーラが欠かせない。「あるがまま」の美を認定するのは上の者なのだ。

民藝の美が「上から目線」の美であること、ここに民藝運動の急所がある。上の二元論において「非欧米」には当然日本が含まれる。「日本」は欧米のモダニストにとって植民地ではないが非欧米である点において「外部」であり、「民藝」扱いされうる。柳にせよ吉田にせよ高級な三揃のスーツを着用し、当時の日本では怪しまれるほどに「洋風」であった。彼らは帝国日本の「民」のなかから藝術を見出す上流人であったが、その「上流」とは欧米と対等に並んでいると言う意味である。他方、戦時下の対外宣伝雑誌『NIPPON』に載っている写真では、柳は象徴的にも和服を着ている。つまり民藝の目線とは、日本人に対しては欧米人、欧米人に対しては日本人として振る舞う者の目線だということである。

「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(東京国立近代美術館、2021)会場風景 撮影:編集部

会場風景より

現代の日本で「あるがまま」の美は可能か

1945年の敗戦は、民藝の本質にあるこの「上から目線」を不可能にした。日本は帝国からアメリカの一種の植民地へと滑落し、日本の上流階級の邸宅は接収され、戦前の階級のオーラは消滅したからである。従って敗戦後の日本社会に「民藝」は存在しえない。「あるがまま」のJAPANは、上の人々=欧米人(およびそれに連なる者)が認定するものになったのである。

「教科書」が避けて通った問題は従って以下の通りである。もし戦後の日本で新たな「民藝」を復興して「あるがまま」の美を愛でたければ、なんらかの「格差」ないし「上から」 の眼差しを再構成しなければならない。戦後版「民藝」は、「直下」の不可能性を自覚しつつ、いまや「上から目線」を独占している欧米人(およびそれに連なる者)のオーラに屈しない、被植民地人の抵抗として、奪われた「あるがまま」の日本の回復運動として現れるはずであろう。青山二郎による民藝批判は、その一端だったのか? その批判を受け継いだ白州正子の「こうげい」は、しかし結局は旧華族のオーラの残照に支えられていたのか? 誰も価値を認めず目もくれない「古道具」にこそオーラを見る坂田和實の倒錯は、「あるがままas it is(坂田の個人美術館の名前)」の復興だったのか? あるいは戦後の民藝は、「それに連なる者」による「JAPAN」であって、かつての民藝のシミュラークルにすぎないのか?

会場風景より

清水穣

しみず・みのる 批評家、同志社大学教授(現代芸術論)。1995年『不可視性としての写真 ジェームズ・ウェリング』(ワコウ・ワークス・オブ・アート)で第一回重森弘淹写真評論賞受賞。著書に「デジタル写真論」(東京大学出版会)「プルラモン 単数にして複数の存在」(現代思潮新社)など。定期的にBT美術手帖などの雑誌や写真集、美術館カタログに批評を書いている。