公開日:2021年1月12日

見るなのタブー。それでも私はあなたに見られることを欲望する:映画『燃ゆる女の肖像』レビュー

私的かつ普遍的な絵画ジャンル、肖像画をめぐる物語

18世紀フランス。結婚を控える娘エロイーズの見合い用肖像画を描くことを伯爵夫人に依頼された画家マリアンヌは、ブルターニュの孤島を訪れる。結婚を望まぬエロイーズに画家だと悟られぬよう散歩の相手として近づいたマリアンヌは、エロイーズを盗み見て肖像画の制作に勤しむ。しかし絵画が完成し、真実を告げたマリアンヌに対してエロイーズは出来栄えを否定。描き直しを決意するマリアンヌと自らモデルになることを申し出たエロイーズはキャンバスを介して見つめ合い、文学や音楽について語り合い、寝食をともにし、互いに特別な感情が芽生えるが──。

©︎Lilies Films.

*本稿は映画の展開やラストシーンについて言及しています。

絵画教室の先生を務めるマリアンヌに、生徒の一人が彼女の作品《燃ゆる女の肖像》について尋ねる。物語はマリアンヌが生徒に語りかける体裁で肖像画のモデルとなったエロイーズとの思い出を振り返る非直線的なナラティヴではじまる。肖像はモデルを直接知る人にとってはその人物にまつわる個人的な記憶や感情を呼び起こすトリガーとなるが、そうでない人にとっては描かれた人の容姿を認識し、その人の気質を感じとる手がかりにすぎない。私的かつ普遍的、という絵画のなかでも特殊なジャンルである肖像画が持つ二面性を申し分なく発揮した幕開けだ。

画家のマリアンヌとモデルのエロイーズの関係性、つまり見る─見られる(描くー描かれる)の関係が象徴するように、本作は徹底的に「まなざし」にまつわる映画として作られている。もちろん本編全体でレズビアン・ロマンスの要素を含み、女性であることがもたらす理不尽な境遇や女性同士の連帯が強調して描かれることからクィア的なあるいはシスター・フッドの観点でアプローチすることも可能であるが(実際本作を読み解く上でそれらを完全に切り離すことはできない)本稿では特にこの「まなざし」に注目して『燃ゆる女の肖像』の一側面について記していきたい。

©︎Lilies Films.

見る─見られる関係の非対称性を攪拌する

「メトロポリタン美術館に女性が入るには、裸じゃないといけないのか?女性の芸術家は近代芸術部門の4%以下しかいないが、裸体画の76%以上は女性だ」とは、匿名のアクティヴィスト集団ゲリラ・ガールズによる告発ポスターの一文である。彼女たちの言葉が示すように、古くから女性は主体である画家や鑑賞者(多くは男性)に一方的にまなざされ、消費される欲望の対象だった。見られる客体は見る主体によってなんらかの意味や役割を付与される存在であり、そこで客体の意思が考慮されることはない。

このように見る─見られるという関係性には、常に男性の目線がつきまとう暴力的なまでに非対称的な性質を有している。そうした意味で、マリアンヌが隠れて描いた肖像画の出来栄えをエロイーズが否定したあとの流れは興味深い。一見矛盾しているように思われるかもしれないが、エロイーズがモデルになると自ら買って出てから両者における見る─見られるの関係性が解体されてゆくのだ。

依頼を完遂させようと日々エロイーズを盗み見て描いたマリアンヌの仕事は、たしかに姿かたちの再現という意味では完璧だった。ただしそのマリアンヌの態度は、マリアンヌの内面を知ろうとするものではなくプロ意識に基づいた丹念な観察であり、男性に見られることを前提に見合い用の肖像画としてエロイーズを描くというものだった。だからこそエロイーズは記号的に描かれた自分を目の前にして「これが私なのか?」と尋ねたのだ。エロイーズはきっと、マリアンヌは私を見ていなかったのだろうか、私は一体誰にまなざされていたのか、とフラストレーションに苛まれたに違いない。

©︎Lilies Films.

描き直しを宣言したあと、マリアンヌとエロイーズはイーゼルを介して初めて向かい合う。ついにマリアンヌは架空の男性の視線を想定するのではなく、彼女自身の目でエロイーズをまなざす。木炭がキャンバスに接触する軽やかな音が響く静謐な空間で二人の視線が交差し、互いが互いを観察する。しかしその観察は対象のディティールを見るためのそれとはまったく異なるものへと次第に変化する。

それが顕著に現れているのが、制作中にマリアンヌとエロイーズがあなたは動揺すると顔に触れる、怒りを感じると眉を上げるという具合にそれぞれ相手の癖について説明する場面だ。以前のマリアンヌはエロイーズを対象化してまなざしていたためこのように相手の仕草と感情を結びつけて読み取ることは到底できなかっただろうし、同様に修道院から出てきたばかりのエロイーズがマリアンヌに向ける視線もまた好奇のまなざし以上のものではなかった。確実に彼女たちの関係性が変化しているその過程を鑑賞者に知らせるための描写が、注意深く相手を見る観察の動作に依拠しているのは印象的である。

対象を見たいというなにか本能的な欲求が通常は見えない物事をくっきりと見させることがあるが、普通では見過ごしてしまう相手の癖をすくいとるまなざしは愛の顕れとみなせるだろう。ある意味この瞬間からエロイーズとマリアンヌの恋が始まり、また画家とモデルの関係性が解体された結果両者が対等な関係になったといえる。男性のまなざしを内面化することで18世紀フランスという時代にどうにか画家として活動していた女性のマリアンヌが真の意味で見る主体に、そしてエロイーズも見られる客体であると同時に相手をまなざすことのできる見る主体となったのだから。

©︎Lilies Films.

「オルフェの冥界下り」の現代的な解釈

見られる客体が転じて主体になるという意味でとりわけ物語の鍵となるのは、ギリシャ神話のオルフェとエウリュディケの話だ。一般的にオルフェが地上へ戻る途中で振り返った理由は、妻が背後についてきているかわからない不安に駆られたせいだと認識されている。「オルフェの冥界下り」として知られるこの箇所について、なぜオルフェは振り返ってしまったのか登場人物らが議論する場面がある。ハウスメイドのソフィは約束を破ったオルフェの行動を非難する順当な回答を、マリアンヌは一風変わった面白い見方、そしてその後の自分自身を暗示するかのように「オルフェは妻の記憶と共に生きることを選択したのではないか」と擁護する。そうして二人がオルフェの立場で議論を交わすなか、エロイーズはただ一人意外な見解を述べるのだ。「振り返って私を見てと妻が望んだのかもしれない」と。ここで重要なのは、三人の誰が正しいのかではなく、エロイーズがエウリュディケの意志に言及したという事実である。

「鶴の恩返し」など見ることを禁じるモチーフを持つ物語類型は<見るなのタブー>と呼ばれ、ご想像の通り「オルフェの冥界下り」もこのカテゴリに属する。「オルフェの冥界下り」が他の<見るなのタブー>と大きく異なる部分といえば、男性のまなざしが女性を殺す物語として要約できる点だろう。すなわちここでは男性の視線が女性の生死を決定する「オルフェの冥界下り」の構造が、先に確認した画家とモデルの関係性をトレースする形で提示されている。つまり監督は、オルフェが振り返った理由を追求するのではなく、その時エウリュディケはどうだったのか?を争点とし、再び「見る男性」と「見られる女性」という非対称な関係図式の考察を試みているのだ。

同じく「オルフェの冥界下り」を下地としたジャン・コクトーの『オルフェ』(1950)では地上に戻ってもなお二度と妻の顔を見てはいけない条件が課され、オルフェは車のバックミラー越しに不運にも妻を見てしまうことで妻と別れる。とはいえコクトー版のオルフェは自分の意思で女性をまなざしたのではない。他の女性に目移りしている夫から愛を取り戻せないことに絶望した(あるいは相手の顔を見ることができない窮屈な生活に絶望した)妻ユリディスによる策略だった。このようにコクトーの『オルフェ』では見られる女性側の主体性を汲み取ったかのような演出があったが、これはオルフェに懸想した冥界の女王が自らの恋を諦めるラストへの布石にすぎず、妻ユリディスの立場を十分に考慮した必然的な演出だったのかと問われると首肯し難い。

このように従来の創作や解釈ではもっぱらオルフェの気持ちに焦点が当てられ、見られる女性側の意思は不在だった。だがそうした慣習を破るかのようにエロイーズは「オルフェの冥界下り」のリプリーズとして、別れの日に屋敷を去ろうとするマリアンヌに私を見て振り返って欲しいと引き止める。結婚を冥界に見立てて女性の使命を全うするエロイーズと現世のメタファーとしてパリに戻るマリアンヌがその後二度と出会えない運命にあることを暗に示すと同時に、エウリュディケにエロイーズを重ねることで見られる女性側が秘める主体性に光を当てたのである。

©︎Lilies Films.

以上に見てきたように、本作ではマリアンヌとエロイーズの交感を繊細かつ濃密に描く水面下でまなざしをテーマとした要素がちりばめられている。驚くべきは、それらすべての要素がマリアンヌとエロイーズの変化してゆく関係性にきちんと呼応していることである。見る画家と見られるモデルが必ず存在する肖像画を物語の中心に据え、見る男性―見られる女性という美術史的慣習を考察し、さらにはギリシャ神話の「オルフェの冥界下り」を同じ問題意識で結びつけるに至る。こうした側面が18世紀フランスで女性として生きる二人の不自由さや、愛する人へのまなざしという描写に昇華するのだ。

ラストシーククエンスでは、ついにカメラと鑑賞者はエロイーズをまなざすマリアンヌの視点と完全に同一化する。カメラの揺れはまるでエロイーズの輪郭をなぞる視線の動きのように。徐々にクローズアップするカメラワークは相手の姿を目に焼き付けんとする熱い視線のように。私たちはマリアンヌの目となることで、抗うことのできない見ることの欲望を感覚する。あなたを見つめたい、あなたに見られたい。そうした欲望が生まれるには他でもない「わたし」が必要である。本作は「見る」ことを通じてマリアンヌとエロイーズの生涯忘れ得ぬ鮮烈な出会いを描きだしただけでなく、彼女たちが主体性を獲得することによって「わたし」を発見する、二人の女性の個を描いた作品だといえるだろう。

©︎Lilies Films.

◾️映画『燃ゆる女の肖像』
脚本・監督:セリーヌ・シアマ
出演:アデル・エネル、ノエミ・メルランほか
2019年/フランス/カラー/ビスタ/5.1chデジタル/122分
原題:Portrait de la jeune fille en feu(英題:PORTRAIT OF A LADY ON FIRE)
字幕翻訳:横井和子
配給:ギャガ
12月4日TOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほか公開
https://gaga.ne.jp/portrait/

伊藤結希

いとう・ゆうき

伊藤結希

いとう・ゆうき

執筆/企画。東京都出身。多摩美術大学芸術学科卒業後、東京藝術大学大学院芸術学専攻美学研究分野修了。草間彌生美術館の学芸員を経て、現在はフリーランスで執筆や企画を行う。20世紀イギリス絵画を中心とした近現代美術を研究。