公開日:2021年12月16日

批評とは、魂を造形すること。岡﨑乾二郎の著書『感覚のエデン』を沢山遼がレビュー

批評家、造形作家の岡﨑乾二郎がデビュー以来紡いできた膨大な批評文を精選した『感覚のエデン(岡崎乾二郎批評選集 vol.1)』を、批評家の沢山遼が読み解く。

『感覚のエデン』(岡崎乾二郎批評選集 vol.1、亜紀書房)表紙

岡﨑乾二郎が長年にわたり執筆してきた批評群を精選し編まれた本書『感覚のエデン』の造本は、この「造形作家」の手になる著作として、一個の造形物として設計されている。膨大なアイデアが詰め込まれた本書の内容もさることながら、本書は、まずその魅力的な造本設計によって目を引く。岡﨑は、自身の肩書きに「美術家」ではなく、一貫して「造形作家」の名称を与えてきたことで知られる。その意味で本書もまた、そのような「造形」の論理に貫かれている。

だが、私自身を含む岡﨑の読者にとって、岡﨑の著作がつねに読者に与えてきたのは、もうひとつの造形の論理ではなかっただろうか。たとえば、岡﨑の著作を読むことは、ほかでもない、この私自身が作りかえられる=造形されることに直結してしまうからである。岡﨑の著作はつねに、読者の世界に対する認識を一変させ更新させるのみならず、読者自身に潜在する可塑性を開拓し、当の読者自身が、このような未知の可塑性が自分にまだ存在していたことを発見し、自らを作りなおすプロセスとともにあったからだ。ほかならないこの私もまた、岡﨑の著作によって造形されてきた読者のひとりである。

そのような意味において批評は、魂の造形術にほかならない。ゆえに、本書が、「ふたたび、うまれる」と題された、短いが、読む者を強く揺さぶるテクストから開始されることは、岡﨑にとっての「造形」が、たんに作品と呼ばれる事物をつくることのみならず、新たな主体を生み出すこと(「ふたたび、うまれる」こと)に関与するものであったことを示していたのかもしれない。岡﨑が「造形作家」であると同時に、魂の造形術を実践する批評家であること、そして、90年代以降の日本の美術界において、新たな主体を生み出す芸術教育の類稀な実践者であることは、その意味でまっすぐにつながっている。

「ふたたび、うまれる」ということ

いずれにせよ、岡﨑の存在によって、「造形」の持つ意味は大きく変わった。そのとき私たちは、岡﨑にとっての「造形」が、事物の造形以上の、魂の可塑性、魂の造形に射程を向けたものであったことに気づかされることになる。言い換えれば、岡﨑の議論は、主体や客体といった単位ではなく、あらゆるものを可塑性をそなえた、プラスティックな可能性に開かれた、メディウム(媒体)としてとらえる視座を与えるものである。ゆえに、あるものが魂を持つことは、私たちに可塑性があること、私たち自身もまたメディウムであり、そして、ほかの誰かのメディウムになりうることを示す。主体が可塑性を持つことは、別の生を生きること、すなわち、生まれ直すことができることを肯定することである。岡﨑の著書はまず何よりも、そのことを肯定し、かつ読者自身を通じてそれを実践するものであるように読める。
 
岡﨑は、本書の幕を開ける「ふたたび、うまれる」と題されたテクストで、文化を「再生」という観点から辿り直している。

イメージというものは知覚されている感覚そのものではない、知覚された情報(感覚与件)が引き寄せる(構成された)像である。この見えないはずの何ものか=像、に帰属させないことには、目や耳や手の先、舌先で知覚される情報(感覚与件)の確かさ、をわれわれは確認できない。見ているだけではなく、「何か」を見ているというかたちでしか、見ていることそれ自体を自覚できない。こうして「何か」は、何度でも訪れる。この「何か」は、だから時間にも空間にも直接属していない。(12頁)

つまり、何かを見ているという感触は、つねに、情報として入ってくる知覚と再構成された認識とのあいだの落差、亀裂のあいだにおいて成立している。そのような間隙、非在の場において成立するがゆえに、イメージは、どのような時間、空間にも、位置付けることができない。何かが実在的対象として把握されるたびごとに生じるのは、何度でも回帰する、そのような運動である。ゆえに、出来事は、何度でも転生、再生可能なものとなる。「ふたたび、うまれる」ことは、そのような再生の論理に貫かれている。文化が可能にするのは、このような再生の論理である、と岡﨑は言う。

だから私たちが文化と呼ぶものは、(再生装置としての映写機のように)このような再生の論理、つまり、「ふたたび、うまれる」ことを通じて把握される魂の持続を可能にするものであった。私たちが他者の魂を自覚するとき、あるいはそれと同じように、私はあった、私はたしかに存在していた、ということを自覚するとき、私たちは、ふたたび、うまれている。

その認識が導きだすのは、世界には、けっして共約することのできない、自律した、(ある意味では他の生から切り閉じられた)そしてそれゆえに何度でも再生される無数の系が存在する、ということだっただろう。このように、自律的に展開される無数の系を世界に認めることは、同時に、そこに無数の、見えない魂があることを認めることに結びつく。だから、何かを感覚することは、世界に存在する無数の系としての魂をそこに直感することでもあったはずだ。言い換えれば、他者の魂を自覚することにおいて、私たちは、自らも魂を持つことを自覚する。そしてそこから、異なる自律した系があり、互いに通約不可能なとき、いかに他者と応答、コミュニケーションすることができるのかという問いも生じるのである。

死者や動物の存在に強く背中を押されて

本書のタイトルともなったテクスト「感覚のエデン」において、岡﨑は、楽園エデンに、こうしたさまざまな差異、無数の感覚が、超越的な観点に統合されることなく、事実として肯定され、受け入れられる場を見出す。あるいは、無数の感覚が作りだす、ネットワーク、星座をそこに見る。その認識は、芸術そのものを、一個の「星座」としてみる視座を与える。

音楽は星座です。絵画とは星座です。それは無数の感覚のさまざまな方向への運動、(すり傷や、切り傷、熱まで発する、摩擦をともなった)物質的な運動の交錯が作り出す編成体です。(295頁)

動物や死者への言及が多くなされる本書は、楽園エデンに住まう動物たちのような、マイナーなもの、アノニマスなもの、小さなものへの擁護に向けられている。それらは、世俗において、名を持つことを封じられた、抑圧された者たちでもあるだろう。そこには、猫、昆虫、花、そして現世から追いやられ歴史に忘却された膨大な死者たちの存在、さらには事物も含まれる。そして、岡﨑はそれらもまた、感覚や意志を持つ、つまり魂を持つことを肯定しようとする。それらはある体系を代表=代行することもなく、超越的な視点によっては、互いに会話することも交流することもできない自律した系を形成している。マイナーなものとは、普遍的なものに対置される、無数の偏差によって導かれる特殊なものの言い換えである。

批評は、つねにそうした特殊にこそ、重要な批評的契機を見出してきた。批評は、そうした特殊なものを、道具のように認識可能な、何度でも再生可能な技術、身体的把握へと導く。とすれば、批評はつねに、マイナーなもの、特殊なものの後押しを受けてきたのだとも言えよう。事実、本書に収録された多くの岡﨑の批評は、死者や動物の存在に強く背中を押されて書かれたように感じられるのである。

魂を造形すること、生まれ直すことの可能性

本書に収録された数編のテクストが示すように、岡﨑が、トリシャ・ブラウン・ダンス・カンパニーとのコラボレーションや描画ロボットの製作において、ロボットという存在を考察することに持続的な関心を寄せてきたのも、ときに言葉や魂をもたないと見なされ、差別されてきた動物や事物とのコミュニケーション可能性に対する関心と密接に結びついている。ゆえに、岡﨑にとっての芸術は、すべてを総合する特権的かつ客観的な視点が与えられない状況において、花や昆虫と交流する(どこにも位置付けられない)時間と空間が、いつかかならず訪れること、通約不可能な異なる場と場をつなぐ回路が見出されること、それら両立しえない複数の空間が遭遇することの可能性に賭けるものであった。それは、超越的な表象=代表システムへの抵抗をはらむ、小芸術(レッサーアート)の可能性に賭けることだった。

繰り返せば、それは自らを作りかえること=魂を造形すること、生まれ直すことの可能性と並行している。岡﨑の批評、そして芸術は、このことを思考し、実践する。芸術とは、たんに作品と呼ばれる事物をつくることにとどまらない。それは、主体、あるいは世界の可塑性に賭けること、魂を造形すること、そして、無数の魂が交流する時間と空間の可能性を開くことにつながっている。そこに文化の可能性がある。「感覚のエデン」は、このような場なき場のなかにある。

感覚のエデン(岡崎乾二郎批評選集 vol.1)』
価格:3960円(税込)
発売日:2021年9月23日
判型:A5判
製本:上製
頁数:488頁
出版社:亜紀書房
ISBN978-4-7505-1711-7
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1030

沢山遼

さわやま・りょう 美術批評家。著書に『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)。共著に『現代アート10講』(田中正之編著、武蔵野美術大学出版局、2017)などがある。