公開日:2022年8月14日

「誰かが忘れずに、覚えていてくれるように。そして同時に、誰もが忘れてもいいように」。瀬尾夏美インタビュー

2011年に発生した東日本大震災をきっかけに、陸前高田や仙台を拠点に、絵や文章、映像(映画監督の小森はるかと共作)を通して震災の記憶に向き合ってきた瀬尾夏美。震災から10年が経った2021年3月、何を考えているかを聞いた。(取材日:2021年3月31日)

瀬尾夏美 草はらのまち 2017

——東日本大震災が起こった瞬間はどのように過ごしていましたか?

震災が起きたときは東京のシェアハウスに住んでいて、すぐにその場所が周りの友人が集まる避難所みたいになりました。でも、その瞬間についてはあまり印象がないですね。

——瀬尾さんの著書『あわいゆくころ』(晶文社、2019年)を拝読すると、その後にすぐに被災地である宮城に向かったんですね。

当時の私は東京の一美大生でしたが、こんなに大変なこと(震災)が起きたのに、何も関わらずに生きていくということはできないのではと思って、ボランティアとして現地に行ったのが最初でした。アーティストとして、という感覚はまったくなかったです。いろんな現場に行ってみて、自分が持っている技術や身体性みたいなものがその土地の現状を記録し、回路となってほかの場所とつなぐメディアとして機能したらいいなと思うようになりました。

——実際に宮城に行ってみて、印象的だったことはありますか?

被災地域で切実な表現がたくさん生まれていたことです。たとえば、集落全体を弔おうと言って、地元のおばちゃんたちが荒地に花をたくさん植えていました。そこがコミュニティのスペースにもなっていて、死者も生者も、よそ者もまったく関係なくただそこにいられる。そこで、表現の原初的な在り方を見た気がしたんです。弔わねばという切実な動機から生まれる表現の豊かさ。表現者として敵わないなと思いました。だから私はこういうものを書き留めて、何が起きているかを分有していくような回路になりたいと思ったんです。

——瀬尾さん自身は被災地にどのように向き合ってきたのでしょうか?

私は被災地のなかでもとくに陸前高田という場所をずっと見てきたのですが、その土地と外をつなぎ、その街に暮らしている人たちと協働できる立場でいたいと思い、つねに外の人間としているように意識しています。それで「旅人」という言葉を使ったりしていますね。だから最初の頃は、「陸前高田の人間にならないようにするにはどうすればいいか」という自分のなかの葛藤がありました。いまは仙台に住んでいるので、そこまで緊張しなくても大丈夫なんですけど。

瀬尾夏美 つどう場 2017

——それはなぜですか? 陸前高田という場所と外を正しくつなげていくためなのでしょうか。

聞き手になるにはその土地や相手との距離が必要なんですよね。 “当事者”の人たちの体験や感情のすべてを理解することはできないし、軽々しくわかったと言われたら彼らもしんどいと思います。お互いに「わからない」という前提をちゃんと共有しながら、会話を重ねることで、やっとその人の体験が外に出てくるための余白みたいなものをつくっていけるというか。私とあなたは違う人間としてここにいて、あなたは語らねばならないことを体に持っていて、たとえ理解することはできなくても私はそれを聞きたいと思っていて、じゃあそれをどうやって外に出していくか、という課題に対して協力して向き合っていく。語り手である“当事者”との協働のために必要な距離です。

——映画『二重のまち/交代地のうたを編む』を見たときは、自分のなかで止まっていた被災地のイメージが動き出した感覚がありました。外から陸前高田を訪れた「旅人」が、被災者の語りを聞き、語り直していく伝承のあり方を生々しくとらえていました。瀬尾さんが本作を思い立った経緯や理由を教えてください。

陸前高田の状況が、被災から復旧していく段階を経て、人々が新しい街で実際に暮らしていく段階へと移ったのを感じたからです。そのいっぽうで、幼い頃に震災の様子をメディアを通して見て「あのとき何もできなかった」と申し訳なさそうに語る若い子に出会うことがあって。こんなふうに震災の影響を受けながら育ったんだなと思いました。

いままでは、被災の“当事者”と言われる人たちと言えば被災地で家や家族をなくしたような人たちだととらえられてきました。でも、そうでなくても、みなそれぞれに衝撃を受け、問いを積み残しながらその後の時間を暮らしてきた。いよいよ、これまで“当事者”ではないとされてきた人たちの声が置いてきぼりになっていると感じたんです。それで、当事者か非当事者かというカテゴライズ自体が分断を助長してしまっていることのほうが問題なのではないかと思うようになりました。つまり、陸前高田では生活再建が進み、傷を抱えながらもふつうの生活が始まり、震災のことを語る機会も減ってきている。いっぽうで、被災地から遠い場所で「何もできなかった」という思いを募らせながら傷が膿んだままの人たちがいる。だからまずは、彼らが出会う場をセッティングしたい。彼らが出会い、会話を始めれば、そこから伝承が始まるだろうとも思っていました。

似たようなことが戦争体験に関しても言えると思います。戦争体験の伝承に関するリサーチをしてみると、「当事者の語りだけが絶対」という感覚が強い現場も多くある。ただ、当事者しか語れないとしてしまうと、多くの人にとって、戦争というものがものすごく遠いものとして定着してしまう。それに、そもそも戦争体験の当事者も本当は多様なはずですよね。震災と同じで、劇的な体験をした人の声が着目されて、見過ごされた声も多かったと思うんです。

だから、震災伝承の現場に関しては、細々とでも当事者性のグラデーションを認め合えるような環境を作っていけたらなと思っています。

——伝承のいっぽうにある忘却することについても聞かせてください。著書『あわいゆくころ』の中に、「誰かが忘れずに、覚えていてくれるように。そして同時に、誰もが忘れてもいいように」という言葉が、私にはとても印象的でした。

その一説に関しては、陸前高田の人たちに向けて書きました。私は復興のプロセスのなかで、花畑や弔いの神楽が生まれた、被災から新しい街が出来るまでの「あわい」の時間はすごく豊かだったと思いました。いっぽうで陸前高田の人からは「やっぱりしんどかった」「いまの生活を一生懸命やりたいから昔の話はしまっておきたい」というような言葉も聞きました。その人たちに「大丈夫ですよ」って言いたかったというか。「私が本に書いて綴じておいたので、あんまり考えたくない、忘れたいと思うときには忘れていい。もし思い出したくなったらここにあるから」と言えたらな、と思ったんです。

あまりに大変な出来事(震災)がおきて、いままさにしんどい思いをしている人がいて、また、自然災害が頻発して都市と地方の不均衡が露呈しているのに、社会全体がそれを考えること自体を放棄しているという態度はよくないと思います。そういう意味では忘れないことは大事。ただ、全員が全部のトピックを考え続けるのは不可能ですし、役割分担すればいいから、忘れてもいいし、そのぶんいつ誰が参加してもいいってことは言いたいという感じですかね。それぞれのペースで思い出して考えてほしいです。

瀬尾夏美 ひとりの家 2021

——瀬尾さんはこれから被災地とどう向き合い、何を作っていきますか?

気づいたら被災地と向き合って10年が経っていました。私はもともと大学で絵を描いてきましたが、被災地を絵画のイメージにするのに10年近くかかりました。ドローイング、ワークショップ、映画などいろんな経験を経てやっと絵にいけたんですね。ひとつのできごとや世界を理解するにはとても時間かかる。だから、この先にももうちょっと違う表現や複雑な物語を紡いでいくにはまだまだ時間がかかりそうです。いっぽうで、この10年で起きた他の災害被災地のことも気にかかっています。

あとは、「みやぎ民話の会」で東北地方の民話採訪・民話集編纂に従事してきた小野和子さんや、「東京大空襲を記録する会」の早乙女勝元さんなど、90歳近い大先輩のロールモデルが私にはいます。彼らが見てきたこと、やろうとしてきたことをもっと聞いておきたいという気持ちもあります。

瀬尾夏美(せお・なつみ)
1988年東京都生まれ。アーティスト。東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。土地の人びとのことばと風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。2012年より、映像作家の小森はるかとともに岩手県陸前高田市に拠点を移す。地元写真館に勤務しながら、同市を拠点に制作。2015年、仙台市で東北の記録・ドキュメンテーションを考えるためのコレクティブNOOKを立ち上げる。現在は“語れなさ”をテーマに各地を旅し、物語を書いている。ダンサーや映像作家との共同制作や、記録や福祉に関わる公共施設やNPOなどとの協働による展覧会やワークショップの企画も行う。参加した主な展覧会に「ヨコハマトリエンナーレ2017」、「第12回恵比寿映像祭」、「3.11とアーティスト:10年目の想像」(2021)など。最新の映画作品に「二重のまち/交代地のうたを編む」(小森はるか+瀬尾夏美)。著書に、『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房、2021年)。共著に『10年目の手記』(生きのびるブックス、2022年)。

野路千晶(編集部)

野路千晶(編集部)

Editor in Chief