公開日:2023年3月23日

「編集」の作家としての庵野秀明論。柄本佑と森山未來が導く『シン・仮面ライダー』のその先とは?

日本の特撮を新生する「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」の完結編に位置付けられる『シン・仮面ライダー』。庵野秀明のフィルモグラフィーにおけるその意義を、「物語」ではなく「技術」から美術ライターの島貫泰介が考察。

『シン・仮面ライダー』公式ホームページより(https://www.shin-kamen-rider.jp/)

「編集」から『シン・仮面ライダー』を読み解く。

庵野秀明が編集を重視しているのは、『ラブ&ポップ』(1998年)から始まり『シン・ゴジラ』(2016年)で大きな達成を迎えた一連の実写作品群において明瞭に了解できるだろう。とくに『シン・ゴジラ』で実践された、大量のiPhoneや小型のHDカメラを駆使してとにかく多くの「画」を確保し、編集作業での画作りの可能性を大幅に開く手法は、次作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)での、無数のカメラアングルや演技のデータを蓄積することのできるバーチャル撮影や庵野自ら撮影した実写映像を作画の参考にするといった、アニメと実写のハイブリッドな手法へとアップデートされている。

そういった技術的な前史を踏まえたとき、最新作『シン・仮面ライダー』(2023年)は、庵野作品の「編集性」を際立たせると同時に、その限界と新たな広がりを示唆する一作になっている。広がりの鍵になるのは、一文字隼人=仮面ライダー第2号を演じる柄本佑、SHOCKER首領である緑川イチローを演じる森山未來の存在だ。

リアリティに基づいた実験精神にこそ宿る、庵野秀明の作家性。

『シン・仮面ライダー』の冒頭部は、SHOCKERに追われる本郷猛(仮面ライダー第1号)と緑川ルリ子のカーチェイス、力に目覚めたライダーとSHOCKER構成員たちの凄惨なバトルシーン、その追跡を逃れた猛とルリ子、そして緑川博士の廃屋での会話などで構成される。そこでのバイクもしくはトラックのタイヤを上部から捉えた画といった奇抜なショット、主観と客観視点をめまぐるしく切り替えつつ、過剰な情報量のセリフにせき立てられているようなカットの集積は、本作で、あるいは庵野作品内で提示され続けている空間と時間の感覚がどのようなものであるかを観客に高らかに告げている。

『シン・ゴジラ』の撮影現場では「とにかく早口で喋らないと出番を容赦なくカットされるらしい」との噂に俳優たちが戦々恐々としていたというが、このエピソードが示唆するのは、役者の芝居やその内面をある意味で信頼しきらずに、「画」や「尺」といった可視化・定量化されるもので作品を構成していく庵野の即物的とも言える創作のスタンスだ。

先述した撮影方法のみならず、既存の映画プロダクションのセオリー(撮影監督や照明監督など各技術部門の長を頂点とする職能を尊重した制作システム)をも破壊的に革新した『シン・ゴジラ』が傑作たりえたのは、劇中ではほとんど無名の役人やテクノクラート(技術官僚)らを主軸にした群像劇である同作と、内面を排した作劇において強い個性を発揮する庵野との相性の良さがある。

もちろん、その個性ゆえの自問自答は、主に90年代に展開した最初の「エヴァンゲリオン」シリーズの深刻な内省性や、それを完結させるものとしての「新劇場版」シリーズでのシンジ=ゲンドウ=庵野自身のための教養小説の手触りとしてあらわれてはいるものの、『不思議の海のナディア』(1990年)から今回の『シン・仮面ライダー』に至るまで一貫する「個人の自己犠牲によってもたらされる他者との和解」以外のテーマをまるで描く気がないかのように狭量な関心の物語よりも、技術的・経済的なリアリティに基づいた実験性にこそ、庵野秀明の作家性を見出すのが妥当であるように思う。

そう考えると、『シン・仮面ライダー』前半部での編集による時間構築は、これまでの庵野の技巧を引き継ぐものとして受け止めることができるが、シーン間をつなぐきっかけになっている「ドアの開け閉め」や「施錠」などのカットを短く挿入する庵野作品では見慣れた手法はいささか冗長であり、作品全体を稚拙な段取り芝居のように見せてしまってもいる。

原点主義を強調する近年の庵野からすれば、内面が描かれない不特定多数の人々による機械的かつ迅速なタスクの積み重ねがそのまま物語のカタルシスになっていく『シン・ゴジラ』に対して、監督を盟友・樋口真嗣に託した『シン・ウルトラマン』(2022年)や『シン・仮面ライダー』では扱われる人間関係の幅がそもそも狭く、そのなかでは家族や恋愛といったウェットな人間関係にもフォーカスしなければならないということなのかもしれない。だが、俳優の演技がもたらす内面性に依拠せず、カットの積み重ねでそれを表現するのはあまりにも分が悪い。その意味で、『シン・仮面ライダー』の前半は既視感に満ちて退屈である。

森山未來と柄本佑がもたらす新しい演技体。

しかしそれが大きく転回するのは、森山未來柄本佑が本格的に物語に関わり始める中盤だ。俳優としてだけでなくコンテンポラリー・ダンスの分野でも活躍する森山は、何気ない会話のシーンでも(暗黒)舞踏に顕著な身体の細部への関心を惹起するムーブメントを駆使して緑川イチローという超越的な人物の存在感を具体化する。それは本作における庵野のアバターとしての本郷猛の朴訥な演技などと比較して、言語化することの困難な密度を画面にもたらしている。

いっぽう一文字隼人を演じる柄本は、ダンサーとしての習練を積んでいないはずだが、60〜70年代のアングラ演劇の影響圏にある自由劇場などで培われた特異な演技体を持つ父・柄本明ゆずりの発話と所作の説得力で、極度に芝居がかった庵野による言葉の不自然さを、映画・演劇の言葉として観客に届ける才を巧みに発揮している。

彼らの登場によって、編集で切り詰められた画の軽みは独特の重みを持ち始める。『シン・ゴジラ』が群像劇の集積性によって一本の映画をあたかも大きな生命体に変えたのだと仮定するならば、『シン・仮面ライダー』はダンサー・俳優が有する可視化しえない技巧によって作品後半に生命を吹き込んだと言えるかもしれない。

そのせいだろうか、前半部でのせわしない編集や奇抜なレイアウトは後半になると次第になりを潜め、各カットの時間も長くなり始める。それは、これまでの庵野作品にはなかった時間と空間の経験をもたらしている。

文脈から身体性へ。

筆者は、森山未來がもたらした効果に『シン・ゴジラ』でのゴジラ第4形態のモーションアクターに能楽師・狂言師の野村萬斎を起用したことを想起する。幽世を表現する芸能である能が、ゴジラに託された虚構感や超常性を文脈的に連想させることが意外な起用の理由であったとこれまで考えてきたが、『シン・ゴジラ』の群像性の対極で、揺るぎない存在としての重みを現出させていたゴジラ=萬斎の演技体が作品にもたらしていたリアリティ・説得力を改めて認識する。

日本の特撮の代表作を新生してきた「シン」シリーズは、『シン・仮面ライダー』で完結するそうだが、本作で発見された演技体の重要性は、今後の庵野作品にポジティブな影響を与えることになるのではないだろうか。実写作品において、庵野が松尾スズキ手塚とおるを重用するのは、「エヴァンゲリオン」をきっかけに90年代の小劇場演劇と庵野が結んだサブカルチャー文脈の明示として見ることもできるが、例えば『ラブ&ポップ』において本物の女子高生を起用したように、そもそも庵野は様々な演技体のリアリティを作品の俎上に上げることでその作家性を確立してきたとも言える。

彼は、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(1987年)などのドキュメンタリー映画や、90年代のアダルトビデオ界隈で展開した実録的アプローチへの関心をたびたび発言しているが、AV監督である平野勝之が恋人関係にあった林由美香の死を主題にしたドキュメンタリー映画『監督失格』(2011年)を自らプロデュースしたのはよく知られているし、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒(1999年)のメイキング作品『GAMERA1999(同年)のように、庵野自らが手がけたドキュメンタリー映画も少ないながら存在する。

それらからは、実相寺昭雄岡本喜八らの作品を経由した、庵野の「リアリティ(と、その対極にある虚構性)」への執着、リアリティを凝集する個々人の「特権的肉体」への関心が見てとれる。筆者は、庵野自身によるドキュメンタリー作品をもっと見たいと切望する者だ。

文脈を重視する原点主義への関心を拡張させ、『シン・仮面ライダー』で予兆された肉体や言葉、演劇性の問題を取り込むことができれば、庵野作品は新たな相貌を観客に見せてくれるに違いない。

シン・仮面ライダー

全国公開中
原作:石ノ森章太郎 脚本・監督:庵野秀明
制作プロダクション:シネバザール 「シン・仮面ライダー」製作委員会
© 石森プロ・東映/2023「シン・仮面ライダー」製作委員会

https://www.shin-kamen-rider.jp/

島貫泰介

島貫泰介

美術ライター/編集者。1980年神奈川生まれ。京都・別府在住。『美術手帖』『CINRA.NET』などで執筆・編集・企画を行う。2020年夏にはコロナ禍以降の京都・関西のアート&カルチャーシーンを概観するウェブメディア『ソーシャルディスタンスアートマガジン かもべり』をスタートした。19年には捩子ぴじん(ダンサー)、三枝愛(美術家)とコレクティブリサーチグループを結成。21年よりチーム名を「禹歩(u-ho)」に変え、展示、上演、エディトリアルなど、多様なかたちでのリサーチとアウトプットを継続している。