公開日:2022年6月15日

『シン・ウルトラマン』の愛はどこに向かう? 椹木野衣が予見する『シン』ユニバースの未来(文:椹木野衣)

監督を樋口真嗣、脚本を庵野秀明が務めた『シン・ウルトラマン』が公開されて約1ヶ月が経った。細かな設定や造形面で1966年放送開始の最初の『ウルトラマン』にオマージュを捧げる同作には、すでに様々な議論・批評が向けられている。ウルトラマンのデザインを手がけた彫刻家・画家の成田亨についてたびたび論じてきた美術批評家の椹木野衣は、同作にいかなる視線を向けたのか?

出典:『シン・ウルトラマン』公式ホームページ(https://shin-ultraman.jp/)

ウルトラマンにとっての「人間」

最終盤での『シン・ウルトラマン』(2022)の思いがけない展開を見ていて、私はウルトラマンというより別の物語を思い浮かべていた。同時に、それらの別の物語を通じて、ウルトラマンという物語について改めて考え直していた。

そのうちで最大のものは、1966年放送開始の最初の『ウルトラマン』(1966〜67)において、そもそも科特隊(科学特捜隊)のハヤタ隊員と宇宙人であるウルトラマンとの合体とは、どういうものであったのか、ということだ。合体のきっかけは、第一話「ウルトラ作戦第一号」で小型ビートルに乗っていたハヤタ隊員が、宇宙から青い玉と化して地球に逃れてきた凶悪な宇宙怪獣ベムラーを追う赤い玉=ウルトラマンに衝突し、墜落して死んでしまうことにあった。このことで罪の意識を負ったウルトラマンはハヤタと合体することで彼の命を救い、地球に留まることを決意する。

しかしこのことは、実際にはハヤタを助けるというよりも、ウルトラマンが地球で身を隠すための依代としてハヤタの肉体が使われたことを意味する。というのも、確かにハヤタは命こそ保たれたものの自己の意識はなく、心身ともに命がもとに戻るのは最終回「さらばウルトラマン」で宇宙恐竜ゼットンに敗れたウルトラマンを助けるため、光の国から使わされたゾフィが携えてきたふたつの命のうち、そのひとつを与えられたからだ。事実、その直前にゾフィがベーターカプセルでフラッシュビームを焚き、ハヤタとウルトラマンの肉体を分離している。こうして「生き返った」ハヤタは、ウルトラマンが地球を去る段になってようやく本来の自我が戻り、その間の記憶は失われていたことが示される。

これはよく言っても仮死状態であって、本当にハヤタを助けたことになるのかは疑問が残る。合体によって救うというなら、せめて意識だけは残り、ウルトラマンという存在との共存による心の葛藤に悩まされるようなことがあってもおかしくはなかった。それさえないということは、合体というよりも、ハヤタは終始ウルトラマンに心身ともに乗っ取られていたというほうが近いのではないか。

このような(合体というより)乗っ取り状態は、今回の『シン・ウルトラマン』でも踏襲されている。そこから考えたとき、公開前に内容を伺わせる数少ない鍵として出された「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」という言葉という言葉──オリジナルでは「ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか」──にも、少なからぬ注釈が必要となるように思う。それは、最初の『ウルトラマン』で元はウルトラマン個人の罪悪感であった人間への思いが、終盤では地球人全体への愛情に至るまで拡大していたということだ。この変化の理由はいったいなんだろう。はっきりしたことはわからないが、ウルトラマンがハヤタと合体したこともひとつの大きな要因ではないだろうか。

先に乗っ取ったと書いたけれども、ウルトラマンがいかに超人と言え、四六時中ハヤタと一心同体でいるのは事実だ。そしてハヤタは地球人でも人一倍正義感、人間(地球防衛)愛の強い人物だ。ということは、ウルトラマンはハヤタの心身を乗っ取っていたようで、実際にはじわじわとその強靭な正義感、人間(地球防衛)愛に心を乗っ取られていたのではないか。そして、だからこそウルトラマンは、どんなに「ウルトラ」であったとしても、地球上では「マン=人間」でなければならなかったのではないだろうか(シン・ウルトラマンでのウルトラマンの宇宙での呼称はリピア)。

『デビルマン』における愛

本文の冒頭で『シン・ウルトラマン』から別の物語を連想したというのは、このこととも大きく関わる。その物語というのは同じ「マン」でも、永井豪が描いた『デビルマン』(1972〜73)だ。同作では、心優しい不動明がデーモン族の勇者で最強にして最凶のアモンから合体を仕掛けられるが、アモンは不動の人間としての心に負け、逆に意識を乗っ取られてしまう。その結果誕生したのが、悪魔の能力を身につけた人間としての「デビルマン」だ。つまり、これはウルトラマンとは逆で、人間の側からの悪魔の肉体の吸収ということになる。その意味でウルトラマンとデビルマンとは同じマンでも、宇宙人が主か人間が主かによって存在の仕方が対照的なのだ。

しかし、そう言ったすぐそばから付け加えておくと、にもかかわらずウルトラマンとデビルマンとでは、その乗っ取られ方の結果で最終的には相似する。つまり、ウルトラマンは人間の体を治める主体になったものの最終的には地球を愛する人間の心を持つようになり、反対に不動明は、悪魔の体を治める主体になったものの、最終的には人間を憎悪する悪魔の心を持つようになるからだ。

ところで、『デビルマン』を通じて『ウルトラマン』から『シン・ウルトラマン』を解釈しようとする本稿の展開からすると、ウルトラマン=シン・ウルトラマンにおいて不動明(悪魔人間)に対する飛鳥了(堕天使)の立場と考えられる同胞は誰かと考えたとき、それはゾフィではないだろうか。デビルマンにおいて飛鳥はじつはデーモン族の頂点にあるサタンである。しかし同時にサタンは両性具有であり、不動明を愛してしまった。不動をアモンと合体させたのも、もとはと言えば人間を滅ぼすことを決意したサタンが、にもかかわらず不本意にも愛してしまった不動を救うため、悪魔の能力を身につけさせるためのもくろみであった。

ところで『シン・ウルトラマン』においても、人間と合体するという禁忌を破った、いわば「裏切り者」であるウルトラマン=リピアをゾーフィ(ゾフィ)は処罰しようとはしない。むしろ、そのことで宇宙全体に著しい危機を招く能力を秘めていることが明らかになってしまった地球人のほうをまるごと滅ぼそうとするのだ。

「シン」シリーズが合流する先は?

とはいえ、実のところ(シン)ウルトラマンも、地球人全体に対して博愛の念を持っているわけではない。なぜなら(シン)ウルトラマンが「好きになった」のは、「人間」と言っても禍特対(禍威獣特設対策室専従班)を構成するメンバーに限定されており、実際、それを統率する上位機構が禍特対を処罰しようとすると、(シン)ウルトラマンは躊躇することなく人類のほうを滅ぼすと断言している。これはデビルマンとなった人間である不動が、人間の側に立つ根拠を牧村美樹ただ一人への愛情に帰着させていたことと近い。

ところで、先に飛鳥のことを堕天使と書いたが、天使が人類を失敗作として滅ぼそうとする物語に、庵野秀明が次作として控えている映画『シン・仮面ライダー』(2023公開予定)の原作者である石ノ森章太郎による「サイボーグ009」シリーズの未完の大作『天使編』(1968〜69)がある。ここまで触れてきたように、『シン・ウルトラマン』には石ノ森における『天使編』に一脈通ずるものがある。としたら、この背景はもしかしたら『シン・仮面ライダー』にも受け継がれる余地がないとは言えない。もっと言えば、そもそも『シン・ゴジラ』(2016)と『シン・ウルトラマン』とのあいだには、冒頭のタイトルバックを通じて続編的な意味合いがあったように、後者は潜在的に、今後ありうるかもしれない『シン・デビルマン』(同じ原作者=永井豪に基づく庵野による実写リメイク版『キューティー・ハニー』やOVA版『Re:キューティ・ハニー』は2004年にすでに制作されているが)への伏線となりうるかもしれず、もしかするとそれは来たる『シン・仮面ライダー』を通じて、ありうべき『シン・サイボーグ009』ともつながるかもしれない。

そして最終的には、この「シン」の系譜は多次元宇宙的に束ねられ、すべてのキャラクターが競演する、「手塚マンガ」におけるスターシステムを極限まで踏襲した、いわば『シン・バイオレンスジャック』とでも呼べる世界観/サーガへと拡張さえる可能性を持つ。

シン・ウルトラマン

2022年5月13日より全国ロードショー
配給:東宝
監督:樋口真嗣 脚本:庵野秀明
出演:斎藤工 長澤まさみ 山本耕史 西島秀俊ほか
https://shin-ultraman.jp/ 

椹木野衣

椹木野衣

さわらぎ・のい 美術評論家、多摩美術大学美術学部教授。1962年生まれ。主な著書に『日本・現代・美術』(新潮社)『後美術論』『震美術論』(ともに美術出版社)『感性は感動しない 美術の見方、批評の作法』(世界思想社)など。「日本ゼロ年」(水戸芸術館)、「うたかたと瓦礫 : 平成の美術 1898-2019」(京都市京セラ美術館)などキュレーションも手がける。