公開日:2024年1月30日

異次元の感覚反応。山内祥太の個展「メディウムとディメンション:Apparition」レビュー(評:勝俣涼)

青山|目黒(東京)で山内祥太の展覧会「メディウムとディメンション:Apparition」が開催された。会期は2023年12月1日〜24日。キュレーションは美術評論家・中尾拓哉。本展について美術批評家の勝俣涼が論じる。

会場風景 撮影:西山功一

皮膚とゴムの接触

3DCGによる映像などを用いて、デジタル技術と知覚的身体の交渉を探究する山内祥太の個展「メディウムとディメンション:Apparition」が、青山|目黒で開催された。

「Apparition」は「出現」を意味する語で、マルセル・デュシャン(1887〜1968)がその代表作《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》、1915〜23)にまつわるメモで用いたものであるという。本展のキュレーションは、デュシャン研究でも知られる美術評論家・中尾拓哉によって手がけられている。

会場風景 撮影:西山功一

本展は、2つの作品から構成される。ひとつは《舞姫》(2021)、もうひとつは、昨年、山内が手がけた初となる演劇作品『汗と油のチーズのような酸っぱいジュース』(2023)を再構成したインスタレーション、《Apparition》(2023)だ。会期中には、複数回にわたってパフォーマンスが行われた。

山内祥太《Apparition》(2023)パフォーマンス パフォーマー:三好彼流、泊舞々 撮影:西山功一

人間とテクノロジーの恋愛をテーマとする《舞姫》において強烈な印象を与えるのは、3DCGによって生成された、人間のようなプロポーションとゴリラのような頭部を併せもつキャラクターだ。それが身にまとう、ゴムのように伸び縮みする皮は、生き物自身の皮膚であるようでいながら、剥離して衣服のように翻りもする。

この、自分のものであると同時に外的なものでもある両義的な皮膚=ゴムは、二者間の恋愛を駆り立てるインターフェースとしても読み取れる。身体的ないし心的な接触を通じて束の間「ひとつになる」ことは、それが永続するものとしては成就されず、再び引き離されてしまうかもしれないという予感と背中合わせであり、そうした危機への対処として相手を「束縛」することもあるだろう。《舞姫》の皮膚=ゴムもまた、あるときには生き物と肌を重ねるように吸着し、身体の輪郭と溶け合うかと思えば、別の場合には動作を制約する拘束具となる。

山内祥太《舞姫》(2021) 撮影:西山功一

彫刻という、人に似て非なるモノ

しかしこうした両義性は、ほかならぬ恋愛の条件なのかもしれない。恋愛対象が自分のものになることへの期待と、その対象がどこまでも何かほかなるものであり、いずれ失われてしまうだろうことへの不安が入り混じるからこそ、愛をめぐる応答関係は平衡に帰着することなく高揚する。象徴的なことに、快楽と不安が錯綜するこの皮膚=ゴムを脱ぎ去り、いわば他者性から解放された生き物は、生気を失って急速に老化、あるいは自らの体を舐める自己愛的な段階へと後退する。

《舞姫》に付随するテキストには、人間とテクノロジーの性愛的なやりとりが描写されているが、抱擁と束縛が紙一重で隣接する状況とともに印象的なのは、その一幕が、彫刻にまつわる語彙によって語られていることである。

わたしはあなたになる。あなたはわたしになる。
ピュグマリオンとガラテアはここに居る。誰かわたしを見てくれ。誰かあなたを見てくれ。

「わたし」と「あなた」がひとつに閉じようとする傍らで必要とされる「誰か」とは、「わたし」と「あなた」を引き裂きながらも支えるような第三者だろうか。自らの作った彫像に恋をした彫刻家ピュグマリオンは、愛情に応えることのないそれを前に思い悩む。だがアフロディテへの願いが成就し、彼はついに、生命を吹き込まれ、人間へと変容したその女性ガラテアと結ばれることになる。愛の対象に「人間」という同一性を求めながら、彫刻が不活性な石でしかない限り、その望みは成就し得ないという焦燥こそ、この神話のハイライトだろう。《舞姫》においてその焦燥は、人間の肌とテクノロジーの肌、すなわち皮膚とゴムという似て非なる2つの薄膜が交わす、触覚的なやりとりによって表現される。

彫刻やテクノロジー、およびこれに連なるものとしての人工物(工業製品としてのゴム)が、《舞姫》において人間と人外の間で揺動する形象であるとすれば、そこにあの生き物の頭部を特徴づける動物性を加えることができるだろう。それは、本展を構成するもうひとつの作品、《Apparition》にも関連している。

山内祥太《Apparition》(2023)インスタレーション 撮影:西山功一

触れ合っては消失し、またつなぎなおされる「匂い」

《Apparition》では、フラスコ類や冷却器からなる蒸留装置と大型水槽を接続するシリコンチューブが、展示室全体を取り巻くように循環する。その途中で、チューブは《舞姫》の生き物(が投影される壁面)を貫通している。また、パフォーマンスではしばしば、チューブがへその緒のように、ラバースーツ——あの皮膚=ゴムと照応するようなインターフェース——を介してパフォーマーの身体と接続される。

科学実験的な装置と身体の複合は、人間と機械的機構が連動することで性的なエネルギーが加工、転送される様相を示すデュシャンの《大ガラス》を類推させる。興味深いことに、蒸留装置を通じて水分が液体と気体の間で状態変化するさまは、《大ガラス》において「独身者」から「花嫁」の領域へと、「毛細管」や「濾過器」を通じて冷却、凝固、液化されるガスの運動と呼応するように見える(*)。だが同時に、フラスコで蒸された様々な材料(エビやバナナなど)を芳香成分として抽出し、蒸留水として排出する《Apparition》の装置は、さながら代謝や排泄を行う生物の肉体そのもののようでもある。

山内祥太《Apparition》(2023、部分) 撮影:西山功一

こうした擬人的形態は、呼吸し、発汗し、匂い立つような人いきれの源泉となる観客たち自身の身体を自覚させるかもしれない。そして《Apparition》では文字通り、「匂い」を媒介とした交わりが扱われる。たとえば蒸留されたエキスが加湿器や霧吹きで空中に散布され、異なる匂いが混ざり合う。付随する映像では、人間や動物、植物、食品、生活用具など、匂いの記憶に結びついた形象が幻影のように、出現と消失を繰り返す。

加えて、いくつかのパフォーマンスに登場する、ホース状の鼻を備えた「獣」のユニークな振る舞いに注目すべきだろう。筆者が鑑賞した回では、「獣」に扮したパフォーマーが四足歩行で展示空間を練り歩き、匂いを拾い集めるように観客に鼻先を寄せたり、フラスコに鼻息を吹き込み、蒸し上がった果物が立てる湯気を観客に浴びせた。観客(人間)の体や「獣」の呼気、その他様々な有機物の放つ匂いが、その過程でいわば次々と媒介され、「接触」する。

山内祥太《Apparition》(2023)パフォーマンス パフォーマー:三好彼流、泊舞々 撮影:西山功一
山内祥太《Apparition》(2023)パフォーマンス パフォーマー:三好彼流、泊舞々 撮影:西山功一

私たちは次元の牢獄から解放されうるか?

匂いに触れることで呼び起こされ、しかしその刹那に薄らいでしまう記憶像や、つねに別れを潜在させる恋愛は、最終的な定着を約束されえないという意味で、あらゆる別の接触点へ開かれている。また本展において、パフォーマーはしばしばギャラリーの内外を越境し、観客もまた室内のみならず、屋外から窓ガラス越しに鑑賞することを促される。

山内祥太《Apparition》(2023)パフォーマンス パフォーマー:三好彼流、泊舞々 撮影:西山功一

こうした開放性ないし非限定性は、次元移行や四次元空間の表象を探求したデュシャンの身振りとも、なんらかの仕方で共鳴するだろうか。《舞姫》の生き物はしばしば、ラバースーツを介してパフォーマーとへその緒(シリコンチューブ)でつながれるが、コンピュータグラフィックスの技術的な肖像と人間の肉体がとり結ぶ、この次元越境的な関係もまた、そうした開放への希求に関わっているのかもしれない。異なる次元への開放、あるいは「いま・ここ」という次元からの解放がもし可能なら、それはいかなる形を取りうるだろうか。山内作品は、そのような想像力を触発するようだった。

*──《大ガラス》の構成については、以下を参照。マシュー・アフロン「デュシャン 人と作品」『デュシャン 人と作品』(中尾拓哉監訳、奈良博訳)、フィラデルフィア美術館出版部、2018年。

勝俣涼

かつまた・りょう 1990年生まれ。美術批評家。武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。彫刻にかかわる表現を主な関心として、研究・批評を行う。主な論考に、「彫刻とメランコリー—マーク・マンダースにおける時間の凍結—」(『武蔵野美術大学 研究紀要 2021-no.52』、武蔵野美術大学、2022年)、連載「コンテンポラリー・スカルプチャー」(『コメット通信』、水声社、2022年)、「戸谷成雄、もつれ合う彫刻——「接触」をめぐる身体と言語の問題系」(『戸谷成雄 彫刻』、T&M Projects、2022年)、「白色の振動——若林奮《所有・雰囲気・振動——森のはずれ》をめぐって」(『若林奮 森のはずれ』、武蔵野美術大学 美術館・図書館、2023年)など。