公開日:2022年9月21日

ストリップの現在進行形:ダンスのハードコアここにあり。女性客も惹きつける現代ストリップの新たな表現とは

ダンス批評家の武藤大祐がいまもっとも「ダンスが熱い」場所だと語るのが、ストリップ劇場だ。近年、女性をはじめとする新しい客層を呼び込み、「媚びない」美とエロスが新たな文脈を生み出している。その背景にある歴史と事象、そして踊り子たちが見せる新たな表現とはどのようなものなのか。

翼裕香 撮影:グレートザ!歌舞伎町

ノスタルジーではなく最前線

おそらくいま、もっともダンスが熱い状況を呈しているのはストリップ劇場といって過言ではない。しばしば「失われゆく昭和遺産」などとノスタルジックに語られがちなストリップが、いつの間にか無数の個性的な「踊り子」たちの表現が炸裂するアリーナへと変貌していたのである。筆者も2021年初めからハマり込み、以後毎週のように通っている。

踊り子たちの演目は基本的にセルフ・プロデュースによる約15分ほどのソロで、選曲・衣装・振付によってじつに様々な世界を展開する。もちろん脱衣があるため18歳未満は入場できないし、万人向けとまでは言えないしかし誤解を恐れずいえば、現在のストリップはかつてのコンテンポラリーダンスを彷彿とさせる充実ぶりであり、「エロ」を明るく楽しむ開放的なマインドによってダンスの本質がいっそう深く掘り下げられているようにさえ思える。

たとえば、その強靭なダンススキルをクラブ通いで鍛えたという望月きらら(2015年デビュー)。ゴージャスな衣装を惜しげもなく脱ぎ捨てながらEDMで熱狂的に踊りまくる『madness』、あるいは舞台に登場するだけで空気を変えてしまう耽美的な和装演目『花魁』などを見れば、同じ時代に生まれて良かったと心から思えるはずだ。そして他方には、笑いとエロが渾然と同居する超個性的なレパートリーの数々がある。『ハッシーダービー』では騎手のコスチュームで巨大な馬にまたがり登場して観客の度肝を抜き、『うる星きらら』では狭い劇場内で客席上空にドローンを飛ばして場内を沸かす。望月きららは現在のストリップにおける表現の自由さを象徴する踊り子といえるだろう。

宇佐美なつ

もとは観客として劇場に通っていたところから踊り子へ転身するケースも増えている。その一人である宇佐美なつ(2019年デビュー)は、緻密に構成された演目によってストリップのフォーマットを批評的に更新し続ける独特の存在だ。特定のテーマに沿った選曲に、アイドル的な歌詞の当てぶりと官能的な脱衣を通じて、濃密な詩的世界を立ち上げる。いわゆる鍛え抜かれた正統派の「ダンサー」とはまた違うのだが、とにかく音楽をとらえる耳が良く、それをストリップ的快楽に変換する踊り心に魂を揺さぶられる。代表作『Positive』の、不規則な打ち込みのリズムをかいくぐるようにしてネグリジェの前を一息にはだけ、地肌にボディチェーンを煌かせる瞬間は目が眩むほど美しい。

再解釈されるストリップ:誕生から現在まで

通説にしたがえば、日本のストリップは1947年に新宿の帝都座五階劇場で上演された「額縁ショー」を起源とする。ヌードの活人画をヴァラエティショーに組み込んだもので、女性の裸体そのものがセンセーションを巻き起こした。ここからやがてストリップ(「脱ぐ」)、およびティーズ(「焦らす」)からなる「ストリップ・ティーズ」のショーへと発展しながら、1950年代に大きく花開く。その後、1958年の売春禁止法を契機に種々の性風俗が発達し始めると、やがてストリップはそれらとの競合関係に入り込んで過激化しながら、ゆっくりと衰退していく。実質的な買売春さえ内包した時期もあることはよく知られている通りだ。しかし1981年にアダルトビデオが登場し、また1985年の新風営法の規制によって大打撃を受けると、ストリップはほかの性風俗産業から一線を画した独自路線を探り、小空間でのライヴ・パフォーマンスへと変容して行った。ステージの内容は非常に自由だが、とりわけダンスが大きな比重を占めるようになっている。

1975年開館、2021年に歴史に幕を下ろした広島第一劇場(広島県) 撮影:武藤大祐

2022年現在、営業中のストリップ劇場は全国でわずか18館しかない。にもかかわらず、ここへ来てにわかに盛り上がりを見せているその背景は一枚岩ではない。

まず近年、講談師の神田伯山や、ライターの九龍ジョー(『伝統芸能の革命児たち』、文藝春秋、2020)らがストリップを伝統芸能として再評価して耳目を集めた。そもそもストリップはお座敷芸や寄席、大衆演劇の流れと縁が深く、劇場によっては開場以来70年を数えるところもあるのだ。

さらに踊り子のステージのみならず観客の応援の仕方など、アイドル文化との共通点ないし影響は随所に見られる。これは1980年代からの傾向だが、現在も、とりわけライヴ活動を軸とする地下アイドルの「推し」文化との間には類似性が感じられる。双方をよく知るジャグラーの結城敬介は、ストリップには「アイドル現場にあった猥雑さや強いエモーションへ別な角度から光が当てられて、今までの「アイドル」の見え方が変わるような経験」があると語る。

しかしここ数年でのストリップの隆盛を特徴づける最大の要因は、女性観客による再解釈という文脈である。2018年にNHKのドキュメント番組『ノーナレ』がストリップを取り上げた際にも、女性の裸の美しさに魅了される女性観客の視点に着目していた(「裸に泣く」2018年10月2日放送、オンデマンド配信中)。この番組中、ある女性観客は舞台上の踊り子が「(男性に)媚びていない」こと、そして「自分のスタイルを確立している強さ」を見て取り、さらには「自分のコンプレックスとかも許される気がする」と話す。踊り子の側も「ステージの上では何でもさらけ出せる」、そして観客の眼差しによって「自分を肯定される」「なりたい自分になれる」と語る。昭和のストリップが父権社会に基づいた「性の商品化」という性格を色濃く持っていたとすれば、ヘテロ男性を対象に築き上げられた興行の外形をジャックするかのようにして、女性同士の連帯(シスターフッド)という新たな文脈が生まれているのである。

性と身体へのオルタナティヴな眼差し

「ストリップと社会と私を考えるZINE」と銘打ち、2019年から女性たちが中心になって制作している同人誌『イルミナ』の座談会では、男性から一方的に価値付けられてきた女性の身体を自分のものとして「取り返す」感覚がストリップにはあると語られている。「『セクシー』は男のためのものになってしまいがちだけど、〔…〕ストリップはセクシーを女の子のためのものにしてくれます」(『イルミナ』準備号、11-12頁)。

社会におけるジェンダーの不平等を背景にしつつも、それを突き抜けた場としてストリップをとらえる視点は明らかに新しい。2017年にストリップにハマって同人誌で活動してきた菜央こりんのエッセイ漫画『女の子のためのストリップ劇場入門』(講談社、2020年)も、女性の目から見た女性の裸体の美しさと感動がひしひしと伝わってくる描写とともに、親しみ易い語り口でストリップ初心者への良い導きの書となっている。

菜央こりん『女の子のためのストリップ劇場入門』(講談社)

男性に「媚びていない」ストリップは、しかし決して「女性向け」になったわけでもない。女性観客の後に続くようにして、男性観客の傾向も変化して来たことがしばしば指摘される。たとえばいままでアイドルや演劇などを見てきた層が、次々とストリップに通うようになっているのである。『イルミナ』の編者のひとり、うさぎいぬが「〔ストリップは〕『男』や『女』では区別されない、もっと個別で個人的なものに焦点を当ててくれる」と語るように(『イルミナ』準備号、5頁)、この空間はもはや二項対立的なジェンダー枠組を不思議な仕方で乗り超えようとしているのかも知れない。

実際に劇場へ足を運んでみれば一目瞭然だが、踊り子たちが自らの体を張って創り出すエロスの表現は、家父長制的な権力関係を前提としたポルノグラフィーや、グラビアなどに見られる記号的な「女の裸」の消費とは似ても似つかないものだ。異質な音楽を巧みにつなぎ合わせ、脱衣とともに展開するシーンの積み重ねを通して立ち上がってくるのは、しばしば詩的な情趣であり、あるいは生まれ持った体とともに生きるひとりの人間の声である。何を感じるかはもちろん人それぞれだが、少なくとも「スケベ根性」などといった生易しい話では済まないことは、初めて見る人でも容易に理解されるだろう。むしろ生きている体の輝きに魅せられ、圧倒的な美の感覚に酔い、あるいは市民的モラルをあっさりと踏み倒す快楽に笑う。ストリップの観客が時に激しく感情を揺さぶられ、しばしば落涙するのは、目の前の裸体の美しさ、そして卑猥さが、記号や表象ではなく差し迫った現実として自己の生に響いてくるからだろう。それはすぐれて私的な出来事であり、強烈な内的体験である。

ストリップ劇場のひとつである、渋谷道頓堀劇場(東京)

ストリップこそがダンスのハードコア

ストリップのショーでは、4~6人ほどの踊り子が順番にステージを披露する。15分ほどのステージは、まずダンスがあり、中盤から脱衣が加わって、「ベット」と呼ばれる官能的なシーンへと至る。多くの場合、終盤には彫像のようにポージングをじっくり見せる場面がある。ステージが終わると、有料で写真撮影ができるコーナーに移るが(浅草ロック座を除く)、これは踊り子に感想を伝えたり、手紙や差し入れを渡したりするコミュニケーションの時間でもある。そして最後に踊り子がステージに戻り、短いフィナーレのような「オープンショー」を演じて、次の踊り子に交代する。

このような、全体で2時間半ほどのショーが1日に3、4回通して行われる。踊り子はたいてい複数のレパートリーを出し、観客の入れ替えもないので、一日中見ていることもできるし、途中で外出して食事を済ませてから戻ることもできる。違った演目を見ることで踊り子の表現の幅が楽しめるし、同じ演目を繰り返し見れば味わいは確実に深まる。これほど贅沢にダンスを楽しめるショーが、ほぼ年中無休で行われているのである。

ステージの内容はじつに多様だ。新しい発想を持ち込む若手はもちろんのこと、キャリアを積むなかで独自のスタイルを磨き上げてきた踊り子のステージもまたストリップの豊かな可能性を思い知らせてくれる。

翼裕香 撮影:グレートザ!歌舞伎町

たとえば翼裕香(2009年デビュー)は、演目の内容では決して奇を衒わず、むしろ羽根扇や着物、あるいは刀など、オーソドックスともいえる道具立てを徹底的に磨き込んだ、恐ろしく厚みのあるステージを作り上げる。独特のセンスが光る選曲と、ドラマティックな振付から最大限の旨味を引き出してくる全身のしなやかな動き、そして衣装や髪型が連鎖的に変化するスペクタクル。脱衣すればスーパーロングの髪が背中の汗に妖艶にまとわりつき、オープンショーでは凄まじく軽快に動く脚に圧倒される。瞬きするのも惜しい、と思わせる踊り子である。

友坂麗

翼裕香の魅力が「動」にあるとするなら、友坂麗(2004年デビュー)のステージは「静」の印象によって特徴づけられるかも知れない。舞台に佇むだけで場を成立させてしまうその不思議な個性は、しかし観客とのインタラクションに基礎を置く芸能としてのストリップの醍醐味に溢れている。音楽に没入し切らず、むしろどこか醒めた間合いで戯れるように踊りながら、大胆に観客とアイコンタクトして挑発する。かと思うと客席に背中を見せたままたっぷり時間を使うこともある。観客は、惹きつけられつつ翻弄され、いつのまにか官能的なゲームに釣り込まれてしまう。友坂が醸し出すエロスは静謐かつ内省的で、見る者を包み込む優しさを湛える。クライマックスではそれと対照的に、全身で歌い上げるようなポージングが畳み掛けられ、祝祭感に満ちる。

こうした卓抜なステージを見ていると、エロティシズムという要素が、ダンスにとっていかに本質的かを考えさせられる。そもそも体をさらすことや、他人の体を凝視することはエロティックな行為ではないか。この事実が、芸術やスポーツの文脈では様々なかたちで、つまりフォルム、技巧、身体能力、意味表現、そしてそれらを語る多様な言説によって覆い隠されている。しかしそうしたもの一切の基底材が体である以上、体を直接的に主題化するストリップこそ、ダンスのハードコアというべきではないだろうか。ダンスを「芸術」にも「スポーツ」にも還元することなく、たんに健全なる欲望のみを支えとして繁茂しているがゆえに、ストリップは「踊る」という行為のひとつの本質を体現しているように思えてならない。

武藤大祐

武藤大祐

むとう・だいすけ ダンス批評家、群馬県立女子大学文学部准教授、振付家。近現代アジア舞踊史、および振付の理論を研究している。共著書に『バレエとダンスの歴史――欧米劇場舞踊史』(平凡社、2012)、『Choreography and Corporeality: Relay in Motion』(Palgrave Macmillan、2016)など。主な論文に「デニショーン舞踊団のアジア巡演におけるヴァナキュラーな舞踊文化との接触──インドの「ノーチ」と日本の「芸者」をめぐって」(『舞踊學』第43号、2020)、「限界集落の芸能と現代アーティストの参加──滋賀県・朽木古屋六斎念仏踊りの継承プロジェクト」(『群馬県立女子大学紀要』第40号、2019)、振付作品『来る、きっと来る』(2013)など。2016年より「三陸国際芸術祭」海外芸能プログラムディレクター。