公開日:2022年11月25日

新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム(評:茂木謙之介)

『すずめの戸締まり』を天皇をめぐるイメージからいかに論じることができるか。天皇制と表象について研究し、著書 『SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本』を今年刊行した茂木謙之介が、天皇、スピリチュアリティ、死者、怪異、家族、感情労働、記憶といったキーワードから論じる。

© 2022「すずめの戸締まり」製作委員会

新海誠監督の最新作

『君の名は。』(2016)、『天気の子』(2019)に続く、新海誠の監督映画『すずめの戸締まり』(以下映画『すずめ』)は、前2作に続き、災害によって切断された日常を補綴する若年の男女の物語を描いた、観客の期待の地平をいっさい裏切らないエンタメ大作である。

九州・宮崎在住の高校生・岩戸鈴芽が登校中に出会った東京の大学生・宗像草太は、代々「閉じ師」と呼ばれる職能を司る家の末裔であった。閉じ師は、全国の廃墟に存する「後ろ戸」と呼ばれる扉を、儀礼を用いて閉じるという「家業」を受け継ぐ。後ろ戸は「すべての時間が同時にある場所」にして「死者の赴く場所」である「常世」と繋がっており、開くと中から「善くないもの」が出てきてしまうという。その後ろ戸を偶然開いてしまった鈴芽は、そこに配置されていた「要石」を引き抜いてしまい、大地震を引き起こす「みみず」と呼ばれる存在をこの世に出してしまう。草太とともに後ろ戸を閉じることに辛うじて成功するものの、草太は猫に変化した要石によって呪われ、鈴芽の母の形見である子ども用の椅子と一体化させられる。要石を捕まえて元の姿を取り戻すべく、鈴芽と椅子と化した草太は九州から東へと向かう旅に出る──。

これまでの新海映画と同様に、神話や伝承、精神分析、文学、アニメ、映画等々の様々なテクストを匂わせ、引用し、もしくはちらりと触れることによって人びとの「調査」(往々にしてGoogle検索だろうか)やそれに基づいた「解釈」への欲望を引き出す構成がとられており、すでに本稿を執筆している11月18日現在でもSNSを観れば、かなりの数の「考察」がなされている。感想投稿のために映画をリピート鑑賞する観客も複数おり、多数の要素を取り込むことによって人びとの興味関心を惹起するという点においてすでに一定以上の“成功”を収めたテクストといえるだろう。

本稿も他の受容者と同様、引用元のひとつを起点にしつつ、SNSでも言及の多くなされている天皇をめぐるイメージから本映画をレビューしてみたい。なお、ここまでの段階ですでにお気づきかもしれないが、筆者は映画『すずめ』について肯定的な評価を無条件に下せるような映画ではないどころか、そもそも簡単に批評の俎上に載せられるようなテクストではなく、万一その聖典(カノン)化がなされてしまうのならばそれに叶う限り抗いたいと思っていることを予め申し述べておきたい。

天譴論的思考と忘却される死者

様々なテクストが直接・間接に引用される中でも議論の起点としたいのは、村上春樹「かえるくん、東京を救う」(初出1999年、単行本『神の子どもたちはみな踊る』(2000)に所収)である。

周知のように同小説は人ならざる「みみずくん」という日本の地下にいる存在が、東京地下で巨大地震を引き起こそうとするのに対し、巨大な蛙である「かえるくん」がそれを押さえるために、人間の片桐に応援を要請する、という筋のテクストであり、巨大地震を導く「みみずくん」は明らかに映画『すずめ』における巨大な〈怪異〉である「みみず」の造形に影響を与えている。

だが、重要なのはその直接的な引用がなされるにあたって、大きな改変を伴っているということだ。春樹の小説では〈怪異〉と〈怪異〉の争いに対して人間は介在できるものではなく、ただその片一方への応援だけが求められ、応援そのものも無意識下のものとしてしかない。

対して映画『すずめ』では、エンディング間近い場面で草太が「人の心の重さが、その土地を鎮めているんだ。それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある」と述べるように、みみずが出てきてしまう後ろ戸は人の介在があれば勝手には開かないものとして設定されている。換言すれば、人の不在によって後ろ戸は開くのであって、結果その地は災厄に見舞われるという論理がここにある。このことはひとり草太のことばにはとどまらない。東の要石が猫に姿を変えた「サダイジン」が、自身を「ひとのてで もとにもどして」、すなわち自らを再度要石とし、みみずを抑えるよう要請することからも明快なように、巨大地震という現象が人為によって左右されるという思考が物語の前提にあり、カミ(≒〈怪異〉)もそれを容認するという枠組みが見てとれる。

つまり、ここで実質的に展開しているのは一種の「天譴論(てんけんろん)」的思考といえる。関東大震災の折の内村鑑三や東日本大震災の際の石原慎太郎の言説などで知られている、自然災害を天から人びとに与えられた罰として考え、災害を画期として人心の刷新を図ろうとする天譴論は、いうまでもなくその被災した土地、被災した人びとを貶める言説であり、容認することは極めて困難なものである。

劇場で配布された『新海誠本』によると「場所を悼む」ことが本映画のコンセプトとされている。そもそも人為的に人がいなくなった産業的な廃墟と、災害によって人びとの生活が切断されることを余儀なくされた被災地とを同値に並べて同じく悼もうとすることの不可解さと無神経さは言うまでもないが、ここではぐっと堪えて、その「悼む」べき対象が徹底して人と関わった土地だけに限定されていることを指摘しておきたい。そのような人との関わり(=「人の心の重み」)が消えてしまった場所から災厄が発生するというあまりに分かりやすい天譴論的思考のもとで、地震は常に人の住むところに(しかも九州南部・四国西側・阪神・東京・東北三陸とすべて地震による大規模な被災が記憶のある場所に)影響を与えるようなかたちでのみ発生しているのである。あまりに人間中心的な思考であるといってよい。

そして、その思考が前提にあるが故に同映画では他にも排除される存在がいることに気がつかされる。それは、災害による死者である。

死者が物語から排除されていることは物語のクライマックスであからさまに描かれる。常世において、東日本大震災で命を落とした母を求めて泣き叫ぶ幼いころの鈴芽(個人的にはこの幼いすずめの泣く声に本映画鑑賞中、最も胸を締め付けられた)に、高校生となった鈴芽が母の形見の椅子を渡し、「今はどんなに悲しくてもね」「すずめはこの先、ちゃんと大きくなる」「だから心配しないで。未来なんて怖くない」と励ましつつ、「あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う」と言い放つシーン。ここで鈴芽は幼少期の鈴芽に対して、母という死者に対する「不可能な喪」を実践する(=喪の失敗を繰り返しつつ、それを継続する)のではなく、忘却することを勧めているのである。現世に戻った鈴芽が、かつて常世に迷い込んだ折に母と出会ったと記憶していたが、実は未来の自分との出会いであったことに気づき「大事なものはもう全部──ずっと昔に、もらっていた」とつぶやくシーンなどは忘却正当化の極めつけであり、むしろ死者の主体性を奪取して表象した無神経極まる発話であろう。ここにおいて死者は徹底的に不可視化され、忘却されることとなる。(なお、そのような解釈に抗い得るような表現も映画の中には存在しているといえなくもない。たとえばフレコンバッグの積まれた荒野、おそらくは福島第一原発近辺を描いた場所で草太の友人である芹澤が無神経に「きれいな場所」と述べたことについて鈴芽が違和を語るシーンなど。しかし、それもきわめて軽く触れられるだけで決して深められることはない)

冒頭の常世のシーンからして、建物のうえに乗り上げた漁船という東日本大震災を「これでもかと」ばかりに過剰に思い起こさせる描写によって、出来事そのものの忘却に抗おうとしていると評価することは可能かもしれないが(それはそれで観客のトラウマを惹起させてしまいかねないという大きな問題がある)、死者を不可視化し、忘却する在り方と天譴論的な思考を組み合わせたとき、そこでは死者はスティグマを負った存在としてしか浮上することがない。

総じて当事者が不在のまま巨大災害を感動的なかたちで消費するというきわめて暴力的な物語であるが、当事者の中でもとりわけ死者をめぐる表象の問題性は突出している。(なお、ここで「当事者」と述べたが、もちろん鈴芽も震災の被災者という意味において当事者ではある。だが、彼女を以て災害の当事者を代理/代表させることの当否は問われる。そして、非当事者たちは畢竟当事者を理解することはできないし、さらにはその当事者性を奪取することは許されない。その点において決定的な瑕疵をもつテクストと言ってもいいだろう)

浮上する天皇とスピリチュアリティ

さて、前述の天譴論的思考は人為、とりわけ政治の善悪が自然現象のそれと連関するという所謂「天人相関説」にその根源を持つものであるが、この天人相関説は、SNSにおける映画『すずめ』の「考察」で取り沙汰されている、天皇をめぐるスピリチュアルな想像力との間にも密接な関係を持っている。たとえば2019年10月の即位礼正殿の儀の折に皇居に虹がかかった現象についてはマスメディアもSNSもこぞって天皇にスピリチュアルな力が内在するかのような言説を紡いでいた。確かに、映画『すずめ』においては天皇の言説をなぞるような描写が端々になされるほか、原作の小説『すずめの戸締まり』(新海誠、2022、以下小説『すずめ』と略記)においては「皇居」が2度にもわたって言及されており、映画『すずめ』でも東京上空でから鈴芽が落ちるのは皇居の「お堀」となっている。これらだけでも明快なように天皇に関わる表象が『すずめの戸締まり』にはちりばめられている。

以下若干の「考察」を加えたいところだが、すでに述べているように同映画の特徴の一端は様々なテクストを匂わせ、引用し、もしくはちらりと触れることにある。天皇を巡るものについても大部分は他と同様に軽い参照の域を出ないうえ、基本的に天皇と閉じ師との隣接はその主語ではなく、両者の行為や言動が似通っているという述語レベルのものでしかないことは予め断っておきたい。竹内好の顰に従って「一木一草に天皇制がある」のを見出す姿勢もありうるかもしれないが、野放図な読解を許す可能性があるため、とりあえずは物語の根幹に関わる部分についてのみ言及を試みる。

同映画で天皇に関わる表象がなされる際に参照されるテクストは、2016年8月の明仁天皇による「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」、いわゆる「ビデオメッセージ」と考えて間違いない。明仁天皇の生前退位を方向づけるテクストとして知られる同「ビデオメッセージ」は、明仁天皇自身による天皇の「お務め」についての解釈が織り込まれた興味深いものでもあったが、映画『すずめ』には「ビデオメッセージ」のポイントを押さえたような表現が確認できる。

ひとつ目は、閉じ師による後ろ戸の戸締まりの際に「ここにいた人たちのことを想い」「声を聴く」という表現である。廃墟において、かつてそこに生活していた人びとを想い、その声を聴くことによって扉を閉じるための鍵穴が開き、産土神への土地の返却が成立するという。ここには明らかに明仁天皇の言説との間に重なり合いを見て取ることが出来る。

私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。(「ビデオメッセージ」より)

いわば閉じ師の儀礼は天皇の象徴行為をなぞるようなものであり、あたかも閉じ師が天皇の行為をスピリチュアルな側面において代行ないし代補しているかのようにも見える。これがSNSなどで閉じ師が「裏天皇」等と呼ばれる理由とも考えられるが、その判断は2つの点から留保が必要である。

まず1点目は、この言明が明仁天皇によって生み出された言説に過ぎないという点である。少なくとも人びとの声を聴くというあり方はいわゆる「平成流」の特徴であり、それはひとり明仁天皇によるものというよりも美智子皇后や宮内庁関係者、メディアからの反応などの複合的な産物であって、まさに象徴天皇の「象徴」の内実を埋めようとする作業だったといえる。また祭祀への親炙も平成においてとりわけ目立つものでもあるうえに、宮中祭祀の多くは近代において復活ないし新興された「創造された伝統」であって、端的に皇室の古来から続く務めだったとは一概にいいがたく、数々の文書で示された閉じ師の「伝統的」な在り方とは齟齬を来す。

2点目は、このテクストにおける「声を聴く」ことの虚偽性である。草太は鈴芽に戸締まりを代行させる際に「かつてここにあったはずの景色。ここにいたはずの人々。その感情。それを想って、声を聴く」と述べる。そう、ただ「想う」だけなのである。そうなったとき、そこに描かれた光景や人びとの声は鈴芽の幻であった可能性が出てくる。そう考えると最終的に常世で東日本大震災の被災地を幻視する際に、人びとの声がすべてポジティヴなもの(「いってきます」「いただきます」「行ってらっしゃい」等々)だったことは整合的である。人びとの日常をそのままトレースするのだとしたら、悲しみや苦しみや怒りの声がないはずがないが、ひとり鈴芽の幻であるならば説明がつく。これは語り手の問題としても浮上しうるため後述する。

なお声を聴くことと天皇に関連して付言するなら、映画において皇居の地下で東京の後ろ戸を締める際、落ちた場所そのものを認識しきれなかった鈴芽が声をはっきりと聞くことができないことには注目すべきだろう(なお小説『すずめ』では「あまりに遠」い声として表現される)。皇居の地下で後ろ戸を閉じたとき、声を聴くことが出来なかったのはそこがどこかわからなかったからという解釈がまず可能であり、これは「声」が虚妄であることを証する。もし実際に鈴芽がそこで流れる声を聞き取ることができていた場合は、声を聴くことのできない存在として天皇・皇族がいる、という解釈が成り立つ。すなわち閉じ師を超越するようなスピリチュアリティ主体としての天皇が呼び込まれるということになり、閉じ師はその序列の中に括りこまれることとなるのだ。

やや蛇足めくが、閉じ師を含めた登場人物と天皇の序列的な関係の可能性については、登場するキャラクターの「岩戸」や「宗像」、また「ダイジン」、「サダイジン」といった物語の中の名づけからも指摘しておく必要があると思われる。そもそも天の「岩戸」も「宗像」大社もともに記紀神話にその記述がなされており、まさに天皇(制)を支える側面をもっている(やはり表層的でそれゆえ凡庸な受容としか言いようがないが……)。同時にサダイジンという東の要石の名前からは、必然的に「ダイジン」と呼ばれていた西の要石が「ウダイジン」であったことが予測され、結果としてその統御を行う存在としての天皇を巡る想像力が惹起される。いうなれば神話と歴史を踏まえて名前を借用しつつ、キャラクターたちを序列意的な枠組みの中で統御する「スピリチュアルな天皇」をめぐる想像力を浮上させ、それを補強する仕掛けが物語の背景として設定されているのである。この点において宗教的な権威性を語っていた明仁天皇の言説を支えるような映画とも評価可能であろう。(現代社会におけるスピリチュアルな天皇像について詳しくは拙著『SNS天皇論』(2022)をご参照いただきたい)

「家族」と「感情労働」と犠牲にされる異類たち

さて、テクストの参照元としての天皇の「ビデオメッセージ」とのつながりを意識させるものとしてもうひとつ挙げておきたいのは、この統御された枠組みの中で実際に作業に従事する閉じ師が、宗像家の「代々続くうちの家業」とされつつ、「それだけじゃ食っていけない」ものとして描かれることである。前半では家族の問題が、後半ではいわゆる「感情労働」問題の浮上が確認できるわけだが、ここでも明仁天皇の言説との隣接を読み取ることができる。「ビデオメッセージ」において明仁天皇は「残される家族」への言及をすることによって自らの血統を以て皇統を引き継がせることへの欲望を露わにしていたし、天皇の負担軽減の際に祭祀をはじめとして「忙しい天皇」というイメージが宮内庁に端を発して巷間に流布していたことを参照すれば、まさに「大事だけれど目に見えない」ことをしている天皇と閉じ師の隣接が暗示されているようにも思われる。これはいわば天皇の職能をその秩序の中にいる存在が支える構造を提示しているといえるだろう。このような思考の背景としては1980年代以降のオカルトをめぐる文脈において、日本人全員には地球を救うような使命と、それを支えるスピリチュアルな力が内在しているといった言説が展開されていたことなどが想起される(詳しくは怪異怪談研究会編著『〈怪異〉とナショナリズム』(2021)を参照のこと)。閉じ師のカバーする戸締まりの範囲がずっと〈日本〉に限られているという、きわめてドメスティックな物語であることも考えあわせれば、天皇を中心としたスピリチュアルな体系のなかで人びとがそれを支えるというナショナリスティックな想像力の発露としても位置付けられるかもしれない。 

さらに、家族と感情労働の問題は物語の筋書きそのものにも直結してくる。

この物語においては様々な形態の、様々な状況の家族が描かれているが、特に鈴芽とその親代わりの環との関係は物語の中心的な線である。震災によってシングルマザーの母親を亡くした鈴芽に環が「うちの子になろう」といって始まった両者の関係性は、草太との旅によって揺らぎ、わだかまりをサダイジンという異類の介在によって解放することによって再構築される。いわば人間同士の関係性はこのように修復され補綴されていくのであって、これは草太と鈴芽の関係にしても然りであろう。その反面打ち捨てられていくのは、〈怪異〉との関係性である。草太が椅子にされてしまうシーンにおいて鈴芽がダイジンに「うちの子になる?」と聞き、それにダイジンが応答するシーンは物語の筋を駆動する重要なものだったが、結果として鈴芽による拒否を受けてダイジンは「すずめの子には なれなかった」と言ってもとの要石に戻っていく。ここにおいては家族という枠組みから〈怪異〉が排除される構造が看取される。

また感情労働については、そもそもみみずを大地に縛り付けるという「労働」を押し付けられていたダイジンが、その役割を抜け出して自由になったのに対し、鈴芽が自身の都合で再度それを押し付けていたといっていい。するとこれは先述の忘却される死者の問題とも重なってくる。死者と同様、カミや異類が排除される構造なのであって、「人ならざる者」の主体性は尊重されず、犠牲の対象になるという不均衡が明らかにされるのである。

以上の検討からは、天皇を頂点とした疑似「国家神道」的枠組みとでも言うべき、歪なスピリチュアル機構が駆動するなかで、人ならざるものたちが侵害される物語として読むことしかできなくなってしまう。だが最後に1点だけ批評的な読みの可能性を提示しておきたい。先ほどわずかに触れた、語り手の問題である。

記憶をめぐるもうひとつの読み

小説でも映画でも、『すずめの戸締まり』には方言がちりばめられている。そのなかで日本各地を旅する(天皇の巡幸のイメージと隣接?)鈴芽と東京在住者のみが所謂「標準語」を使用しており、一種の日本語ナショナリズムが展開しているとも考えられるが、ここでは語り手としての鈴芽を示すサインとして受け止めてみたい。

先ほど、戸締まりをする際に鈴芽が見聞きしていた人びとの生活や姿や声といった記憶はじつは虚妄なのではないか、ということを述べた。これと類似することが物語の後半においても確認できる。それは、要石にされてしまった草太を引き抜くに際して、草太と記憶を共有するシーンである。ここで草太が鈴芽に対してなんらかのポジティヴなイメージを持って彼女を視ていたことが暗示されるが、それに際して草太の視点ではあり得ない、草太と鈴芽が並んでいるヴィジョンが複数回提示される。これはいわば他者の記憶を書き換えているシーンと換言することができる。翻って小説『すずめ』を見てみればそこには鈴芽の一人称による語りが展開しており、物語の統御を行う語り手の暴力性が前景化している。

たとえば、鈴芽は草太のことを途中から「好き」と語るが、そもそも草太を椅子に変えてしまったということによる負い目で草太と伴走していたことを思い出したとき、本当にそれは「好き」と括っていいようなものなのだろうか。むしろ鈴芽は自らをも欺く語り手として居るのではないのかという疑いが出てくる。

そのことを徹底的にグロテスクに楽しむのならば、このテクストには「自他の記憶を書き換える物語」としての批評性が生まれ得る可能性はある。たとえばそれを引用元の「ビデオメッセージ」に敷衍してみれば、明仁天皇が「人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」という言明を為していたことについて読解を深めるやもしれない。実際に明仁天皇が傍らに立ち、声に耳を傾け、思いに寄り添えた存在はどれだけいたのだろうか。その言明の空虚さを明らかにし得るならば、『すずめの戸締まり』は天皇映画としても一定以上の批評性を有するといっていいのかもしれない。(蛇足だが、小説『すずめ』において語り手が鈴芽から変更されるところが一カ所だけある。それが東京上空でみみずに要石を刺し、地上に落ちていく鈴芽とともに同テクストではじめて皇居を描写する場面であった。このことは同テクストが天皇をめぐる物語として設定されていることの決定的な証左ともなっている)だが、その極めて細い読み筋はどのようにして可能なのか、そしてそれがこのテクストの抱える様々な問題を超えるようなものなのか、疑念は消えない。

以上試みてきた読解は、2011年3月10日に東北を離れ、その後に東京を中心として展開した目を覆うような震災後言説に歯噛みし、そして2022年のいま東北に生活するという若干特殊な境遇にあった筆者による、過剰な読み込みなのかもしれない。読者からの批正を俟ちたい。

『すずめの戸締まり』
公開日:2022年11月11日
原作・脚本・監督:新海誠
声の出演:原菜乃華、松村北斗、深津絵里、ほか
キャラクターデザイン:田中将賀 作画監督:土屋堅一 美術監督:丹治匠 音楽:RADWIMPS 陣内一真
制作:コミックス・ウェーブ・フィルム 制作プロデュース:STORY inc.
https://suzume-tojimari-movie.jp/

茂木謙之介

茂木謙之介

もてぎ・けんのすけ 東北大学大学院文学研究科准教授。専攻は日本近代文化史・表象文化論。単著に『SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本』(講談社、2022)、『表象天皇制論講義: 皇族・地域・メディア』(白澤社、2019)、編著に『日本学の教科書』(文学通信、2022)、『〈怪異〉とナショナリズム』(青弓社、2021)など。