
マット・デイモン演じるオデュッセウス photo by Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
昼に織った布を、夜になるとほどく。夫の帰りを待つペネロペは、求婚者たちとの結婚を先延ばしにするため、終わらない機織りを続けた。ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を、クリストファー・ノーラン監督が全編IMAXフィルムカメラで映画化した。トロイア戦争後、神々や怪物に阻まれながら故郷イタケを目指すオデュッセウス(マット・デイモン)の航海と、王宮に居座る求婚者たちから家を守る妻ペネロペ(アン・ハサウェイ)と息子テレマコス(トム・ホランド)の日々が、並行して描かれる。
かつてこの「ペネロペの織物」を、遅々として進まない東日本大震災の復興の寓意として個展に用いたアーティストの中島晴矢。彼が本作に見たのは、英雄の冒険譚にとどまらない、「帰る者」と「迎える者」がいて初めて成り立つ帰郷の物語だった。古代ギリシャの価値観「ノストス(帰郷)」と「クセニア(客人歓待)」を手がかりに、この神話をいまの世界へと重ね合わせる。【Tokyo Art Beat】
クリストファー・ノーランの映画『オデュッセイア』を見た。西洋文化の礎とされる英雄譚を豪華キャスト陣で演じた長編映画。全編IMAXフィルムカメラによって世界各地で撮影された超大作である。それゆえ本作については様々な語り口が存在するだろう。ただ私はシネフィルでも映画評論家でもない。あくまでいちアーティストとして、この新たなクラシックに対する印象を言葉にしてみようと思う。
真っ先に感じたのは、改めて『オデュッセイア』が主に戦争から帰還する物語であることだ。
もちろん映画内ではトロイア戦争の最後が描かれていたが、あくまで本筋はオデュッセウスによる故郷イタケへの旅路となる。それに『オデュッセイア』の原作で「トロイの木馬」について言及されているのは回想のなかに過ぎない。だからノーランは「トロイの木馬」作戦のディテールについて『アエネーイス』や『アガメムノン』などの文献を参考に再構成したという。「すべての物語の原点」とうたわれる本作は、戦争よりそこから帰郷するひとりの男の航海に焦点を当てているのだ。

同時にパラレルプロットで映し出されるのが、イタケに残された妻のペネロペと息子テレマコスの物語である。こちらもオデュッセウスの旅と同等以上に重要な本筋のひとつだ。アンティノオスら求婚者たちが王位を狙い、王宮で宴をくり返して我が物顔で居座る屈辱的な日々。そこでは10年に及ぶ「銃後」の生活が丁寧に描かれていた。そう考えるとこの映画が描いているのは、漂流する父とその帰りを待つ家族たちの双方である。
本作を見ていれば、誰しも現在の世界情勢が頭をよぎるはずだ。言うまでもなく、いまも世界のいくつもの地域では戦争や紛争が続いている。多くの戦況は長期化して終わりが見えない。そして戦場へ赴く人々と、その帰りを待つ残された人々がいる。もちろん古代と現代をそのまま重ね合わせることはできない。だが、この構図には時代を越えて変わらない普遍性があるのだと思う。
そもそも『オデュッセイア』とは、紀元前8世紀頃に詩人ホメロスによって書かれたとされる古代ギリシャの叙事詩である。神と人間、そして怪物が登場する壮大なファンタジー。冒険物語の原点である本作は、西洋的な芸術文化の起源にあたる神話のひとつだ。だから2800年の時を経てもなお何度だって読み替えることができる。

また、フィルモグラフィーとしても、巨匠となったクリストファー・ノーランがこの大ネタに挑むのには、ある種の必然性を感じる。『ダークナイト』シリーズで「正義とは何か」という問いを突きつけ、『インセプション』や『インターステラー』では時間や意識を題材にし、『ダンケルク』と『オッペンハイマー』で20世紀の世界史へと踏み込んでいった。とりわけ前作では、「原爆の父」オッペンハイマーをギリシャ神話のプロメテウスになぞらえた。そして本作でついに神話の映画化にたどり着く。その題材こそノーランが「ありとあらゆる映画の基盤」と語る『オデュッセイア』だった。
さらに、いまこの映画が実現したのにはテクノロジーの発展も関係しているだろう。莫大なバジェットによる物理的なスペクタクルに加えて、VFXやIMAXの最新技術が、ついに空想的なアイデアにリアリティを持たせるレベルまで追いついた。
もともとギリシャ神話は荒唐無稽な多神教の世界観を持っている。ゼウスやポセイドンなど数多の神々がいて、それぞれが固有の欲望や感情を持ったキャラクターとして振る舞うのだ。とくに歴史的な出来事が連鎖していく叙事詩では、必ずしも因果に則って物語が進むわけではない。神々の気まぐれや偶然によって、予測不能で理不尽な事件が次々と起こる。それは社会学者の宮台真司の言葉を借りれば、「『世界』はそもそもデタラメである」ということだ。今回ノーランが挑んだのは、そんな混沌とした「世界」を映画のなかに立ち上げることだったと言える。

実際、この映画は、波乱万丈のアクション・エンターテインメントとして飽きることがない。大前提として漫画『ワンピース』のような王道の海洋ロマンなのだ。というより、現代のアニメやハリウッド映画に見られるプロットの原型にこそ、『オデュッセイア』がある。だからノーランもこの物語を避けては通れなかったのだろう。最新技術で映像化された、冒険譚の原点ともいうべき物語を楽しむ。まずはそれだけで充分かもしれない。
もっとも、その語り口は一筋縄ではいかない。海の女神カリュプソの島で記憶を失ったオデュッセウスを軸に、過去の航海が断片的な回想として呼び起こされ、タイムラインが入り組みながらストーリーは進んでいく。いくつもの島を訪れる彼らは、海の神ポセイドンの息子である隻眼の巨人キュクロプスや、巨大な鎧の兵士たち、人を豚に変える魔女キルケ、美しい歌声で船乗りを死へと誘う怪物セイレーンなど、様々な神や怪物たちに遭遇。こうしてオデュッセウスの「過酷な旅路」が目の前で一本の映画として束ねられていくのである。
