山本浩貴 meets「Transformation」展。シリーズ:私が見た「Transformation 越境から生まれるアート」展【1】(アーティゾン美術館)

アーティゾン美術館で開催中の「Transformation 越境から生まれるアート」展に、3名の著者によるレビューやマンガで迫る全3回のリレー企画。ピエール=オーギュスト・ルノワール、藤島武二、藤田嗣治、パウル・クレー、ザオ・ウーキーを中心に、近代以降の芸術家たちの創作や影響関係を明らかにする本展。その背景にある「越境」と「変化」というテーマを、それぞれの筆者はどう見る?

ザオ・ウーキー 水に沈んだ都市 1954 石橋財団アーティゾン美術館蔵 © 2022 by ProLitteris, Zurich & JASPAR, Tokyo C3760

アーティゾン美術館で7月10日まで開催中の「Transformation 越境から生まれるアート」展は、「越境」「変化」をテーマに、19世紀半ばから第二次大戦後までのヨーロッパ、日本、アメリカの美術を展望する企画展。

「第1章 歴史に学ぶ——ピエール=オーギュスト・ルノワール」「第2章 西欧を経験する——藤島武二、藤田嗣治、小杉未醒」「第3章 移りゆくイメージ——パウル・クレー」「第4章 東西を超越する——ザオ・ウーキー」の4章によるオムニバス形式で、名前を掲げたアーティストにフォーカスするとともに、関連するアーティストたちの作品も交えて紹介。新収蔵作品2点を含む石橋財団のコレクションを中心に、約80点の作品と資料を展示する。担当学芸員は同館の島本英明。

モノや人の移動や情報の流通が加速度的に発展し、大きな変化を迎えた近代以降。アーティストたちは時代や周囲の変化とどのように影響し合い、それらは創作にいかにして反映されたのか? そして本展の魅力や今日的な意義とは?

本シリーズでは3名の視点から、「Transformation 越境から生まれるアート」展に迫ります。第1回となる今回は、文化研究者、アーティスト、美術批評家の山本浩貴がレビューを寄稿。トランスナショナルな視点から現代美術史を論じてきた筆者が本展を論じる。【Tokyo Art Beat】

▶︎第2回 マンガ 作:増村十七(マンガ家、イラストレーター)
▶︎第3回 レビュー 文:小林エリカ(作家、マンガ家)


会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

トランスナショナリズムの視点から「名画」を新しく見る

「トランスナショナリズム」という言葉は、人類学者のスティーブン・バートベックによれば、「国民国家の境界を越えて世界に広がる人々、場所や制度の間の経済的、社会的、政治的な連関」、「[そうした]連関の集合的な特性、形成、維持されるプロセス、そしてそれらのより広範な影響」を表す(*1)。 特に1980年代後半以降、多数の学問領域で、国境をまたいで生起する「トランスナショナルな」現象への関心が高まった。そうした関心は、輸送手段/遠隔通信/印刷・出版に関するテクノロジーの進歩などに促進された、冷戦後の加速度的グローバリゼーションと歩調を合わせるように出来した。そのため、現在では、アカデミックな調査や言説で、単一の国民国家のみを対象・前提とする「ナショナルな」枠組みの有効性は、ますます限定的になりつつある。

小森陽一と高橋哲哉が共編した『ナショナル・ヒストリーを超えて』(1998)は、日本近代文学/文化研究/女性学を含む多分野の知見を結集して編まれ、1990年代半ば以降に日本で台頭した排他的ナショナリズムに抗して、歴史を語るナショナルな方法論を相対化することを企図した。寄稿者のひとり、哲学者の鵜飼哲は、宗教史家・思想家のエルネスト・ルナンが1882年に行った講演「国民とは何か」を引きつつ、「『国民』的ではない別の社会的記憶のあり方」、「『国民』的記憶と同じように、あるいはそれ以上に、別様に生き生きとした記憶」を「発明すべき」だと結論した(*2)。

「国民とは何か」のなかで、そのルナンは「忘却、あるいは歴史的誤謬と言ってもかまいませんが、それこそが国民創造に不可欠な要因」だと述べている(*3)。 同質性の強い「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)に住む「国民」は、異質な「他者」を対象とした支配と征服の歴史を忘却することで成立する——彼はそう指摘するのだ。その例として、ルナンは「聖バルテルミー」(1572)や「南フランスでの大虐殺」(1209–29)などの異教徒虐殺に言及するが、近代日本の文脈では、アイヌ民族や琉球民族に対する強制的な同化政策がこれに相当する。

いっぽう、「過去二世紀にわたって世界の大部分で国民国家が強力な役割を果たしてきた」(ゼバスティアン・コンラート)ことは紛れもない事実だ。ゆえに、コンラートが強調するように、ナショナルな枠組みを克服しようとする「トランスナショナル・ヒストリー」の方法論は、「ナショナル・ヒストリーを捨て去ることを目指しているのではなく、それを拡張」し、「諸国民の歴史をよりダイナミックで複雑なものに」変えることを目論む(*4)。

今日、美術史や芸術学といった領域が抱える課題、これらの領域が進むべき道の指針は、ここまで輪郭を描いてきた傾向のなかに包含されている——そう筆者は考える。

こうした文脈のなかに「Transformation 越境から生まれるアート」を位置づけて考察することで、その展覧会の意義や可能性がより鮮明に浮かび上がる。同展は、その会場であるアーティゾン美術館を運営する石橋財団が保有する近現代美術コレクションを中心に構成される。同コレクションの所蔵品数やそのクオリティは国内有数だが、「Transformation」展は、そこに含まれる作品を公開するだけではなく、それらに新たな角度から光を当て、異なる読みの可能性を提示することを試みる。企画担当の学芸員・島本英明も、展覧会カタログに収められた文章で、「既存の枠組みや境界を越えるような性質の大きな変化に焦点を当てた展覧会」と定義する(*5)。 その意味で、「Transformation 越境から生まれるアート」は、たんなるコレクション展とは明確に一線を画する、批評的吟味に値する展覧会だと言える。

芸術的ネットワークのダイナミズム

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

では、異なるが互いに関連する4パートから成立する、同展の具体的構成を検討していきたい。「第1章 歴史に学ぶ——ピエール=オーギュスト・ルノワール」は、19世紀フランス美術を主軸に、ヨーロッパ内部での時と場所を越境した影響関係に着目する。背景としてルーブル美術館の開館や出版/印刷/複製の技術の進歩があり、芸術家はヨーロッパにおける過去および同時代の美術を知ることが容易になった。

ピエール=オーギュスト・ルノワール ルーベンス作「神々の会議」の模写 1861 国⽴⻄洋美術館蔵(梅原龍三郎氏より寄贈)
ピエール=オーギュスト・ルノワール 浴後の女 1896 東京富士美術館蔵 ©︎ 東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom

ここでは、ルノワールを主役とした、垂直方向と水平方向、縦と横の両方の方向における越境、およびそれに伴う芸術(家)の変容が描き出されている。ルノワールや同時代の芸術家がルーブル美術館で模写した作品の記録を丁寧に追い、彼らが偉大な先人たちから貪欲に学ぼうとしていたことが示される。同時に、画家たちのヨーロッパ内での移動の軌跡を克明にたどり、当時の芸術家たちが国境を越えて互いに交わり、影響を与え合っていたことがわかる。ここには、一国史的なパースペクティブでは描き切ることのできない、時間と空間を越境して広がる芸術的ネットワークのダイナミズムが姿を見せる。

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

「第2章 西欧を経験する——藤島武二、藤田嗣治、小杉未醒」で、舞台は近代日本に移る。このパートは、副題に示される通り、近代日本美術の確立に無視できない功績を刻んだ三者に焦点を当て、彼らが渡欧経験を通して同時代の西洋美術から受けた影響、その影響によって生じた変容を探る。

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

西洋画(油彩技法)というヨーロッパからの「輸入品」が日本に伝播し、それが日本画との邂逅のなかで受容されていく歴史の一端が、藤島、藤田、小杉の各々に異なる創作の道程として提示される。ここで、具体的な絵画作品に即しつつ、それらを西洋からの一方的影響としてではなく、自文化(東洋文化)を再認識・再解釈しながら独自に発展した過程としてとらえている点は重要であり、このことは第4章にも通底する。

藤島武二 東海旭光 1932 石橋財団アーティゾン美術館蔵

「第3章 移りゆくイメージ——パウル・クレー」では、20世紀ドイツを代表する画家・クレーを主役に物語が展開される。そこでは、同時代の作家や前衛芸術運動——共同で芸術家サークル「青騎士」を結成した(そして、バウハウスで教鞭を執っていた時期の同僚でもあった)ヴァシリー・カンディンスキー、「青騎士」展を通じて「発見」したフランスの画家・ロベール・ドローネー、あるいは特筆すべきシュルレアリスムとの相互関係など——とトランスナショナルな仕方で絡み合いながら、彼の創造や表現が進展する様子が前景化される。

パウル・クレー 平和な村 1919 石橋財団アーティゾン美術館蔵
ロベール・ドローネー 街の窓 1912 石橋財団アーティゾン美術館蔵

また、フランスでの評価の高まりを経由してドイツに「逆輸入」された要因として、展覧会カタログでは、「スイス生まれながらドイツ国籍を持つクレーの、同時代のフランスで占める存在の大きさを通して、自国の美術の優位性を強調しようとするドイツ側の思惑」(P77)が挙げられている。加えて、同カタログでは、1929年に開館したニューヨーク近代美術館で開催された、存命作家による最初の個展(1930)がクレーの展覧会であったことにも言及されており、大西洋をまたいだヨーロッパ諸国とアメリカの接続にも目が向けられる。こうした幾重にも重なる国境や地域を越えた屈折や交差、そのプロセスにおける変容は、本展に繰り返し現れてくる。

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

「第4章 東西を超越する——ザオ・ウーキー」は、第二次世界大戦直後のパリをメインの舞台に据え、中国・北京に生まれ、20代後半でパリに移住したザオに焦点を当てる。彼の作品の変遷を通して、このパートでは、自身の出身地である東洋と移住先の西洋というふたつの(しかし、一枚岩ではない)背景のはざまで、それらの隔たりに起因する葛藤を伴いながらも、それを乗り越えようとするなかで、新しい造形言語を模索する芸術家の姿を映し出す。

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

ザオは西洋の技法を学び、深く理解する過程で東洋を再発見した。これは第2章における藤島、藤田、小杉らの過程とも共振するし、このパートでは同じくパウル・クレーの作品からの影響も示唆され、各パート同士の接続も示される。さらに、同時代のアメリカにおける「抽象表現主義」の画家たち(ハンス・ホフマン、ジャクソン・ポロック、ヘレン・フランケンサーラーなど)との比較もなされ、ここでは「ヨーロッパ–東洋(中国)–アメリカ」の三項を立てた影響関係が浮かび上がる。

ザオ・ウーキー 水に沈んだ都市 1954 石橋財団アーティゾン美術館蔵 © 2022 by ProLitteris, Zurich & JASPAR, Tokyo C3760
会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館
会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

「Transformation 越境から生まれるアート」展でも紹介されていた、本レビューのタイトルに掲げた「時と処を超越して」という言葉は、第2章に登場する藤島武二によるものである。彼自身は、時間や空間に規定されないより普遍的な造形や表現を志向してこの言葉を使ったように思われる。その意味では、特定の時代や場所と密接な関わりを持ちつつも、それらの恣意的な境界線を越境した影響関係を探る、「トランスナショナリズム」の考えとはやや異なる。とはいえ、トランスナショナリズム的な視座を有する本展を表すものとして、このフレーズはしっくりくるように感じた。

脱西洋中心的な美術史・芸術学へ向けて

前半部で論じたように、ナショナルな語りを脱して、トランスナショナルな美術の語りを発明することは喫緊の課題だ。そして、それが言説に立脚した学問分野における理論的アプローチのみならず、展覧会制作を通してより実践的になされていくことは肝心である。そこにこそ、「Transformation 越境から生まれるアート」展のこのうえなく大きな意義を見いだすことができる。

とはいえ、大まかに分類すれば、第1章と第3章はヨーロッパ諸国間、あるいは欧米内における相互的な影響関係を照らし出しており、第2章と第4章は西洋から東洋への影響、より厳密に言えば、西洋からの影響を受けて、東洋が自己を再発見する過程が照らし出されている。筆者としては、東洋から西洋への影響、すなわち、藤島、藤田、小杉、ザオらがヨーロッパやアメリカの芸術家たちに及ぼしたインパクトがわかるとなおよかったと感じた。美術史家ミン・ティアンポは「芸術における革新が〈中心〉で起こり、〈周縁〉に伝播するという美術史的先入観をしりぞけ、具体美術協会のリーダー・吉原治良の言葉を引きながら、美術史の脱中心化のためには「東洋と西洋の作家たちが互いに影響を及ぼしあう」点に着目すべきであると説く(*6)。 その意味では、年齢差にもかかわらずザオと深い親交を結んだベルギー生まれの作家アンリ・ミショーが晩年に墨を用いて制作したドローイングは際立って印象的であった。

会場風景 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

展覧会のために準備されたキャプションや展覧会カタログに収録された文章から、本展の企画者たちが決して「西洋→東洋」という一方的な影響を想定しているわけではないことは明白である。だが、それをはっきりと示すために、より具体的な作家や作品を提示しながら、「東洋→西洋」という方向の影響が可視化されていることが必要であると感じた。そうした相互影響を理解してはじめて、「東洋」「西洋」という概念自体を疑い、それらの二項対立を超越していく思考が可能になるのではないだろうか。

しかしながら、「Transformation 越境から生まれるアート」展を批評するうえで、次の点は変わらない。本展は、近現代美術の歴史におけるトランスナショナルな越境とそれに伴う変容に焦点を当てて展覧会を構成し、「名画」を含む過去の作品を見る新しい見方を実践的に提示することにチャレンジしている。そのなかで、この展覧会は「脱西洋中心的な視点」の萌芽を内包し、それ「脱西洋中心的な美術史・芸術学」への道を具体的に指し示すことに成功している。その点で、研究者にとっても非常に重要なものとなりえている。今後、さらに類似の試みが、しかし、異なる時代や場所を対象としながらあとに続いていくことが大いに期待される。

*1──スティーブン・バートベック『トランスナショナリズム』水上徹男・細萱伸子・本田量久訳、日本評論社、2014年、2〜4頁。
*2──鵜飼哲「ルナンの忘却あるいは<ナショナル>と<ヒストリー>の間」小森陽一・高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会、1998年、265頁、強調点原文。
*3──エルネスト・ルナン『国民とは何か』長谷川一年訳、講談社学術文庫、2022年、14頁。
*4──ゼバスティアン・コンラート『グローバル・ヒストリー——批判的歴史叙述のために』小田原琳訳、岩波書店、2021年、45頁。
*5──島本英明「序にかえて——「Transformation 越境から生まれるアート」展のコンテクストについて」『Transformation 越境から生まれるアート』展覧会図録、アーティゾン美術館、2022年、8頁。
*6──ミン・ティアンポ『GUTAI——周縁からの挑戦』、富井玲子翻訳監修、藤井由有子訳、三元社、2016年、26–27頁。


▶︎第2回 マンガ 作:増村十七(マンガ家、イラストレーター)
▶︎第3回 レビュー 文:小林エリカ(作家、マンガ家)

山本浩貴

山本浩貴

やまもと・ひろき 文化研究者、アーティスト。1986年千葉県生まれ。金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科芸術学専攻講師。一橋大学社会学部卒業後、ロンドン芸術大学にて修士号・博士号取得。2013~2018年、ロンドン芸術大学トランスナショナルアート研究センター博士研究員。韓国・光州のアジアカルチャーセンター研究員、香港理工大学ポストドクトラルフェロー、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教を経て、2021年より現職。著書に『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』(中央公論新社 、2019)、『トランスナショナルなアジアにおけるメディアと文化 発散と収束』(共著、ラトガース大学出版、2020)、『レイシズムを考える』(共著、共和国、2021)など。