長く続いたパンデミックを経て、ヨーロッパのアートシーンはどう変化しているだろうか? 分断、難民問題、戦争、経済格差、環境問題、公正性、急速に発達する情報技術の是非。複雑で多様な問題に同時多発的にさらされる2023年から2024年の欧州を演劇研究者・内野儀がレポートする。
8月のベルリンでは、ダンスフェスティバル「8月のダンス(Tanz im August)」が毎年開催される。新たなキュレーターの就任という節目の年となった今回は、アフリカ系のアーティストやLGBTQ+に関わる作品の存在感が際立った。国際フェスティバルがしばしば担わざるをえない「いまイケてる作品はこれ!」という強く加速主義的な傾向と、それに相反するように、ある種の小ささ、親密さを指向する作品群。その関係に目を向けた。【Tokyo Art Beat/外部編集:島貫泰介】
「8月のダンス(Tanz im August)」は、1989年以降、毎年8月にベルリン市内で開催されてきたダンスフェスティバルである。35回目にあたる今年は、8月9日~26日までの日程で開かれ、19作品が参加した。ベルリンのフリーシーンを代表するHAU(ヘッベル・アム・ウーファ)劇場が主催。会場としてはHAUの3つの劇場に加え、1000人規模のベルリン祝祭(フェスティピーレ)、ラディアルシステム劇場、ゾフィーエンゼーレなどが使われ、また無料野外公演として、市内3つの公園などでも上演があった。
今年の話題は、キュレーターを9年務めたヴィヴレ・サティネン(Vivre Satinen)から、リカルド・カルモナ(Ricardo Carmona)に代わったことである。カルモナはポルトガル出身で、リスボンのアルカンタラ・フェスティバルのプログラム・ディレクターを務めた後、2012年から、HAUのダンス部門キュレーションを10年間担当した。キュレーターが代わればプログラムも大きく傾向を変えるのが当然だが、カルモナにとって最初のキュレーションは、「アフリカ系」や「LGBTQ+系」とひとまずカテゴリー化できる作品が多くを占める結果となった。Black Lives Matter以降の芸術動向として、これまでとは異なる意味での〈政治化〉を経験しつつある欧州の舞台芸術界にとって、公立劇場vs.フリーシーンの図式では後者に属するHAUが主催する「8月のダンス」がどのような作品を上演するのか。それを私は興味深く見守ることになった。
大雑把にまとめてしまうと、フェスティバルらしい華やかな〈加速主義的〉上演があるいっぽう、その反対側の〈親密性〉を主眼とする上演に大きく分かれたという印象である。この場合の〈加速主義〉は、哲学思想的な意味というより、西洋モダニズム以降の舞台芸術パラダイム内における美学的・政治的アジェンダをできるだけ前に、それも〈過剰に〉進めようとする欲望一般を指す。他方の〈親密性〉は、そうした進歩主義と距離を置き、ポストコロニアルとBLM以降の政治的アジェンダと折り合うべく、上演の美学のみならず、観客とのインターフェイス再定義のためのキーワードである。
日本でもよく知られたローザスの『上方へ退場―テンペストにちなんで(EXIT ABOVE after the tempest)』(構成・振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル[Anne Teresa De Keersmaeker])は、シェイクスピアの『テンペスト』をモチーフとしながらも、「歩行としてのダンス」を徹底して追求する試み。アメリカのフォークソングとカントリー音楽が哀愁を醸し出すなか、ローザス特有のシンプルで洗練された動きに、複雑な身体性が複層的な厚みを上演に与える。
(La) Hordeなるコレクティヴのコンセプト・演出のマルセイユ国立バレエ団の『満たされた時代(The Age of Content)』は、一貫した物語はないものの、同時代を生きるアバター化した身体の無名性とその身ぶり的強度を前景化する。終幕にかけて、フィリップ・グラスの陶酔的な音楽を背景に、字義通り「踊り狂う」クライマックスを形成し、最後はレイヴ的な雑種的身体のスペクタクルへと収斂する。
ファソ・ダンス劇場(Faso Danse Théâtre)の『C la vie』(コンセプト・振付:セルジュ・エメ・クリバリー[Serge Aimé Coulibaly])は、ブルキナ・ファソにおける政治的動乱の映像を背景に、圧倒的な身体能力を誇るダンサーたちが、多様なダンスのテクニックに民族的な踊りの要素を交えながら、ポスト植民地的関係性におけるカオスを乗り越えんとするためのように、これまた字義通り「踊り狂う」。そこから浮上する情念というより一種の諦観とともにある強い情感が印象的である。
こうしたスペクタクル系とも呼べる大がかりなダンス作品ともっとも対照的だったのは、イスラエルのヤスミン・ゴデール(Yasmen Godder)の『共感を実践する第3番(Practicing Empathy #3)』。日本でもすでに上演された(「dance new air 2021」にて)本作は、分断の時代にあって「他者との共感」が、ダンス実践においていかに可能かを考えるというコンセプト。HAU1の舞台上に作られたフロアを取り囲んで座る観客たちに、ゴデールは作品の発想から話し始め、自身のスマートフォンで音楽を操作し、親しみやすいダンス的身ぶりからパフォーマンスを開始。途中、観客に何度も話しかけたりしながら、観客との親密な関係を、時間をかけて作り出す。後半は、そこで出現した〈共感〉可能性に賭けるように、ジリ・アビサール(Gili Avissar)による複雑に絡み合った紐状のオブジェを相手にしつつ、いわば普通のダンス的パフォーマンスへと移行する。
『リビア(Libya)』(コンセプト・振付:ラドウアン・ムルズィガ[Radouan Mriziga])は、タイトルにあるようにリビアにまつわるアフリカ系・アラブ系の音楽や動きをメインに据えた作品。コンテンポラリーダンスのボキャブラリーも取り入れつつ、曰く言いがたい不思議な、つまりヨーロッパ文脈では「他」とされるような身体性と時間性がその特徴。上演の強度に巻き込まれるのではなく、淡々と展開するパフォーマンスに、観客自身もその空間にいつのまにか〈居合わせた人〉になっていた、という〈親密性〉の感覚を生起させる。
12人のダンサーを起用したベルリン祝祭の大きな舞台での上演ながら、〈加速主義〉に開き直らず、〈親密性〉にアクセントを置き、逆説的なまでに感動的だったのが『ザ・ロメオ(The Romeo)』(構成、振付、舞台美術、衣装:トラジャル・ハレル[Trajal Harrell]、チューリッヒ劇場ダンスアンサンブル)だった。
ここでのロミオは、ハレルによれば、人類の歴史とともにある〈踊る衝動〉の別名であり、シェイクスピアのロミオだけではない。
ロミオは古くからのダンスで、時代や国境を越えて伝達され、ソーシャルメディアでみることはできないが、人間のDNAの不可欠な部分を構成する。一人で、または他の人と一緒に実践することで、社会的、身体的、道徳的差異にもかかわらず、身ぶりで自己表現するエスペラントのように、私たち全員を結びつけることができる。
と開演直前に配布される文言でハレルは書く。 ナイーヴだと失笑するのはたやすい。しかし、開演後、300以上に及ぶという衣装とアクセサリーを次々と身にまとって登場しては退場を繰り返す──基本的にはキャットワークの歩行とヴォーギング的動きの組み合わせとなる──12人のパフォーマーと、それを舞台上で見守り、時にソロのダンスを披露するハレルの共同的〈ユートピア願望〉の強度には尋常ならざるものがある。衣装・身ぶりの両者ともに、歴史的参照項がちりばめられてあり、終盤に向かっては、現在時の〈分断の時代〉を想起させる瞬間もある。
ここでも〈踊り狂う〉時間がある。ただそれが〈加速主義〉に感じられないのは、上演を刺し貫くその強度が絶望的な何かにではなく、希望に支えられているからだろう。あるいは、そう感じられるようなしなやかで暖かい〈親密性の空間〉が、舞台で生起し続けるからだろう。
ここで、ベルリン祝祭での上演であるための所与の条件であるスペクタクル性が、〈加速主義〉と〈親密性〉を絶妙に交渉させることで満たされている。速度や過剰に目も知覚も奪われる〈加速主義〉になることなく、ふわふわとじわじわと、ハレルとその共同作業者たちの身体は、字義通りあるいはイメージとして、通り過ぎていくのだ。それは、いつまでも続いてほしい時間だったのである。
内野儀
内野儀