公開日:2024年1月10日

奈良美智ロングインタビュー(後編)。願い続けてきたPEACE、旅と場所づくり、アートよりももっと自由な人生を求めて

アーティスト・奈良美智にとっての故郷、そして「はじまりの場所」がテーマの個展「奈良美智: The Beginning Place ここから」(10月14日〜2024年2月25日)が行われる青森県立美術館でインタビューを行った。後編では、展覧会のハイライトとなる部屋と平和への思い、旅やコミュニティ、自由など、作家を貫く思想について話が及んだ。(聞き手・文:宮村周子)

奈良美智。「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)の会場にて 撮影:小山田邦哉

奈良美智はこれまでどのような思いで作品を生み出し、どんな風景を見てきたのだろうか。故郷、そして「はじまりの場所」がテーマの個展「奈良美智: The Beginning Place ここから」(10月14日〜2024年2月25日)が行われている青森県立美術館でインタビューを行った。

*前編はこちら

3時間におよんだインタビュー。その後編では、展覧会のハイライトのひとつである「No War」の部屋と平和への思い、旅や場所作り、幼少期から変わらない自由を求める気持ちなど、作家を貫く思想について話が及んだ。【Tokyo Art Beat】

奈良美智。「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)の会場にて 撮影:小山田邦哉

反戦と平和を願う部屋

──展覧会のハイライトのひとつ、「No War」の部屋は、《平和の祭壇》という名の大インスタレーションです。絵画やドローイング、彫刻だけじゃなく、自室やアトリエを模した小屋《My Drawing Room》(2004 / 2021)やその周囲にも人形や小物といった、奈良さんが大切にしている私物がぎっしりと並んでいます。

自分の中では、「No War」というより「Peace」というイメージなんだけどね。いまの自分を築いてきた本を並べているし、古いドローイングと新しいものがごちゃ混ぜになっているし。思いつくものを全部持ってきて、その場で構成したんだよ。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)会場風景より、「No War」のセクション。写真左の彫刻が《台座としての「森の子」》(2023) 撮影:木奥惠三

──やっぱり展示は即興的なんですね。

そうだね。自分と血がつながった、絶対に確かな要素しか持ってきていないから、どう組み合わせても成立するの。絵と同じで、思いつきと言っても、頭の中にイメージやアイデアが無数にあるから無意識にできる。偶然であっても必然性があるから、悩まずに決められる。

──頭の上に子犬が載った大きな彫刻(《台座としての「森の子」》)もインパクトがありました。

あの頭が切れた《森の子》は、作品ではなく台座。それも思いつきで、名前を聞かれたから《台座としての「森の子」》になった。

──王冠を被った自由の女神が現れたようにも見えます。

《森の子》自体、土からにょきって出てきているからね。最初は本を背表紙が見えるように上に並べようとしていたんだけど、同じ系統の色のほうがいいかなと思って子犬にした。家にある子犬を全部持ってきていたから、上に一周回して、余ったのを二周、三周と回して全体に置いてる。台座をチェックしたときに、なんとなく上の穴を蓋で隠してもらうよう頼んだんだけど、頭のどこかに本以外の案があったんだろうね。一緒に作業する人は、俺が何を言っているのか、最初は理解できなかったと思うよ。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)会場風景より、中央の作品が《No Nukes》(1998)。震災後の脱原発運動のデモで大勢の人達が複製イメージをプラカードにして掲げた 撮影:編集部

──この部屋には、奈良さんの個人的な思いや日常が詰まっていて、声高にスローガンを打ち出すような雰囲気ではありませんね。

それは、人に見せるためじゃなくて、自分のためにやっているからだと思う。オーディエンスを意識している人なら、反戦というと、人の死や恐怖感を前面に出して、戦争の悲惨さを伝えようとするだろうけど、俺は戦場に行ったことがないから、それをやると自分に嘘をつくことになる。

じゃあ、どうやってピースを表すのか。家にある、自然に集まってきた自分が愛でているものや自分が作ったものをそこに並べたら、こんな世界を壊したくないなって思うでしょう。大切なものを誰かに踏みにじられたら悲しいからね。

以前、広島市現代美術館から、戦争をテーマにした作品制作を依頼されて、最初、自分にはできないと思ったのね。でも、原爆の被害ではなく、原爆が光った瞬間を目に映している子供だったら描けるなって思って。それに戦争反対やNo Nukesは、絵を描く前から自分が意識してきたテーマだから、普段通りにやればいいんだってね。今回はその絵は借りられなかったけど、風で揺らぐような布にイメージを印刷して、上のほうに吊り下げてる。脱原発集会で使われた《春少女》のバナーは色が褪せちゃってるけど、ああいう印刷物を使うと、展示に公共性が生まれて外の世界とつながるんだよ。それも後で気づいたことだけどね。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)会場風景より。右上に掛けられているバナーは、広島市現代美術館が所蔵する《Missing in Action—Girl Meets Boy—》(2005)を印刷したもの 撮影:木奥惠三

──《春少女》や《No Nukes》(1998)のイメージが脱原発運動のデモや集会などで掲げられ、社会に浸透していった出来事は意外でしたか?

いや、そうは感じなかった。後で事の重大さに気づいたけどね。十万人集会で登壇したときも、坂本(龍一)さんや大江(健三郎)さんや瀬戸内(寂聴)さんといったすごい人達が横にいるのに、俺は全然緊張しなかったよ。

──それも、オーディエンスを意識していないから?

ああ、きっとそうだね。

──「No War」には、2001年にファンの人達とコラボレーションした作品《I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME. 》も展示されています。これは、当時あった公認ファンサイト、HAPPY HOURを通じて参加が呼びかけられ、大勢のファンが奈良さんの絵のモチーフのぬいぐるみを手作りして実現したものでしたね。

あれは、高橋さんが、「本当は日本にあるべき作品だから、ここになければだめです!」って言って、アメリカのコレクターから借りたの。俺がオーディエンスを意識した唯一の作品だと思うよ。2000年にドイツから日本に帰ってきたとき、みんなが俺のことを知っているからすごく驚いたんだけど、俺が知らなかっただけでじつはたくさんの人とつながっていたことを、HAPPY HOURは教えてくれた。掲示板を含むその交流の場には、自分が高校生のときにロック喫茶で経験した、小さなコミュニティの安心感やワクワク感があったんだよね。だから、知らないオーディエンスじゃなくて、知ってるオーディエンスを意識していた。

会場風景より、《I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.》(2001) 撮影:編集部

──この作品の下にも、小さな人形やおもちゃが並べられていましたね。

あれは、これからはもっとしっかりやっていかないといけないんじゃないの?って、自分の幼少期に決別するような気持ちで当時置いたもの。展示した横浜の個展で、入りきらなかったぬいぐるみを鏡の前に積んで、背後の「YOUR CHILDHOOD」という文字を鏡越しに読めるようにした展示もしたんだけど、それは、鏡に映る鏡像を自分だと理解して自我が芽生えた、子供の成長段階を表していた。鏡に映った子供時代にはもう戻れない、自分自身のポートレイトだね。

音楽や写真で共有した反戦意識

──奈良さんの人生にとって、音楽はなくてはならない存在です。反戦や平和を望む姿勢は、音楽と共鳴していますね。

若いときに音楽が好きでも、ほとんどの人は途中でぱったり聴かなくなるよね。でも、自分はいまでも、音楽がずっとそばにあり続けている。とくに影響を受けたのは、時代の空気。高校の頃までは周りで大学生が学生運動をやっていたから、そこで歌われていた反戦歌を聴いたり、サブカルチャーの雑誌を見たりした経験が、その後も忘れられないものになっていった。《No Nukes》も、当時雑誌の『写楽』に載っていた反核運動の写真のイメージが強く残っていて描いた絵だよ。その記事の切り抜きも展示している。

──ベトナム戦争などがあった時代意識を共有するなかで、自分たちで社会を変えられるんじゃないかという気運も感じていましたか?

自分が目覚めたときは、もうそれはなかったね。学生運動がどんどん潰されて、最後に長髪を切る『いちご白書』のような映画が作られたり、中学のときにアメリカ軍がベトナムから撤退したから、ベトナム戦争に反対する反戦歌はなくなっていった。そういう音楽は60年代から70年前後がいちばん多くて、ジミヘンが爆撃音よりも大きな音を出したり、ボブ・ディランが詩で聴かせたり。当時の公民権運動のプロテストソングや反戦歌のように、みんなが純粋にひとつの方向を見ていた頃の一体感が感じられる音楽に、自分は強く惹かれるんだよ。

奈良美智。「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)の会場にて 撮影:小山田邦哉

──音楽や写真を通じて、世界の現実も学んでいたんですね。

ベトナム戦争で初めて一般のジャーナリストやカメラマンが戦場に行けるようになって、オンタイムで写真や映像で状況が知らされ始めたんだよね。正義の戦争だとアメリカは盛り上がっていたのに、村の子供や女性達が全員殺されるような戦争はおかしいんじゃないかって人々が気づき始めた。地獄を見てきた帰還兵達のPTSDが初めて問題視されて、彼らが公に語り、軍服姿で行進し、学生も加わって、どんどん反戦運動が大きなうねりになっていった。それを抑えきれなくなって、アメリカは撤退した。

当時、自分は小学生だったけど、アメリカが月の石を持ち帰ってきたり、大阪万博に世界中の国が集まって仲良くしているはずなのに、日本にある米軍基地からベトナムへ戦闘機が飛んでいくのはおかしいし、何が本当なんだろう?って思っていた。だからなおさら、真実を伝える報道写真や映像を見た記憶は鮮明に残っている。ヴィジュアルを信じる世代の始まりなのかな。

──いまも各地で紛争が起こり、戦争がなくならない状況が続いていますね。

大きな力が支配する世界だと変わらないよね。でも、ベルリンの壁が崩壊する数年前に、デヴィッド・ボウイが壁の脇でライブをして、わざとスピーカーを東ベルリンに向けて「Heros」を歌ったんだよ。「壁の反対側にいる私達のすべての友人達に贈ります」ってドイツ語で言ってからね。その数年後にベルリンの壁が崩壊した。ボウイが死んだとき、ドイツ政府から感謝を込めた弔電が送られたんだよね。チェコのビロード革命も、最初の大統領がヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲が好きだったから、ビロード革命と呼ばれるようになった。いいことも悪いことも含めて時代のうねりが起こるから、信じていれば平和に転じる可能性はあるんじゃないかな。

ただ、いまはどんどん西側のボロが出て、世界大戦になりそうなすごく悪いほうにうねっている。俺は楽観主義者だから、人間はそこまでバカじゃないだろうって思うけど、自分は安全な場所にいて、人を駒のように使う人がいたら戦争は始まってしまうよね。天災と似ていて、忘れた頃に始まるからすごく怖いよ。

──戦争の犠牲になるのは普通の人びとです。「No War」の部屋を《平和の祭壇》と名づけた高橋さんは、奈良さんの作品には、悲劇的な出来事で命を奪われた犠牲者達や弱い存在への眼差しが感じられるとおっしゃっています。

人形ってヒトガタじゃない? ヒトガタは人の代理だから、弔いの要素はなにかしらあると思う。

──鎮魂の祈りのように、亡くなった人達のことを意識していたということでしょうか。

いや、それはできない。東日本大震災のようにたくさんの人が死ぬときには、身内ならともかく、一人ひとりの犠牲者を思うことは無理だし、自分が抱えることではない。それよりも、もっと前向きなことを考えて、少しでも平和という言葉を広めることに転換していかないと。

奈良美智。「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)の会場にて 撮影:小山田邦哉

小さなコミュニティでのビオトープづくり

──ここ数年、北海道の白老町で行われている飛生芸術祭に有志として参加したり、洞爺湖で子供たちと絵を描く企画に携わったりと、小さなコミュニティでの手作りのイベントに積極的に関わられています。田舎のよさについてもお話しされていましたが、場を自分たちでつくる等身大の営みのほうが、人同士も深くつながれて価値が大きいと感じているのでしょうか。

そうなんですよ! それらは、先行投資して広告代理店が作ったようなものじゃなくて、小さな場所で自然とできていったものなのね。自分の中に入っていけばいくほど、逆に広がっていくというか……最近、ちっちゃいところでやっているはずなのに、それが大都市の中だけでやろうとしている人達よりも広がっていっている気がするの。

——場所が田舎であっても、いいものをつくれば自然に人が集まり、注目されるということでしょうか。

そうだね。音楽のライブって、人を集めやすい大都市にしか来ないけど、もし知床にローリング・ストーンズが来たら、みんなはそこに見に行くでしょう? じつは大都市にこだわる必要は全然ないんだよね。人は価値のあるものを追いかけようとするから、そこでしか見られないっていう価値があれば、みんな見に来てくれるんじゃないかなって思う。

たとえば、綺麗な羽の鳥や蝶を探しに行って、捕って持ち帰ってきても、鳥や蝶が住める場所がなければ檻に入れて見せるしかない。そうじゃなくて、そこが荒れ果てて汚水が溜まったような場所なら、綺麗な池をつくってお花を植え、元のビオトープの湿地帯に戻していけばいい。そうすれば生き物達は戻ってくるし、綺麗な鳥や蝶や、いろんなものが集まってくるんだよ。

それは、創造することや教育だって同じだと思う。いい場所をつくれば、そこから生まれるものがたくさんある。でも大都市だと、会議が何回も行われたり、ルールがつくられたりして、とても自然にはできない。そういうのは、小さい場所ほど上手くいくんじゃないかな。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)会場風景より、「トビウ・キッズ」シリーズ。左から《シウ》、《ユノア》、《コウ》、《ココネ》、《レノア》(2017) 撮影:編集部

──そうしたお話は、やはりロック喫茶での体験につながりますね。

そうだね。あの頃はネットもないし、外に向けてなんの宣伝もしなかったけど、ここはいい音楽が鳴ってそうだなって、通る人が興味をもってくれて、自然に蝶が集まってきた。たくさん来られても困るからチラシも貼りに行かなかったし、本当に弘前界隈の人しか知らない場所だったけど、そこを見つけてくれる人、そこがいいから口コミで来る人が集まる、居心地のいい場所だった。それが理想のコミュニティじゃないかな。自分はそういう場所をいろんな所につくろうとしていたんだなって思うよ。

それに、そのコミュニティができたことで、別の町にも似たようなコミュニティがあるとわかって、コミュニティとコミュニティ同士も交わっていくよね。そうすると共感の輪が広がっていくじゃない? 人が紹介し合うんじゃなくて、コミュニティ同士のつながりが大切だなってずっと思ってたよ。その中にはお年寄りも子供もいて、変わった人も普通の人もいる。変わった人しかできないことがあるだろうし、普通の人に任せておいたほうが安心なこともある。そのちっちゃな世界の中で役割分担を決めると、すごく楽だし、みんながその役割に誇りが持てるんだよ。

──とても理想的な社会像ですね。

でも、みんなが変わっていく様子もよく見るの。いままで綺麗な鳥を望遠鏡で見て上手くいっていたのに、もっと見てみようと大きな望遠鏡を買ってきたり、やぐらをつくっちゃったりすると、鳥が来ていた湿地帯もまた変わっていく。宣伝しすぎて人が大勢来て、ゴミが増えたりとかね。人間はやっぱり欲があるということもよくわかってきた。

──どうすれば、ほどほどに保っていけるんでしょうね?

わからない。そういう世界に自分が近づかなければいいってだけ。まだまだ綺麗な湿地帯はあるから。

──定住者じゃなく、旅人の視点ですね。

そうかもしれない。でも、変わらない人達もいるからね。この歳にして、社会に出た時の感じや人というものがすごくよくわかってきた。

──さきほどの、自分の中に入っていけばいくほど、逆に広がっていくというのはどういう感覚なんですか?

ちっちゃくまとめていったら、それがぐわーっと裏返って、大きなことになってたってこと。今回の展示で面白いのは、《My Drawing Room》の小屋の外側に、本来部屋の中にあるものが飾られているでしょう。赤瀬川原平の蟹缶の作品《宇宙の罐詰》みたいに、内側が裏返って外側に出ているイメージだよね。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)会場風景より、《My Drawing Room》(2004/21)の外側 撮影:編集部

──ああ、なるほど!

言わなきゃ気づかないでしょ? ちっちゃなところも深く中に入っていくと、逆に裏返って、外に向かって広がっていくんだよね。

──そのちっちゃなところは、個人にも置き換えられるということですね。

そうだね。ひとりの命は地球よりも重いということなのかな。それぞれに大きな価値をもった人達が集まっているんだなぁって思ったりするし。それも、後になって感じたことだけどね。

生き方が自分の作品~ロック喫茶が教えてくれたこと

──展覧会の最後を飾るのがロック喫茶33 1/3の再現でした。やはり、いろいろな意味で原点だったんですね。

2年間だけ店長をした博多出身の女性がいてね。その人は日本中を旅して歩いていて、博多に帰ったらライブハウスをしたいんだって言っていたの。俺は一年しかいなかったけど、弘前を出た一、二年は、みんなの手紙を送ってくれたりして交流が続いて、そのうち音信不通になった。震災があった2011年の秋に、東北を元気づけるためにARABAKI ROCK FEST.が仙台で開催されて、自分もTシャツとかのイメージを提供していたから会場に行ったのね。すると、店長だったその女性がいて、「あれ、恵美さん?」「奈良キャン?」って、再会したの。彼女はCHABOさん(仲井戸麗市)やザ・ストリート・スライダーズらをマネージメントする会社の社長になっていて、もっとびっくりしたのは、弘前の後に彼女が福岡で始めたのが、俺も知ってる 80's FACTORYという伝説のライブハウスだったこと。面白いでしょ? そのとき、地球を一回りして戻ってきたんだなって思ったよ。だからまた会えた。世界ってちっちゃいでしょう?

それを機に、CHABOさんが一緒にDJをやろうと言ってくれてたり、いろんなイベントや番組に呼ばれるようになって、震災以降は、ミュージシャンと親密に関わるようになっていった。それは自分がもともとやりたかったことだから、嘘みたいだよ。いまはミュージシャンのほうが友だちが多いよ。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)内、再現されたロック喫茶の中で 撮影:小山田邦哉

──音楽イベントでしたライブドローイングの絵も、今回出ているそうですね。

CHABOさんの誕生日のときに、CHABOさんが曲を一曲やるうちに一枚描いていった絵とかね。クレヨンでバーッと描いただけのもので、以前はそういうのは恥ずかしくて絶対に出せなかったけど、いまは躊躇なく平気で出せる。どこかでふっきれて、生き方が自分の作品なんだって思えるようになってから、なんのプレッシャーもなく展示できるようになってきた。

──肩の力が抜けたんですかね。

自分の何がみんなと違うのか、いろいろわかってきたからかな。いまは、ちょっと上から自分を俯瞰して見ている感じ。

最近、マーケットでの成功がアーティストの成功だと考える風潮があるけど、いかに買ってもらえるかばかりを考えているのは、やっぱり芸術家じゃなくて職業画家だよね。人よりもでっかくて奇抜なものをつくればオーディエンスは注目すると思うけど、それがアートかというと、違うんじゃないのかな。本当のアートはそんな簡単なものではないと思うし。

──自分軸を貫く奈良さんのような人こそ、芸術家ですね。

俺は芸術家じゃないよ。美術をやっているのは自分の中の半分以下で、いちばんなりたいのは自由な人だもの。

去年の夏に、北海道の洞爺湖で1ヶ月間子供たちと一緒に絵を描いていたんだけど、普通の大人でも、自分のためじゃないのにそんなことやらないでしょう? 夜は制作しようと思って行ったけど、夜には親たちや役場の人まで来て飲み会になるから絵は描けないし、昼間は、子供たちが泳ぐのを保護者のように見守ったり、外で一緒に遊んだりとか。

「Summer Records -奈良さんが洞爺で過ごした夏の記録-」(とうや子プレス、2023)より 撮影:森髙まき

──とても楽しそうな夏休みです(笑)。奈良さんはなぜ引き受けたんですか?

正直に言うと、こういうことは俺にしかできないと思ったから。ほかの人があくせく美術の世界でやっているときに、俺は子供たちと遊んでいられる。でも、ちゃんと作品はできるでしょ?っていうプライド。若い頃だったら、自分の時間を無駄にしたくなくてやらなかったと思う。自分はそれくらい大きくなったんだなと思うよ。

──誰かがその役割を引き受けたほうがいいだろうという使命感もあったんですか?

いや、そういうことでもない。ほかの作家とは生きている目的が違うんじゃないかな。俺はただ、自由に楽しく生きたいだけだし、自分が見たことがないものが見てみたいの。オーディエンスを意識している人達は、みんなが見たことがないものをつくって、その反応を見たいと思うんだよね。あるいは、高い山があったら、天辺まで登ろうとするとか。自分は、大きな川を見たら、それがどこから生まれているのかを見たくて上っていって、結果的に湧き水に行き当たる。それは、山の頂上のように最初から見えていて目指せるものじゃないんだよ。

──まるで吟遊詩人のようですね。その足跡や生き様が結果として作品になる。いまの奈良さんは、表現の枠組み自体を超えていますね。

何が表現かなんて考え始めたら何もできなくなっちゃうから、何も考えない。やりたいことは明日にならないとわからないから、ただ、そのときに思いついたことをするだけ。で、失敗したなと思ったら、早いうちにやめる。よく目標を聞かれるけど、映像を撮りたいとか、どこどこで発表したいと思うことは絶対にない。どれだけそういうところから離れていけるかをいつも考えているから。離れれば離れるほど違うものが見えてきて、そこで生まれるものが、結局またこっちに返ってくるんだよ。

──フィードバックされるんですね。

そう。オーディエンスを意識しなくても、そういうものに反応する人達がいるから。見て見て!って言わなくても、見に来る人がいる。やっぱり蝶が集まる湿地帯の話と同じだよね。

世界の中心は自分の背後にある

──ところで、奈良さんはずっと世界を舞台に活躍されてきましたが、震災の前は、世界という場所をどんなふうに見ていたんですか?

ほかの人達と同じように、ヨーロッパやアメリカのどこかに中心があるんじゃないかって無意識に思っていたよ。だから、アジアに勉強しに行こうとは思わず、ドイツに行っちゃったしね。ドイツでは、子供時代と向き合って、過去の自分とはつながっていたけど、家の外に出れば、西洋に目が向いていたと思う。

でも、2004年に「Yoshitomo Nara: Nothing Ever Happens」展がカリフォルニアのサンノゼ美術館に巡回したとき、オープニングにアジア系の人達がたくさん来てくれたことが、アジアに目を向ける大きなきっかけになった。アジア系といっても、日系というよりも中国、ベトナム、韓国系が多かったんだ。彼らは俺を日本人作家じゃなくてアジア人の作家だと思っていたの。アメリカではアジアンアメリカンはマイノリティだから、同じアジアの人が公共の美術館で個展をするのが嬉しかったんだよね。

そのとき、わかったの。西洋美術を勉強して、西洋のアートマーケットの中にいて、西洋の美術館で展覧会をすることが無意識にステータスだと思ってやってきたけど、じつは中心は自分の背後のバックグラウンドにあるんじゃないかってね。自分が生まれ育って感性を育んだ場所が本当の中心で、そこから広がっていって、自分で勝手に中心と思っていた場所に手が届いただけなんじゃないかって。

奈良美智。「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)の会場にて 撮影:小山田邦哉

──名言ですね。心の地図が変わった、と。

震災でなおさらそう思ったよ。俺、故郷や地方のすべてが自分に関係ないものだと思ってやってきたのに、いまは逆に、すごく面白くなっているの。

──故郷自体のイメージも変わってきましたか?

子供時代の記憶はまったく変わらないけど、いまの自分にとっての故郷は、青森だけじゃなく、雪が降ったり氷が張ったりする北国のことかな。宮澤賢治がすごく好きだから、隣の岩手県だって自分の故郷だよ。

──共感できるホームが広がってきたんですね。

そうだね。昔は青森県人と鹿児島県人は文化も食べ物も違う!って思っていたけど、いまは日本も韓国も同じご飯の炊き方をするし、イタリアだって米を食べるじゃん!みたいなね。

──どんどん真の地球人に……。

近づいていってると思います(笑)。

小学校の卒業文集に書いた将来の夢が、世界一周旅行だったんだよね。みんながパン屋さんとかパイロットとか具体的な職業を書いているのに、俺だけ、「世界を一人で旅したい」。しかも、「この夢だけは大人になっても持ちつづけたいと思う」って書いてた。

──まさにその夢を実行されていますね。自分の時間軸の中にひとつの幹を見つけたいという思いにも、何か気づきがありましたか?

そうだね。進歩するようにずっと歩き続けて、遠くまで来たなと思ったけれど、ぐるっと一周してまた同じ出発点に戻っている。それはバックしていたんじゃなくて、歩くうちに自分が成長して、一回り大きくなって戻っているんだよね。

──大きな木の年輪のような。

ああ、そうかもね。そうやって進んだり戻ったりしながら、ずっと旅を続けて成長していきたいよね。

奈良美智。「奈良美智: The Beginning Place ここから」(青森県立美術館)の会場にて 撮影:小山田邦哉

奈良美智(なら・よしとも)
1959年青森県生まれ。1987年愛知県立芸術大学大学院修士課程修了。1988年渡独、国立デュッセルドルフ芸術アカデミー入学。修了後、ケルン在住を経て、2000年帰国。1990年代後半以降からヨーロッパ、アメリカ、日本、そしてアジアの各地の様々な場所で発表を続ける。見つめ返すような瞳の人物像が印象的な絵画、日々生み出されるドローイング作品のほか、木、FRP、陶、ブロンズなどの素材を使用した立体作品や小屋のインスタレーションでも知られる。国内外での個展、グループ展への参加多数。近年の美術館個展に、「YOSHITOMO NARA. ALL MY LITTLE WORDS」(アルベルティーナ近代美術館、オーストリア、2023)、「Yoshitomo Nara」(ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアム/ユズ・ミュージアム、上海、2021–23)、「奈良美智 for better or worse」(豊田市美術館、愛知、2017)など。写真展「北海道 — 台湾」がタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー / フィルムで12月26日まで、4人組アーティスト・コレクティブの一員として参加する「THE SNOWFLAKES 」が苫小牧市美術博物館で3月24日まで開催中。

宮村周子

宮村周子

みやむら・のりこ 編集者、ライター。『美術手帖』編集部を経てフリーランス。『えほんzineねっこ』で「コモドドラゴンとアート散歩」連載中。