「女性アーティスト」はどのように評価されてきたのか:ジェンダーにまつわる問題を流行として消費しないために

女性のアーティストはいかに見直されてきたのか(文:丸山美佳)

In 特集記事 by Art Beat News 2021-05-30

近年、「女性アーティスト」に対する評価の見直しが行われている。例えばアメリカでは、男性の活躍が目立つ戦後の抽象表現主義で、これまで大々的に光が当てられることのなかったジョーン・ミッチェルら女性アーティストにフォーカスした展覧会が美術館で開催。アートマーケットでの評価も上昇の兆しを見せている。ボルチモア美術館ではコレクションの男女比を見直すために、新規コレクションとして女性のアーティストの作品を購入。2019年には出版社のphaidon社が、過去500年にわたる女性のアーティストの活動を振り返る本「Great Women Artists」を発行。森美術館では、世界各地で挑戦を続ける70代以上の女性アーティスト16名に注目した展覧会「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」が4月22日にスタートした。なぜいま立て続けにこのような現象が起こっているのか、経緯と課題を丸山美佳が論じる。

これまで〈女性アーティスト〉は何度も見直されてきた

美術館のコレクションや芸術の言説から抜け落ちていた〈女性アーティスト〉の見直しをする動きが世界的に目に見える形でなされている。それは、いままで目を向けられてこなかったり、美術の大きな歴史の語りから疎外され周縁化されてきたりした〈女性アーティスト〉が大々的に焦点を当てられることにより、ようやく正当な形で評価され始めたという、喜ぶべき変化として見るべきかもしれない。しかし、それが一様に〈女性アーティスト〉の見直しとその活躍を映し出すものだとしても、どのような物語のなかで見直されているのか、どんな文脈や背景でそれが成し遂げられたのか、あるいは単なるレトリックなのか、その効果はそれぞれ異なっている。

過去の多くのアーティストが〈女性アーティスト〉とカテゴライズされることを拒み続けたことや、今日的なインターセクショナルな視点からされるジェンダーの議論(*1)を踏まえたうえで言えば、このような見直しの風潮なかで、誰が、どんな視点から〈女性アーティスト〉としてカテゴライズされているのだろうか? 男性中心主義的構造や保守派による排除の政治だけでなく、肌の色や民族性、男・女の二元論的なジェンダー/セックスをもとにした本質主義者の偏狭さで〈女性〉を規定したり、ターフ(トランス排除的ラディカルフェミニスト)たちの暴力的な言語が蔓延したりしているいま、ジェンダーの差別問題として浮上し続ける〈女性アーティスト〉の見直しや活躍を私は手放しで褒めることができない。つまり、誰が何を軸に〈女性アーティスト〉を見直し、評価しているのかーーさらには〈女性アーティスト〉というカテゴリーをどう他者化し、同時に何を排除しまっているのかーーという問いを抜きには考えられない。その見直しは男性アーティストに対する〈女性アーティスト〉の見直しではなく、むしろ〈女性アーティスト〉に居場所を与えてこなかった言説そのものの見直しとして捉えられなければいけないのであり、その芸術の言説を作り出す枠組みそのものを再考し続けることが必要である(*2)。

〈女性アーティスト〉が見直され始めたのは何もここ数年の動向ではない。彼女たちが沈黙を強いられた数世紀を経て、70年代から80年代のフェミニズムやマイノリティ運動のなかで、そして90年代のグローバルアートや多文化主義の高まりのなかで、ずっとそこに存在していたのに見えていなかった非(白人)男性のアーティストたちの姿は明るみになってきた。多くの美術史家たちによって(白人ヘテロ)男性の眼差しが批判され、ジェンダー問題、さらには人種問題を導入しながら美術の歴史が読み直され新たに編纂され、少しずつ〈女性アーティスト〉は(白人)男性によって独占されていた美術の舞台に上がり、美術史へと登録されてきた。それから50年ほど経ってやっと、芸術生産の場でマイノリティとされてきた人々が包摂されるようになったのかが議論されるようになり、芸術を生み出す環境や労働そのものに内在する構造的な人種差別や性差別の問題や課題に向けて対策が取られるようになったと言える(*3)。

しかし、美術史や批評の言説、大学、美術館、そしてアートマーケットは、何度も脱中心化を叫び多様性を標榜しつつも、多くの場合、結局は白人男性中心主義的イデオロギーと結託した新自由資本主義社会と連動し、新たなフロンティアを取り入れては更新していくようなあり方を維持し続けている。その新陳代謝のなかで〈女性アーティスト〉たちは何度も見直されてきたーー美術史の穴を埋めるため、地理的な隔たりを埋めるため、自由を語るため、そして多様性を担保するために(*4)。

そのような絶え間ない変化のなかで私たちがいま直面しているのは、今まで沈黙を強いられてきた声や表現を支えるには、白人男性の視点である西欧中心主義的規範とそれを体現してきた(あるいはその捻れとして内面化してきた)知識や記述方法だけでは不十分であるという事実である。そのため、無視され、忘れさられ、ないものとされてきたアーティストやその文化と知識を拾いあげ、言説化し、現在へと繋げていくことは、過去、そして未来をどのように捉えていくかを考えるうえで必要不可欠である。それはもちろん美術史家や批評家たちがこれらの文脈を踏まえたうえでどのように言説を作っていくかという問いであると同時に、実践としてどのように言説と向き合っていくかという問いでもある。

だからこそここで強調したいのは、権威的な物語のなかで単に「見落とされていた存在として見直される〈女性アーティスト〉」という語りをやめて、なぜ「見落とされたのか」を問いながら、異なる視座から語ることの実践をして行くことの必要性である。なぜなら正しさや権威的な確かさという意味での見直しは、その規範に当てはまらない者をあるときは寛容的な身振りとして包摂するが、多くの場合周縁化し、排除する枠組みをそのまま温存してしまうからだ。つまり、(植民地主義や帝国主義のロジックを内包した白人ヘテロ)男性中心主義的な正当な物語への包摂やその物語に結託した視点から〈女性アーティスト〉をカテゴライズし見直すのではなく、彼女たちや言説がどうジェンダー化(そして人種化)されているのかを見ていきながら、固定化された一つの物語とは違う語りの場を作り出していくことが必要なのだ。

ジェンダーにまつわる問題を流行として消費しないために

長島有里枝の、自身を含む1990年代の女性写真家たちのムーブメントをラディカルに読み直した『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』は、過去に与えられた〈女性アーティスト〉の評価を自身の言葉で払拭した本である。日本写真界の異性愛主義男性のホモソーシャルな言説は当時の若い女性アーティストたちを発見し、彼ら自身が体現していた〈正当性〉を盾に、その正当性を裏切る(が、その正当性を脅かすことのない)「女の子」というカテゴリーを与えることによって男性たちの権威的な写真界へと誘った。それに抗い長島は、「自分たちの表現を不本意なかたちで批評されながらも、年齢も社会的権力もはるかに上の男性(と何人かの女性)たちに反論することができなかったあの苦々しい気持ちに整理をつけ、失った自尊心を当然あるべき状態にまで回復」(*5)することを目論み、自ら語り直すことでその活動の見直しを行う。社会学の修士論文を元に書かれた本書で長島は、その回復に向けて自身に向けられてきた言葉とそれが隠蔽するものと向き合い、フェミニズムの理論を、言葉を、実践を駆使しながら、「僕ら」の物語ではなく、差異を持った複数に展開される「わたしたち」の物語へと接続する。その見直しは、長島自身の治癒であると同時に、これから生まれる表現がヘテロノーマティヴな(異性愛的な男女の関係によって社会を規定することを正常とする)言葉使いやカテゴリーによって消費されるのではなく、多方面に開かれた語りの場所へと向かっていくように案内をしてくれている。私は長島のように、資本主義のレトリックや権威的なものに包摂される芸術実践や言説のあり方ではなく、彼らの実践が培ったものに見合う実際の場を批判的に作り出していくこと、語り直していくことの見直しの可能性を強調したい。なぜなら、芸術においても一般社会においても、個別の実践を超えて、ジェンダーを取り扱う問題定義が権威的な物語を語るための単なる流行や話題として消費され、疲労させられ、その反動として、解決し終わった過去のものとして再び語られてしまうことを私はとても恐れているからだ。

そのため、トランスナショナルな(国家の枠組みを超えた)実践としての〈(複数の、差異を持った)女性アーティストたち〉の見直しが、権威的な物語への包摂ではなく、現代的な実践と結びつけられて考えられていることを確認したい。中国の広州時代美術館のベルリン分館である時代アートセンターで2019年に開催された展覧会「Neither Black / Red / Yellow Nor Woman」(*6)は、韓国出身のアメリカで活動したテレサ・ハッキョン・チャ(1951-82)と中国出身のパリで活動したパン・ユリャン(1895-1977)といった歴史と文化の狭間で周縁化されたアーティストと、有色人フェミニズムの理論家であり芸術実践者として大きな影響を与え続けるトリン・T・ミンハ(1952-)の架空の出会いを出発点にする。彼らの作品と人生に共鳴する若い世代のトランスナショナルなアーティストたちを加え、歴史的な資料とフィクショナルな物語を取り入れ、カテゴリー化されたジェンダーや文化を超えた流動的な状態で生きること、そしてそこに生まれる複数の主体性や相互関係を探求することを目指した取り組みである。3人のアーティストたちを現代において見直す展覧会である以上に、地域的分断や人種や言語間に横たわる亀裂を超え、複数の時代と空間が混ざりあった架空の会話にうまれる先人の営みを読み直しながら、現在の実践へと結びつけて思考し続けることを訴える。

同年、ヴェネチア・ビエンナーレ韓国館は、ナム・ファヨン、サイレン・ウニョン・チョン、ジェーン・ジン・カイセンの3人の映像作品を曲線を多用した有機的空間に配置したうえで、「西洋への懐疑と同程度に異性愛男性という規範に疑問を呈」し、アジアにおける近代化の過程で「覆い隠され、忘れ去られ、追放され、非難され、そして沈黙させられた者たちの空間」(*7)をクィアなアッサンブラージュとして全面的に押し出す。それはキュレーターとアーティストによる共同的でありながら、異なる多重的な感覚と複数の歴史を通して、女性を含む社会の周縁に追いやられた者たちをも一同に見直す。それは多様性と言ったポジティブな言葉で形容される包摂の物語ではなく、ノイズや遮断など不快感を伴う過程を介して行われる。

これからの実践の方法

こうしたアーティストが自分自身で、あるいはキュレーターや書き手と共謀して言説を作り直していくことは、これまで(白人)男性たちが〈中立〉で〈客観的〉かつ〈学術的〉なものとしてやってきたことである。そのような言説に対して、90年代以降の(有色人たちによる)複数のクィアやフェミニズム批判を土台とした〈(複数の、差異を持った)女性アーティストたち〉は、自分たちが直面する現実的な課題と結びつけながら、過去の沈黙や不在を見直す方法を一つの客観的な視点からではなく、複数の視点から生み出してきた。これらの実践を現代に受け継ぎながら、〈正当〉なものへ取り込まれること、あるいは〈正当〉として語られるものに批判的な眼差しを持ち、かつ西洋中心主義的なヘテローノマティヴな規範と距離をおきながら、あるいはそれを攪乱しながら、多方面に広がる語りを可能にする場所を作り続けることこそが、いま求められる見直しなのではないだろうか。

とはいえ、美術の分野において多くの場合、非(白人)男性は現実問題として経済的かつ社会的な課題にまだまだ向き合わなければならない。昨年シンポジウムで一緒だったネヴリン・ナジ(Nevline Nnaji)(*8)の初監督ドキュメンタリー映画《Reflections Unheard: Black Women in Civil Rights》(2013年)は、黒人女性公民権活動家のパーソナルな語りを通して、男性優位であった1960年代のブラックパワー運動や、白人中産階級フェミニズム運動のなかで疎外されてきた黒人女性の知られていない物語を明るみにだす。つまり、両運動の中でかき消されてしまった黒人女性を見直す映画である。映画を制作するためにアーカイブにアクセスしようとしたナジが直面したのは、重要なアーカイブはアメリカの(白人的)権威機関が所有しており、裕福な生まれではない若い黒人のナジにとってそれを使用することは金銭的に不可能であったことだ。しかし、ナジはプロジェクトを知ってアプローチをしてきた白人プロデューサーの打診をすべて断っている。それは黒人女性たちの姿を見直すに当たって、彼女たちの沈黙を作り出してきた権力の元で、ナジがその手を取ることで彼らの贖罪のための機会を与えて権力の拡大は行われてはいけないと信じていたからであり、同時に世代を超えた黒人女性自らの手でその沈黙を取り戻す必要があったからだとナジは語る。ナジは知り合いの伝手を使ってプライベートな資料を貰い受け、また、大学機関に交渉して、自身のレクチャー講師代の代わりに大学が所有するアーカイブへのアクセスを得るなど、水平線に広がっていく手段で映画を作り出した。

ここ近年、日本でも芸術におけるジェンダー問題が急速に語られるようになったが、その議論にとどまらず、ナジの制作態度のように水平線に広がっていくことが期待される実践がいくつも展開されているのではないだろうか。例えば、2019年に始まったアーティストの長倉友紀子、渡辺泰子、梶原あずみによる「Timeline Project」は、「既存の歴史に個人の視点を追加する」というコンセプトのもと、日・英・米の通史を軸に「美術史を中心に〈女性アーティスト〉と呼ばれる人々の活動を可視化する」草の根的な取り組みである(*9)。美術史家とは異なる立場から、通史から溢れ落ちたものを確認し、芸術の言説なかの〈知っていることと、知らないこと〉を強調しながらその通史を攪乱していく可能性を持っている。また、その一環で世代を超えたコレクティブを集めたイベント「Power of Siblinghood」で語られた〈(複数の、差異を持った)女性アーティスト〉の取り組みは、その萌芽を見せていたように感じた(*10)。それは、〈女性アーティスト〉という括弧に入れられたカテゴリーから発せられる問いは、単なる〈女性アーティスト〉の見直しではなく、教育の現場に身を置く学生の言葉であり、過去のトラウマや痛みから回復をし続けようとする実践であり、目を向けられてこなかった領域をなかったものにしないようにする絶え間ない試みであり、個人で異なる活動をしながらもコレクティブな視座を持つ可能性であるーー連帯という言葉に回収することができない不和や、異論、違和感や把握できなさを抱えながらどう実践へとつなげていくことができるのかを再考させるものであった。

「女性」という言葉が孕む困難さ

最後に、私自身の葛藤もここに記しておきたい。私は昨年より1910年に設立されたオーストリア女性芸術家協会(Vereinigung bildender Künstler*innen Österreichs)のボードメンバーを務めている。当時ウィーン分離派に加入が許されず、教育機関へのアクセスもなかった女性アーティストのためにロビー活動をした重要な協会である。このような女性解放運動の側面を持ちながら、戦中はナチスに加担した負の歴史を抱えつつ、90年代以降はその窓口を社会が規定する女性に制限されない芸術家協会として、女性のスペルに複数のジェンダーインクルージョンを示す「*」の記号を取り入れ、女性だけでなく様々なジェンダーアイデンティティを持つメンバーによって草の根で細々と続いてきている。とくに、複数のフェミニズムを受容するなかで、排除を内包した構造を内部的に批判し、現代における女性、芸術、フェミニズムが一体どんな意味を持つのかを常に問い続ける組織へと規定を変更し、現在は私を含めて(複数の、差異を持った)有色人のボードメンバーによって運営されている。〈女性アーティスト〉の名を持つ協会のアーカイブ調査をしたりプログラムやメンバーの審査をしたりする度に、〈女性〉という言葉が孕む困難さを引き受けながら、一方で理念であるお互いに助け合う心持ちを守り、その影として白人中心主義や排除の歴史とその弊害に抗い続けることの難しさを感じているーー不必要な権威への包摂ではなく、どうやって〈女性〉という困難が付きまとうカテゴリーを考えることができるのか、そして現代的なインターセクショナルなフェミニズムの場を開き、批判的にその活動の場を創出することができるのか、と。


*1:ジェンダーの問題を「性差の問題」として捉えるのではなく、階級や人種、性的指向、年齢、宗教、信仰、障害など複数の要因によって抑圧や支配、差別が複雑に関係しあっていると考える視点。
*2:美術史家の中嶋泉は『アンチアクションーー日本戦後絵画と女性画家』(ブリュッケ、2019年)において草間弥生、田中敦子、福島秀子を語る際に、芸術におけるフェミニズム的政治運動との分断とそれゆえにジェンダー化され周縁化された女性美術家の問題と、戦後日本の美術批評や美術史が女性の活動を書き込む余地のない男性的な視点からジェンダー化された物語であることを指摘している。私は美術史家とは違う視点から〈女性アーティスト〉の見直しについて考察をするが、中嶋のように特定の言説がどのような知識によって支配されているのかという言説の枠組みそのものの批判的な再考と同時に行われる必要があると考える。
*3:世界の、そして日本のアート界の根強いホモソーシャル性とそれを前提としたハラスメントが蔓延し、それを隠蔽している事実が浮かび上がってくるたびに、何度もこの点については確認し、支援の輪を広げていかなければならない。日本では、2020年に黒瀬陽平氏と合同会社カオスラによるハラスメント被害を受けた安西彩乃さん支援を目的とした団体「Be with Ayano Anzai」が立ち上がり、2021年1月に「表現の現場調査団」が発足している。
*4:芸術という運動がそもそも既存の芸術という枠組みを逸脱するものとして考えられる場合もあるが、それが歴史化され通史として編集されるに当たって、多くの女性の、有色人のアーティストがそこから振るい落とされてきた言説があることにも注意したい。
*5:長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020年)pp. XI-XII
*6:トリン・T・ミンハの『女性・ネイティヴ・他者―ポストコロニアリズムとフェミニズム』(竹村和子訳、岩波書店、1995)から引用されたタイトルがつけられている。
*7:「History Has Failed Us, but No Matter」(Mousse Publishing、2019年、6-23頁)翻訳は筆者と根来美和による「抄訳: キム・ヒョンジン『History Has Failed Us, but No Matter(2019)』マルスピオンライン、2020年
*8:現在はポールダンサーとしてN3VLYNNN’名で活動する。
*9:「Timeline Project」ホームページより。ロゴに、アナグラムとして「Rejection Limpet / カサ貝の拒否」、つまり、権力的なものにしがみつくことの拒否を示唆していることも興味深い。
*10:2019年12月7日、TOKAS本郷にて開催。登壇者は竹田恵子とegó eímai collective、Back and Forth Collective、 MELLOW運営チーム、Multiple Spirits、Sabbatical Company。筆者はマルスピの共同編集者としてオンラインで参加。前日には美術史家の吉良良子のレクチャーが開催された。

丸山美佳
長野県生まれ。ウィーン・東京を拠点に、批評家、キュレーターとして活動。現代美術やパフォーマンスと交差するメディア研究と複数のフェミニズム、クィア理論との横断に焦点をあてながら調査と実践を行う。展覧会に「When It Waxes and Wanes」(ウィーン、2020)、「Protocols of Together」(ウィーン、2019)、「Behind the Terrain」(ジョグジャカルタ、2016/ハノイ、2017/東京、2018)、「Body Electric」(東京、2017)など。テキストの寄稿先に「artscape」「Camera Austria International」、「美術手帖」、「Flash Art」、「群像」など。2018年4月、美術家の遠藤麻衣とともにクィアフェミニスト系アート冊子「Multiple Spirits(マルスピ)」を創刊。横浜国立大学大学院建築都市文化専攻修士課程修了。現在、ウィーン美術アカデミー博士課程在籍。

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