公開日:2021年10月21日

1990年代以降の日本の美術表現とフェミニズムの接点。金沢21世紀美術館「フェミニズムズ / FEMINISMS」展レポート

9組の作家が問いかける、ジェンダー、身体、性と生。

会場風景より、手前がユゥキユキ《「あなたのために、」》(2020)、左奥が西山美なコ《もしもしピンク 〜でんわのむこう側》(1995/2021)、右奥が西山美なコ《♡ときめきエリカのテレポンクラブ♡》(1992/2021)

金沢21世紀美術館で、フェミニズムをテーマにした2つの展覧会が10月16日から2022年3月13日に同時開催される。ひとつは同館学芸員の高橋律子がキュレーションする「フェミニズムズ / FEMINISMS」展。もうひとつはアーティストの長島有里枝がゲストキュレーターを務める「ぎこちない会話への対応策ー第三波フェミニズムの視点で」展だ(本展のレポート記事はこちら)。

会場風景より、手前がユゥキユキ《「あなたのために、」》(2020)、左奥が西山美なコ《もしもしピンク 〜でんわのむこう側》(1995/2021)、右奥が西山美なコ《♡ときめきエリカのテレポンクラブ♡》(1992/2021)

複数形のフェミニズム

「フェミニズムズ / FEMINISMS」展はタイトルが示す通り、複数形のフェミニズムをテーマにしている。フェミニズムというと様々な歴史や理論、アクティビズム、表象等を含む非常に大きなテーマだが、ここではその総体を概観するというよりも、あくまでも個別の視点、つまりアーティストたちの作品を通して、フェミニズムに関わる多様なありようが提示される。実際、全9組の参加作家にはフェミニストを名乗っていない作家が多いし、フェミニズムを意識せず制作された作品も多い。では、それぞれの作品は、どのような理由でここに集まり、どのようにフェミニズムと結びつくのだろうか。

会場風景より

ピンクをわたしの手に取り戻す

展示室11・12・14と共用部分で展開される本展。まず円形の展示室14に入ると、ピンク色が充満する空間が広がる。「1990年代以降のガーリー・カルチャーとフェミニズムの接点を探る」という、キュレーター高橋が本展を構想するうえで出発点とした問題意識を象徴する展示室だ。

中心に鎮座する巨大な女児の人形は、ユゥキユキ《「あなたのために、」》(2020)。コスプレ、アイドル、BLなどのカルチャーに関わりながら活動する作家が、自分と母親との関係性を再構築するために制作したという。

会場風景より、ユゥキユキ《「あなたのために、」》(2020)の部分
会場風景より、右がユゥキユキ《「あなたのために、」》(2020)、左が西山美なコ《もしもしピンク 〜でんわのむこう側》(1995/2021)

この人形は、作家と姉が大きくなったのちに、母が“三女”として可愛がった人形の「サン子ちゃん」をもとに、作家と母とで共同制作した。「母」に対して甘えや恐れといった複雑な感情を抱く作家が、「インナーマザー」と呼ぶ自身の内にある巨大化した母性を表出させた存在だ。

その胎内には、BLのコスプレをした作家と友人が、身に付けた毛糸をほどき合う映像が設置されている。異性愛中心主義や、「母」「娘」といった社会的役割を超えた愛を反映するこの映像を設置することで、作家は囚われ続けてきた過剰な母性を内側から解体することを試みる。その先に、新たな愛や関係性がつむがれることを予感させる作品だ。

ユゥキユキは、本作がまとうピンクを幼少期の憧れの色ととらえる。「お姉ちゃんはピンクで、私には黄色があてがわれていた。でも本当は私もピンクが良かった」。そんな思いから母と共作した本作は、ピンクを自分の手に取り戻す作業でもあったようだ。

堀越英美『女の子は本当にピンクが好きなのか』(河出書房新社)に詳しく論じられているように、ピンクは時代ごとに様々なイメージを投影されながら、「女の子らしさ」というジェンダー観を過剰に担わされてきた色でもある。

会場風景より、西山美なコ《♡ときめきエリカのテレポンクラブ♡》(1992/2021)

そんなピンクに魅了され、1990年代から作品で追及してきたのが西山美なコだ。アーチを描く壁沿いに展示された2作品は、90年代の制作当時、活況を呈したテレホンクラブのシステムを利用したパフォーマンス要素の強い作品。ポスターやティッシュ、ピンク雑誌などに電話番号を記載し、テレクラ利用者がそこに電話をかけてくると、ギャラリーに設置された電話とつながるという企画だ。

会場風景より、西山美なコ《もしもしピンク 〜でんわのむこう側》(1995/2021)の部分

西山はピンク色の雑誌付録やおもちゃなどを収集するなかで、京都の繁華街の電話ボックスに貼られた無数のピンクチラシを発見。CMYKに加え特色ピンクで印刷されたそれらを「かわいい」と感じて集め始めたという。それらのピンクチラシは、幼稚園生が使うような桜形の名前バッジに入れられ、作品の一部となっている。

少女マンガ的で子供らしい可愛らしさと、性産業の猥雑さ。ピンクが想起させる両義的なステレオタイプをユーモラスかつ誇張的に扱うことで、本作は「女の子」像や性のあり方が社会においてどのように扱われているかを問い直す。

イケメン描いて16年

木村了子は現代男性像を「美人画」として描いてきた日本画家。「イケメン描いて16年です」との自己紹介で取材陣の笑いを誘う木村が、現在の作風を確立するきっかけとなったのが、女体盛りならぬ “男体盛り”を描いた《Beauty of My Dish – 人魚達の宴図》(2005)だ。

会場風景より、木村了子《Beauty of My Dish - 人魚達の宴図》(2005)

日本画は描き手も鑑賞者も主に男性が担ってきた歴史があり、現在に至るまで女性を描いた「美人画」はマーケットで大きな存在感を占める。木村も制作を始めた当時は女性を描いていたが、見た人から「これはあなた自身を描いたの?」「上村松園は自分の女性器を描いたのだから、あなたももっと自分をさらけ出さなくては」などと何度も問われる経験をした。そして本作で男性像に挑んだとき、自分とモデルをシンクロさせたり、自身の身体をさらけ出せと求められないことに、大きな解放感を感じたという。

会場風景より会場風景より、木村了子の展示風景

10月16日に登壇した同展のアーティスト・クロストークで、木村は描かれた人物像の性的消費の問題に触れ、自身の男性像について「男性が女性に対して行ってきた性的消費を反転しただけではないか」という指摘を受けたことがあると語った。そして、その危険性は自覚しており、何より男性を描かなければ、描き手としての自分の残酷性に気づかなかっただろう、と続ける。

洋の東西を問わず、美術史に根を張る「見る/見られる」という視線の政治性。木村の作品はそういった問題に目を向け、「男が描き、女が描かれる」という固定的な性役割を覆しながら、愛でることと消費は果たして同じなのかと問いかける。同時に、エロティックであることは生きる喜びであるという見地から描かれた作品は、とても楽しげで伸びやかだ。両壁に大きな二対がかけられた展示室で、「イケメンの圧を感じてほしい」と木村は言う。

家族、セックス、愛:生をめぐる制度と規範を問い直す

会場風景より

広い長方形型の展示室11には3作家の作品が展示される。

碓井ゆい《shadow of a coin》(2013-18)は資本主義社会における「女性と労働」にまつわる影の部分にフォーカスする作品だ。小銭を象った薄い布に、主に女性が担うものとされてきた家事などの賃金が支払われない仕事=「シャドウ・ワーク」の様子が刺繍されている。タイトルは、裏側の模様も同時に見せる刺繍の手法「シャドウ・ワーク」とのダブルネーミングとなっており、歴史的に男性のみが真の芸術家になりえると考えられてきた「美術」と、女性的な行為だと見なされがちな「手芸」との境界へと、見る者の想像を促す。

固定化された性役割を撹乱し、歴史や社会で不可視化・周縁化されてきた存在に光を当てるというフェミニズムの厚い蓄積が、透けるほど薄く柔らかな素材に定着された作品だ。

会場風景より、碓井ゆい《shadow of a coin》(2013-18)

風間サチコは、近現代の政治・社会の諸相の根源に何があるのか、歴史の暗部を独自かつ綿密なリサーチによって掘り起こし、大規模で緊張感のある黒一色の木版画を制作する。

出品作の「肺の森」シリーズは、作家がコロナ禍にトーマス・マンの小説『魔の山』を読んだことから生まれた一連の作品の一部である。環境汚染や戦争、病理、そして友愛といった多層的なテーマは、第一次世界大戦前を舞台にした小説と現代社会を結びつける。

会場風景より、風間サチコの展示風景。右1点が《虎の衣》(1998)、左が「肺の森」シリーズ(2021)

風間は本展から声がかかるまでフェミニズムに深い関心を寄せてこなかった(*1)というが、個人の自由な生と想像力を希求し、近代社会の制度を問う姿勢は、フェミニズムの実践と共鳴する部分があると言えるだろう。Tokyo Contemporary Art Award2019-2021を受賞した際、選考委員長マリア・リンドは作家について、「家父長制社会に生きる女性としての日常における心地の悪さと結びつけながら、綿密な歴史リサーチに基づき、日本の歴史における困難な時期の数々を扱っている」とコメントを寄せている(*2)。

会場風景より、中央が青木千絵《BODY 20-1》(2020)
会場風景より、青木千絵《BODY 21-2》(2021)

人間の身体や潜在意識と対峙し、漆による立体作品を制作する青木千絵。金沢美術工芸大学で学び、漆の表現に魅了された作家は、漆黒の塊である「BODY」シリーズを出品する。乾漆技法によるしっとりと艶やかな表面、人体と何かが融合したかのようにうねり、溶け出し、膨張する形態。それらは展示室の中心や壁面に設置され、静かながら強烈な存在感を放っている。

円柱状の下に腰から足がまっすぐ伸びる《BODY 20-1》では作家自身の足がモデルに使われたが、性器などの性の記号化につながる特性は慎重に排されている。いっぽうで《BODY 21-2》(2021)は、その丸まったかたちからか、「女性的」だと評されることが多いという。身体(像)を目の前にしたとき、その性別について意識を働かせずにいるのは、あらゆることがジェンダー化された社会に生きる人々にとって、なかなか難しい。青木の作品はそういった視線をはねのけはしないものの、男女二元論を緩やかに無化しながら、人間存在の表現を探究しているようだ。

会場風景より

各展示室をつなぐ通路上部に、森栄喜の「Family Regained」シリーズが吊り下げられている。透過性のある素材にプリントされた写真を光が通り抜けると、特に夕方以降は壁面や足元がほのかに赤く染まり、美しい光景を生み出す。建物の外と中をガラスや光などによってシームレスにつなぐ本館の建築的特徴を生かした展示方法は、天候や時間帯によって異なる詩情を喚起するだけでなく、個人的で内省的なここと、社会的で対外的なことの両方が深く交差する「家族」をテーマにした本作に、とても合っている。

「Family Regained」は、様々な家族の生活空間に森が入っていき、その家族の衣服を着用して、セルフタイマーで「家族写真」のように一緒に写真を撮るシリーズ。平穏な家族写真に見えるもの、父親がふたりいるようでちょっとした違和感を引き出すもの、親密さや逆に緊張感を感じるもの……これらの写真からどんな印象を受けるかは、鑑賞者それぞれの経験や家族観に左右されるかもしれない。

会場風景より、森栄喜《Untitled》「Family Regained」シリーズより(2017)

国の家計調査などで用いられる「標準家庭」とは、父母に子供2人の家庭を指す。実際には平均世帯人数は2.27人、東京ではそれ以下となっている(*3)現在においても、こういった「標準家庭」はいまだ「家族」のイメージとして根強く、法律や諸制度も「標準家庭」を基準に制定されている場合が多い。ダイバーシティや多様性が掲げられても、同性婚や選択的夫婦別姓は未だ法的に認められていないのが現状だ。

それでは、頑強な「標準」からこぼれ落ちる、またはそれを選択的に選び取らない生にとって、家族とはいったいなんなのだろうか? そもそも家族をめぐる制度は必要なのか? 家族は血縁の呪縛から逃れられるのか? いまは「違和感」を感じられるような家族のあり方も、未来では見慣れたものになるのだろうか? 赤という強烈な色で写真を覆うことで、作家は家族のイメージが孕む「違和感」の根本へと注意を促し、その違和感が変質したり消え去るような未来を想像させる。

会場風景より、遠藤麻衣《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》(2017/2021)

遠藤麻衣による映像作品《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》(2017/2021)も、婚姻制度や家族のあり方、性や親密な関係性について考える作品だ。本作では遠藤ともうひとりの出演者である森栄喜のふたりが対話を重ねる様子が映し出され、その過程で「婚姻契約書」をつくり、締結する。それは国家が制定する唯一で強固な婚姻制度の外で、より自分たちにフィットした関係性のあり方を、流動性やとまどいを大事にしながら模索する試みだ。

本作とともに、遠藤麻衣×百瀬文による映像作品《Love Condition》(2020)で重要視されているのが、「おしゃべり」である。法律や契約や批評など、この社会のルールや価値を定める際に、断定的で結論を導く「論理的」と見なされる言葉が用いられる。

しかしそういった言葉によって社会に定着された権力構造や規範があらゆるところで暴力性を帯び、綻びを見せるいま、作家たちは「おしゃべり」という流動的な言葉のあり方にオルタナティブな知性を見出そうとする。

会場風景より、遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》(2020)

《Love Condition》は、遠藤と百瀬の両手と粘土がクローズアップされた映像に、ふたりのおしゃべりが重なる。話しているのは「理想の性器」について。鮮やかな黄色を背景に、性やセックスなどについておしゃべりしながら粘土をこねこねする2人は楽しそうで、そこに手を伸ばし加わりたくなる鑑賞者もいるだろう。かたちが生まれてはまた変形し、互いに干渉したり支え合ったりしながら、着地点不明なまま映像は進む。

10月16日のアーティスト・クロストークで、ふたりがこの一連のプロセスに「ケア」の要素を見出したと語っていたことも興味深い。話す内容は台本なしのアドリブだが、事前に「相手の言うことを否定しない」という、互いの安心を確保するためのルールは決めたそうだ。

相手の存在を最大限に尊重しながら、一方的ではなく相互にマッサージし合うように、反応してはまた次の反応を返す。自分の思い通りにならないシチュエーションをあえてつくりだし、インタープレイな波上をサーフィンする。遊戯的で政治的なこの作品を見ていると、粘土とともに規範や固定観念ももみほぐれされていくようだ。

複数形のフェミニズムをテーマにした本展は、このように各作家の関心やフェミニズムへの考え、表現手法が異なる作品が並ぶ。もし共通するものがあるとすれば、生きることと直結した個々人の切実さから出発し、人間の生と社会のあり方を、自分自身の方法で考えようとする態度だと言えるかもしれない。そんな作品に触れた鑑賞者が何か反応し、それがまた他者の反応を呼ぶ波となるとき、本展は生きられた経験となるだろう。

*1──『美術手帖』2021年8月号(美術出版社)所収、「Cross Talk「フェミニズムズ / FEMINISMS」展 長島有里枝×藤岡亜弥×風間サチコ×高橋律子」を参照。
*2──https://www.tokyocontemporaryartaward.jp/winners/2019-2021/winner01.html
*3──日本経済新聞「世帯平均人数2.27人、東京は「2割れ」独居・高齢化で」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA24EMY0U1A620C2000000/

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集。音楽誌や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より現職。