公開日:2022年4月12日

モディリアーニの世界初公開作品も登場。大阪中之島美術館「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」レポート

大阪中之島美術館の開館記念特別展。国内外で所蔵されるモディリアーニ作品を中心に、同時代のパリを拠点に繰り広げられた新しい動向や多様な芸術の土壌を示す。

会場風景より、左からアメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917)大阪中之島美術館蔵、《座る裸婦》(1917)アントワープ王立美術館蔵

20世紀初期のパリで活動した外国出身の芸術家たち、いわゆる「エコール・ド・パリ」の代表的画家で首が長い女性像で知られるアメデオ・モディリアーニ(1884〜1920)。憂愁を帯びた独自の表現と短く純粋な生涯は、没後100年経ったいまもファンを獲得し続けている。その国内では14年ぶりの大規模回顧展「モディリアーニ ―愛と創作に捧げた35年―」大阪中之島美術館で7月18日まで開催されている。

大阪中之島美術館 外観

40年近い準備期間を経て今年2月、大阪市の中之島エリアに開館した大阪中之島美術館。モディリアーニ作品との縁は、同館の開設に備え大阪市が油彩画《髪をほどいた横たわる裸婦》を購入した1989年に遡る。以来、日本で唯一所蔵されるモディリアーニの裸婦像として幾度も国内外に貸し出されてきた。菅谷富夫館長は「当館コレクションの“顔”と言うべき作品のひとつ。開館記念コレクション展に続く最初の企画展は、ほとんど迷うことなく本作にちなむモディリアーニ展に決めた」と話す。

開催に当たり、作品の真贋判定を含め最新の研究を反映するため、アメリカの世界的研究者ケネス・ウェイン博士の協力を仰いだ。本展は、国内外から集めたモディリアーニ作品約40点を紹介するが、近年の科学調査で真作と判断された世界初公開・日本初公開作品も含まれている。また、国内におけるモディリアーニ受容の軌跡を展観に盛り込み、日本開催ならではの独自性も持たせたという。

会場入口

3章構成の本展は、当時の社会状況をポスター作品で伝える「プロローグ:20世紀前期のパリ」から始まる。イタリア・トスカーナ州リヴォルノに生まれたモディリアーニは祖国で美術の基礎を学び、1906年に21歳で国際的な芸術都市パリに渡った。各国の芸術家が集うモンマルトル、モンパルナス両地区を行き来して画塾で人体写生を学び、翌年サロン・ドートンヌに絵画を初出品してデビュー。一時期は彫刻制作に打ち込み、彫刻の巨匠ブランクーシに手ほどきを受けたが、彫刻制作には資金と体力が要ること、絵画ほどコレクターの需要がないことなどから断念し、絵画に復帰した。

第1章会場風景。彫刻のために描いた習作

第1章「芸術家への道」は、そんな紆余曲折の時代に描いた初期の肖像画や彫刻のための絵画、同館所蔵のブランクーシ《眠れるミューズ》(1910-11頃)など彫刻作品が並ぶ。冒頭に掲げられた絵画《青いブラウスの婦人像》(1910頃)は、「青の時代」のピカソ作品を連想させ、まだ個性は薄いが、長く強調された首が美意識の在りかを物語る。水彩画《若い男の顔》(1908頃、展示は5月29日まで)、パトロンだった男性医師を描いた2点(ともに1909)は、いずれも人物の特徴を掬い取り、肖像画家としてのたぐいまれな資質を感じさせる。

会場風景より、アメデオ・モディリアーニ《青いブラウスの婦人像》(1910頃)ひろしま美術館蔵

本章では、彫刻への強い関心を示す絵画群にも注目したい。モディリアーニの彫刻は世界に二十数点しか残っておらず、もろい石製のため移動が困難で本展で展示はできなかった。だが、古代の神殿建築に用いられたカリアティード(梁を支える女性を模した彫像)を念頭に描いた絵画は、豊かな量感表現や単純化したかたちが見事。彼が希求した立体美がうかがえる。また、彼のみならずピカソら他の芸術家も魅了し、強い影響を与えたアフリカの仮面や彫像も会場に展示している。

第2章会場風景より。ルソー、ルノワール、ドランらの作品
会場風景より、ウンベルト・ボッチョーニ《街路の力》(1911)大阪中之島美術館蔵

第2章「1910年代パリの美術」は当時の多彩な美術動向にフォーカスし、他の作家25人の絵画や素描、彫刻を展示。モディリアーニとの交友関係も紹介する。キュビスムを誕生させたピカソ、印象派の老大家ルノワール、シュルレアリスムの先駆者デ・キリコ、未来派を主導したボッチョーニ、同じエコール・ド・パリに分類されるヴァン・ドンゲン、藤田嗣治、スーティン……。百花繚乱とも呼びたくなる、それぞれの作品の個性に目を見張る。イタリアの学校で同窓だったボッチョーニとはパリで再会したが、未来派からの参加要請は拒絶したという。最先端の表現を吸収しながら古典美への愛着も手放さず、独自性を追求したモディリアーニらしいエピソードと言えそうだ。

会場風景より、左からキスリング《ルネ・キスリング夫人の肖像》(1920)名古屋市美術館蔵、アメデオ・モディリアーニ《ルネ》(1917)ポーラ美術館蔵。どちらも同じ人物を描いたもの

モディリアーニの絵画も所々に挿入され、見比べることが出来るのは興味深い。例えば友人キスリングが手がけた妻の肖像画と同じ女性を描いた作品が並ぶ一角。成熟した女性を華やかな色彩で写実的に描出したキスリング、目を塗りつぶし神秘的な魅力を引き出したモディリアーニと、作風の違いが明確にわかる。また、スーティンの感情を叩きつけるような表現主義的な絵画に対し、抑制した筆致は静謐さが強く感じられる。

続く特集展示は、モディリアーニと日本の関係に焦点を当てた。作風の影響が感じられる藤田嗣治の《二人の女》(1918)、モディリアーニの作品を写した中原實の油彩画などが並ぶ。自由なボヘミアンへの憧れを育んだ翻訳小説『もんぱるの』(1932)をはじめ、関連書籍や雑誌も紹介する。

会場風景より、左からアメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917)大阪中之島美術館蔵、《座る裸婦》(1917)アントワープ王立美術館蔵

「モディリアーニ芸術の真骨頂」と銘打った第3章は、35歳で亡くなるまでの5年間に制作した肖像画とヌード作品20数点が揃う。モディリアーニ絵画のみで構成された展示光景は圧巻だ。最大の見どころは《髪をほどいた横たわる裸婦》(同館蔵)と《座る裸婦》(アントワープ王立美術館蔵)を隣り合わせに展示したコーナー。モデルは同一人物でともに1917年に制作された。本展を担当した小川知子研究副主幹は「モデルは同じでも制作意図はまったく違う。《座る裸婦》は、複雑なポーズをさせて身体のボリューム感を表現し、流し目も魅力的。《髪をほどいた横たわる裸婦》は、伝統的な横たわる裸婦のモチーフを、大胆な頭部や脚の切り取りやこちらを見つめる視線で更新している」と解説する。

第3章会場風景より。手前がアメデオ・モディリアーニ《若い女性の肖像》(1917頃)テート蔵

日本初公開の作品も見どころだ。初々しさを巧みにとらえた《少年の肖像》(1918-19頃)、活気に満ちた人柄が伝わる《ドリヴァル夫人の肖像》(1916頃)。《ズボロフスカ夫人》(1918)は顔が極端に細く、隣に並ぶ同じ女性を2年前に描いた作品と見比べると興趣が募る。《横たわる裸婦(ロロット)》(1917-18)のリアルな存在感も印象的。1917年にモディリアーニが生前唯一開いた個展は窓に大勢が群がり、警察が介入して中断を余儀なくされたが、「恐らくこうした裸婦像が展示されていたのではないか」(小川)。

会場風景より、アメデオ・モディリアーニ《ズボロフスカ夫人》(1918)テート蔵

最後の3年をともに過ごしたジャンヌ・エビュテルヌの肖像画2点(1点は5月29日まで展示)も目を引く。死去の2日後、身重の体で身投げして彼の後を追い、“モディリアーニ伝説”を決定的にした女性だ。2点とも細長い首や塗りつぶした目、単純化した背景など顕著な特徴を持ち、首を傾けた姿はえもいわれない優美さが漂う。もっともパネル掲示された写真を見る限り、ジャンヌ本人の面影はあまり感じられない。気心が知れた相手を前に、心ゆくまで理想の美を追求したのだろうか。そしてラストを飾るのは、世界初公開となる《少女の肖像》(1915頃)。大女優グレタ・ガルボが長年愛蔵した珠玉の小品だ。

グレタ・ガルボが秘蔵した、アメデオ・モディリアーニ《少女の肖像》(1915頃)グレタ・ガルボ・ファミリー・コレクション

貧困に苦しみながら独自の表現様式に到達したモディリアーニの実像に迫る本展。小川は「挫折を繰り返すなか、自分が守るべき唯一の『夢』としてひたすらに創作を続けた。妥協がない彼の生き方に、見失いがちな夢の大切さを思い起こしてもらえたら」と話す。本展は巡回展がない大阪のみの開催。気になる人はぜひ足を運んでほしい。

会場風景より、アメデオ・モディリアーニ《ピエロに扮した自画像》(1915)デンマーク国立美術館蔵

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。