公開日:2022年11月21日

「画鬼」の娘が歩んだ道。「河鍋暁翠展」(一宮市三岸節子記念美術館)フォトレポート

「画鬼」とも評された絵師・河鍋暁斎を父に持った女性画家の初の展覧会が12月4日まで開催中。

会場風景より、河鍋暁翠《百猩々》(部分)

明治から昭和初期まで絵筆を取る

幕末~明治期に活躍した絵師の河鍋暁斎(1831~1889)を父に持ち、昭和初期まで活躍した女性日本画家の河鍋暁翠(1868~1935)。その画業の全貌を紹介する初めての展覧会「河鍋暁翠展-父・暁斎から娘へ、受け継がれた伝統-」が、愛知県の一宮市三岸節子記念美術館で開催されている。会期は12月4日まで(会期中の展示替えあり)。

暁翠(本名・豊)は明治元年に東京本郷に生まれ、幼少期から父の暁斎に絵の手ほどきを受けた。狩野派の絵師ながら浮世絵や風刺画など多彩な作品を手掛けた暁斎のもとで修業を積み、当時数少なかったプロの女性画家として活動した。長く父の名の陰に隠れた存在だったが、暁翠をモデルにした澤田瞳子の歴史小説『星落ちて、なお』(2021、文藝春秋)が直木賞を受賞し、注目が高まっている。

会場風景より

会場の一宮市三岸節子記念美術館は、女性洋画家の草分けである三岸節子(1905~1999)の生家跡地に1998年に誕生した。本展を企画した大村菜生学芸員は「当館はこれまで三岸以外の女性画家の紹介にも力を入れてきた。本展では、父の画技を受け継ぎながら明治から昭和まで絵筆をとり続けた暁翠の軌跡を見てほしい」と話す。

一宮市三岸節子記念美術館

父・暁斎との合作も

4章構成の本展は、第1章「暁翠と暁斎―父の手ほどき」からスタート。展示室には、暁翠が数え5歳の頃に暁斎から手渡された絵手本や暁斎の下絵を元にした作品、2人の合作などが並ぶ。冒頭には、暁斎の美人画の優品が展示され、正月から絵を描く娘の姿を描いた《暁斎絵日記》も展示されている。

会場風景より、河鍋暁斎が暁翠に与えた絵手本《柿に鳩の図》(1872頃)
会場風景より、左から河鍋暁斎《文読む美人》(1888頃)、同《極楽大夫図》(1879以降)

注目は、江戸風俗を描いた暁翠の美人画《寛永時代美人図》と《猫と遊ぶ二美人》。どちらも暁斎の手による下絵が併せて展示されているが、部分的に変更しているのが興味深い。例えば、前者は女性が抱く猫を小型犬に、後者では髪形を遊女から良家の子女のものにしている。暁斎が自作の彩色を任せるほどだったという、美しい色彩も目を引く。

会場風景より、河鍋暁翠《寛永時代美人図》(1916)
会場風景より、河鍋暁翠《猫と遊ぶ二美人》
会場風景より、河鍋暁斎《猫と遊ぶ二美人下絵》(1878)

暁斎没後は、その仕事を引き継いで未完の作品を仕上げた。中国の故事が画題の《霊山群仙図》は、暁翠が金碧の着彩や人物を加えて完成させた作品。《十二ヵ月年中行事之図》は、右幅を暁斎が描き、後に左幅を暁翠が描き加えた合作になっている。

暁斎が画名を高めたモチーフに、1881年の第2回内国勧業博覧会で日本画部門の最高賞を獲得した「鴉」がある。受賞作に破格の値段を付けても売れたため話題となり、暁斎の元には鴉の絵の注文が殺到したという。暁翠も鴉を描いているが、より羽毛がふっくらとして顔つきも柔和に見える。

会場風景より、左から河鍋暁翠《蔦に鴉》、河鍋暁斎画・山岡鉄舟賛《枯木に鴉》
会場風景より、河鍋暁斎・暁翠《霊山群仙図》(1861~1892)

他流派を学び画域を広げる

暁翠は、数え17歳のときに第2回内国絵画共進会に出品して画壇にデビュー。かつて師に「画鬼」と評され、自分もそう称するほど多様な画技の習得に貪欲だった暁斎の勧めで、住吉派の山名貫義(1836~1902)に入門する。そこでも腕を磨いた暁翠は、出品した第3回内国勧業博覧会(1890)で京都の上村松園らと並んで褒状を受けるなど評価を高めていく。

第2章「土佐・住吉派に学ぶ」は、デビュー作と考えられる《月に崖上の狼》をはじめ、花鳥画や美人画、『伊勢物語』の一場面を描いた作品、古典的画題の《養老の瀧図》などを紹介。柔らかい筆致と人物装束など有職故実に則った優美な表現が目を引く。暁翠が父の許で習得した狩野派だけではなく、やまと絵や物語絵を得意とする土佐・住吉派の画技を吸収して、画域を広げていったことがうかがえる。

会場風景より、左は河鍋暁翠《紫式部・清少納言図》
会場風景より、左から河鍋暁翠《菊に鶏図》、同《八重桜と鳥》、同《江口の君》
会場風景より、河鍋暁斎《暁斎画日記》。右の頁に山名貫義の入門の挨拶をする暁翠と自分の姿を描いている

暁斎の死後に独立した暁翠は、大衆的な錦絵も始めた。その第1作《毘沙門天寅狩之図》は、暁斎が毎年描いていた七福神のシリーズを引き継いだもの。ほかに本の挿絵や口絵、女性画家では珍しい日清戦争を描いた戦争画など、様々な仕事を手掛けているのが分かる。

ユーモラスな《七福神入浴図ポスター》は、かつて父が描いた入浴する七福神を石鹸の宣伝ポスター用に組み直した。「この父にしてこの娘あり」と思わせる、遊び心に満ちた換骨奪胎だ。

会場風景より、河鍋暁翠《毘沙門天寅狩之図》(1889)
会場風景より、左から河鍋暁翠《朝鮮豊島海戦之図》(1894)、同《七福神入浴図ポスター》
会場風景より、河鍋暁翠が挿絵を手掛けた書物

女子美日本画科で初の女性教授

第3章「教育者として」は、後進の指導に携わった側面を紹介する。暁翠は、1901年に開校した女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科で初の女性教授を務めたが、開校初期に校舎が火事で全焼したこともあり、その事実はほとんど知られてこなかった。本章では、美人画の描き方を段階的に示す合理性に富んだ絵手本などを見ることができ、美術教育の先駆者としての顔も浮かぶ。

会場風景より、河鍋暁翠《女礼式寿語録》(袋付)

狩野派の伝統を受け継ぐ

横山大観らが牽引する新しい「日本画」や洋画が台頭した時代を生きた暁翠。だが、自身は父暁斎から学んだ狩野派に終生重きを置いたという。展示を締めくくる第4章「受け継がれた伝統」は、狩野派の伝統的画題である道釈人物画、能・狂言画や戯画といった暁斎が得意とした分野の作品が集められている。

会場風景より、左2点は河鍋暁翠《松風・羽衣》、同《能 石橋》

人物の穏やかで優しい表情が印象的だ。例えば、日本神話の天岩戸のエピソードを描いた双福や雛人形が動きだすのを見て少女が仰天している戯画。どちらも動的な場面に関わらず、女性の表情はほのぼのとして、暁翠の個性を感じさせる。

60歳を超えた1928年には、昭和天皇の即位を祝う御大典奉祝記念東洋絵画展覧会に出品し、一等賞金牌を受賞。その時の画題も、狩野派の伝統的な「鍾馗(しょうき)」だった。ここでは、それ以前に制作した《鍾馗図》や端正な仏画、画家としての力量がうかがえる緻密な群像図《百猩々》や《百福図》も見逃せない。

会場風景より
会場風景より、左から河鍋暁翠《百猩々》、同《百福図》

本展の展示から伝わるのは、伝統と学びを拠り所に様々な仕事をこなしながら画境を深めていったひとりのプロの画家の歩みだ。同じように、力を持ちながら時代の趨勢に呑み込まれてしまった画家はまだ多くいるのではないだろうか。そうした作家を知る機会を、これからもっと多く得たいと感じた。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。