公開日:2022年10月29日

DIC川村記念美術館「マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち」レポート。マン・レイが作り続けた「我が愛しのオブジェ」の魅力とは?

絵画、写真、映像作品を交えつつ、マン・レイの知られざるオブジェによる表現に迫る

会場風景より

千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館で、「マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち」が開催されている。会期は2023年1月15日まで。企画は同館学芸員の杉浦花奈子。

ダダイスト、シュルレアリストとして広く知られるマン・レイ(1890〜1976)。写真家としての活動、あるいは絵画制作と比べて、オブジェ作品はあまり注目を集めていないかもしれない。では作家にとって、オブジェはどんな位置付けだったのか。杉浦はマン・レイのほかの表現と比較しつつ、以下のように語る。

「パリで生活をするために、そして人脈を広げるためにいたしかたなく続けていた写真、世間から認められたいと思いながらも、評価を得られなかった絵画に対して、オブジェは純粋な制作の楽しみ、身近にあったものでした。マン・レイの頭のなかが素直に現れた表現として、楽しんでみてはいかがでしょうか」。

本展の企画を担当した、杉浦花奈子

第1章 アメリカのマン・レイ:絵画とオブジェの始まり

1890年、フィラデルフィアにてエマニュエル・ラドニツキーという名前で生まれたマン・レイ。第1章で展示されるのは、アメリカで過ごしたキャリア初期の作品が中心だ。高校卒業後しばらくしてニューヨーク近郊の芸術家村へ引っ越し、最初の妻であり、フランス文学に詳しいアドン・ラクロワ、さらにフランス出身のマルセル・デュシャンと出会うことで、渡仏を目指すようになる。

会場風景より

精力的に制作していた絵画は、初期のキュビスムを思わせるものや、「アエログラフ」と呼ばれる筆を使わずにスプレーガンで描くもの、大画面に原色が塗り合わされたものなど、構成主義や戦後の抽象絵画の技法を思わせる作品が並ぶ。幼少期から絵を描くことが好きだったマン・レイは、晩年まで絵画で評価されることを求め続ける。

会場風景より、マン・レイ20代前半の作品。右から《木と帆船》(1910)、《杭のある海の風景》(1911)、《うずくまる裸体》(1912頃)
会場風景より、右から《道化》、《長距離》、《オーケストラ》、《会議》、《伝説》(すべて『回転ドア』より、1926/72)
会場風景より

いっぽう、同じ時期にオブジェの制作も始めていた。本章では、初期に制作されたオブジェ作品と、その写真や後年のレプリカを並べて公開。たとえば《ニューヨーク17》は、1917年に制作された当初、木の端材を万力で束ねた作品だったが、出展作品である66年のレプリカでは、木材部分が鉄製に置き換えられることで、摩天楼を想起させる仕上がりになっている。

マン・レイ ニューヨーク 17 1917/66 鉄、万力 45×24×24cm DIC川村記念美術館蔵 © MAN RAY 2015 TRUST / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 G2928

第2章 パリのマン・レイ:ダダイスト/シュルレアリストとして

1921年にパリへ渡ったマン・レイはデュシャンの紹介によって、シュルレアリスムの運動に参加することに。パリでは写真家として名が通っていたものの、『写真は芸術ではない』という写真集を発表するなど、写真家として評価されることに慎重だった。

会場風景より

本章でも、その独創的な技法が光る写真作品が多数公開されている。たとえば、感光紙に直接被写体を乗せ露光することで、カメラもレンズも用いることなく撮影する「レイヨグラフ」は、像がぼやけることで幻想的なイメージを立ち上げ、ダダイストたちから評価を得た。あるいは、現像中のネガに一瞬光を当てる技法「ソラリゼーション」は、被写体の輪郭が明瞭な黒い線として現れるため、特にポートレイトでよく使用されたものだ。

会場風景より、右から《ガラスの涙》(1930)と《ガラスの涙》(1933)
会場風景より、レイヨグラフによる写真作品。左の《レイヨグラフ(ピストルとアルファベットのステンシル)》(1924/63)では、アルファベットの文字に影がついたように複数の像が写る

オブジェは、ふたつの著名な作品が展示される。《贈り物》は、洋服のシワをとるためのアイロンに鋲を組み合わせることで、日用品から有用性を剥奪することを試みた作品。オリジナルが展示会場で盗まれたこともあり、晩年までに多数複製されており、本展でも複数のレプリカが並ぶ。

マン・レイ 贈り物 1921/74 アイロン、鋲 16.5×10×10cm 個人蔵 © MAN RAY 2015 TRUST / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 G2928

同様に、オリジナルが失われている《破壊されるべきオブジェ》(1923)はメトロノームの振り子先に目元のプリントが取り付けられたもの。その後の再制作では、《失われたオブジェ》(1945)、《破壊されざるオブジェ》(1958)、《永遠のモティーフ》(1970-71)とタイトルを変更しており、再制作ごとに変化するマン・レイの心境を想像させる。

マン・レイ 破壊されざるオブジェ 1923/75 メトロノーム、写真 11.5×11.5×22.2cm 東京富士美術館蔵 © MAN RAY 2015 TRUST / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 G2928 ©︎ 東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom

2章ではほかにも、恋人だったキキも登場するショートフィルムが上映されている。続く3章とのあいだには、「我が愛しのオブジェ」をめぐる手記、写真や伝記、オブジェまで作家の多様なポートレイト、個展のポスターなどが展示されるコーナーも。

マン・レイ セルフ・ポートレイト/ソラリゼーション  1932/77 ゼラチン・シルバー・プリント 30×21.7cm 東京富士美術館 © MAN RAY 2015 TRUST / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 G2928 ©︎ 東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom
会場風景より、マン・レイのポスター

第3章 オブジェの展開

1940年、ユダヤ系の出自であったマン・レイは、第2次世界大戦の影響でフランスを離れざるを得なくなり、アメリカ・ハリウッドへ逃れることに。第3章で展示されるのは、アメリカでの戦時中と戦後、そして再びパリに戻ってからの晩年の作品だ。ハリウッドでは、舞い込んだ写真や映画の撮影依頼をほとんど受けず、長年評価を求めていた絵画の制作に時間を費やし、またフランスに残してきた多くの作品を惜しむように、絵画やオブジェの再制作にもより積極的になる。

会場風景より、右から《オブリビア》(1947)、《ピラミッド》(1947)

晩年のオブジェは特に、軽やかな言葉遊びが印象深い。《フランスのバレエ(原題:Ballet français)》はフランス語のほうき(balai)とバレエ(ballet)をかけたもの。《ブルー・ブレッド(原題:Pain peint)》はフランス語で「塗られたパン」を意味すると同時に、消防車のサイレンを指すオノマトペにも聞こえるなど、文字と音声で遊ぶ作品だ。

マン・レイ ブルー・ブレッド 1958 青く塗られたフランスパン、鉄の秤 バゲット全長73cm 島根県立美術館蔵 © MAN RAY 2015 TRUST / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 G2928
会場風景より、右から《フランスのバレエ》(1956/71)、《パレッターブル(パレット・テーブル)》(1941/71)、《無名画家へのモニュメント》(1955/71)、《赤いアイロン》(1966)

展覧会の最後を締めくくるのは、《永遠のモティーフ》を頭上に掲げる最晩年のマン・レイの写真。パリでの大回顧展でのこの姿は、険しい表情の青年期のポートレイトとは対照的で、柔和で子供のような笑顔に驚かされるだろう。

会場風景より、《永遠のモティーフ》を頭の上に乗せたマン・レイ(1972年パリ国立近代美術館で開催された「マン・レイ展」会場での写真)

生活費を稼ぐための写真、承認を求めた絵画に対して、手元に残したり、人へプレゼントするなど、生活を彩ってきた「我が愛しのオブジェ」。彼の遊び心あふれる作品を通じて、より素直で純粋な表現の面白さを知ることができるはずだ。神奈川県立近代美術館 葉山では「マン・レイと女性たち」展も開催されており、マン・レイの芸術を知るまたとないチャンス。ぜひ訪れてほしい展覧会だ。

ミュージアムショップではオリジナルグッズ「MAN 員御 RAY 瓦せんべい」が購入できる。マン・レイの軽やかな言葉遊びを思わせる商品だ

浅見悠吾

浅見悠吾

1999年、千葉県生まれ。2021〜23年、Tokyo Art Beat エディトリアルインターン。東京工業大学大学院社会・人間科学コース在籍(伊藤亜紗研究室)。フランス・パリ在住。