公開日:2023年8月10日

【新連載】クリティカル・シーイング:新たな社会への洞察のために #1 美術批評はかつてないほど重要である。「つくることの思想」としてのこれからの美術批評に向けて(文:石川卓磨)

「美術批評」はいかにして新たな可能性を示すことでできるのか? 美術家、美術批評家として活躍する石川卓磨の連載がスタート。

デザイン:松本直樹

絶滅の危機

「いま美術批評は、かつてないほどに重要なものになっている。」

この仮説に対する説明が本文の目的だ。しかしほとんどの人は、この仮説と真逆のことを考えているだろう。2002年のハル・フォスターの著作『デザインと犯罪』に収録されている「美術批評家の危機」は、「美術批評家は絶滅危惧種である。」(*1)という指摘から始められている。純然たる「美術批評家」という肩書を誰も掲げなくなってしまい、代表的な美術雑誌でも美術批評家の存在がほとんど見られなくなった。フォスターは、アメリカの美術批評の父親的存在であるクレメント・グリーンバーグ、メイヤー・シャピロ、ハロルド・ローゼンバーグを起点として、アメリカの批評家や美術雑誌(『パルチザン・レビュー』、『アートフォーラム』、『オクトーバー』など)によって展開された戦後アメリカの美術批評史を通して、その衰退の過程を説明する。そして、テオドール・W・アドルノの「アートに関することで自明なことは、もはや何一つないことが自明になった。」から始まる有名な文章の引用によって終えられている。

ここから本論の立場を正確に検討していくため、まずフォスターの「美術批評家の危機」に対する批判的指摘をしておこう。フォスターは、兼業的美術批評家の状況を嘆いている。ドゥニ・ディドロ、シャルル=ピエール・ボードレール、ジョン・ラスキンなどの18〜19世紀に美術批評を切り開いた批評家たちは兼業批評家なのであり、批評の危機を論じるうえで、専業か兼業かにこだわることは偽の問いである。フォスターが専業美術批評家にこだわるのは、グリーンバーグから展開されていったアメリカの美術批評史を、美術批評全体の問題としてとらえているからに過ぎない。兼業か専業かではなく、美術という専門性を持つ批評家について論じていくこと、それが本論の立場だ。

ただ、日本においても美術批評家という肩書きを使用している書き手は絶滅の危機に瀕している。その理由は様々にある。著しい相対主義が進んだ現代アートにおいて、美術批評が機能しなくなり、グローバルな市場原理やアテンションエコノミーが状況を牽引するようになったのは必然である。

近年は、現代アートのなかでも社会的制度や社会課題をテーマにするアーティストや作品が、影響力の中心を占めている。アートの終焉は指摘できるが、政治や社会課題は人間社会が崩壊するまで終わることはない。したがって、現代アートが政治とともに活動していくことは、現代アートも政治同様に終わらないアクチュアリティを獲得することである。リレーショナル・アートから派生的に出てきた「ソーシャル・プラクティス」というカテゴリーは、「アート」という言葉をその用語から意識的に排除している。ソーシャリー・エンゲージド・アートの紹介者であるパブロ・エルゲラは、この排除を「「アート」という言葉が暗示するものへの、人々の不快感がますます高まってきたことに呼応している」(*2)と指摘する。アートが社会課題に向き合うことで生まれた多様化や複雑化は必然である。このような状況が進行するなかで、専門的な美術批評の蓄積よりも、社会学、人権、法学などの理解や知識が重視されるようになってきている。

現代アートの動向的変化は、日本において2010年代に本格的に展開していった。政権や原発の安全神話に対する国民の強い不信感を引き起こした東日本大震災と、SNSの拡散でバイラルに拡大した民主化運動「ジャスミン革命」が10年代の初頭に起こったことが、大きなきっかけとなった。

そして現代アートはその後に生まれる日本の野党共闘の流れとかなりの部分で批評的姿勢をともにしてきた。またMeToo運動などから、ジェンダーの不平等や暴力の告発が起こり、文化産業のなかにあるハラスメントの実態も明らかにされるようになった。批評家たちも例外ではなく、批評に含まれているホモソーシャルな構造的性質、作品の価値判断を独占することから生まれる暴力や、権力勾配を利用したセクシュアルハラスメントなどが指摘されるようになり、ポストクリティークという言説が注目されるようになった。

美術批評の立て直し

このように説明すると美術批評家に対する信頼の回復は、すでに不可能に思えるが、この確認はこれからの美術批評を考えるうえで回避することはできない。改善すべき点は改善しながら、美術批評を立て直していく必要がある。しかし、それは可能なのか?と思うだろう。わたしが美術家兼美術批評家として、あるいは大学や専門学校で学生を見てきた経験に基づいて考えると、専門性を持った美術批評が培ってきた理論や洞察は、いまだ有効性があると断言できる。作家は、これまでもこれからも自らの作品が持つ知的創造を批評によって説明されたいと思っているし、これからのビジョンを批評から読み取りたいとも感じている。さらに、アートの業界を超えた社会においても美術批評は有効な批評的洞察を示せると思う。この立て直しの過程から、美術批評の新たな可能性を生み出していくことを示したい。

この10年ほど、美術批評は上述したように、アートの外側にある知性や活動によって展開され大きな成果を示してきた。つまり、もっぱらアートの外側にある言説や理論に助けられてきた。この成果は認めつつも、美術批評が育んできた内在的な理論や方法を、外側に向かって構築する、というこれまでと逆のベクトルを検討することはできないだろうか。これは現代アート界のヘゲモニー闘争ではない。美術批評の多様性や複雑性をより豊かにするための検討だ。

2023年になって、いよいよそれ以前とは異なる20年代のかたちが見えてきている。そのなかで、現代アートの現状は、震災後から活発化した批評的状況だけでは、問題の膠着や袋小路があることは否めない。新型コロナウイルス感染症のパンデミックやロシアのウクライナ侵攻、大規模な自然災害などによって、恒常的に続いていく日常という幻想は崩壊している。またChatGPTやMidjourneyなどの生成AIの急激な成長もあって、テクノロジーの進展は1ヶ月先でもどうなっているか予測ができないと言われている。政権交代の見通しも立たず野党共闘の行き詰まりも明らかだ。美術批評に注目を与える燃料にもなってきたTwitter(現X)は、イーロン・マスクが買収してから不安定性が顕著となり、その機能や存続も不透明なものになっている。

このようにわたしたちの生活や未来は、かつてないほどに不確実で非常に脆弱な基盤の上に立っている。この下部構造に現れる変化が、民主主義や現代アートに大きく影響を与えることは間違いない。このような不安定な状況が続く20年代において、文化のインフラとなる美術批評は、反脆弱性を構築していかなければならない。身も蓋もないことを言えば、これは批評家がサバイブしていく方法としても切実だ。そのため短期的注目とは別の、中長期的視野を持った美術批評が求められる。

また美術批評は造形よりも政治、作品よりも制度を優先することが増えたせいで、サイレントマジョリティである多くの作家たちとの距離感を広げてしまった。この隔たりからの回復は、これから美術批評が行うべきひとつのタスクである——ただし、作家と批評の距離感の検討において、わたしは後で反対側からの意見も述べる。

つくることの思想

話を具体化させていくため、ここでの「専門的な美術批評」を定義しよう。専門的な美術批評とは、グローバルな美術史を基盤とし、「つくることとは何か」という問いを中心に置く批評である。作家-作品-観客というトライアングルの構成要素や作品分析を軽んじない姿勢を持つ。これを踏まえて、専門的な美術批評を「つくることの思想」と考えよう。

この美術批評では、作品や作家に対する価値判断を重視するのではなく、作品に内包されている構造や議論を開かれたものにし、読者と共有し積み立てていくことを目的にしている。価値判断的批評から、教育的批評へのモデルチェンジを意味する。若い世代の批評の担い手の活動を見ていると教育的批評への意識の変化ははっきりと感じ取れる。つくることの思想とは、現代アートやアーティストを神話化するのではなく、観察や選択などの行為も造形に包含し、料理、買い物、育児、デモ、投票など、社会的・日常的な行動の隣にあるものとする。

観察とは、視覚に限定されず、発見によってそれまでの認識を変えてしまう可能性を持つ行為である。作品を見ることで育まれる観察力は、認知バイアスを対象化して、社会や自己を見つめる力となる。また、環境、人権、暴力、文化に対する批判意識を、商品の購買の選択に反映させるとき、それはたんなる消費行動ではなく、ひとつの創造的活動となる。つくる行為の概念的拡張は、ダダ・シュルレアリスムが発明したレディメイドやファウンド・オブジェクトから、コンセプチュアルアートまでが証明してきたように、自明なことになっている。

つまり美術批評が育んだ洞察や理論は、日常の行為や選択に関わる部分においても有効性を持つ。また、能力や労働においてAIなどの機械がリード・運用する社会の到来を前にして、人間が身体能力や思考能力の劣化・退化を退け、いかに成長を築くかの示唆も与えるはずだ。社会的政治的なトピックが、ダイレクトに、センセーショナルに用いられなくても、作品のなかには政治性や抵抗の意志が内在している。美術批評は、これまでも自覚しにくさのなかにある政治性を、つねに指摘してきたのだ。

この美術批評は、相対化が極まった現代アートの態度とは大きく異なる。「自明なことは、もはや何一つないことが自明になった」ことをアリバイに、アート・ワールドやアート・マーケットを前提にした個人主義的なスタイルの開発だけに専念するアートは、時代遅れの資本主義でしかない。利益追求がシビアに求められる企業であっても、そんな意識の低い自由さは許されていない。ビジネスの世界で、パーパスというコンセプトに注目が集まっているように、企業にも社会課題に対する自らのスタンスが求められ、社会的意義化を示すことの重要性が強まっている。(*3)

資本主義社会や情報化社会のなかで起こっている変化を無視するのであれば、アートが中長期的な視野を獲得することは不可能である。専門的な美術批評が批評の意義を論じていくためには、学習することすら学習できなくなった相対主義や、覚悟や自覚のない個人主義の否定から始めていかなければならない。そのためにも専門的な美術批評には、「ともに」考えることができる足場が不可欠である。アートの場合、そう指摘するとすぐに西洋中心主義を想起しがちだが、普遍主義か相対主義かの二元論を脱構築し、多言語的・複合語的に差異やレイヤーを持った「つくること」の足場を形成することを目指す必要がある。

専門性の内側から外側に広げていく批評のモデルを、美術の外で探すのであれば、一汁一菜や料理における利他を提唱している土井善晴や、古武術の研究から介護やスポーツに応用可能な身体運用法「古武術身体操法」を提唱した甲野善紀などを挙げることができる。二人は料理や古武術の専門家として、創造的批評を行い、ジャンルを超えた幅広い領域に影響を与え、批評を思想化することに成功している。美術批評もこのように自らの専門性を外側に向けていくとき、それは美術批評を思想化することになるのだ。

アート・デザイン・批評

アートを社会に開いていくとき、それは社会的有用性や伝わりやすさを目的化することになり、ポピュリズムやアートのデザイン化につながるのではないかという懸念がある。確かに、20世紀の歴史を振り返れば、アートのデザイン化は、前衛芸術の方法を資本主義に順応させることや、プロパガンダに利用することにつながっていた。この運動はこれまでも繰り返されてきたことであり、これからも何度でも繰り返されることである。ファシズムやスターリニズムによって全体主義的に利用されるアートのデザイン化の暗い歴史は、アートの自律性の重要さを教えてくれる。アート内部で、デザインという言葉を安心して使用できるときは来ないだろう。現在、「デザイン」という概念は、スティーブ・ジョブズやデザイン思考などの存在によってかつてないほどに拡大し、あらゆる場所に浸透している。

このような状況のなかでマルクス・ガブリエルは、アートとデザインは区別すべきものであって、アートが「ラディカルに自律している」(*4)ことを断言する。だが、反動的な響きを持って述べられるこの強い自律性は、哲学者の立場から説明されることで戦略的パフォーマンスとして機能するのであって、美術批評家が現在同じように発言するのであれば、具体的な弊害がいくつも生まれてしまう。

わたしたちは、社会が過去の誤りを反省し、日々変化していることを舐めてはいけない——同時に開き直って、同じ愚かさを繰り返している者たちの傲慢さに怒りを忘れてもいけない。OpenAIのCEOであるサム・アルトマンが世界17都市を巡って、AIに関する議論を行ったこともかつてはあり得なかったことだ。イノベーションという言葉から、わたしたちがイメージするものは、最先端のテクノロジーや新しいアイデアによって、社会に大きなインパクトを与え、快適な未来がつくられるという楽観的で資本主義的なものだ。

しかし近年では、イノベーションはより広い社会的・倫理的な観点を考慮し、システム・意味・価値の変化を生成することの重要性が高まっている 。問いや解決の姿勢は多様であれ、「スペキュラティヴ・デザイン」や「意味のイノベーション」など、批判意識を強く持ったデザイン文化が注目されるようになった。アートとデザインが、お互いのバイアスを温存させているだけでは、問題を何も前に進めることはできない。美術批評はその間に立つものになり得る。つくることの思想は、「この出来事」という特殊さのなかにある経験を、現代社会に開き、思考を触発するものである。それは怒りや抗議に集約されるものではなく、社会の有用性や合理性に迎合するものでもない。

美術批評の自律性を、中洲的なものだと考えてみたい。アートの自律性は現代社会という川の流れの中にあり、水位が上がれば簡単に潜在的なものになる弱々しいものだ。しかし水位が上がって中洲が見えなくなっても、それは沈んでいるのであって、その場所がなくなっているわけではない。平時になれば再びそれは顕在化する。潜在的なものになったとしても、その場所の存在を忘れてはいけない。批評は絶えずその場所、その想像力を指摘するものである。

アートとデザインの相互理解は、アートのデザイン化を意味しない。アートとデザインが、自己批判や相互の違和感を消去することなく弁証法的に対話を続け、問いや方法を高めていくことが大切となる。このような議論に美術批評が関わっていくことは、現代アート業界や市場からの言説の独立性を確保することでもある。そして、美術批評のこの独立性自体が、実は作家たちの精神的理論的なサポートになる。かつてパウル・クレーやジョセフ・アルバースが教育を模索した場所もそうであったはずだ。以上が、いま美術批評が、かつてないほどに重要であると考えている理由なのだ。

*1──ハル・フォスター『デザインと犯罪』五十嵐光二訳、147頁、平凡社、2011
*2──パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会訳、31頁、フィルムアート社、2015
*3──岩嵜博論 ・ 佐々木康裕『パーパス 「意義化」する経済とその先』、NewsPicksパブリッシング、2021
*4──マルクス・ガブリエル『アートの力』大池惣太郎・柿並良佑訳、‎堀之内出版、2023

石川卓磨

石川卓磨

いしかわ・たくま 1979年千葉県生まれ。美術家、美術批評。芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織「蜘蛛と箒」主宰。