公開日:2023年4月28日

マティス展が東京都美術館で待望のオープン。150点もの作品が見せるマティスの転換点と色彩の歩み

20世紀の巨匠、アンリ・マティスの日本で約20年ぶりの個展が4月27日開幕した。世界最大規模のマティス・コレクションを所蔵するポンピドゥー・センターの全面的な協力を得て開催する本展は、絵画に加えて、彫刻、ドローイング、版画、切り紙絵、ロザリオ礼拝堂に関する資料が集まる。

会場風景より、《赤の大きな室内》(1948)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

「例外的」な展覧会

日本で約20年ぶりとなるマティス展が、東京都美術館で4月27日開幕した。世界最大規模のマティスコレクションを誇るパリのポンピドゥー・センターから150点が集まる大回顧展となる本展について、オレリー・ヴェルディエ(ポンピドゥー・センター/国立近代美術館近代コレクション チーフ・キュレーター)は「本展にはポンピドゥー・センター、国立近代美術館、エルミタージュ美術館に並ぶようなすばらしいマティス作品が集まって、色彩がたどった経緯と技術をすべて見ることができる。絵画はもちろん、彫刻、絵本、切り絵もすべて並んでいます」と、本展のラインナップが「例外的」であることを強調した。

英語タイトル副題は「the path to color(=色彩への道)」。マティスがいかにのびのびとした色彩表現へと到達したのか、思索あふれるその過程を早速見ていこう。

会場風景より、左は《豪奢Ⅰ》(1907)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

フォーヴィスムの夜明けから窓の表現へ

アンリ・マティスは1869年フランス生まれ。裕福な家庭に育ち高校卒業後は法学を修め法律家を志したが、21歳の長期療養中に母から絵具箱を贈られたことをきっかけに徐々に絵画の道を歩み始める。1890年のことだった。

展覧会は、その10年後に描かれたマティスの《自画像》(1900)で幕を開ける。絵筆を手にしてから10年、その間には国立美術学校への不合格、結婚と子供の誕生、初の彫刻の制作など様々な出来事があったが、決定的だったのは象徴主義の画家、ギュスターヴ・モローとの出会いと別れだ。

会場風景より、《自画像》(1900)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵
会場風景より《豪奢、静寂、逸楽》(1904)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

自画像に描かれたマティスの顔は困惑したような、何かを決意したような複雑な表情を見せるが、このときマティスは師・モロー亡き後に自分が進むべき道について考えていたのだろうか? 本作はマティスの代名詞でもある明るい色彩とはほど遠いが、その筆致はフォーヴィスムや今後のマティスが獲得していく大胆なスタイルを予感させる。本作のほか、日本初公開となるマティス初期の傑作《豪奢、静寂、逸楽》(1904)も1章で展示される。

自らの画業を切り開く予兆を想起させる《自画像》が冒頭にあることからもわかるように、本展は「マティスの転換点となるような作品が多く含まれていること」が特徴だと藪前知子(東京都美術館学芸員)は話す。

会場風景より、左から《コリウールのフランス窓》(1914)、《窓辺のヴァイオリン奏者》(1918)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

画家として順風満帆な生活を送っていたマティスの生活を大きく変えたのは第一次世界大戦だった。二人の息子を含む身の回りの人々が徴兵され、画商やコレクターともこれまでのようなやりとりができなくなったマティスは孤立していく。そんな時期のマティスの心境を直接反映したかのような印象的な作品が、世界大戦勃発の翌月に描かれた《コリウールのフランス窓》(1914)だ。マティスは窓のある風景を多数描いたが、本作の窓の外(あるいは窓は閉じられたままか?)には何も描かれず真っ黒なまま。2章では、未完とされるミステリアスな本作をはじめ「窓」に関する多彩な表現を楽しみたい。

会場風景より、《金魚鉢のある室内》(1914)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

彫刻、人物画と室内画を中心とした10年の試み

3章では、平面表現のイメージが強いマティスが一定期間多く手がけてきた彫刻作品が並ぶ。見どころのひとつは、20年以上をかけて制作された大作シリーズ「背中I–IV」(1909–1930)だ。IからIVまで、徐々に単純化される女性の後ろ姿の表現は、同じくシンプルかつ明快化していったマティスの絵画表現そのものを思わせる。なかでも初期作《背中I》は、マティスの代表作であり女性たちが輪になって踊る《ダンス》(1909)と同時期に制作をスタートしていることから、その二作にどこか関連性を見つけたくなるような、絵画と彫刻の往還へ思いを巡らせるのが楽しい章だ。

会場風景より、写真奥が《背中I–IV》(1909-30) ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

1918年にはニースへと移り住んだマティス。この時期のマティスは、それまでよりも小さなキャンバスを用いて人物画と室内画に熱心に取り組んだ。マティスにとって重要なテーマで数多く描いた「オダリスク」(イスラムのスルタンに仕える女性)の第一作《赤いキュロットのオダリスク》(1921)もこの頃に描かれている。

会場風景より、《赤いキュロットのオダリスク》(1921) ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵
第4章の会場より

旅と実験を経て、マティス最後のシリーズへ

1930年代のマティスはニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、タヒチなどを旅し、リフレッシュした頭で制作に取り組んだ。旅を経てダイナミックに変容していく作風の序章となる本展5章で鮮烈な印象を放つのは、ひとりの女性がうつ伏せになって目を閉じる《夢》(1935)。本作のモデルは、マティスの助手を務めたリディア・デレクトルスカヤ。この頃から50年代まで、複数の女性アシスタントが絵画制作やアトリエの切り盛りからモデルまで、マティス作品の重要な役割を担ったという。

会場風景より、《夢》(1935)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

本展のちらしにも用いられている傑作《赤の大きな室内》(1948)を見られるのは第6章だ。マティスは第二次世界大戦勃発を受け、ニースからヴァンスへ移住。「ヴァンス室内画」シリーズを手がけたが、同章の《黄色と青の室内》(1946)はシリーズ最初の作品で、《赤の大きな室内》は最後の作品でもある。藪前は「マティスにとってアトリエは重要なモチーフで、『ヴァンス室内画』はマティスの(作家人生で)最後のシリーズです。彼にとって世界は調和に満ちている。異なる世界を束ねるように、世界から受ける感覚を絵画のなかに表現したいということで、1枚の絵画に(様々な要素が)調和をもって存在することが実現されています」と解説する。

会場風景より《赤の大きな室内》(1948)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵。作品向かって左に立つのがオレリー・ヴェルディエ(ポンピドゥー・センター/国立近代美術館近代コレクション チーフ・キュレーター)、右が藪前知子(東京都美術館学芸員)
会場風景より《黄色と青の室内》(1946)ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵

切り紙絵とヴァンス・ロザリオ礼拝堂、心の安定

展覧会はいよいよ終盤へ。第7章では切り紙絵と最晩年の作品が紹介される。自身が長年抱いていた色彩とドローイングの課題を解決する手段として、「ハサミで描く」ように切り紙絵に本格的に取り組んだマティス。有名な切り絵作品《イカロス》(《ジャズ》より)は、切り紙絵の型をステンシルを使って転写したもの。本章での会場では黒い壁面にこうした白い背景の切り紙絵(ステンシル)作品がずらりと並んでいるため、黒と白のコントラストで各作品のフォルムが際立って見えた。

会場風景より、《ジャズ》(1947)より「イカロス」 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵
7章会場風景より
会場風景より

名残惜しくも最終章となる8章へ。同章では、マティスが自身の人生の到達点と語った「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」に関するマケットやデッサンが展示される。マティスは、人生の最晩年である1948年から51年にかけ礼拝堂のプロジェクトに没頭。自身の全技法を総動員して、建築、装飾、家具、オブジェ、典礼用の衣装などに取り組んだ。「最晩年」の言葉の重みにはおよそ似つかわしくない、平和に満ちたかわいらしさのある一連の作品は、キュレーターのオレリー・ヴェルディエが内覧会で語った「マティスは作品を見る者が心の落ち着きと安定を取り戻すことを望んでいた」という言葉を思い起こさせた。最後の部屋では本展のために撮り下ろされた「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」の映像も。

会場風景より、左からヴァンス礼拝堂、ファサード円形装飾《母子像》(デッサン、1951)カトー=カンブレジ・マティス美術館蔵、右が上祭服[背面のマケット、実現せず]ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 カトー=カンブレジ・マティス美術館寄託

藪前はマティスの作家人生について「初期から晩年まで一貫した営みのなかで、最晩年まで歩みを止めなかった」と語ったが、本展から伝わってきたのは驚くほど軽やかで自由な歩み。今年もっとも注目される展覧会といっても過言ではないマティス展はぜひ、会場が混み合わないうちにじっくりと落ち着いた心で鑑賞してほしい。

野路千晶(編集部)

野路千晶(編集部)

Editor in Chief