公開日:2024年3月18日

田島征三、和田誠、いわさきちひろ、長新太ら絵本作家・イラストレーターの反戦運動と「ベトナムの子供を支援する会」【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #7(文:長谷川新)

インディペンデントキュレーター、長谷川新による連載第7回。本連載は、1960〜70年代の「日本戦後美術」を、これまであまり光が当てられてこなかった「ベトナム戦争」を軸に辿り直すもの。ベトナム戦争を背景にした「イザナギ景気」に日本列島が沸いた時代の、新たな戦後美術史を立ち上げる。(不定期連載)

「怪傑トパンガ」1〜10号 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)

絵本作家やイラストレーターによる「ベトナムの子供を支援する会」

報道写真家・嬉野京子(1940〜)が『美術手帖』に写真と「展評」を寄せたことがある。1970年7月26日に銀座・数寄屋橋公園で開催された、その時点ですでに20回目となる「反戦野外展」(以下「野外展」)。写真には、腰に手を当てB1サイズのパネルを見る者と、パネルとパネルのあいだを縫うように通り抜ける者の両方が写っている。

『美術手帖』1970年9月号 p.133

写真手前のポスターは指さす右手がグリッド状に並び、米軍の有名な「募兵ポスター」を想起させる。もっとも、ここではその意味は反転していて、見る側に戦争への加担の自覚を促すものとなっている。嬉野は、銀座から遠く離れた『美術手帖』読者にもその人差し指が届くように周到に写真を選んでいる。

「怪傑トパンガ」8号 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男) 1977年9月27日の米軍機墜落事故(横浜市緑区)のあと、10日間の準備を経て行われた野外展。八木りえ子が描いており、パネル部分は写真を貼り合わせている。イラストになっていることで当日の様子が写真記録よりも生き生きと伝わってくる。右ページ上部に「不二家」の看板が描かれており、おおよその位置関係も確認できる(現在の「宝くじ売り場」のあたりである)

絵本作家やイラストレーターで構成される「ベトナムの子供を支援する会」(以下「支援する会」)(*1)によって1967年に始められた野外展は、多いときでは毎月継続的に開催され、50名ほどの作家たちによるパネルが並んだ。たとえば八木りえ子(1953〜)が描いた野外展の絵には、1977年10月10日とある。支援する会は野外展を足掛け10年以上にわたって開催しており、その数は(正確にはカウントできないが)60回近くに及ぶ(*2)。

ここで注目したいのは、支援する会がベトナム戦争終結(1975)のあとも活動を継続している点である。連載の7回目となる今回は、ベトナムの子供を支援する会による反戦野外展の活動を紹介するとともに、「イザナギと呼ばれた時代」をもはみ出た、その継続の意味について考えてみたい(*3)。

野外展の様子。撮影者不明。1972年ごろの配布リーフレットより(資料提供:浜田桂子)

反戦野外展

発起人である絵本作家・田島征三(1940〜)によれば、野外展が始まった経緯は次のようなものである(*4)。

ベトナム戦争が激化していた1967年、日本児童文学者協会などにより「ベトナムの子どもを支援する集い」が開催された。そこで田島の発案により(*5)、紙製の「ベトナム反戦バッグ」がイラストレーターの和田誠(1936〜2019)のデザインで制作されるとともに、バッグを周知・販売するための活動として、10月、数寄屋橋公園で「立ち売り」が行われる(*6)。公園には手塚治虫(1928〜1989)をはじめ様々な作家たちが駆けつけ、児童文学作家・北川幸比古(1930〜2004)が「ビラ童話」を配布するなど話題を集めた。「立ち売り」の翌11月には早くも第1回「ベトナムの子供を支援する野外展」が開催され(*7)、企画は展開を見せていく──。

和田誠デザインの反戦バッグ(1967)  撮影:西澤諭志 (協力:安曇野ちひろ美術館)
田島が着想を得た「グラフィック アート USA」展(東京国立近代美術館、1967)で展示されていた紙バッグ。ダイアン・M・ガッフィーのコレクション55点が展示された。写真は当該図録より(ノンブル表記なし)

1960年の安保闘争を経験していた田島は既存の運動に不審感をもっていたが、「反戦野外展」という、絵を描き、街頭で展示し、寄付金を集める実践は腑に落ちるものがあったようだ(田島はメッセージを届けるだけではなく、必要物資の提供という実際的な支援のあり方を強く意識していた)。

野外展に長きにわたって参加を続け、運営面でも会を支えた絵本作家の西村繁男(1947〜)は、当時のモチベーションについて「(あこがれの作家たちと)いっしょに作品がならぶのはうれしいという理由でぼくは出品しようときめた」と振り返っている(*8)。実際、野外展には手塚治虫や長新太(1927〜2005)など著名な作家たちが作品を出展していた。旗振り役の田島征三もまた、1964年に出版した初の絵本『ふるやのもり』によって、若手の絵本作家たちの間で名を知られる存在となっていた。

トラックに積んだパネルを数寄屋橋に運搬する様子。撮影者不明。1972年ごろの配布リーフレットより(資料提供:浜田桂子)

田島を除けばまだ無名に近い若手作家たちは、手製のB1パネルをこうした著名作家たちの家まで配布しに行き、描いてもらったものをトラックで集めて回り展示した。現在もっともよく知られる野外展の出品作は、いわさきちひろ(1918〜1974)のパステル画《世界中の子どもみんなに平和としあわせを》だろう。3人の子どもと母子像からなるこの作品には、左下にサインとともに「70’ 7.26」と書き込まれており、いわさきが参加した野外展が嬉野の撮影した日のものであることがわかる(*9)。

いわさきは1967年に初の反戦絵本となる『わたしがちいさかったときに』を出版し、この野外展への出展を挟んで、その後も『母さんはおるす』(1972)、『戦火のなかの子どもたち』(1973)と、1974年に他界するまで反戦絵本を手がけている。「師匠の丸木俊の陰で評価をされてこなかった」が「時代の変化と一般大衆からの支持」を得てゆき(*10)、現在の「「反戦・平和」の画家という新しいイメージがいわさきに対して持たれるように」なっていったのは、まさにこの時期であった(*11)。ただし、いわさきが出品したパネルは、その後まもなくいわさきの家族によって回収されており、ほかのパネルとは違って野外展で繰り返し展示され続けたわけではない。

いわさきちひろ 世界中の子どもみんなに平和としあわせを 1970 安曇野ちひろ美術館蔵
いわさきがベトナム戦争について調べるために収集していた資料やドローイングノートなど 撮影:西澤諭志 (協力:安曇野ちひろ美術館)
いわさきちひろをはじめ、山脇百合子(『ぐりとぐら』、1967)、滝平二郎(『もちもちの木』、1971)、長新太(『おしゃべりなたまごやき』、1972)など著名な作家たちによる絵葉書(「ベトナムと私の会」発行)。売上の一部がベトナムの子供たちの医療費として送金された 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)
反戦野外展の案内葉書、「手作りワッペン」 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)

西村が「田島さんのほかには、あこがれのイラストレーターたちがきていないのも〔野外展に対して想定していた〕思いとちがっていた」(*12)と書いたように、ひとえに「参加」と言っても、そこには個々に温度差が存在している。

野外展はまた、参加していた若手作家にとって重要なコミュニティとしての側面があった。搬出後には、信濃町の真生会館などで新作パネルについての合評会が行われた。木版画を手がける若林このみ(1948〜2003)は、いまきみち(1944〜)の誘いで合評会に参加したことから、活動に関わることとなった。当時、田中一光(1930〜2002)のデザイン室で働いていた浜田桂子(1947〜)も、支援する会との関わりのなかで、絵本作家としてのキャリアを始めている(*13)。イラストレーターの八木康夫(1949〜)もまた沖縄についての共同制作パネルを手伝うなかで、沖縄の基地問題、サンフランシスコ条約、ソンミ村虐殺など、様々なことを学ぶ手がかりを得ていった。

なお、合評は一部の声が支配的になることもあり、ときに辛辣な意見も飛び交ったが、そうした意見との距離感を考えることも含めて、それぞれが自分の表現について振り返る契機となっていたようである(野外展出品パネルを見ると、血や直接的な文言、荒々しい筆使いの絵から、平和を希求する軽やかなものまで様々あるが、「間接的」「抽象的」な表現は合評においては批判される傾向にあった)。

長谷川知子(1947〜)による手作りバッジ(1970)。日本電波ニュース社製作短編記録映画「ニクソン・ノー」(1972)にも登場する 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)
ベトナムの子供を支援する会「会員カード」 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男) 
今江祥智(文)、長新太(絵)、田島征三(構成)による絵本『へんですねえ へんですねえ』(1972)。ベトナムの子供を支援する会が出版し、売上の一部で小型レントゲンなどを購入しベトナムに寄贈している。 発売1年で3万部が売れ、累計5万部を突破した 撮影:黑田菜月
ベトナムの子供を支援する会発行冊子「土 vol.3 開発の村」(1976、絵:菊池日出夫、レイアウト:浜田桂子)と「怪傑トパンガ」6号 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男) 菊池日出夫(1949〜)は農業高校卒業後、漫画家養成専門学校である東京デザインカレッジに入学するも、突如廃校となり抗争に巻き込まれていく。紆余曲折を経て渡辺勝義経由で田島征三と知り合い、野外展等にも参加するようになった。多忙の田島の不在時には、田島が自宅で飼っていたヤギの世話(乳搾り)をしに行ったこともあったという。「開発の村」は岸正幸らとの六ヶ所村での取材に基づいて制作された、その土地の人々への「聞き書き」と「イラスト」で構成された冊子である(自分たちの主張を書くのではなく、「土に根をはった人たちの声」を書き残すことが重要だと岸は考えていたようである)

支援する会では、野外展と並行して会報誌も多数発行され、グッズや絵本も制作された。先ほど触れた展示の設営撤収だけではなく、広報活動や会報誌の発行においても、主要な実務は若手の絵本作家やイラストレーターが担っており、とりわけ告知の葉書の発送などの事務作業は女性に偏っていた(*14)。こうした環境に加えて、それぞれの家庭や仕事の事情もあって、支援する会を離れたり距離をとる者も少なくなかったが、いっぽうで、会報誌などを見ていくと、関係者(とりわけ女性作家)が内部で声を上げながら運営がなされてきたことが伺われる。野外展のパネルだけを見ていては見落としてしまうものが、そこには多く記録されている。それについて書く前に、少し迂回をしたい。

菊池日出夫の野外展パネル(1974) 「土 vol.3 開発の村」にも登場する。撮影:筆者
長新太による野外展パネル  撮影:西澤諭志 (協力:安曇野ちひろ美術館) 金沢佑光は、「長新太もう一つの顔」という短いテキストのなかで長新太の反戦野外展参加について触れている。「しゃれたユーモラスな表現で、大国アメリカの侵略的本性をみごとにあばき出しました」「うっかりするとグロテスクになってしまうモチーフですが、ちょうさんは、独特のしゃれたユーモアに包み込んで、見る人の心に入り込む、まことにみごとです」といったように、繰り返し「しゃれたユーモア」を強調しているが、そこには、アメリカの国旗や大陸が大量の血で溢れ、大量虐殺を強く示唆する長の絵の直接性を中和しようとする意図が見える(『月刊絵本』1973年9月号 p.56)
田島征三の野外展パネル(1969)。田島はベトナム反戦にとどまらず、伊江島の米軍基地闘争や、舘野鉄工所米軍機墜落事故など、現在進行形の問題を取り上げながら、多くの野外展パネルを制作し続けた 撮影:西澤諭志(協力:安曇野ちひろ美術館) 
『グラフィック デザイン』1969年12月号。表紙を田島が飾っているが、男がこちらを凝視して座り込む様子は野外展でのパネルと非常に似ている。羽原粛郎は同誌収録の「〈ベトナムの子供を支援する会〉野外展」という文章のなかで、野外展を「一主婦からの反戦童話をはじめいろいろの分野の人達がいろいろな方法で参加し、出品しており、なにか淡い期待を感じさせた」と記している(p.63)

迂回──戦争児童文学

「イザナギと呼ばれた時代」は、児童文学においても重要な局面にあった。児童文学研究者の宮川健郎は、「近代童話」が「現代児童文学」へと転換した時期を1960年前後としたうえで、次のように述べている(*15)。

「現代児童文学は、「戦争」を書くシステムとして成立したといってもよいだろう。」

実際、「戦争児童文学」という呼び名が用いられるようになったのは1963年頃であり、その定着は1970年頃であるという(*16)。この時期、いわゆる児童書は抽象的な心象風景を描くことから、散文的・説明的なことばで子供と社会の関係を活写する「小説形態」へと接近し、それと比例するように、物語はその長さを増していった。「童話」から「小説(文学)」へ──その転換期にあったのがベトナム戦争(と「太平洋戦争(空襲)の忘却」)であった(*17)。

飯田栄彦(1944〜2015)(文)、林明子(絵)『飛べよ、トミー!』(講談社、1975)より 撮影:筆者

ひとつだけ例を挙げる。1975年に発売された『飛べよ、トミー!』は、ソンミ村の虐殺に関わったアメリカの青年脱走兵トミーを、日本の小学生・徹(とん)たちが家族で匿う話である(*18)。深刻なPTSDに悩む脱走兵や、ベトナムの民間人殺害の様子を挿絵で描くのは、翌年『はじめてのおつかい』(*19)を手がけることとなる林明子(1945〜)だ。

こうした児童文学に加え(*20)、絵本に可能性を見る作家も少なくなかった。後年、森崎和江(1927〜2022)と絵本を共同制作した前衛画家の山下菊二(1919〜1986)は次のように絵本に期待を寄せる(*21)。

「評論家や美術家たちによって組織された、《反戦展》などに参加することによって、反戦・平和の美術運動を拡大、強化してゆくことは勿論のことですが、固定しがちな運動や創造上の発想を自由に進展させるための方法として、《絵本》などのように、原画から量産(印刷)されたものが作品として、反戦・平和の運動を拓いてゆく媒体となり、多くの人々によって有効に活用されるにとどまらず、文学・美術における反戦思想表現の問題として、世界的な反戦運動の場でより強化されるであろうことが考えられます。」

もちろん、制作者や批評家、そして何より児童書を実際に子供に買い与える「親たち」(子供のころに空襲を経験した世代である)の間でも意見は様々であったし、否定的な意見も散見される(*22)。扱う主題についてもそうだが、小説のように長く複雑化する傾向を「読み聞かせ」の観点から否定的にとらえる者も少なくなかった(*23)。そこには、子供の目に残酷な情景を触れさせたくない、社会の暗部を知らずに育ってほしいという感情もあれば、複雑な絵本は「簡潔な言葉を聞き、それを自分の想像力でイメージとして育て上げていく」という訓練の邪魔になるという懸念もあった。それでも「イザナギと呼ばれた時代」に数多くの反戦絵本・児童書が出版されたという点は何度も強調されて良いだろう。ベトナムの子供を支援する会による反戦野外展は、こうした動向と軌を一にしつつも、より直接的、複合的であり、そして何より、長期的なものであった。

迂回──ゼッケン通勤

長期的な活動は、それゆえに知られづらくなるという転倒がしばしば発生する。1回限りの瞬間的なパフォーマンスのほうが注目を集めやすく、象徴的に歴史化されやすいということもある。また、そのパフォーマンスが続けば続くほど、「本当にずっとやっているか」といった「徹底」を求める監視の目や、「終わるタイミング」にだけ関心が注がれるという事態も発生する。たとえば辺野古の座りこみが週7日24時間体制でないことを揶揄する声や、野外モニュメントの撤去に関する報道を想起すれば良いだろう。ここでは、支援する会に関する記述から迂回することになるし、決して作品として提出されたものではないのだが、金子徳好(1924〜2007)のゼッケン通勤について触れておきたい。

銀座通りを歩く金子。電子版『ゼッケン8年: ベトナム戦争反対のゼッケンをつけて8年間通勤した男の手記』(2014)より(単行本掲載の写真とは別カットである)。ハイレッドセンターによる「首都圏清掃整理促進運動」(1964)が圧倒的知名度を誇るが、野外展も金子の通勤も、いずれも銀座が舞台となっている

日本機関紙協会本部の事務局長・金子徳好(*24)は、1965年4月5日から1973年6月13日まで、8年2ヶ月にわたり、「アメリカはベトナムから手を引け」と書かれたゼッケンを着用し通勤している(*25)。しかしすぐさま付け足さねばならないが、金子自身、著書のなかでゼッケン着用を「よくさぼった」と書きつけている(*26)。

「朝つけてでていっても、帰途一パイ飲んで外してしまうことがしばしばだった。また、気がのらなくて、はじめからつけていかない日もあった。」

また、ゼッケン通勤が長期間に渡るほど、活動開始時は応援してくれていたが、ゼッケンを脱ぐよう進言する者も出てくる(「徳さん、今だよ。今の時機を逸すると、またゼッケン外せなくなるぜ」[*27])。金子が最終的に「区切り」とした1973年6月13日は、アメリカとベトナム民主共和国が、パリでの和平協定の実現に向けた共同声明に署名した日であった。8年間を振り返って、金子は次のように書いている(*28)。

「僕に対する評価は、はじめの二年間ぐらいのほうが、はるかに高かった。二年間はほめられても、六年間はほめられないらしい。長すぎたのか。」

こうした葛藤が率直に吐露される金子の手記は、自身が聖人とみなされるのを拒否する姿勢と、しかしそれでも一定の評価はされたいという人間臭さのいずれもを窺わせるものであるが、実際、ベトナムの子供を支援する会にとっても、いつまで、そしてなんのために活動を続けるのかという問いは大変難しい問題であった(*29)。

ベトナム・ホーチミンにある戦争証跡博物館に金子の着用したゼッケンが寄贈されている。ゼッケンには「日本の平和のために」という言葉が加筆されていることがわかる(なお着用されたゼッケンは複数存在する) 撮影:筆者

「怪傑トパンガ」──ベトナム戦争以後

「怪傑トパンガ」1〜10号 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)

長くなってしまったが、ベトナムの子供を支援する会に戻りたい。支援する会もまた、1973年に米軍がベトナムから撤退する際には野外展を不定期化させているが、それでも活動自体は継続された。何より特筆すべきは、ベトナム戦争の終結となる1975年から、まったく新しく「怪傑トパンガ」という冊子の刊行を開始している点である。大友康夫(1946〜2020)を編集長に据え、若手メンバーが多数参加したこの冊子は、当初年5回の発行──72日に1回のユニークな新聞──を予定していたが、ずるずると予定は延び、しかしそれでもたち消えになることなく10号(1980)まで刊行されている(*30)。

小冊子「1964年9月8日午前10時56分 舘野鉄工所米軍機墜落事件裁判支援」(絵は田島征三)と、西村繁男が表紙を手がけた「怪傑トパンガ」8号 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)
版画:市川幸平(「怪傑トパンガ」8号) 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)
八木りえ子が表紙を手がけた「怪傑トパンガ」9号 撮影:黑田菜月(資料提供:浜田桂子)

ベトナム戦争終結以後、支援する会の面々はベトナムへの支援活動と並行して、青森むつ小川原開発地区、米軍機墜落事件と被害者の裁判支援、広島の被爆者との交流などに関心を向けていったが、同時に、自分たちの足元を見直すことを怠らなかった。「怪傑トパンガ」では4号から6号にかけて、女性作家たちが中心となり「支援する会」内部の性的分業を検証している。彼女たちから依頼を受けた画家の富山妙子(1921〜2021)は「怪傑トパンガ」4号に「ベトナム戦争と女性解放」という文章を寄稿し、4時間にわたる講演を行なった(*31)。

「ベトナム戦争反対とか、韓国の金芝河を救えというようなことをいいながら、女性差別となると、もっと日常の深いところに浸透しているので、これは男女ともに自己革命を迫られる問題になってきます」(*32)

富山妙子のリトグラフ《声よ 消された声よ チリに》が表紙を飾る「怪傑トパンガ」4号(減頁緊張遅刻号) 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)

幼稚園に勤めていた菅野泰子は、「”女性解放”ということばをきいただけで、男まさりの行動力とか、論理的なしゃべり方とか、そんな、自分にはないものをもっている女性たちが、髪の毛さかだって騒いでいるみたいに思っていた」(*33)が、富山との交流を経て印象が変わったという感想を記している。「怪傑トパンガ」は「女性解放 私はこう考える」という小特集を組み、5号で女性たちの、6号では男性たちの「支援する会」メンバーの声を拾っている。

左は「怪傑トパンガ」4号、紫色の紙は富山妙子講演会チケット、中央は「怪傑トパンガ」5号掲載のいまきみち(上)と田浦みはと(下)のエッセイ、右は「怪傑トパンガ」6号掲載の西村繁男(上)と渡辺勝義(下)のエッセイ 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)

ひとつずつ取り上げたいのだが、ここでは2点に絞る。ひとつは絵本作家のいまきみちによる文章である。いまきは自身の現状を次のように説明する(*34)。

「娘がお腹にいるとき、出版社をとおしてはじめてだす絵本を三年がかりでつくっていました。生まれてからは娘が眠ったとおもったら、机の前に座って、最後の仕上げにおおわらわの生活でした。動きはじめると机の前に座っていられなくなり[...]娘が三歳になり、さあ机の前にすわってまた仕事をはじめようというとき又、妊娠し、五ヶ月で胞状奇胎だとわかり、その後軽いノイローゼ状態になり、やっと今、机を前に座って仕事をはじめることができるようになりました。」

そしてこの間、「一緒に暮して、同じ絵本の仕事をしている彼がそれ〔家父長制〕に甘んじていたということ」に思い至るようになり、自身もまた、「絵本のなかで「おかあさん」というタイトルで小さな子供達にお母さんとは洗濯し、家にいてごはんをつくってくれるというかたよったイメージを与える絵本を作ってしまいました」と述懐する。それは幼少期からその時点に至るまでの自身の生活にほかならなかったわけであるが、富山との交流を経て、いまきは「お父さんが家事をしている絵本の方がまだ良かったのに」と悔やみ、その絵本を絶版にするという決断を下している。とても重い決断である。

6号では、西村繁男(にしむらしげお名義)が「ぼくはいろんな差別に関して憤[り]を持っていたつもりだし、女性の権利に対しても理解がある男だと、なぜか一人でそう信じきっていたのだが、具体的に日常の生活になるとどうもそうではなかったらしい」と述べている(*35)。

「ぼくが仕事をしたい様に、彼女も仕事がしたい。ぼくが時間が欲しいように、彼女も時間が欲しい。そして子供を産んだのは彼女でも育てるのは二人なのだ。」──文章には、丸めがねでヒゲを生やした自身がフライパンとペンを持つ姿が添えられている。

小冊子「1964年9月8日午前10時56分 舘野鉄工所米軍機墜落事件裁判支援」裏表紙(絵は浜田桂子) 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)同じ絵が八木の野外展の絵(本論2枚目の写真参照)にも登場している。
「怪傑トパンガ」特大7号 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男)

「反戦野外展」を継続的に開催し、何百回も会合を開き、膨大な数の会報誌を発行し続けた「ベトナムの子供を支援する会」は、ベトナム戦争終結後、このようにして自分たちの活動や家庭のなかに眼差しを向けていった。

「怪傑トパンガ」7号は実質、会全体を総括する内容となっており、多くの野外展参加者がエッセイを寄稿している。7号の表紙は浜田桂子が描いているが、この絵はこれまでの支援する会や野外展の印象を元に見れば唐突にも思える。これを描くにあたっては、米軍機墜落により3人の息子や工場の従業員たちを失った舘野正盛氏のことも念頭にあったというが、何よりもそこに、浜田が当時2児の子育て真っ最中であったという実体験が重ねられている(*36)。彼女は、70年代に入り、子育てに追われてなかなか活動に参加できなかったと振り返った。

浜田が『あやちゃんのうまれたひ』で、絵本作家としてデビューを果たすのは1984年になってのことであるが、彼女を出版社とつなげたのは支援する会のメンバーだったという。そしてまた、70年代、活動の一線からは離れることになってしまっている時期も、支援する会の面々との電話や訪問、ちょっとした作業に元気づけられたという。

市川幸平(1953〜)による手描きの年表(「怪傑トパンガ」特大7号) 撮影:黑田菜月(資料提供:西村繁男) おそらくメンバー内でも最若手のひとりであった市川の絵は、「怪傑トパンガ」の空気感を随分と変えている(野外展パネルも描いているが、筆者はむしろこうしたイラストレーションに彼の魅力を感じ惹かれた)。市川は近年、作品集を刊行しているので読まれたい(『ハールハル・マハデーブ 夏への扉で待ち合わせ』(邑楽社、2022年、詞書:末森英樹、企画制作:ナマステ楽団+off note)。

ベトナムの子供を支援する会は、長期にわたるがためにその全貌が見えづらく、60年代末から70年代初めにかけての動きが優先的に紹介されてきた(*37)。実際、その期間の盛り上がりこそがもっとも充実していたと見る向きもあるかもしれない。しかし、支援する会の、遅延や不義理を重ねてもなお発表されてきた創作物たちを見るならば、そこでうごめいているのは、変化を余儀なくされながらも、生活から「ベトナム」を、そして「運動」から生活を手放さなかった者たちの時間なのである。

(つづく)

*1──「子供」「子ども」と表記に揺れがあるが統一はしないこととする。
*2── 1973年6月の53回目の野外展以降は不定期となる。また、1975年4月の野外展では、右翼(赤尾国彦)の襲撃を受けている。その後、1976年、1977年にも野外展を開催していることが確認されている。
*3──インタビューを受けてくださった田島征三氏、西村繁男氏、いまきみち氏、市川幸平氏、浜田桂子氏、菊池日出夫氏に厚くお礼申し上げる。また、安曇野ちひろ美術館にも資料の閲覧や撮影など多大なご協力をいただいた。
*4──小冊子『〈ベトナムの子供を支援する会〉作品集 1967年8月→1968年7月』、『怪傑トパンガ』特大7号、本人へのインタビューなどにより構成した。
*5──田島が東京国立近代美術館で開催されていた「グラフィック アート USA」展(1967年4月6日〜5月14日)において、「シャレた手さげの紙バッグ」を目にした際に思いつき、今江祥智(1932〜2015)、古田足日(1927〜2014)に相談したことから動き出したという(6月に提案し、9月にバッグが完成)。なお、紙バッグ制作には30万円かかったが、2年数ヶ月かかって13万円ほどの売り上げにしかならず大赤字であったと田島は振り返っている。しかしこの紙バッグがその後の活動のきっかけとなったことに間違いはない。
*6──並行して、ガリ版刷りの「ベトナムの子供を支援する会ニュース」の定期刊行を開始。会員ニュースは膨大な数にのぼるが本論ではほとんど触れられなかったことをお断りしておく。
*7──由比忠之進が焼身自殺をした翌日であり、野外展にはエスペランチストも参加した。
*8──西村繁男「「ベトナムの子供を支援する会」の野外展はぼくにとって学校だった」古田足日、米田佐代子、西山利佳 編『わたしたちのアジア・太平洋戦争〈3〉新しい道を選ぶ』童心社、2004年、p.196
*9──嬉野はいわさきが出展することをあらかじめ知って撮影に行ったと思われる(嬉野氏に確認をしたが覚えていないとのことであった)。なお、本論では扱うことが叶わなかったが、いわさきの作品分析については、後述の宮下美砂子の論述に加え、成相肇「目が泳ぐ──いわさきちひろの絵で起こっていること」『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』(かたばみ書房、2023)が充実している。
*10──宮下美砂子『いわさきちひろと戦後日本の母親像 画業の全貌とイメージの形成』(世織書房、2021、p.199)なお宮下氏は、いわさきと野外展について筆者の質問に答えてくださった。記して感謝したい。
*11──同上、p.203。
*12──西村繁男「「ベトナムの子供を支援する会」の野外展はぼくにとって学校だった」古田足日、米田佐代子、西山利佳 編『わたしたちのアジア・太平洋戦争〈3〉新しい道を選ぶ』童心社、2004年、p.198。
*13──筆者のインタビューによる。
*14──大垣(熊谷)淑子、長谷川知子、田坂まゆみらが事務局長を務めているが相当な負担があったようである。なお、熊谷事務局長時代(1969年から1971年ごろ)に、長谷川知子を含め、菅原道彦、八木康夫、西村繁男、原田克美、原雅子、小野雅之、加納政子、大綱星司、藤原文人、渡辺勝義、いまきみち、田島敬之らその後の主要メンバーたちが入会している。また、全ての名前を網羅できないが、浅野竜男、浅見明、穴沢一博、飯島恭子、市川幸平、大友康夫、小沢勝、片野一美、金沢佑光、菅野泰子、菊池日出夫、菊池通子、岸正幸、小島操、佐伯敏子、佐藤あかね、曽我礼子、田浦みはと、高橋豊明、滝沢陽子、中村成二、野中良子、浜田桂子、藤井照子、正井慧、松浦郁子、八木りえ子、安田百合子、山内慶子、山村和子、山本かず子、横井大侑など「ベトナムの子供を支援する会」には多くの人々が関わっている。
*15──宮川健郎「第11章 第二次世界大戦後の戦争児童文学Ⅲ」『はじめて学ぶ 日本の戦争児童文学史』鳥越信・長谷川潮編著、ミネルヴァ書房、2012年、p.127
*16──長谷川潮『日本の戦争児童文学 戦前・戦中・戦後』久山社、1995年、p.85
*17──酒井晶代「 第21章 戦争児童文学に描かれた空襲」」『はじめて学ぶ 日本の戦争児童文学史』鳥越信・長谷川潮編著、ミネルヴァ書房、2012年、p.249
*18──実際に、当時ベ平連が中心となり「JATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)が組織され、脱走兵を匿う事例は多数存在した。高橋武智『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……ベ平連・ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007)や小山帥人『我が家に来た脱走兵:1968年のある日から』(東方出版、2020)などを参照。 
*19──福音館書店、1976年。文は筒井頼子(1945〜)。
*20──今江祥智は、飯田栄彦の『飛べよ、トミー!』とともに、岩瀬成子(1950〜)の『朝はだんだん見えてみる』(理論社、1977)や、脱走兵について書いたさとまきこ(1947〜)の『絵にかくとへんな家』(あかね書房、1973)を紹介しながら、「この人たちの世代に、わたしは一つの新しい書き手たちの登場を感じています。」と賛辞を送っている。 今江祥智「子どもの声は神の声か」『絵本の新世界』大和書房、1984年、p.43(初出『月刊絵本』1977年2月号)
*21──山下菊二「命と金鵄勲章が天秤に」『月刊絵本』1975年8月号、p.36
*22──「現在の日本において、子どもたちに絵本で戦争を語ることは、至難のわざであろうと思う。多くの画家や作家たちによって、さまざまな試みや努力が重ねられているにもかかわらず、作り手のねらいと読者の受けとり方とのあいだには、常に大きな落差が生じ、その意図が確実に伝達された例は皆無といってよいのではないかと思うからだ。」 砂田弘「戦争絵本論 絵本で戦争は描けるか」『月刊絵本』1975年8月号、p.22
*23──石井桃子(1907〜2008)など。なお、のちに触れるが、富山妙子が児童文化に関心をもち、絵本や挿絵に関わるようになった経緯については、宮下美砂子「石井桃子と女性画家の協働関係ーー終戦から1960年代前半の活動を中心に」(『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書268』、2014年)に多くを学んだ。「富山が自身の問題意識を初めて意識的に作品に表現しようと思い立ち、画家として大きく飛躍するきっかけは、間違いなく石井桃子との出会いにあったといえよう。石井は戦後の困窮状況にあった富山に仕事を斡旋し、生活面だけでなく精神面でも支援し、間接的ではあっても画家としてのライフワークに出会う機会も提供した。」(p.22)
*24──平成『ガメラ』シリーズや『デスノート』の監督・金子修介(1955〜)の父である。
*25──ただし、ゼッケン着用は金子がオリジナルではない。東京土建一般労働組合の磯田栄は、松山事件の冤罪死刑判決(1960)への抗議のため、1年半ゼッケンを着用し続けるなど、先行例は存在する。
*26──金子徳好『ゼッケン8年』朝日新聞社、1974年、p.5
*27──同上、p.116
*28──同上、p.160
*29──小泉義之は、責任が無限か零かの二陣営に偏りがちであり、しばしば歴史の解釈論争となってしまう状況を踏まえ、必要なのは「有限の責任の算定」だと主張している。これをそのまま本論の問いに敷衍することはできないが、引いておきたい。「道徳的不可能論の責任論においては、歩み始めたところで歩み切ることはできないとしながら、とにかく歩み始めるべきであり歩み続けるべきであるとして、実際には、自分の歩み方だけを弁明するという具合なのである。しかも、被害者を代行する第三者が、加害者の責任には限りがないとし非難し、他方では、加害者を代行する第三者が、限りないと語られるのでは切りがないと語ることをもって、加害者の責任は零であると仄めかす。そんな風にして、被害の程度と責任の程度を算定することが曖昧にされているだけではなく、責任問題を程度問題として語ること自体が誤っているかとのように信じられてもいる。」(小泉義之「責任の有限性のために」『哲学原理主義』(青土社、2022、p.52))
*30──「怪傑トパンガ」の刊行日は以下。
1号(創刊号):1975年1月1日刊行
2号(早春躍進号):1975年4月1日刊行
3号(日・韓・米・アカンベー号 / 南ベトナム解放ニコニコ号):1975年7月31日刊行
4号(減頁緊張遅刻号):1975年12月21日刊行
5号(つゆ晴れ爽快号):1976年6月12日刊行
6号(からっかぜ号):1976年12月25日刊行(特集:開発の村)
7号(特大7号):1977年10月30日刊行(特集:ベトナム反戦運動は終ったか わたしたちはいま ベトナムはいま)
8号:1978年3月18日刊行(特集:横浜緑区米軍機墜落事件を考える1)
9号:1978年7月10日刊行(特集:横浜緑区米軍機墜落事件を考える2)
10号:1980年8月31日刊行(特集:ヒロシマのおばさんとぼくたち)
また、第10号刊行の遅れにともない、「怪傑トパンガれんけつニュース」が1979年2月3日に刊行されている。そこでは遅延のお詫びとともに、「ベトナム戦争が終わった今でもその活動は続けています。けれども今、私たちは、広島のこと米軍機墜落のことなどそれぞれいろいろな問題に関わっています。」と記されている(おそらく執筆は編集を担当した安田百合子)。
*31──1976年2月1日、新宿・土建会館にて「トパンガ第一回セミナー 女性開放の立場から美意識を考える」。登壇者は富山に加え、夏目漱石をフェミニズム的視点から批判的に読み直していた駒尺喜美や産婦人科医の上野博正がいる。
*32──富山妙子「ベトナム戦争と女性解放」(「怪傑トパンガ」4号)
*33── 菅野泰子「富山妙子さんに会って」(「怪傑トパンガ」4号)
*34──いまきみち「「おなかがすいたなあ」←全員 「きょうは僕がつくるよ」←おとうさん 「じゃあ、私が皿洗いするわ」←おかあさん 「あっちゃんはお茶碗はこぶ」←あっちゃん」(「怪傑トパンガ」5号)
*35──にしむらしげお「この頃やっと...」(「怪傑トパンガ」6号)
*36──筆者のインタビューによる。「絵本は子供が読むものなのだから、今の育児の経験が絵本をつくるのに無意味になるわけがない」と心を折らずにやってこれたと浜田は語る。保育士との連絡帳にはびっしりとその日あった出来事を書き込み続けたそうである。
*37──なお、反戦野外展を取り上げた展覧会には、ちひろ美術館・東京の「再現!「ベトナムの子供を支援する会」反戦野外展」(2007)、立命館大学国際平和ミュージアムの「ベトナム反戦ポスター展 -アーティストからのメッセージ-」(2008)、国立歴史民俗博物館の「「1968年」ー無数の問いの噴出の時代ー」展(2017)などがある。

長谷川新

長谷川新

はせがわ・あらた 1988年生まれ。インディペンデントキュレーター。京都大学総合人間学部卒業。専攻は文化人類学。主な企画に「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」展(2013-14)、「無人島にて―「80年代」の彫刻 / 立体 / インスタレーション」(2014)、「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」(2015)、「クロニクル、クロニクル!」(2016-17)、「不純物と免疫」(2017-18)、「グランリバース」(メキシコシティ、2019-)、「αM Project 2020-2021 約束の凝集」(2020-21)、「熟睡、札幌編 / 東京編」(2021-22)、「Gert Robijns: RESET MOBILE- Crash Landing on Akita」(2022)など。共同モデレーターを務めた大阪中之島美術館の開館記念ラウンドテーブル「美術館学芸員がいま相談したいこと」がYouTubeで公開中。https://www.youtube.com/watch?v=hmYr9t9VVsI&feature=youtu.be