最終更新:2022年3月17日

「私にとって”表現者“は憧れの言葉でした」。多領域で活動する中間子・小池一子インタビュー

日本で初めてのオルタナティブ・スペースを創設した小池一子にインタビュー。1960年代以降の日本のクリエイティブ領域の黎明期を、コピーライター、編集者、クリエイティブ・ディレクターとして牽引し、80年代よりアートの現場でもその活動を展開してきた小池が語るオルタナティブ、アート、表現すること。

小池一子 撮影:久家靖秀

1960年代以降、日本のアートやクリエイティブのシーンを牽引してきた小池一子の仕事を総括し、同時代の芸術家やクリエイターの軌跡に改めて光を当てる展覧会「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」が3月21日まで3331 Arts Chiyodaで開催されている。

多くの人たちと同様、筆者もはるか先を闊歩する小池さんの背中を視線の先に確かめながら活動してきた。もっとも影響を受けたのは、美術館でもギャラリーでもない独自の活動を展開する非営利のオルタナティブ・スペースの先駆けとなった「佐賀町エキジビット・スペース」(1983〜2000)だ。江東区の旧東京廻米問屋市場内、1927年建立の食糧ビルの建物に出現した「佐賀町」は、キャリアもお金もないが才能の片鱗を見せる数々の若いアーティストを世に送る「現場」だった。

西洋美術史専攻の学生だった筆者が同期生たちとともに初めて訪れた「佐賀町」で観たのは、よりにもよって大竹伸朗の個展だった。床に這いつくばり作品にまだ手を入れ続けている大竹から、熾火のように燃焼するエネルギーを受けとって以来、「いま」生きている人間が作る現代美術に惹かれていった。

「オルタナティブ!小池一子展」会場風景 Photo by Keizo KIOKU
「オルタナティブ!小池一子展」会場風景 Photo by Keizo KIOKU

本展の展示は「中間子」と「佐賀町」の2章に分けて構成されている。
「中間子」エリアでは、クリエイティブ・ディレクター、コピーライター、編集者、翻訳者、世界展開するライフスタイルブランド「MUJI(無印良品)」の創設メンバーといった小池の仕事のアーカイヴを紹介する。

「中間子」とは、日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹の「中間子論」に由来するという。「何かと何かを結びつけて新しい価値を生む」小池の仕事の象徴として選ばれた。アート、デザイン、ファッション、広告といった従来のカテゴリーで規定できない領域の横断に取り組み、表現者を裏方の立場で下支えする土壌を開拓してきた、その立ち位置を表明する言葉だ。

「2019年に、これまでやってきたことを『美術/中間子 小池一子の現場』(平凡社、2020)という本にまとめる仕事に取りかかりました。夢中になって資料を掘り起こしているうちに、佐賀町を始めるまでに激しい変遷があったことを改めて振り返ったんです。その頃、視覚表現に対するコンプレックスのようなものがあって、デザイナーやアートディレクターをとても尊敬していたし、ヴィジュアル的に最高のものを発想できる人についていきたいと思っていました。
そのいっぽうで自分自身はイメージよりも言葉の高みを目指していました。まずしっかりと思想やコンセプトを作り、彼らにアイデアをぶつけながら表現をかたちにする仕事を重ねていきました。同じ時代に邂逅した仲間たちと夢中で走り続けたこの助走期間があったからこそ、根源的なものがアートにあることに気づき、現代美術の原点に立ち返ろうと思いました」(小池)

1975年、小池は三宅一生とともに京都国立近代美術館で『現代衣服の源流展』を実現する。その際に、ニューヨークのキュレーターたちの動きを知る機会に恵まれたという。
また、ちょうどその転換期に、大学などの組織から研究者に与えられる「サバティカル」のような時間を設けて渡米したことは、小池にとって視点や意識に変化をもたらす貴重な体験になった。

「アメリカのキュレーターたちは、自分のなかで生まれたアイデアを、こんな展覧会どう?やってみない?と率直に話し合いながら実現につなげていく。これから自分の仕事をアートへ切り替えていくことに不安や焦りを感じていたので、美術館や商業画廊ではない別のアプローチを考えるきっかけになりました。そこからオルタナティブということがガシッと肝に入ってしまったんです。
40代くらいでサバティカルを取ることは、とくに女性にはとてもいいのでおすすめします。人生の時間を自分で設計する機会になり、きっぱりと切り替えて休養することもできます。私の場合はたまたまハワイの研究機関に滞在したのですが、仕事仲間が温かく迎えてくれて幸せでした」(小池)

小池一子。展覧会会場の「佐賀町」エリアにて Photo by Keizo KIOKU

本展の「佐賀町」エリアでは、小池が1983年に立ち上げた佐賀町エキジビット・スペースで開催された全展覧会のアーカイブ写真(『定点観測』 撮影:林雅之ほか)とともに、森村泰昌、横尾忠則、大竹伸朗ら20名の作家による当時の貴重な作品を展示している。

旧食糧ビルの講堂を使ったスペースは、美術館やギャラリーのホワイトキューブとはまったく違う、人の営みの痕跡が剥き出しのまま残された場所だった。当時、展覧会を依頼されたアーティストたちは、このサイトスペシフィックな展示空間に強く創作意欲を刺激されたに違いない。

「下町の古い物件を探していたのは経済的な理由ですが、都心の真新しいビルを借りるよりも、昔の棟梁たちが丹精した美しい建物を再生させるほうが(オルタナティブ・スペースには)合っていると思いました。裸のままで力強い空間をこの作家ならどう使いこなすだろうか。そう考えながらプログラムを組んでいきました。
ここでインスタレーションをきちんと見せられる新しい作家といえば、大竹さんしかいない。彼の個展初日にはいろいろな層の人が大勢詰めかけました。武満(徹)さんもいらしてましたね。大竹さんと親しい都築(響一)さんが『ブルータス』で記事を書いてくれて、ジャーナリズムの力を実感しました。だれもが自由で伸び伸びとした美術を待ち焦がれていたと思います」(小池)

「オルタナティブ!小池一子展」会場風景 Photo by Keizo KIOKU

本展の会場では、特別に制作された映像作品『オルタナティブ!』(監督:小松真弓)が上映されている。これは金井政明、杉本博司、小柳敦子、森村泰昌、立花文穂らが小池について証言する12分8秒の映像で、一部の発言にP音がかぶせられたほど、リラックスした(大胆な)放談も見どころだ。

なかでも大竹伸朗が語る「小池さんは美術館と闘ってきた人」という言葉は強烈だった。

「佐賀町」をオープンした頃、小池は日本社会と美術界に対して大いに不満を抱えていた。美術館は権威主義的で若い作家に門戸を開かなかったし、画廊主の多くは商売人だった(学生時代にバイトしていた銀座の画廊で、高額の日本画やピカソが政治献金として流通している漫画のような光景を筆者も目撃している)。若手作家が作品を発表する場といえば貸画廊くらいで、高額なレンタル料金を搾取するシステムは問題視されていた。

「たしかに仮想敵は商業主義に陥った銀座の画廊でした。アーティストの社会的な位置づけは弱く、“コンサーンド”ギャラリーと言えるようなビジネスモデルもありませんでした。私は画廊経営者になりたかったのではなく、アーティストを育てて伴走することのできるスペースを作りたかった。どうしたら姿勢を高く誇りを持って、エッジをぶれさせず、パートナーとして作家を支えていけるだろうか、と考えていました」(小池)

「オルタナティブ・スペース」の定義は時代とともに多様に変化してきたが、美術館やコマーシャルギャラリーとの明らかな違いはどこにあるのか。

公的な力、あるいは企業のマーケティング戦略などから一定の距離をとること。いちばんわかりやすいのは非営利活動であることだろう。お金をたくさん出したものに最強の決定権があるという資本主義の構造から解き放たれていることは、芸術の健全性を守る条件のひとつだ。アーティスト主体の真に自由な創造活動はそのような場所からしか生まれ得ない。

もちろん作品を流通させる経済活動は制作や業界の継続のために必要だが、「オルタナティブ」つまりそれ以外にもうひとつのやり方が存在し得ることを「佐賀町エキジビット・スペース」は示そうとした。当時の美術界の力学に対して、毅然として物怖じしない小池の態度はある種の凄みを見せていたのではないか。

「怖気づかなかったわね。力の格差なんてあったらとんでもない、同等ですよ。むしろバイリンガルで発信していたから、大使館の文化担当官が海外から来るキュレーターを連れてくることも多かった。空港に着いたら佐賀町に直行というような、生々しい発展のかたちもありました。
1990年代に入って、佐谷画廊やギャラリー小柳といった新しいギャラリーが意識を高く持って活動し、国内外に影響力を持つようになってからは日本の美術も変わってきました。最近では作家のサポート体制も決まったパターンでなく、多様な方法論が生まれてきて良いですね。
ただ、いっぽうでは経済の肥大化で、マーケット主導のアートの価値づけに混乱が起きているのも明らかです。公立美術館も買えない価格に高騰したらいったい誰がアーティストを支えるのか。バブル以降ずっと、お金が力の象徴となった状況にはいらついています」(小池)

「オルタナティブ!小池一子展」会場風景 Photo by Keizo KIOKU

2000年に「佐賀町」をクローズ後、武蔵野美術大学で教鞭を執ったあいだも、小池はその批評精神で日本の社会とアートシーンを注視し続ける。2011年には、アーツ千代田3331に「佐賀町アーカイブ」を設立。「佐賀町」の活動と資料、作品コレクションを検証するショーケースとして活動中だ。本展でも、内藤礼による《地上にひとつの場所を》(1991)の2022バージョンを展示し、31年を経た現代にこそ切実に求められる静謐な内観の空間を新たに提示した。

内覧会のスピーチや本稿のインタビューのなかで、「夢中になって」という言葉が何度も口をついて出たことが印象的だった。分け隔てなくあらゆる仕事に集中し対峙してきた姿勢と、巻き込まれた周囲の人々がいつの間にか「夢中になる」様子がうかがわれる。「佐賀町」時代から薫陶を受けてきた筆者自身も、2003年より12年間主宰したオルタナティブ・スペース(TRAUMARIS)の活動に完全に「夢中に」なった。

「私にとって〈表現者〉は憧れの言葉でした。私なりに何かを表現しようと夢中になるものを見つけてきました。私の生まれ育った家は戦後の民主主義教育の伸び伸びとした空気に満ちていて、母は世間というものを家庭に持ち込まなかったんです。世間のしきたりをやり過ごして、お雛祭りなんかもほどほどに、やりたいことだけやればいいと呑気なものでした。
私の仕事はどれも最初は小さなことで、続いていくうちに大きくなったものばかりです。それは誰の人生にもあることだから、夢中になれるものを見つけたら好きなことをすればいい。特に若い人たちはいま大変な時代を生きているけれど、いまやりたいことは、絶対にいまやったほうがいいと思うんです」(小池)

「オルタナティブ!小池一子展」会場風景 Photo by Keizo KIOKU

長年の多岐にわたる仕事のなかで、「佐賀町」と同じくらい、「MUJI(無印良品)」の立ち上げに参画したことは小池の哲学を象徴していると思う。

「あらまほし、とよく言うのですが、こうありたいという生き方を集積したものがMUJIの発想であり、私の活動の中心にあった」と小池は語っている。

いまこの時代を生きる人が、苛烈な災禍に見舞われようとも、健康で文化的な生活を送り続けることをどれほど求めているか。自由で平等で愛に溢れた生き方ができたらと願い求めているか。すでに私たちは実感している。

アートやデザインのクリエイションの根源にあるのはその希求そのものであることを、小池一子の仕事は堂々と表現し続けてきたのだ。

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住吉智恵

住吉智恵

アートプロデューサー、ライター。東京生まれ。慶応義塾大学文学部美学美術史学専攻卒業。1990年代よりアートジャーナリストとして活動。アートスペースTRAUMARIS主宰を経て現在各所で現代美術展とパフォーミングアーツの企画を手がける。バイリンガルのカルチャーレビューサイトRealTokyoディレクター。(MP・Risaku Suzuki)

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