公開日:2023年12月19日

「白井美穂 森の空き地」 (府中市美術館)を作家の言葉とともにレポート。迷宮を彷徨い、差し込む光に出会うように

1990年代前半に発表された貴重な立体作品から近年の絵画まで、国内外で活躍してきた作家の美術館初個展。会期は12月16日〜2024年2月25日。

会場風景より、《Forever Afternoon》(2008)

「白井美穂 森の空き地」府中市美術館で12月16日に開幕した。会期は2024年2月25日まで。企画は同館学芸係長の神山亮子。

本展は白井美穂(1962年京都府生まれ)の美術館では初の個展となる。

1986年東京藝術大学美術学部絵画科卒業、1988年同大学院美術研究科修士課程修了した白井は、80年代後半からインスタレーション作品を発表して注目を集め、ヒルサイドギャラリー(東京)などで個展を重ねてきた。1993年から2006年まではニューヨークに住み、美術界のグローバル化や多様化、9.11同時多発テロとその後のイラク戦争で揺れるアメリカを経験した。帰国後は東京を拠点に、「アーティスト・ファイル」(国立新美術館、2008)、「絵画の現在」(府中市美術館、2017)といったグループ展や、個展「Forever Afternoon」(ノーザーン・ギャラリー・フォー・コンテンポラリーアート、イギリス、2008)で作品を発表するほか、「瀬戸内国際芸術祭」(2013)、「あいちトリエンナーレ」(2013)などの国際展に参加している。

会場風景より。左手前は《前へ前へとバックする》(1989)

本展は1990年代前半に発表された貴重な立体作品を約30年ぶりに展示することに加え、2000年代以降の絵画、映像や立体作品が一堂に会し、全5章で知られざる巨人の全貌を明らかにするもの。

35年に及ぶキャリアのなかで様々なメディアを駆使してきた白井の作品世界には、多様性や変化とともに一貫した感覚が感じられる。それはあえて言葉にすれば、言葉遊びを愛するユーモア、洗練されたイメージの洒脱さと美しさ、つねに変化・循環する世界や生命の流動性へのまなざし、社会的な不平等や暴力、既存の価値観への批判精神、そして、迷宮を彷徨い、ここではないどこかを目指すような、切実でファンタジックな世界観……と言えるだろうか。

開幕にあたって、同館の神山は白井の作品の魅力について以下のように語る。

「私も発表当時に実見していない90年代の作品を、倉庫に入って発掘し、会場で構成することでようやく見ることができました。こうした作品について、私自身もまだ整理しきれていないところはありますが、90年代の時代の空気感を感じるとともに、いまだからこそ見えてくる部分もあると思います。

白井さんの作品には既製品の組み合わせによって作られているものが多いですが、そこにはとても優雅な操作のかたちがあります。

また白井さんは活動の初期から、美術史における女性の立場というものをよく意識されていて、そうした点が読み取れる作品もありますし、現代だからこそ共感できるメッセージとして受け取れることもあるのではないか。

そして白井さんの作品では、2つの対となる概念を対照させるものも多く見られます。また落ちてきそうなものや転がっていきそうなイメージも作品によく含まれており、それは悲劇的な結末を予感させると同時に、その崩壊やカタストロフが解放をもたらすものとしても感じられ、私としてはとても力をもらえるように感じています。そうした作品の部分を、ぜひ皆さんにも感じ取っていただきたいです」(神山)。

「空き地」とは?

内覧会で聞いた作家の言葉とともに、いくつかの作品を紹介しよう。 

展覧会は、初期のインスタレーション作品からスタート。1980年代末から90年代、バブル経済とその崩壊と重なる時期に作品を発表し始めた白井は、社会的慣習や風俗を引用、流用し、既製品を用いた作品を生み出した。

会場風景より、《永い休息/立ち入り禁止》(1989)

美術館のエントランスロビーにある《永い休息/立ち入り禁止》(1989)は、よく見かける結界を作るロープ3本を組み合わせたものが2つ対比されている。ひとつは階段状のブロックのうえに横並びになっており、もうひとつは手を取り合うように三角形を作っている。これは作品タイトルの「立ち入り禁止」の状態でもあるし、展覧会タイトルにある「空き地」的な状態を生み出しているとも言える。

この「空き地」とはどのようなイメージなのだろうか。展覧会の中盤にある「不思議の国のアリス」をモチーフにした映像作品《Forever Afternoon》(2008)にも言及しながら、白井はこのように語る。

会場風景より、《Forever Afternoon》(2008)

「展覧会のタイトルを『森の空き地』としましたが、ちょうど府中市美術館は府中の森公園という森のなかにあり、チラシに使っている映像作品《Forever Afternoon》(2008)も森のなかで撮影したという共通点があります。鬱蒼とした、いろんな意味での迷宮のような森のなかにあけ開けのような空間があって、そこに光が差し込む。神山さんがおっしゃってくれた“解放感”のようなイメージが私のなかにもあり、展覧会のタイトルにしました」。

会場にて、白井美穂

境界と往還

循環や往還、そして境界のイメージは、ほかの作品にも度々現れる。境界への関心には、1989年のベルリンの壁崩壊という社会的事件も影響しているそうだ。

「1章 1日で世界を一巡り」に展示された《前へ前へとバックする》(1989)という矛盾した言葉遊びのようなタイトルを持つ作品は、前へ滑るように設計されているスキー板をひし形状に組み合わせることで、向かうべき方向がぐるりと一周し、しかもその姿を標識のように設置された鏡が反射することで、永久的な循環のイメージが立ち現れる。

会場風景より、《前へ前へとバックする》(1989)

「2章 往還」にある《Table》(1992)では、それこそ「不思議の国のアリス」のお茶会が行われそうな情景が広がっているが、じつはタイトルになっているテーブルはなく、あるべき場所には人工のクリスマスツリーが並んでいる。

会場風景より、《Table》(1992)
会場風景より、《Table》(1992)

「対立するものや、それを隔てる境界に関心を持ってきました。《Table》では向かい合う人たちのあいだに、境界のように暗い森がある。そして椅子にとっては、かつて自分が椅子になる前の、伐採される前の樹木の姿を見ているような姿でもある。この作品はタイトルになっているテーブルがどこにもありませんが、このように言葉とイメージの関係への興味からも、いくつかの作品を作っています。

《女は女である》(1996, 2015)もそのひとつで、ジャン=リュック・ゴダールの同名映画から着想を得ていますが、このタイトルは同義反復、最初の主語としての女がどこにも向かわずまた女に還ってきています」。

会場風景より、《女は女である》(1996, 2015)

美術における“女性”

アメリカのカラーフィールド・ペインティングの巨匠バーネット・ニューマンへの「日本人の女性としてのレスポンス」だと白井が語る《Waterfall(Why are You Afraid of Black and White?)》(1993)は、絵具ではなく若い女性の象徴としての黒い髪、そして年を取った女性の象徴としての白髪(人工毛髪)で制作されている。

会場風景より、左が《Waterfall(Why are You Afraid of Black and White?)》(1993)、右が《Cut》(1993)

「もとの作品は《Who's Afraid of Red, Yellow and Blue》という、『誰が恐れるものか』といったマッチョな言い回しのタイトルを、私は『誰が恐れるの?』と問いかけるような言葉に変えました」

また《Cut》(1993)は、写真が持つ時間を切断するような特性と、身体から切り離され抽出された脚のダブルイメージ。「性的客体化/モノ化」という言葉があるように、絵画や写真においてしばしば女性の身体は、人格から切り離されてフェティッシュ化され、一方的にまなざされたり、意味づけられてきた。そんな美術史や大衆消費文化のイメージを反転させるように、本作の脚のモデルはじつは男性が務めているという。

会場風景より、《Cut》(1993)

9.11と反戦運動から生まれたキルト作品

白井は1993年にアジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を得て、ニューヨークに拠点を移した。居を構えていたのは、2001年9月11日にテロ攻撃で倒壊したワールドトレードセンタービルからわずか500mほどの場所だったという。その後アメリカが、イラクが大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑をもとにイラク戦争へと踏み切り、混迷を極めるなか、白井は反戦運動にも参加したという。

そうした経験から生まれたのが、キルトによる《Across the River》(2005)だ。

会場風景より、《Across the River》(2005)

「キルトの制作は初めてでしたが、イラク戦争が行われた同時期、ミリタリージャケットを解体して星が爆発したようなかたちにした作品(《The North Star》、2003)も作っていました。それに対し、こちらはより瞑想的な作品です。三分割されていて、真ん中に暗い地があり、船に乗っている人が違う世界に行くようなイメージです。私たちアーティストはニューヨークの街に出て反戦運動もしましたが、戦争が始まってしまった。自分たちがいる場所がテロ攻撃を受けたことは恐怖でしたが、アメリカや日本政府がやっていることにはもっと恐怖を感じました。ですから、こうした(逃避的なイメージの)作品を作らずにはいられない精神状態でした。

もともと女性としてアーティスト活動をするにあたり、大学時代からものすごく女性差別はありました。そうしたなかで、いろんなものの関係を反転させたり、ひっくり返したりする構造を作品で作ってきたのは、いま自分がいる世界が、もっと違う場所であり得たのではないかという可能性を探ろうとしてきたことの現れだと思います。ですから、ここではない別の場所を目指すということと、もののあり方を反転させるということは、私にとっては共通することです」。

光を扱う絵画

《Across the River》が展示されている部屋には、ほかに1989年に制作された大型の彫刻《凍結時》や、2023年に制作された最新作の絵画が配置されている。制作年には30年ほどの時間の隔たりがあるが、そう思えないほど調和が取れた空間になっている。

会場風景より、《凍結時》(1989)

最新の絵画は柔らかな色が溢れ出ていて美しい。大学では油絵を学びながら、インスタレーションや映像作品を手がけてきた作家は、なぜ近年再び絵画に取り組んでいるのだろうか。

「絵画は透過する光や反射する光など、光を扱う表現技法だと思います。ニューヨークにいたとき、病気になったりテロが起きたりと暗い時代を過ごすなかで、朝起きて光が目に入ってくると、生きている実感が湧いてきた。生命体にとって光はなくてはならないものなんですね。自然界の生成のエネルギーを、自分を媒体に表現するには、絵画という形式がいちばんだと思います。自然界に現れる渦巻きや流線型、そして色彩といった要素を使って、自然の特性を表現します。自然のなかが、いちばん精神が解放されるからです。

今回の展覧会は『森の空き地』ですが、記号や意味といった様々なものによってできている森のなかに、太陽の光が入ってくることで、そこに空き地が生まれる。そこで何かが見えてくる。空き地という空間には光が必要なんです」。

会場風景より、中央が《到来》(2023)

《到来》(2023)は、絵の中央にまさに空間を割るように光が落ちてきて、その光がテーブルになるというイメージを描いているという。それだけ聞くと不思議に感じるかもしれないが、ここまで作家の作品を見てくると、光と自然物の生成や変化、流転、循環していくようなイメージが腑に落ちるのではないだろうか。

改めて「空き地」というイメージの原点について聞くと、このような答えが帰ってきた。

「私は小さいとき京都に住んでいて、中庭や回廊が身近にありました。そうした庭では樹木が生えては枯れていったり、生命が生まれては消えていったり、そういう器としての場所が自分のなかに重要なものとしてあります。絵画のフレームもそういうものと言えるかもしれませんが、それよりも、たとえば作品を見る人が暮らしている四畳半の空間が作品になると思えるような、新しい見方が生み出せたらいい。そういう思いから、空き地や空洞的な場所に対する美術というものが生まれてきました」。

会場風景より、《回廊》(1991)

最後の「5章 森の空き地」に展示されている《回廊》(1991)というインスタレーションでは、手作りの帽子ケースが柱のように積み重ねられ、その周囲の壁に帽子を写した写真が配置されている。本作では、壁や柱に囲まれた空間の中心部分が「空き地」かもしれないし、箱のなかが「空き地」なのかもしれない。帽子は箱の中にあるのか、それとも外にあるのかといった内と外の関係をめぐる問いや、不安定な塔が感じさせる宙吊り感が、鑑賞者を想像の迷宮へと誘う。空き地に始まり空き地に終わる、そんな円環のような展覧会だ。

なお本展のカタログは、今回の出品作以外の作品も多数収録され、神山や美術評論家の沢山遼による論考なども掲載される、これまでのキャリアをまとめる1冊になるとのこと。こちらの刊行も楽しみに待ちたい。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集長。『ROCKIN'ON JAPAN』や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より「Tokyo Art Beat」編集部で勤務。2024年5月月より現職。