永井玲衣×菅原伸也、ふたりが見た「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展(東京都現代美術館)。 言葉や差異をめぐる4作家の作品から考えたこと

10月16日まで東京都現代美術館で開催されている「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展。哲学対話を行う永井玲衣、美術批評家の菅原伸也を招き、本展から感じたこと、考えたことを互いに語ってもらった。(構成:新原なりか)

会場入口にて。左から永井玲衣、菅原伸也 撮影:編集部

7月16日から10月16日まで東京都現代美術館で開催されている「MOTアニュアル 2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展。「MOTアニュアル」とは、同館が「現代の表現の一側面を切り取り、問いかけや議論の始まりを引き出すグループ展」として毎年開催している企画で、今回が18回目となる。本展では、大久保あり、工藤春香、高川和也、良知暁の4名のアーティストが作品を発表している。

今回は対談形式で本展のレビューを実施。この展覧会を見たのは、美術批評・理論を専門としコンテンポラリー・アートを中心に批評活動を行なう菅原伸也と、哲学研究と並行して様々な参加者とともに「哲学対話」を行い、『水中の哲学者たち』(晶文社、2021)の著書もある永井玲衣。言葉や物語を起点とし、異なる背景を持つ者同士の差異に目を向ける作品が並ぶ本展を、ふたりはどのように見たのか。途中、本展の企画を担当した同館学芸員の西川美穂子を交え、「差異」「対話」「感情」などをキーワードに、本展について語り合った。【Tokyo Art Beat】


工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)の展示室にて

言葉のその先を探る作品たち

編集部:いまおふたりに展示を見ていただきました。まずは感想をお聞かせいただけますか。

菅原:大変おもしろかったです。四者四様ではありますが、4人の展示を連続して見ていくと共通点やつながりのようなものが浮かび上がってきて、それが展覧会ならではのおもしろさだなと改めて思いました。この展覧会で僕が感じた共通点は、どの作品も差異というものに敏感な作品だということです。差異のはらむ危うさを認識しつつも、それでもなお新たなやり方で差異を肯定的に受け入れようとする作品が多いと思いました。

永井:私は、言葉が越えられないものに突き当たりながらも、言葉というものを通じてその先の言葉を探すという、ある種不可能な試みをしようとしている、それをし続ける作品たちだなと思いました。それと同時に、すべてに感情を感じました。それはなぜなのか、まだはっきりとは言葉になってないんですが……。「言葉の先」に行こうとするときに、「この言葉じゃ通じない、届かない」ということがでてきて、それが「寂しい」とか「しんどい」とか「むかつく」とか、そういった感情になってくる。その感情を諦めないで、その先に行こうとしている作品だからこそ、見たときに感情を感じるのかなと思います。

編集部:菅原さんがおっしゃる差異と、永井さんがおっしゃる不可能性には、少し通じるところがあるような気がしますね。では次に、一つひとつの作品についてお話を伺いたいと思います。まずは最初の展示室、高川和也さんの作品《そのリズムに乗せて》(2022)から。高川さん自身が書いた日記の言葉を、ラッパーのFUNIさんをはじめとする複数人の協力者のもとラップに変換し、心の中を表出することで何が起きるのかを探っていくという映像作品です。

高川和也《そのリズムに乗せて》(2022)。52分間の映像作品で、作家の高川が書いた過去の日記を、ラッパー・FUNIらの力を借りてラップに転換しようと試みる姿が映し出される 撮影:森田兼次

菅原:ラップというもの自体が、いわゆるマイノリティの人びとが自分を表現しやすいというか、自分の持っている差異を素直に表出できてそれがポジティブに受け止められやすい特異なジャンルだと思っています。ラップという形式で弱みや恥ずかしい部分を歌うことによって、むしろそれが他の人にはない自分の独自性となって、ある種の強みに反転するようなところがあると思うんですね。高川さんの日記にも、普段隠している自分の欲望や感情が書かれているのですが、それがラップへと変換されることによって昇華される。この作品においてラップは、そういった弱い感情を見せることができる装置として機能していて、ただの流行りものとして取り上げられているのではなく必然性を持って登場していると感じました。

永井:やっぱり「対話」なんですよね。言葉というのはまず他者とつながるためのもので、自分が発した言葉が他者との間にあることによって、また自分が語らされるようなことがある。この映像の最後の方では、高川さんとFUNIさんが「ラップしている」というよりは、互いに「ラップさせられている」ような状態になっていきますよね。言葉が自立してふたりを動かしているような。あれはひとりで書く日記では起こり得ないことです。独白だったものが人々の目に晒されることによって他者のものになり、その他者との関係のなかでまた言葉が育っていく。そんな言葉が勝手に動き出すプロセスを「見せられて」しまったようでした。

編集部:対話という言葉が出ましたけれども、永井さんが普段やっていらっしゃる「哲学対話」とこの作品を並べてみたときに、どんなことを感じられましたか?

高川和也《そのリズムに乗せて》(2022)。本作では、日記の読み解きを行うグループワークの場面も 撮影:森田兼次

永井:私、本当は対話は全然好きじゃないんですよ(笑)。だから対話をやっているんですが……まぁ、いったんそれは置いておきますね。映像のなかでFUNIさんが「ラップっていうのは口に出されないとだめで、その口に出される場をどうやって作るかなんだ」ということをおっしゃっていて、そういう場へのまなざしの強さはとても共鳴するところだなと思いました。

あと、いまこの社会でぼろぼろにされてしまっている言葉を、また新たに語り直すとか一度ただの音にしてそこからまた意味を更新するとか、そういった試みがおもしろいなと思いました。たとえば、「安心安全」という言葉もいまはもう空っぽの言葉になってしまっていると思うんですが、そこで言葉を諦めるのではなくて取り戻そうとしていくということは、私のやりたいと思っていることと、とても近いんじゃないかと思いました。

永井玲衣 撮影:編集部

菅原:場というものについて考えると、安心して言葉を発することができる場をなかなか持つのが難しい人びとというのが、次の展示室の工藤春香さんの作品《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)に登場する障害のある人たちだと思うんですよね。そういう場が提供されなかったり、自ら設けるのも難しかったりする人たちのことを、工藤さんは取り上げています。でもそうした人たちは、そうやって大変な状況にありながらも、なんらかのかたちでほかの人びとの前に自分たちの存在を表明しようとしていて、そのことをさらに工藤さんが作品において可視化しようとしている。そのことがとても印象に残りました。

工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。 私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)。障害者をめぐる諸制度や当事者運動、また女性の権利を求める運動と優生思想の関わりを交差させながら、近代以降の社会構造について考察するインスタレーション。この写真の「鏡と折紙のカヌー・ボート」は、「津久井やまゆり園」のある相模湖周辺の歴史に言及する作品 撮影:森田兼次
工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。 私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)。帯状の布の表裏はそれぞれ、「1917年から2022年までの主に旧優生保護法を中心とした障害に関する政策・制度・法律等をまとめた年表」と「1878年から2022年までの障害者当事者運動に関してまとめた年表」

永井:そうですね。私も、高川さんと工藤さんのこの順番には必然性を感じました。高川さんの映像作品で場というものを考えた後には、その場に集えないとか集えなくさせられている人っていうのは誰なのかという問いに向かわざるを得ない。工藤さんの作品は、そういった集えない人たちのところに自ら出向いていくんですが、これはすごく大きなことだと思います。呼び寄せるんじゃなくて、自分が出向くということ。長い距離を歩いて、自分の身体をもってそこに入っていく。この都市部と相模原障害者施設殺傷事件が起きた相模湖周辺の山間部の間の大きな広がりの部分を工藤さん自身が体感する。そしてそれを私たちが、インスタレーション内に設置された長い映像でまた見るという。

菅原:永井さんが仰った身体という点に関して言えば、工藤さんがあえて自らの手で地図や新聞記事を模写したり肖像画を描いたりしているのも、やっぱり自分の身体をいったん通して出来事や問題を語ろうとしているんだなということがすごく伝わってきましたね。

菅原伸也 撮影:編集部

「遅さ」を受け入れながら、少しずつかたちになっていく展覧会

永井:そして次が、大久保ありさんの作品《No Title Yet》(2022)ですね。これは、大久保さんがご自身の過去の13作品を新たに編纂した、極めて個人的な展示になっています。最初に高川さんが他者たちと出会って、次に工藤さんがそこから排除されている「他者とされてしまった」人たちに出会い、そして大久保さんが自分自身という他者に出会う。最後の良知さんは言葉を通して社会と出会っている。そういう言葉を通じた出会いとして、私はこの展覧会を体験しました。

大久保さんの作品は、言い方が難しいですが、その理解できなさがおもしろかったです。だって、あそこにあるのはもう作家である大久保さんそのものだから。たぶん大久保さん自身も、自分のなかに深く潜って自分と出会いなおしながら、「なんじゃこりゃ」みたいに思っていたんじゃないかな。展示室にはその過程でぱらぱらと落ちてきた断片が並んでいて、全然理解できないし近づけない、むしろ拒絶されているくらいの感覚が奇妙でした。

大久保あり《No Title Yet》(2022)。本作は自身の過去13作品を編纂したインスタレーション。回廊上の空間に、かつて書かれた物語の断片や、過去の作品を思い出しながら作家が選んだオブジェや写真などが配置され、未来に向けた新たな物語となって紡ぎ出される 撮影:森田兼次
大久保あり《No Title Yet》(2022) 撮影:森田兼次

編集部:永井さんがおっしゃった「拒絶を感じる」というのはすごくわかるなと思いました。展示室が回廊状になっていて、入っていきなり壁があるので最初はどこから見たらいいのかわからなかった。でも、壁をつたっているうちにいつの間にか回廊の内側にいる。そんな展示室のかたちも含めておもしろい展示でしたね。

菅原:僕も、そういった理解しがたさは感じました。大久保さんの作品は大量の物やテキストが並ぶインスタレーションで、その一つひとつがもつ意味やその配置には大久保さんなりの論理があると思うんですよね。でも、見ている僕らはその論理をにわかには理解しがたくて、そういった作者と見る人の距離感や差異というものを強く意識する作品でした。また、過去作の再編成ということで、過去と現在の時間的な差異についても考えさせられましたね。

大久保あり《No Title Yet》(2022)の展示室にて 撮影:編集部

編集部:では、最後の良知暁さんの作品《シボレート / schibboleth》(2020 / 2022)についてはいかがだったでしょうか。

良知暁《シボレート / schibboleth》(2020 / 2022)。テキストの投影やいくつかの物だけが展示室に配置された本作は、「言葉」が記号として指し示すものと、その音、使用意図などのあいだにある様々なズレや差異、分断といったものを想起させる。タイトルの「シボレート」は旧約聖書の士師記に登場する単語で、その発音の正誤によって敵味方を判断する合言葉として使われたという 撮影:森田兼次
良知暁《シボレート / schibboleth》(2020 / 2022) 撮影:森田兼次

菅原:我々は言葉をなんとなく良いものだと考えがちであると思うのですが、良知さんの作品は、その言葉がもつ恐ろしい面を指摘していますよね。たとえば関東大震災時に、「朝鮮人が井戸に毒を流した」等の差別に基づく流言が広まり、通行人に「15円50銭」と言わせ、その発音がおかしいと感じられた者は朝鮮人として識別され虐殺が行われた。こういった言葉によって人と人が識別された出来事などを作品に引用しながら、言葉の負の側面を観客に突きつける。でも、そのうえでなおかつ言葉の可能性を信じているというか、言葉を用いることによって、互いに違いがありながらもそれを超えて結びつく可能性をも提示している作品だと思いました。

あと、作品を見ているとき、つまりその作品を見ているいまという時間に、ほかの時間が重ね合わされているような感覚になりました。たとえば、展示室に設置された時計はつねに「15時50分」を指していて、これは「15円50銭」を思い起こさせる。鑑賞者は、家に帰ってたまたま時計が「15時50分」を指しているのを見たときや、展示室で配られていた葉書を何年後かにふと家の中で見つけたときに、この展示のこと、さらには作品の背景となっている悲惨な出来事を思い出すかもしれない。そのように、美術館だけでの体験にとどまらず、日常生活においても何かを引き起こすような仕掛けのある作品だなと思いました。 

良知暁《シボレート / schibboleth》(2020 / 2022)の展示室にて。ネオン管で作られた《ráɪt》は、「right」の発音記号。1964年米国ルイジアナ州で投票権をめぐり行われたリテラシーテストの出題文のひとつ「Write right from the left to the right as you see it spelled here.」から取られた。民主主義を維持するための最低限のリテラシーの証明を表向きの理由に掲げたテストは、実際には黒人の有権者登録の阻止を目的としていたという  撮影:編集部

永井:そうですね。哲学対話をしていても思うのですが、対話の場ではあまり話せなかったのに、2ヶ月後とかあるいは5年後とかに、急に「あ、あのときのあれ!」みたいに問いが戻ってきて、自分のなかで対話がものすごいスピードで始まったりすることがあるんですよね。そういったのろさ、遅さみたいなものは受け止められるようにしたいです。良知さんの作品だけでなく今回の展示すべてに言えることですが、そういうふうに時間を経ながら、ゆっくりと自分のなかで何かが蠢いてちょっとずつかたちになっていくような展覧会だなと思います。

菅原:さらに、良知さんの作品は、後で思い起こすだけではなくて、鑑賞者に跳ね返ってくるような作品だとも思いました。先ほど少し触れた葉書ですが、ここには発音記号が書かれていて観客自身がその音を発音するように誘われているような感じがします。そして、「L」と「R」をきちんと区別して発音できるかといったかたちで我々自身が識別され排除される可能性もあるんだ、決して他人事じゃないんだということを鑑賞者に突きつける鋭さがありましたね。

陳腐でぼろぼろになった言葉と出会い直す

編集部:高川さんの作品についてのお話のなかで、永井さんがおっしゃった「言葉がぼろぼろにされてしまっている」ということについて、もう少しお聞きしたいのですが。

永井:ぼろぼろにされ方はいろいろあると思います。これには昨今の政治的なことも関係していると思いますが、言葉への信頼性がなくなっているというのがまずひとつ。あとは、良知さんの作品に関係することで言うと、一見なんでもないような言葉がじつは排除を狙った言葉であるというような、背後に悪意が潜んでいる使い方をされること。また、ある言葉が陳腐なものになってしまっているというのもひとつだと思います。

たとえば、「ケア」や「愛」という言葉は、いったん陳腐なものとしてぼろぼろになった後、最近意味が更新されてようやく我々の手に戻ってきたような気がしています。10年くらい前、特に哲学の文脈だと、それらの言葉はあまりにベタで恥入りながらでないと発音できないようなものでした。「対話」という言葉もそうでしたね。でもいま、一周回って、というかもう五周くらい回って「ケア」も「愛」も「対話」も大事じゃん、というところにきている。でもその逡巡をいかに諦めないかが重要なんだと思います。

永井玲衣 撮影:編集部

菅原:たしかに、僕もかつてはそういった言葉を馬鹿にしがちなところはありましたね。ダサいとかぬるいとか思う傾向があったんですけど、年齢を重ねたせいか時代の変化のせいか、最近はそういうものにこそ可能性があるのかなと、僕も何周も回って思うようになってきて。対話について言うと、怖がっていたという面も昔はありました。人と対話するって、行き違いがあったらめんどくさいし怖い。でも、永井さんが『水中の哲学者たち』で書かれていることですが、その違いがあるからこそおもしろいし、自分の持っていなかった視点を知ることができたり、自分がわかっていると思っていたことがじつはわかっていないということに気づかされたりする。怖いものではあっても、それが重要なんだなと思うようになりましたね。

西川(担当学芸員):企画者としては、対話について、じつは最初は「アンチ対話」という気持ちもあって今回の展覧会を企画しています。作品と鑑賞者、あるいは鑑賞者どうしの結びつきや対話を生み出すような作品で優れたものもあると思いますが、作品の場において直接的な対話を引き出そうとすることで、陳腐なものになることもあると思っています。この展覧会ではむしろ、何かを持ち帰ってもらって、間接的に作品に触発されて対話が生まれることを目指しました。4人の作品は、安易に対話を生み出そうとした時に起こる齟齬や言葉の危険性への意識も含まれたものになっています。

西川美穂子(東京都現代美術館学芸員)

永井:対話って分かり合うことではないですし、全然ハッピーなものでもなくて。私は『水中の哲学者たち』という本を書きましたけれども、哲学対話を水中に潜るようなものだと例えています。「水中」という言葉のイメージで、「美しいですね」とよく言っていただくんですが、私としては「いやいや、息できなくて苦しくて早く出たいんですけど」という感じなんですよ。水中はきれいだし、何か一瞬の光のようなものが見えるけれども、私たちは肺呼吸する陸の生き物ですから水中は本来の住処ではない。

だけど、私たちには水中に潜ることも必要で。哲学対話で3時間くらい話をして、結論が出るというのとは違うのですが、ある考えにたどり着くということがけっこうあるんです。たとえば、「やっぱり他者のことを大切にしたいよね」とか。もし結論としてポンと取り出してそれだけ見たらしょうもないかもしれないけれど、その対話に参加した人たちにとっては全然違って。3時間かけてものすごい道のりで、大切にするってどういうことか、言葉を重ねてさんざん紆余曲折してもうめちゃくちゃになりながら出てきたものだから。参加者は、「他者」や「大切にする」という言葉と、あるいはその言葉がある世界と、関係を結び直しているんですよね。その思考の道のりを私が歩いた、だから私のものになるという感覚。この、私のものになる、私に取り戻していく、私がそれを生きる、という「私」に最終的に返ってくる感覚がこの展覧会にもありました。

そうやって改めて「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」という展覧会タイトルを見ると、また違って見えてくる。私が自分で生きなおしたからそれでいいよね、ということではなくて、その先に永遠に他者との差異がある。ままならないですよね、このタイトルは。

編集部:工藤さんの作品タイトルであり、展示室で配られていたハンドアウトにも書かれている「あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。」という言葉も、展覧会タイトルと共鳴する言葉ですよね。

西川:タイトルになっている一節を含む工藤さんのテキストは、制作の最後の段階で出てきたものでした。取材やリサーチを続けられるなかで、インスタレーションの形におさまらないたくさんの要素が出てきていました。そこで、私が工藤さんに、言葉も必要なのではないかと言ったんです。この言葉は、そうして出てきたもののひとつです。

永井:そうか、この言葉も「語らされて」出てきた言葉なんですね。それはすごくいいな。

編集部:最初に永井さんが「すべての作品に感情を感じた」とおっしゃっていましたが、その点に関して菅原さんはいかがですか?

菅原:見ている側の感情が様々なやり方で誘発されるような作品ばかりだったなと僕も思いましたね。たとえば、大久保さんの作品を見ていても、置かれているいろいろなものたちが大久保さん自身の論理とはまた違ったかたちで鑑賞者に感情を引き起こすかもしれない。自分の経験と結びつくものをそこに見出して、その時の感情を思い起こしたりとか。また、高川さんの作品に関しては、先ほども言いましたが、ラップは自分の負の感情や弱い感情を表出できるジャンルで、その部分をうまくすくい上げていると思いました。

菅原伸也 撮影:編集部

永井:工藤さんの「あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることがはできない。」という言葉は、「風景」を「感情」に置き換えてもそうだと思うんですね。私の「寂しい」とあなたの「寂しい」は絶対違うし、哲学対話で「寂しいとは何か」みたいな問いを立ててもみんな言うことがバラバラなんです。もうゾクゾクするくらいバラバラで、それがすごくおもしろいんですよね。それに、感情って仕組めないしどうしても感じてしまうものだから、そういう否応なさが各作品から感じられて、それに自分が突き動かされる。だからこそ、この展覧会タイトルに感情を表す言葉が入っているのが私は好きです。

永井玲衣 
ながい・れい 1991年東京都生まれ。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を行っている。D2021運営。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。連載に「ねそべるてつがく」(OHTABOOKSTAND)、「世界の適切な保存」(群像)、「むずかしい対話」(東洋館出版)など。 

菅原伸也
すがわら・しんや 美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アート、そしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。最近の論考に、「リヒター、イデオロギー、政治——ゲルハルト・リヒター再読」​​(『ユリイカ』2022年6月号)、「岡本太郎の「日本発見」——岡本太郎の伝統論と民族(2)」(『パンのパン04(中)』)など。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集。音楽誌や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より現職。