公開日:2022年8月24日

李禹煥に見る芸術の余白と人生の余白。国立新美術館「李禹煥」展レビュー(評:小川敦生)

もの派を代表するアーティストで、国際的に活躍する李禹煥(リ・ウファン)。その大回顧展「国立新美術館開館15周年記念 李禹煥」が東京・六本木の国立新美術館で11月7日まで開かれている。彼の芸術の核心をなす「余白」とは何か? 美術ジャーナリストで多摩美術大学教授の小川敦生がレビュー。

会場風景より、正面の作品は李禹煥《風と共に》(1991、作家蔵) 撮影:編集部

展示室の床いっぱいに板状の岩が敷かれ、上を歩くとガラガラと音がする。岩は固定されているわけではなく、踏んで動いた時に音が出ていたのだ。東京・六本木の国立新美術館で開かれている「国立新美術館開館15周年記念 李禹煥」展でのことである。

展覧会風景より、李禹煥《関係項−棲処(B)》(2017/2022、作家蔵) 撮影:小川敦生

それにしても、李禹煥(リ・ウファン、1936年生まれ)の展覧会でこんな経験ができるとは考えていなかった。2017年に南仏エヴーのラ・トゥーレット修道院で発表された《関係項ー棲処(B)》を再現したものという。一歩足を踏み入れたときには、下手をすると作品を壊すのではないかと少し慎重になったが、上を歩かないと次の部屋には行けないのでそういう作品であることを理解し、むしろ安心して歩くことができた。

初期から近作まで作風を網羅

この展覧会は、1950年代に韓国から来日して60年代後半から日本を拠点に美術家としての活動を始めた李禹煥の大規模な回顧展だ。初期作から近年のインスタレーションまで、作風を網羅的に見渡すことができる。1960年代後半から70年代にかけて起きた「もの派」と呼ばれる潮流の代表作家のひとりゆえ、筆者はまずその頃の作品を思い浮かべてしまうのだが、この展覧会では、美術家としての活動を始めて半世紀超のあいだに様々な変遷があったいっぽうで、活動を貫く普遍的な側面があることを改めて確認することができた。本記事ではとくに、李の美術家としての履歴を貫いてきた「余白」について考えたい。「余白」は李の作品のなかでどんな役割を果たし、さらには鑑賞者に何をもたらしてきたのか。鑑賞の方法にもじんわりと影響を与えてきたのではないかと思うのだ。

会場風景より、李禹煥《風景Ⅲ》(1968/2015、個人蔵、群馬県立近代美術館寄託) 撮影:小川敦生

《風景Ⅲ》は《風景Ⅰ》《風景Ⅱ》とともに、壁の3面を使って展示されていた3点組の作品のうちの1点だ。1968年に東京国立近代美術館で開かれた「韓国現代絵画展」の出品作だったという。李は来日後、日本画を学んでいた時期があったのだが、鮮烈な蛍光色のスプレーペイントを使ったこの作品は、すでにまったく異なる世界に入っていたことを示している。

画面に余白がないこの表現は、よく知られる作風とは真逆のように映る。しかし、この頃すでに李は「もの派」の表現を試みていた。この作品で3点の絵画はそれぞれシンプルな「もの」となり、お互いの「もの」同士の関係を問うべく空間全体を使って設置されていたと見ることができるのではないだろうか。

会場風景より、李禹煥《関係項》(1968、森美術館蔵) 撮影:小川敦生
会場風景より、李禹煥《現象と知覚B》(1968/2022、作家蔵、《関係項》から改題) 撮影:編集部

そもそも李禹煥という名前を聞いてまず思い出すのは、石だろう。石は「もの」の中でも自然物の代表的な存在であり、「もの派」という名称とも結びつけて考えやすい。こちらの《関係項》では、石の下にはガラス板と鉄板という人工物が敷かれている。《関係項》という作品名はこの時代に始まり、近年まで使われ続けている。石と人工物の組み合わせは、李の本質を示す。石という自然物とガラス板や鉄板などのシンプルな人工物。石は地球上のいたるところに転がっているものだし、現代人にとってガラス板や鉄板の製造自体は難しいことではない。ある意味ありふれたそれらの「もの」を空間に作品として配置することで、物と物、さらには物と空間との間に緊張関係が生まれる。さらにここで、ものの外側を「余白」ととらえると面白いように思うのだが、いかがだろうか。

空間全体のゆらぎを楽しむ

会場風景より、李禹煥《関係項ーアーチ》(2014/2022、作家蔵) 撮影:小川敦生
会場風景より、李禹煥《関係項ーアーチ》(2014/2022、作家蔵) 撮影:小川敦生

展示室からそのまま出られる砂利敷きの中庭には2つの大きな石の間に逆U字型に曲げられたステンレス板が門のように設置され、その真下に、別のステンレス板が置かれて歩けるようになっていた。2014年にフランスのヴェルサイユ宮殿で個展を開いたときに庭園に配した作品を再現したものだ。足元のステンレスの鏡面は空を映し出し、上を歩く鑑賞者は上下を問わず空間全体を楽しむことになる。石という自然物とステンレス板という人工物が周囲の大きな空間をがらりと変える。「もの」が空間に対して何らかの働きをすることを感じるのと同時に、周囲にある無限の「余白」を味わうことになる。

会場風景より、李禹煥《関係項ー棲処(B)》(2017/2022、作家蔵) 撮影:編集部
会場風景より、李禹煥《関係項ー鏡の道》(2021/2022、作家蔵) 撮影:編集部
会場風景より、李禹煥《関係項(於いてある場所)Ⅱ》(1970/2022、作家蔵、《関係項》から改題) 撮影:編集部

ここで、最初に挙げた《関係項ー棲処(B)》の話に戻ると、作品の上を歩くことによって、つねに作品や空間と鑑賞者は関係を変え続けていることに気づく。歩く感触や出てくる音、目に入る石片の形などを楽しんでいるようでいて、じつはその「余白」とも言える空間全体のゆらぎを楽しんでいるのだ。

会場風景より、李禹煥《線より》(1980、宮城県美術館蔵) 撮影:編集部
会場風景より、李禹煥《線より》(1983、DIC川村記念美術館蔵) 撮影:小川敦生

李が立体作品と平面作品の両方を発表し続けてきたのは、とても興味深いことだ。平面作品においては、絵具が「もの」として存在している。そして、どの作品においても、「もの」である絵の具は「余白」の中で生きているように感じる。そのあり方は、立体作品と変わらないように思う。

会場風景より、李禹煥《風より》(1978、作家蔵、2022年に《点と線より》から改題) 撮影:小川敦生
会場風景より、李禹煥《線より》(1980、埼玉県立近代美術館蔵) 撮影:小川敦生
会場風景より、李禹煥《応答》(2021、作家蔵) 撮影:編集部
会場風景より、左から李禹煥《対話》(2020、作家蔵)、同《応答》(2021、作家蔵) 撮影:編集部

大切な存在としての「余白」

こうしてたくさんの絵画を見ていくと、「もの」としての絵の具は画面の中から解き放たれているように感じられる。《対話ーウォールペインティング》は、国立新美術館の展示室の壁に直に描いた作品だ。絵の具以外の部分は空間を含めてすべて「余白」である。鑑賞者はその「余白」を含めて、作品を受け止めることになるのだ。

会場風景より、李禹煥《対話ーウォールペインティング》(2022、作家蔵) 撮影:編集部

李の作品に関しては、「余白」は実は文字面とは異なり、余っている部分や不要な部分を指しているわけではない。水墨画などの東洋美術が大切にしてきた余白と同じく、むしろ有用な存在だ。宇宙全体だとすら思ってもいいのではないだろうか。李の「余白」はすべての空間、すべての時間にまで広がりを見せようとしている。そして、86年間を生きてきた李の人生の「余白」もまた、途絶えることを知らない大切な存在であり続けているに違いない。この展覧会の鑑賞を機に、過去・現在・未来を問わず、人生の余白について思いをめぐらせるのも悪くなさそうだ。

国立新美術館の前庭に設置された李禹煥《関係項ーエスカルゴ》(2018/2022)は、中に入ることができる    撮影:小川敦生
開会式であいさつする李禹煥  撮影:編集部

小川敦生

小川敦生

おがわ・あつお 美術ジャーナリスト、多摩美術大学芸術学科教授。『日経アート』誌編集長、日経新聞記者などを経て現職。著書に『美術の経済』。ラクガキスト、日曜ヴァイオリニストとしても活動中。Twitter:@tsuao